ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

小学生のころ・7〜『バッタ君町に行く』

2015年07月26日 | 戦前・戦中映画(外国)
小学生当時、他の子と同様に私も漫画が大好きだった。
近所の同級生が毎月買う、雑誌「少年」を仲間で回し読みし、夢中になって読んだりした。
チャンバラごっこや缶けりの最中に、その同級生が「少年」を買ってくると、遊びはそっちのけで、みんなが雑誌に群がったりしたものである。
中でも、『鉄人28号』(横山光輝作)が私は一番好きで、『鉄腕アトム』(手塚治虫作)はその次だった。
そんな子供時代、テレビで観た漫画映画、今でいう「アニメ」で強烈な印象を持った作品がある。
『バッタ君町に行く』(デイブ・フライシャー監督、1941年)である。
それ以来、この作品を観たことがなかったが、5年ほど前に、隣り町のホールで上映することを偶然知り、慌てて観に行った。

都会の片隅の空き地。
虫たちの安住の地であるその場所も、柵が壊れて人間が侵入するようになった。
そのため、そこの虫たちに身の危険が迫り出してきた。
そんな折、バッタの「ホビティ」が故郷であるその地に帰って来て、引っ越しの提案をする。
しかし、恋人のミツバチ「ハニー」を横恋慕する裕福なカブトムシの「ビートル」が、「ハニー」と結婚したくて計画の邪魔をしたりする。
一旦は、隣りの敷地にあるパラダイスのような庭園に引っ越すが、すぐに危機が訪れて・・・・

ホビティとハニーとの恋愛。そのハニーを横取りしようと策略するビートル。
ラスト近くの、超高層ビルの屋上への虫たちの引っ越し。そのための、危険な工事現場の中での大移動。
フンタジックなディズニーに比べ、都会センスにあふれ、歌ありで、テンポのいいスリルいっぱいな物語であった。

この作品はフライシャー・スタジオによる制作で、設立はフライシャー兄弟。
フライシャー兄弟はウォルト・ディズニーを越えようと、
『ベティ・ブープ』(1930年~39年)、『ポパイ』(フライシャー・スタジオとして1933~42年)、『スーパーマン』(1941~43年)等の短編と、
『ガリヴァー旅行記』(1939年)と『バッタ君町に行く』の二作品の長編を製作。
しかし、この『バッタ君町に行く』が興行的に失敗し、フライシャー兄弟はスタジオから追われる羽目になった。
ディズニー作品が、今でも多くの人たちに愛され好かれているとしても、アニメとしては、私はこの作品が一番だと思っている。
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小学生のころ・6〜『荒野の七人』

2015年07月20日 | 1960年代映画(外国)
小学5年生の時だったか、中学生の兄に誘われて映画を観に行った。
子供だけで名古屋まで電車で行く。まるで、未知の世界に行く気分であった。
観る映画は『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督、1960年)。場所は三番館か、四番館に当たる劇場。


メキシコ近くのテキサスのある町。先住民の死体が道に転がっている。誰も葬ろうとしない。
見かねた男が埋葬を買って出て、棺桶と共に馬車に乗る。回りは敵意に溢れている。
そこに、手助けしようともう一人の男も馬車に乗る。スティーブ・マックイーンである。
張りつめた雰囲気の中を馬車は墓場に向かう。緊張する二人。そこへ銃声。素早く応戦するふたり。
通りにある窓や屋根にいた相手は倒れる。
マックイーンのガンさばきがすごくカッコいい。
当時、テレビで『拳銃無宿』をやっていたので、マックイーンに憧れた。
『拳銃無宿』の彼は、ライフル銃を半分に切ったような形の「ランダル銃」を提げ、手に持った時、それをクルクルと回すのである。
そこが何とも良かった。
この『荒野の七人』は、当然であるが、残念なことに字幕スーパーである。
字幕を読んでいると、画面がおろそかになる。画面ばかり観ていると、内容がわからなくなる。
それでも、それを心配した兄が、要所、要所で小さな声で筋を説明してくれたので、話はよくわかった。
しかし、字幕の関係で会話の場面は退屈で、それに引き換え、腰に拳銃を提げたガンマンが、馬に乗って駆けるとワクワクした。
それをエルマー・バーンスタインの音楽が盛り立てた。

あらすじはよく知られているように、穀物の収穫時に、毎年、メキシコに在る農村が盗賊に襲われ苦しんでいる。
そこで、ガンマンを雇うことにする。わずかな報酬に集まったのが七人。
そして、・・・・。
ようは、日本映画『七人の侍』(黒澤明監督、1954年)のアメリカ版リメイクである。

この映画に感激し、記憶もまだ新しい中学1年の時、我が町の唯一の映画館にも、これが回って来た。
「この映画は凄いぞ」と、友達に言いふらし、三、四人誘って早速、自転車で駆け付けた。
映画は二本立てで、併映は『チコと鮫』(フォルコ・クィリチ監督、1962年)。
南国のタヒチで、少年チコが海岸に迷い込んだ人食い鮫の子を、女友達のディアーナと共に育てる。
成長した鮫は、二人を海底深い珊瑚礁の間を案内し、すばらしい風景の浜辺へ連れ出した後、姿を消す。
十年後、仲間たちと漁に出たチコは、偶然、海底で巨大になった鮫と再会。
このタヒチにも文明の波が押しよせ、チコは婚約者のディアーナと鮫をつれて、タヒチを出て行く・・・・。
ファンタジックでタヒチの海の青さが際立っていたが、フイルムが擦れているのか画面に雨が降っていた。
しかも、上映が最初からでなく、劇の途中から始まっていた。それが残念であった。

しかし、『荒野の七人』がまた観れたことに私は大満足した。
俳優も、ユル・ブリンナーは別格としても、後に大活躍する役者が沢山でている。
先ほど言ったスティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン。そして、『ナポレオン・ソロ』のロバート・ヴォーン。
監督のジョン・スタージェスは、西部劇やアクション映画を得意とし、後にあの大ヒット作『大脱走』(1963年)を作る。
私は『荒野の七人』、『大脱走』が気にいっていたので、この監督の「決斗三部作」と言われる、
『OK牧場の決斗』 (1957年)、『ゴーストタウンの決斗』 (1958年)、 『ガンヒルの決斗』 (1959年)も後年観て、大いに楽しんだ。







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今、敢て政治について発言する。

2015年07月16日 | 社会一般
このブログは映画日記のつもりであるが、今回は敢て、政治のことを書こうと思う。
昨日、安全保障関連法案が衆院特別委員会で強行採決され、本日、本会議で可決されたからである。

将来、孫の世代から「あの時、私たちは親の保護のもとに育っていたのに、今の状況にしてくれたのは誰か。
あなたはその時、何をしていたのか。あなたも当時者として責任を取って貰えますか。」と問われた時、
私はどのように答えることができるか。
その架空の問いに対して、私は沈黙するしかないかもしれない。
しかし、この法案に対して、沈黙することは黙認することになる可能性があると思い、発言することにした。

集団自衛権を閣議決定し、その行使を容認する法案を今回、衆議院は可決したのである。
では、集団自衛権とは何か。他国を武力で守ることでないか。
その他国とはどこか。想定されるのはアメリカか。
と言うことは、アメリカ自体が攻撃されていなくても、可能性があるので助けてと言った場合、日本はどうする気か。
可能性というのは様々な場合があり、自分の考えが誇大妄想だったとしても、思えば可能性になる。
そんなアメリカから援助してほしいと依頼された時、時の政府はどうするか。
「はい、わかりました。」とならないか。
結論は、今の政権を見ればいい。
日本の国民に説明する前に、アメリカに集団自衛権の約束をしているのである。
それで、丁寧に国民に説明する、理解は深まっていないけれど、やる時はやると言うのである。
アメリカにへつらって、その顔のまま、国民を見下すのである。
どこの組織にも、これに似た人がいる。
会社組織では、上司にペコペコし、部下に威張る人である。
人間として、厭らしい人である。
このようなことを、一国の首相がやっている。
国会でヤジまで飛ばす。それこそ、国際世界に対しての日本の恥である。
この法案を通すにあたって、与党の一角である、平和主義を自認する党も加担した。
なにが平和主義と言えるか。

平和の宣言、日本国憲法序文及び第9条を読めばすぐわかる。

日本国憲法

第二章 戦争の放棄
第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この文を読んで、どのようにしてテッポウを持って、のこのことよその国に行けるというのか。
素直に読めば、行けないのは子供にもわかるのではないか。

そもそも、今の政権政党は憲法改正を目論んでいる。
その草案はどうなっているか。
軍隊は持ちましょう、国民には公共のために権利は我慢してもらいましょう、と言うような文言があちこちにある。
ようは、国民は国の利益のために、少し我慢してもらおうと言うことである。
主権在民の否定である。怖ろしいことを平気で考える政党である。
その政党を国民が支えている。
この政党は余り良くない、しかし、野党も頼りない、今の政治はダメである、
というような理由で、政治に白けて、半ば無関心になる人たちがいる。
その結果、どうなるか。
もくろみのある政権の思う壺である。
国民が政治参加できる最大の方法である選挙において、他の党もたいしたことがないから、一番大きい党に入れるとする。
その結果が今の状態であり、数の力でやりたい放題やってもいいということになる。
理由は、最大の意見は民主主義の根源だから、という言い訳が成り立つ。この場合、意見は人数の多さであるけれど。
そもそも、今の政権が発足した時点で、経済政策をエサにしながら、今日の状況になるのは、当然のごとく予測できたことである。
なぜか。この国の首相は、祖父を尊敬している人物だからである。
祖父は何をやったのか。60年安保の、当の首相である。
当時、私は小学生であったが、安保闘争はその小学生たちが意味もわからず「アンポハンタイ、アンポハンタイ」と、
音頭を取りながら遊んだ程の重大事件だったのである。

今の政権を誕生させたことにより、日本はどのような道に進もうとしているのか。
憲法を権力者が無視、あるいはいじろうとするということはどういうことであるか。
憲法は主権在民である。国民に権利があるのである。
権力者が暴走しないように、憲法によって縛っているのである。

第十章 最高法規
第99条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

首相ほか大臣、国会議員などは憲法の擁護・義務を負っているのである。
憲法を変えようと政府、国会議員が言い出すということは、それだけで憲法違反である。
そして、この99条には、国民は入っていないのである。
と言うことは、憲法を変えようとする場合は、国民の発意だけである。
この国の首相、および国会議員が、改正しようとおっぴらに言うことは憲法の侮辱である。
では、それはうまくいかないだろうとなると、次に何をしたか。第9条の解釈変更である。
そして、今日の出来事である。

悪い芽は、本来、その前兆があるうちに潰さなければいけない。
ある程度、大きくなってからでは困難になる。
もっと、大きくなれば、より一層困難になる。

私は、思い出す。
老教師が愛国心を説き、積極的に若者たちを戦場に送り出した『西部戦線異常なし』(ルイス・マイルストン監督、1930年)の、
塹壕で蝶に手を伸ばしたが為の青年の運命を。
そして、『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年)のラストシーンの
「ミシェル、ミシェル!・・・ママ!」と叫びながら、雑踏に迷うポーレットの不安を。
私たちは二度と、雑踏に消えたポーレットを作り出してはならない。



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小学生のころ・5〜『風の又三郎』

2015年07月15日 | 日本映画
小学校の音楽室で観た映画のなかで、もうひとつ印象が残っているのが『風の又三郎』(島耕二監督、1940年)である。

東北地方のある村の小学校。
夏休みが終わった始業式の日。
教室に見知らぬ子がいた。
5年生の北海道からの転校生である。
生徒たちが様子を伺っていると、風がどうと吹いて来た。
そのことから、この子は「風の又三郎」だと生徒たちは信じる。

これは、宮沢賢治原作の出だしである。
映画での出だしはどうだったろうか。
先生に三郎が紹介されるあたりから始まったような気がする。
では、放牧されている馬が逃げるシーンや、山ブドウを取りに行くシーン。
これらの場面があったのか、なかったのか。
山ブドウの場面はあったように記憶するが定かでない。
ただ、又三郎がガラスのマントを着て現れるところや、暑い日に川へ泳ぎに行くところは強く印象に残っている。
大木が茂り、きれいな水が流れている、あのような川で泳げたらいいな、うらやましいな、と思って観たと覚えている。
その後の川での嵐。雨の降る中で流れる歌も鮮明である。

どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
甘いりんごも 吹き飛ばせ
酸っぱいりんごも 吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう ・・・・

風変りな旋律のこの歌が、今も耳について離れない。

私が30歳の頃、名古屋市博物館の地下教室で、「無声映画を観る会」というような名称の主催で上映会があった。
当然この映画はサイレントではないけれど、再度観てみようと、雨の中を電車とバスを乗り継いで出かけた。

観終わって、懐かしいな、やはり良かったな、と感慨深かった。
その時に気付いたのは、6年生の一郎役が大泉滉で、この作品で映画デビューしたということ。
のちにコメディアンとして活躍していたので、配役で大泉滉だけはよくわかった。

残念なことに、現在、この作品を観る手立てがない。
ただ、YouTubeで、嵐の中で歌う一場面を観ることができるのが救いである。
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小学生のころ・4〜『砂漠は生きている』

2015年07月12日 | 1950年代映画(外国)
小学校の音楽室で観た映画の中で、最初に印象に残ったのは『砂漠は生きている』(ジェームズ・アルガー監督、1953年)だった。
最近はテレビでも、珍しい動物や昆虫などのドキュメンタリー番組があるので、そんなに目新しくはなくなったけれど、
当時はテレビもなく、動物といえば、たまに連れて行ってもらう動物園しかなかった。
だから、この映画を鑑賞した時、物珍しさと驚きで、食い入るようにして観た。

一見して、とても生物が住めそうもない砂漠。
水もない過酷な環境の中で、よく見ると、カメやガラガラヘビ、ドクトカゲにタランチュラなど陸上生活をする多様な生き物がいる。
鳥だって、いろんな種類がいて、それぞれにこの砂漠で生きる工夫をしている。
山ネコがいる。イボイノシシもいる。
この山ネコがイボイノシシに追われる。追われた山ネコはサボテンに高く高く登り、逃げ切る。
天辺まで登って、やれ安心と思ったら、サボテンがポキリ。
下で集まっているイボイノシシの所へ落下した山ネコは、また必死で駆け登る。
サボテンのトゲが痛いだろうにそれでも登るのか?
命、ハラハラ状態の山ネコを見ていると、ユーモアさえも漂ってくる。
当時の、この場面が一番印象に残っている。

この映画は、ウォルト・ディズニー作品で、アカデミー長編記録映画賞の受賞作である。
最近、山ネコの場面をもう一度見たくなったので、DVDを購入し観てみた。
ドキュメンタリーでありながら、よく見ると、砂漠による撮影ばかりではなく、舞台設定して撮ってあるなと思う場面も多い。
それでも、さすがディズニーである。
対決しあう生き物たちの生態の設定がよく出来ていて、編集がうまいから飽きない。

この作品は当時、義務教育の全ての学校が、文部省(当時)によって半強制的に鑑賞を義務付けられたそうだ。
そうだとすると私の同世代の人達で、あれは観た、印象に残っている、という人が大勢いるのではないか。

何年か後に、同じくディズニー作品で同監督の『ジャングル・キャット』(1960年)が封切られることになった。
内容は、アマゾン流域のジャガーの家族の生態をとらえた記録映画である。
私は、『砂漠は生きている』がすごく気に入っていたので、『ジャングル・キャット』も観たくてしょうがなかった。
丁度その時期、明治製菓だったか子供向けに、抽選でこの『ジャングル・キャット』の招待券が当たる応募があり、
いいチャンスだと思って私は必死になって応募した。
その甲斐があって2枚も当選した。
その当選はがきが嬉しくって、早速、父にせがんで小学校低学年の妹と一緒に名古屋の映画館に連れて行ってもらった。
上映は夜の回である。
入口で、チケット代わりのはがきの角をハサミで切ってもらい、劇場の扉を開けるとビックリ。
人が一杯だらけで、扉から入れてもほとんど前に進めないのである。
それでも、観たさ一倍の私は、人と人の隙間から立ったままで必死になって観た。
後ろでは父が「押すな、押すな!」と怒鳴っている声が聞こえたが、私は押されてもスクリーンに夢中であった。
今、思い返すと、あの時、背の低い妹はどのようにして観ていたのだらうか。
父に肩車でもしてもらっていたのだろうか。
映画の内容も今は思い出せない。
ただ、覚えているのは、劇場内が満員だったことと、映画が終わり、帰り道の広小路通りに屋台が一杯並んでいたこと。
酔った人も歩いている大人の世界を、不安な気持ちを抱きながら、父を見失わないように一生懸命歩いた記憶がある。

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小学生のころ・3〜『つづり方兄妹』

2015年07月10日 | 日本映画
当時、我が小学校では年に何本か、映画鑑賞の日があった。
学校の近くには映画館がないので、音楽室で暗幕を引いて観るのである。
今でも2、3本の作品が記憶に残っているが、その中の1本に『つづり方兄妹』(久松静児監督、1958年)がある。
この映画は、題名を高峰秀子主演の『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938年)と、随分後まで錯覚していた作品である。

あらすじはこうである。
近畿地方のある町に、ボロボロな小さな家がある。
そこには、夫婦とその子供6人が住んでいる。
主人公の「フーフ」は小学校2年だったか3年生。作文が上手である。
中3の兄や、5年生の姉も作文がうまい。
家の中にはラジオなど、貧しい割には立派ないろいろな物がある。
これは全部、作文が当選し、賞品として貰った物だからである。
兄は中学生なのに、賞品の自転車で新聞配達をしながら家計を支えている。
姉はみつ口で障害を持っているが、学校の先生になりたいと言う希望を持っている。
ブリキ職人の父は頑固なため、仕事で衝突があると、すぐ酒を飲んでゴロ寝をしてしまう。
そんな貧しい生活の中で、ある日、モスクワの国際作文コンクールに送ってあった三人の作文の内、兄と姉の分の受け取りの通知が来る。
しかし、フーフのは、返事が来ない・・・・
後半の場面。
フーフは学校の帰りに捨て犬の子犬を拾う。
しかし、飼うことを父親に反対され、仕方なく小屋の所で世話をすることにした。
名前は「マル」。
その翌日、授業中に雨模様になって来た。
雨に濡れるマルが心配なフーフは、下校と同時に土砂降りの中へ、傘もなしに飛び出す。
マルはいない。
ずぶ濡れになったフーフは、その夜、高熱を出し寝込む。
医者に診せても、熱は一向に下がらず、向かいにある病院に診せようとしても、金がない。
そんな中で、とうとうフーフは死んでしまう・・・・
その後、フーフの作文がモスクワのコンクールで一等になったと、先生が生徒たちに知らせた。

私がこれを観たのは小学4年生の時である。その感想文が今でも残っている。
それまで思ったこともない同じ年頃の子が死ぬということ、
当時の私たちも決して裕福ではなかったけれど、もっともっと貧しい故に死んでしまうということ、
そのことが、この映画を観て私には衝撃だった。
それと、フーフの仲のいい友達の二木てるみの存在がとても強烈だったのか、今でも鮮明に、当時の彼女の顔が私の脳裏に焼き付いている。

この映画の基は実在の兄弟の話で、調べてみると「つづり方兄妹ー野上丹治・洋子・房雄作品集」として出版されたが、現在は絶版となっている。
映画の方もDVD化にされておらず、もう一度観たくても観れないのが残念である。
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『ピクニック』(1936年)を観て

2015年07月07日 | 戦前・戦中映画(外国)
『ピクニック』(1936年)を上映している。
デジタルリマスター版で戦後70年の記念公開とある。
監督のジャン・ルノワールは『大いなる幻影』(1937年)などの名作があり、あの画家ルノワールの息子でもある。
この映画は未完のため40分。
わずか40分のために、わざわざ名古屋まで出かけるべきか、どうか。
レンタルビデオ店にはたぶん置いてないだろうし、Amazonでは中古品の出品が52,000円となっている。
こうなれば、出かけるより方法がない。と、いうことで観に行った。

1860年の夏の日曜日。
中年を過ぎた夫婦と母親、それにその娘と婚約者の5人がパリから田舎にピクニックにやって来る。
場所は、川辺のブランコがあるレストラン。そこで昼食を取っていたアンリとロドルフ。
二人は若い娘アンリエットにアタックしようと相談する。
窓を開けると、母親と娘が乗っているブランコのシーン。
微笑ましくって、和やかな情景に、自然とこちらも幸せな気持ちに引き込まれていく。
舟遊び、そして、小鳥の鳴く岸辺の森に入るアンリとアンリエット。
恋が芽生える至福なひととき。
それと同時に、近づいてくる嵐。これが、それ以後の予感となって・・・・
十分に観客の気持ちを引きつけたところで、残念ながら幕。
もっと観たいのにと思って恨んでもしょうがない、後が作られなかったのだから。
それにしても貴重な作品である。
助監督には、若きルキーノ・ヴィスコンテイやジャック・ベッケルほか。
ヒロインには、哲学者・作家で有名なバタイユの当時の妻、シルヴィア・バタイユ。
その他、後のその道の大家がいっぱいである。
こういう作品は、大事に後世へ残していかなければいけないとつくづく感じた。

同じ題名と言えば、ジョシュア・ローガン監督の『ピクニック』(1955年)がある。
こちらの作品も思い出深いので、いずれは書いていきたいと思う。
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小学生のころ・2〜『真昼の決闘』

2015年07月06日 | 1950年代映画(外国)
小学校低学年の頃である。
兄たちが、『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)をテレビでやると興奮していた。
そしてその当日、兄の同級生の家で、我々低学年の子供もどうにか観せてもらえることになった。
ただし、テレビのある座敷には上がらせてはもらえないのである。
土間から、遠くにあるテレビの画面を必死になって凝視するより仕方がなかった。
と言っても、内容はわからず、兄たちが夢中な様子を見て、それだけですごい映画なんだと、こちらも夢中になった。
もっとも、当時はテレビ自体がめずらしく何かが映っていればよかったのである。

その後、高校生の頃か、NHKで放映されて観た時は、実にすごいと思った。
三人の男がそれぞれ丘に集まって来る。流れる主題歌。これが冒頭シーンである。
不気味な雰囲気で、何かが起こりそうでのっけから目が離せない。
結婚式を終え、町を去ろうとする保安官だったゲーリー・クーパーと妻のグレイス・ケリー。
ふたりは馬車で町を離れる。と、立ち止まった馬車は引き返してくる。
クーパーが捕まえた悪漢ミラーが釈放されて、復讐のために列車で町にやって来るのである。
その時刻が正午、「ハイ・ヌーン」。
クーパーが、保安官のバッチを再度つけて、町の人たちに協力を求めるが、みんな及び腰。
刻々と迫る正午。一人、遺書を書くクーパー・・・・
映画時間と実時間をマッチさせた進行は緊張感をより一層増していく。
クーパーの妻と、元愛人とのホテルの待合室での遭遇。人としてのプライドとはこういうものかと二人を見て思う。
そして陰の伏線が、妻のグレイス・ケリーがクエーカー教徒であるということ。
教徒として、暴力は誤りであるという信念から、グレイス・ケリーにとって決闘なんてことはもっての外である。
何気ない設定だが本人としての意味合いは重大であり、後半の決闘シーンの山場にもなっている。
やはり、宗教より愛か、と私は勝手に思うが、アメリカ人にとってはもっと深刻な話に違いないと感じる。
この映画はシナリオが素晴らしいし、後にモナコ王妃となった彼女も何ともいえないほど美しい。

この映画をどうしても劇場で観たいと思っていて、二十歳前の頃にやっと名画上映館で観ることができた。
その時は本当に感動してしまった。やはり、映画は映画館で観るのが一番であるとつくづく実感した。

その後、結婚したての頃、またテレビで放映したので、風邪で熱を出し寝ていた妻を無理やり起こし、
布団を身体に巻き付けた状態で座らせて観せた。どうしても観てほしかったのである。

その後も何度か観たが、今では購入した廉価版のDVDをたまに観て楽しんでいる。

1959年にハワード・ホークスが、『真昼の決闘』は保安官が一般市民に協力を求める姿が気に食わないとして、
『リオ・ブラボー』を作った。
『リオ・ブラボー』も一級娯楽作品として素晴らしいけれど、やはりいつまでも心に響くのはこちらじゃないだろうか。


断わり。

すごく印象に残った作品を、後々に懐かしく見直してみると、記憶に残っている場面がなかったり、全然違っていて、
ビックリすることがある。
今後、個々の作品のことを書くとした場合、「実際の作品の場面にそんな箇所はない。間違っている、インチキである。」
というようなことが多々出てくるかもしれない。
このブログは、人に作品の紹介を目的として書くのではなく、自分自身の思い出話なのである。
故・淀川長治さんのように作品の場面、場面を精確に思い出し語れれば素晴らしいけれど、良かったな、面白かったな、
の印象を積み重ねた私ではそうはいかない。
しかし、間違った記憶であるとしても、それは私なりに糧になっていると思うし、私自身の心象風景である。
であるので、私の記憶にあるとおりの紹介になると思っている。
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小学生のころ・1〜『名犬リンチンチン』

2015年07月05日 | テレビ
我が家には、私が小学5年生ころまでテレビがなかった。
でも、お気に入りの番組はあった。
日曜日昼に放映される『名犬リンチンチン』である。
それをどのようにして観たか。隣りの家へ「テレビみせて」と言って上がり込むのである。
今、思い出すとその家の人たちは、昼ごはんも終わって野良仕事に行きたいのに、一人テレビにかじり付いている子供がいる。
迷惑だけどしょうがない、という感じで番組が終わるまで待っていてくれた。
しかし、あの番組には本当にワクワクした。
騎兵隊に、なぜか孤児とそこに飼われているシェパード犬がいるのである。
悪者をやっつける時、このラスティ少年が「行け、リンティ!」と叫ぶを、猛然とリンティが吠えながら敵に向かって走り出す。
あそこの場面が毎回たまらなった。


時期は少し後になるけど、夜は反対側の家に『ハイウエイ・パトロール』を観に行った。
この番組は、原語に字幕スーパー付きである。
だから、内容があまりよくわからず、そんなに面白くもなかったけれど、それでもせっせと通った。
ある日、そこの家の人達はもう眠りたいのに、毎週観に来る私をウンザリしている気配を子供ながら感じた。
だから、翌週、母に「隣りのウチにテレビをみせてもらって来る」と勇んで玄関を飛び出したけど、そこの家に「テレビみせて」と声を掛けれず、
垣根にしゃがみ込んで、番組の音だけ聞いて30分過ぎるのを待った。
やっと番組が終わっって、母には「みせてもらって来た」と報告。
確か、それ以降、よその家にテレビを観せてもらうことはなくなったと思う。
その代わり、我が家にもテレビを買ってほしいと何度も催促し、とうとう買ってもらえることになった。
近所で、一番遅い購入だった。

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幼いころ

2015年07月03日 | ブログ初め
先日、会社時代の後輩と飲んだ。
二か月に1度ほど会って、飲みながら映画の話をしたりしてから、カラオケに行くコースである。
話の途中で、後輩は私にブログをやれと言う。
自分も、映画や音楽のことをブログに書いていると言う。
私は何事にも消極的であるから、自分から進んで物事を行わない方である。
運動だってそうだし、映画でも鑑賞はするが、自分で作ってみようとは考えたこともない。
そんな私がブログを書く。
では、何を書くか。
考えた末、映画のことなどを思いつくまま書いて行こうと思う。

まずは、幼少の頃の記憶。
当時、私の村には映画館なんてものがなかった。
だから町内会などが、樹が茂っている広場の空き地に銀幕を張って、夏の夜の7時頃から映画を上映した。
近所のおじさんやおばさん達が大勢集まって、ゴザを敷いて地べたに座って観るのである。
私も母に連れられて行ったりした。今、思い出そうとしても、どんな映画だったかは記憶にない。
ただ、始まる前の待ち時間に、幕の前に立ちはだかったり、裏へ駆け抜けたりして、子供たちのその姿が影絵になるのがとっても面白かった。
映画が始まって、それまでぺちゃくちゃ喋っていた隣りの家のお婆さんが、すぐにぐうぐう眠ってしまったことは、何故か今だに鮮明に覚えている。
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