ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ヘンリー八世の私生活』を観て

2022年02月23日 | 戦前・戦中映画(外国)
『ヘンリー八世の私生活』(アレクサンダー・コルダ監督、1933年)をDVDで観た。

イングランド国王ヘンリー8世は、二番目の王妃アン・ブリンを不義密通の罪で処刑台に送る手筈を整えた。
ヘンリーは、この王妃が亡くなれば自分は独身として、すぐにでも侍女のジェーン・シーモアとの結婚ができると計算していた。

1536年。
晴れて、王妃となったジェーン・シーモアだったが、翌年、彼女は王子を産んでまもなく産褥死する。
政治戦略もあり、側近クロムウェルはヘンリー8世にドイツ・クリーヴス公爵の娘アン・オブ・クレーヴズを娶るよう勧める。
アンの肖像画で気に入り、結婚を決めたヘンリー8世だったが、実際のアンを見たヘンリーはひどく失望し、すぐに離婚する。

元々、ヘンリー8世は二番目の王妃アン・ブリンの従妹で侍女であったキャサリン・ハワードが気に入っていた。
キャサリンと晴れて結婚できたヘンリー8世だったが、1542年、キャサリンと廷臣トーマスの密会を枢密院から報告受け、ショックで泣き崩れる。
そして、キャサリンとトーマスは処刑される・・・

まず王妃を整理しておくと、
第一王妃 キャサリン・オブ・アラゴン:離婚(兄の未亡人、アンと結婚するために無理やり離婚)
第二王妃 アン・ブリン       :刑死(不義密通の嫌疑で斬首)
第三王妃 ジェーン・シーモア    :出産後死亡
第四王妃 アン・オブ・クレーヴズ  :離婚(見合い用肖像画ほど美しくなく、騙されたと離婚)
第五王妃 キャサリン・ハワード   :刑死(不義密通で斬首)
第六王妃 キャサリン・パー     :晩年のヘンリー8世を支える。

映画は、第一王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女で第二王妃アン・ブリンの処刑風景から始まる。
そして物語は、ヘンリー8世の当時の政治的内容、例えば、キャサリンと離婚するために離婚を禁じるカトリック教会と断絶し、
新しい法を作って自らイングランド国教会の長になって離婚を合法化するなどの事柄は綺麗に割愛されていて、次々と王妃を娶る私的な事情を映し出していく。
そこにあるのは、想いを寄せるトーマスよりは野心の方が勝るキャサリン・ハワードや、
クリーヴス公に赴いた王の使者ペイネルが、アン・オブ・クレーヴズとねんごろになってしまい、
彼女が第四王妃になった暁には、離婚の見返りとして領地と年金、そしてペイネルを執事にすることを王から承諾させたりの顛末である。

ヘンリー8世を演じるのは、この作品でアカデミー賞男優賞を得るチャールズ・ロートン。
本来、もっと横暴だったのではないかと思われるヘンリー8世を、ユニークなユーモアとウイットで包む親しみやすい人物にしている。
そのことが全体の雰囲気を醸し出して、これが90年近く前の作品だということも忘れて拍手喝采をしたくなる。

この作品の中で、印象に残るのが第四王妃アン・オブ・クレーヴズ役のエルザ・ランチェスター。
独特な雰囲気のあるエルザ・ランチェスターは、この作品の主役チャールズ・ロートンの奥さん。
一目見て、彼女の出演作『フランケンシュタインの花嫁』(ジェームズ・ホエール監督、1935年)が蘇ってきた。それ程、印象深い人。

それと、ヘンリー8世と言えば思い出すのが、フレッド・ジンネマン監督の『わが命つきるとも』(1966年)。
王は王妃キャサリンとの離婚を、ローマ法王の承認を得ようとトーマス・モアに依頼するが、モアはこれを拒絶する。
そして最後に、モアは自らの信念を信じて処刑に臨み、斬首される。
この格調高い作品に感銘を受けたことを、今回を契機に久し振りに思い出した。
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『ドライブ・マイ・カー』を観て

2022年02月10日 | 日本映画
新型コロナのため、去年夏の封切り時点でためらってパスした『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021年)が、
余りにもここのところ新聞記事になるので気になり、丁度いま上映している劇場があったので久し振りに映画館に行って観てきた。

舞台俳優・演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。
しかし、妻がある秘密を残したまま突然この世を去ってしまう。
2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は愛車のサーブで広島へと向かう。
そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。
喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすうちに、それまで目を背けていたあることに気づかされていく・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

まず、あらすじを丁寧に書きたい思いがあるが、やはり現在の作品のためにそれはやめておきたい。
このように断るのは、この作品の内容が重厚的であり、その良さは筋書きを丁寧に書かないと伝わらないと考えるからである。
端的にいうと、細やかな行き届いた作りと相まって、出演する役者たちの完璧までの表現の素晴らしさが絡んでの内容の深さが読み取れるからである。
もっと一口で言うと、この作品は映画の形を借りた小説ではないかと思う。
だから、観客は主人公たちが話す事柄を自分自身で想像力を働かせながら再構築しなければならない。
その再構築を3時間ほど緊張しながら行うことは、正直、途中でもう開放されたくなったりする思いもある。
ただ、その我慢を伴いながらのラストに向かう内容の感動の深さは、計り知れないものとして現われる。
特に、出演者のそれぞれの自然体のうまさの中で、多くを喋らないドライバー役の三浦透子の存在感の強さにはなぜか釘付けになる。

それにしてもラストのラストの、韓国の地で、ドライバーのみさきが家福の赤い愛車を運転していくシーンは何なのか。
前後の何の説明がないので、見終わっても、うやむやとした気持ちがいつまでも残る。

いずれにしても、この作品はもうすぐDVDでも観れるようになるが、家で観たら多分途中眠くなる可能性もあるので劇場で観れてよかったと思っている。 
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『危険な関係』(1959年)を観て

2022年02月08日 | 1950年代映画(外国)
『危険な関係』(ロジェ・ヴァディム監督、1959年)を観た。

外交官バルモンとその妻ジュリエットが自宅でパーティーを開き、そこには大勢の知人たちが訪れた。
この夫婦はみんなの間では、女性との恋愛を楽しむバルモンと、一方は貞淑な妻ジュリエットで通っていた。
だが実は、二人はそれぞれ複数の愛人を作って、その情事の報告をし合うことを楽しんでいた。

バルモンはパーティーで、17歳の従姉の子セシルが妻の愛人だったアメリカ人のコートと婚約したことを知る。
そこで妻ジュリエットはバルモンに、コートを出し抜いてセシルを口説き落とすよう勧める。
一方、セシルは貧学生のダンスニを好いていて、彼との結婚に憧れていた。
しかしダンスニは、学業や兵役の後にしか結婚を考えていなかった。

バルモンは、セシルがクリスマスを過ごすために友達と来ていたスキーリゾート地へ行く。
セシルをものにしようとしていたバルモンだったが、そのスキー場で美しいマリアンヌと出会い、心を奪われてしまった。
バルモンはマリアンヌを射止めようと考えたが、幼い女の子の母でもあり司法官の妻である貞淑な彼女は、バルモンの誘いには乗ってこなかった。
そこでバルモンは作戦を考え、マリアンヌに今までの自分の恋の遍歴を正直に打ち明け、誠実な人間であるところをみせた。
それでもやはり、マリアンヌの身持ちは固かった・・・

夫婦間でのゲームとしての情事の報告。
その恋の駆け引きを聞くジャンヌ・モローと、報告するジェラール・フィリップ。
そこには、変形したドロドロとした愛情表現が見え隠れする。

映画はパーティー場面から始まるが、集まる者たちの人物説明がないので判りづらい。
これは退屈な作品だなと諦めて観ていると、スキー場シーン以後、徐々に面白くなってくる。
後半に至っては、バルモンとマリアンヌ、バルモンとセシル、セシルとダンスニ、ジュリエットとダンスニ。
そして、バルモンとジュリエットの夫婦間の愛憎。
それらが絡み合って、何とも言えない満足感を味わう、そんな作品だった。

それに、十代にレコード購入したアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの『危険な関係のブルース』や、
セロニアス・モンク四重奏団の演奏も聴けてとっても嬉しかった。

【YouTubeより】 Art Blakey's Jazz Messengers - No Problem

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『パサジェルカ』を観て

2022年02月05日 | 1960年代映画(外国)
若い頃から一度は観たいと思っていた『パサジェルカ』(アンジェイ・ムンク監督、1963年)をやっと観た。

海洋を航海中の、一隻の豪華客船。
乗客の一人であるドイツ人女性リザは、長らく夫と共にアメリカ合衆国で暮らしており、十数年ぶりに故国に帰省する途中である。
やがて、船は英国の港に寄港する。
舷側から乗り込んでくる船客たちを眺めていたリザは、一人の女性に目を留める。
様子のおかしくなったリザに、事情を知らない夫ワルターが大丈夫かと問いかける。
リザは戦争中、アウシュヴィッツ強制収容所の看守の一人だった。
先ほど見かけた女性を、リザはかつて自分が何かと手助けした女因マルタではないかと疑っていた。
戦争中にマルタとの間に生じたできごとをワルターに黙っていたリザは、夫にその想い出を語り始める。

<アウシュヴィッツ強制収容所>
リザは1943年の夏に、アウシュヴィッツに赴任した。
仕事は収容所外にある倉庫の作業監督だった。
彼女の任務は、国家の財産である囚人からの没収品を見張り、その紛失・破損を防止することであった。
一方、リザは他の多くのナチス親衛隊員とは違い、囚人たちに対する同情や親切を忘れたことはなかった。
ある日、新たに収容所に到着した女囚の中から助手を採用することになったリザは、娘らしいかよわさを感じさせるマルタに目を留め、書記として採用した。
リザはマルタが自由な人間に立ち戻るのを見ることに喜びを覚え、彼女に生きる力を与えてやりたいと思うようになった・・・
(DVDパンフレットより)

よく知られているように、この作品は監督ムンクが61年9月に交通事故死したために未完となっている。
それを友人たちが、冒頭と最後の船上部分をスチール写真とナレーションで補って作品に仕上げている。
だから映像が始まって“未完の筋書きに決着をつけたり結論を求めようとはせず、残された映像から制作意図を読み取ろうとした”とある。

リザの、アウシュヴィッツの記憶。
リザは囚人たちに対して冷ややかだったとしても、当時の状況からして一般的には良心的であった。
当然に暴力を振るうこともなく、マルタと婚約者タデウシュの逢引きにも仲立ちとは言えなくても寄り添う形で黙認する。
リザはそのような親切を通して、マルタとの人間的なつながりを求める。
しかし、マルタは常に醒めた感じで心を開こうとはしない。

そこに歴然としてあるのは、戦時下の支配者と被支配者の関係。
ましてや、その場所はあのアウシュヴィッツ強制収容所である。
リザが自分としては、愛情を掛けて相手のマルタを屈服しようとしても、マルタからすればいつ抹殺されるかわからない身である。
その後、マルタはどうなっただろうか。

船上のリザには一度は葬ったつもりの過去の記憶が蘇ったとしても、船は何事もなかったように寄港先から出ていく。
リザとマルタ、二人が再び逢うことはないだろう。
そしてリザの脳裏からは、戦時中のアウシュヴィッツの記憶は今後の日常において遠い過去のこととして再び蘇ることはないだろう。
ナレーションはそのようにラストでメッセージする。

僅か1時間あまりのこの作品に、アウシュヴィッツ収容所の内情とナレーションを絡めた方法に強烈なインパクトを受ける。
ましてや作り手は、被支配者側のポーランド人である。
優れた作品は、淡々とした内容であったとしても、その内に秘めた熱意は自然と十分に伝わる力を持っている。

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