ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『神々のたそがれ』を観て

2016年02月24日 | 2010年代映画(外国)
レンタル店で『神々のたそがれ』(アレクセイ・ゲルマン監督、2013年)のDVDを借りて観た。

地球より800年ほど進化が遅れている惑星に、科学者や歴史家ら30人の調査団が派遣された。
その惑星はルネッサンス初期を思わせたが、何かが起こることを怖れるかのように反動化が進んでいた。
王国の首都アルカナルではまず大学が破壊され、知識人狩りが行われた。
処刑にあたったのは王権守護大臣ドン・レバの分隊で“灰色隊”と呼ばれる集団であった。
一方、地球から派遣された学者の一人、第17代貴族ドン・ルマータは、地域の異教神ゴランの非嫡出子であるとされていた。
誰もがこの話を信じたわけではないが、皆ルマータのことを警戒するのだった・・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

物語の設定は一応あるけど、そんなに意味を成してないかな。
筋書きどおりに、話が前に進んでいくという感じでもないし。
どうも監督のゲルマンも、そんなに気にしてないみたい。
そんなことより、一画面ずつの方がよっぽど大事だと主張しているみたい。

それにしても、この映画は生理的に汚らしい場面ばかり。
雨が降った地面は、ドロドロでネチャネチャ。それを自分や人の顔に擦りつけたりする。
唾はやたら吐くわ、挨拶代わりみたいに相手にかける。
尻を出してみたりするわ、道で小便もしたりする(実際に!!)。
屍体を突っつけば、腐った腸がグチャグチャと出てくる。
縛り首の屍体なんか、あっちにもこっちにもゴロゴロとある。
などなどが、3時間近くの映画でほとんど延々と続く。
これがモノクロ画面だから、余計、汚く見えて倍加される。
上品で綺麗好きの人だったら、即、ヤメタとなること間違いなし、の保証付き。

こんな映画、面白くもない、つまらない、となるかと言うと案外そうでもない。
辟易しながらも、なぜか見入ってしまう。それこそ麻薬効果。
接写映像で、画面からくる印象が力強くって、目が離せない。
たぶん、こんな映像の撮り方、他の人では出来ないんじゃないかな。
時間も随分かかっているみたいだし。
ひょっとして、マネすら出来ないかもしれない。

この作品、興味ある人に、是非勧めてみたい誘惑に駆られてしまう。
観たら、賛否は別にして、一生忘れなくなる可能性があるんじゃないか。
万一、忘れてしまっても「神々のたそがれ、って知ってる?」と聞かれたら、「ああ、あの汚い映画ね」と思い出すと思う、たぶん。
もう一度観てみる?と聞かれたら、ちょっと私は勘弁願いたいけど。
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『キャロル』を観て

2016年02月23日 | 2010年代映画(外国)
現在上映中の『キャロル』(トッド・ヘインズ監督、2015年)を観てきた。

1952年、ニューヨーク。
ジャーナリストになるためにマンハッタンに出て来たテレーズは、デパートの玩具売り場でクリスマスシーズンの臨時アルバイトをしている。
テレーズには、なかなか結婚には踏み切れないでいるリチャードという恋人がいた。
そんなある日、テレーズの前に、娘へのクリスマスプレゼントに人形を探している女性キャロルが現れる。
エレガントで洗練された美しさを持ち、裕福そうなのにどこかミステリアスな雰囲気を醸す彼女に、テレーズはたちまち心を奪われる・・・・
(Movie Walkerより)

期待して観たけど、まあ、はっきり言って、昔からあるような定番映画だった。
主演の、“ケイト・ブランシェット”のキャロルと“ルーニー・マーラ”のテレーズが出会って会話し、その会話によって物語の筋が進行していく。
淡々とドラマが流れ、映像は人物中心で背景には気を配らない。
こういう映画の撮り方には、私はもう食傷気味で、映像的にハッとさせられないと面白くもなんともない。所詮、映画は映像だから。
こんな具合で、心地よくウトウトして来る。
しかし、折角観に来たのでと気を引き締める。それでも、やっぱり同じ繰り返し。

第一、キャロルと夫との仲、その娘の親権問題。
そして、テレーズと彼氏、ぐらいの内容のプライベートな話(本当は、もう少しあるけど)。
深い心理描写があるわけでもなく、個々の人間性が剥き出しになるわけでもなし。
わたしには関係ありません、どうでもいいや、となってしまう。

と、大半がそんな風で、それでも終盤、キャロルとテレーズの関係が露わになり、その心理に観ているこちらも緊張が走る。
このまま、最後まで突っ走ってくれれば、今までのことは帳消し、と目を光らしていたら、ラストはやっぱり定番どおり。
オレだったらラストは絶対、強烈な印象が残るよう、こう創ってやるのにと勝手なことを思う。

やっぱり、この年になってこのような映画は向かないかもしれない。
若いカップルが観れば、この作品はとってもいい映画で、十分満足のいく素晴らしい映画だろうなと、ふっと思った。
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『火星の人』を読んで

2016年02月23日 | 本(小説ほか)
読むといいと勧められた『火星の人』(アンディ・ウィアー著、ハヤカワ文庫)を、やっと読み終えることができた。

有人火星探査が開始されて3度目のミッションは、猛烈な砂嵐によりわずか6日目にして中止を余儀なくされた。
だが、不運はそれだけで終わらない。
火星を離脱する寸前、折れたアンテナがクルーのマール・ワトニーを直撃、彼は砂嵐のなかへと姿を消した。
ところがーーー。奇跡的にマークは生きていた・・・・
(裏表紙から一部抜粋)

火星にたった一人で取り残されたワトニーが、生き延びる方法、そしていかにしたら、わずかしかない地球への帰還を希望し、
持てる知識をフル回転させながら、問題にひとつずつ取り組んでいく。
しかし、なにしろ火星のこと。一難去ってまた一難、アクシデント続き。
それを、ワトニーは持ち前のプラス思考で解決し、日記体報告書として記録する。
そのことが物語の中心となっているけど、勿論、NASAの長官以下の重要メンバーや、
ワトニーを残して飛び立った“ヘルメス”のクルーたちも救出に向けて大活躍する。

SFジャンルの小説だとしても、今までのイメージと全く違った内容作りで、テンポよく軽快に話が進んでいく。
だから、とても読み易いし楽しめる。
けれども、専門用語もまた多い。この専門用語が曲者で、訳ではカタカナ文字のまま。
これを、ヘタに日本語に直そうとすれば造語しなければならないし、肝心のテンポも狂うだろう。
しかし、カタカナ文字の単語は、物事がわかったようで実際のところはよくわからない。
明確なイメージがつかめない。そこのところが気分的にどうも少しイライラする。
折角読むのだから、細部まで具体的な物語の印象として残しておきたい気がするのに。
今後このように、ますますカタカナ単語が氾濫するのだろうかと思うと、ちょっと不安になってくる。
そして、巷にこのカタカナ単語や名称を数個のアルファベットに略した単語があふれて来ているのが気にかかる。

それにしても、勧められなければ自分からはたぶん読むことはない小説だったから、その点、どんなに感謝してもしきれない。
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高校生のころ・9〜『エデンの東』

2016年02月18日 | 1950年代映画(外国)
我が家の小遣いは、小学校の時に毎日10円ずつ。それ以降、小遣いは貰わなかったし、それが当然だった。
高校生になって映画を観に行くようになると、まず映画代を捻出しなければならない。それをどうしたらいいものか。

当時、昼食代に確か毎日50円貰っていた。
大抵はパンとコーヒー牛乳で賄っていたから、パンを1個だけにしてお釣りを浮かす。
ある時、昼食をやめてマルマル浮かしてみたけど、あれは長続きしなかった。
食べ盛りに一人、図書室でその時間を潰す。
お腹は減ってくるし、みんなが楽しく食べていると思うとなんとも侘しかった。

そのようにして、ある程度お金が貯まると、いよいよ映画に行ける。
ロードショーは高いから、当然、入場料の安い名画座に行く。
それに、名画座の方がいい作品を2本立てでやるから、一石二鳥である。

その当時、名古屋・松坂屋本店の西隣りに名画上映館があり、そこによく通った。
入場券を買うと、半券と一緒にそこの劇場が作ったプログラムをくれる。
そのプログラムに「声の広場」という投稿欄があって1、2名が掲載されている。
葉書で投稿して、うまく載れば招待券が2枚貰える。
2回分タダになるので、こんなうまい手はない。
だから私もこの手を利用して、何回か無料で映画を観ることができた。

その時のプログラムが取ってあるので、恥ずかしいけど、その中のひとつを書き写すとこんな内容。

“「エデンの東」を確か昨年だったか貴館で見て、一瞬ひねくれた感じの、それでいて父のために一生懸命な、
あのジェームス・ディーンの役にすごく共感を覚えた事を記憶している。
その映画が先日、また貴館で上映されると知った時はすごく嬉しかった。
まだ話の筋もほとんど忘れていないので、ひょっとしてつまらないものになるんじゃないかと気おくれもしたが、
いざ見てみると、そんな感情を持ったのが間違いだった。
もう最初から完全にディーンのペースに巻き込まれた感じで、一つ一つの演技が身にしみ、前よりもいっそう感動した。
ぼくにとってこの映画は、将来いつまでも心に残るものとなるだろう。”

この『エデンの東』(エリア・カザン監督、1955年)は、その後、上映館が変わるたびに、追っかけのように何度も観てまわった。
思い出してみると、短期間のうちに9回観たと記憶している。本当に、心に沁みる良い映画だった。

その頃から、『エデンの東』や「太宰治」は、いっぱし分別がついてからではダメ、感性が豊かな若いころに観たり、読んだりしなければダメ、
そうでないと感動の仕方が全然違う、と変な持論を有したまま今に至っている。



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『ディーパンの闘い』を観て

2016年02月17日 | 2010年代映画(外国)
名古屋へ行って、カンヌ・パルムドール受賞作の『ディーパンの闘い』(ジャック・オディアール監督、2015年)を観てきた。

内戦下のスリランカを逃れ、フランスに入国するため、赤の他人の女と少女とともに“家族”を装う元兵士ディーパン。
辛うじて難民審査を通り抜けた3人は、パリ郊外の集合団地の一室に腰を落ち着け、ディーパンは団地の管理人、女ヤリニは家政婦の職を手にする。
日の差すうちは外で家族を装い、ひとつ屋根の下では他人に戻る日々。
それでも、少しずつ環境に慣れるに従い、ぎすぎすした彼らの関係にも変化が表れ・・・・
(パンフレットより一部抜粋)

この偽装難民の“家族”はスリランカの少数民族、タミル系住民。
そして、ディーパンは「タミル・イーラム開放の虎」の元兵士という設定になっている。
だから、フランス映画であってもタミル語を中心に話が進んでいく。

戦下からフランスに渡って来ても、そこは、生活を支えるのがギリギリの底辺層の団地。
団地周辺には、ギャングまがいの不良青年たちがたむろしていて不穏な環境。
ヤリニが行く家政婦先の老人宅の甥ブラヒムは、麻薬密売組織のリーダーをやっている。
それでも、この“家族”は仕事にありつけて、少女イラヤルは小学校の外国人クラスに行けるだけマシ。
(フランスの場合、教育費は無料のはずだとしても)。

パリといえば、華やかな面ばかり思い浮かべるけど、近郊に行けばこのような感じの所があるだろうという現実。
それを、オーディアール監督は物語の背景、スリランカのことや麻薬売買のことを意図的に説明せずに映し出していく。

その省略で、説明不足だなと思った点は、偽装のこと。
私は、ディーパンも含めて三人とも偽装人と思って、ずぅっと観ていた。
そしたら、ディーパン自身は本人らしい。
このことは、観方の印象に問題が残り、途中場面、ディーパンが「タミル・イーラム開放の虎」の上官の命令を拒否する理由づけが違ってきてしまう。
最初に、基本的な設定はちゃんとわかるように丁寧に教えてくれればいいのにと思う。

それと、麻薬売買人のブラヒムがヤリニに銃を突き付けて、ディーパンに電話を掛けさせるところ。
ここのところの電話をさせる理由がよくわからない。ブラヒムのそうしなければいけない心情がどうしても理解できない。
これが理解できないと、その後、急展開していく場面の、ディーパンの行動の意味合いが納得できない。
と思って、パンフレットを買って読んでみたけれど、どこにもそこのシーンについて具体的なことが書いてない。
せめて、パンフレットにはシナリオぐらい載せてもらわないとお金を払う意味がない。
このぐらいの内容なら、今では公式サイトをネットで読めばいいなと、恨めしく思う。

そんなんで、カンヌの最高賞をもらった理由も、現在のヨーロッパにおける移民、難民問題を反映して、多少影響しているかなと勘ぐってしまった。
と言っても、出来はしっかりしているし、ヤリニ役のカレアスワリ・スリニバサンだけは舞台役者としても、3人とも映画初の作品。
そういうことを全体的に考えてみれば、難民問題も含め、やっぱりいい映画だったなと思う。
本当は、ラストの場面の印象についても書きたいけど、まだ上映中の映画なので割愛してこれまで。
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『ザ・トライブ』を観て

2016年02月15日 | 2010年代映画(外国)
ウクライナの作品『ザ・トライブ』(ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督、2014年)を観た。

ろうあ者の寄宿学校に入学したセルゲイ。
そこでは犯罪や売春などを行う悪の組織=族(トライブ)によるヒエラルキーが形成されており、入学早々彼らの洗礼を受ける。
何回かの犯罪に関わりながら、組織の中で徐々に頭角を現していったセルゲイは、
リーダーの愛人で、イタリア行きのために売春でお金を貯めているアナを好きになってしまう。

アナと関係を持つうちにアナを自分だけのものにしたくなったセルゲイは、組織のタブーを破り、押さえきれない激しい感情の波に流されていく・・・・

本作は、台詞や音楽は一切なく、字幕も吹き替えすらも存在しない。
登場人物すべてがろうあ者であり、全篇が手話のみによって構成されている。
登場人物の背景や心理的な説明を全て排し、純粋な身振り、表情、眼差しによる表現方法・・・・
(以上、オフィシャルサイトより)

そして監督のコメントとして、
“これはサイレント映画への、役者たちが身振り手振りによって語りかけていた時代へのオマージュである。
『ザ・トライブ』では、私は単純にある別の手段にしたがった。
手話は、まるでダンスやバレエやパントマイムや歌舞伎といったもののようである。
登場人物たちが意思を伝え合う。それだけだ。私はこの言語を魅惑的だと思う。
そして心からこの感覚を観客と共有したかった。”

作品自体が手話だけなので、本来、主人公のセルゲイとか、アナの名前は観ていてもわからない。
ただ、映像を観ながら何をしゃべっているか想像していくだけ。
それでも話の内容はよくわかる。
といっても、やっぱり字幕ぐらいほしいな、と思ったのが正直なところ。
だから、手話のわかる人はもっと深く内容がつかめるのじゃないかと思っている。

そして、映画の中で一番驚いたのは、ウクライナでも一部かもしれないけど、トイレが個室になっていないこと。
女性トイレなんか、個々に戸がなくてしゃがみ便所で丸見え。
隣りとの境は腰ほどの高さで、お体裁ほどに仕切られているだけ。本当にビックリしてしまった。

それにしても、このようなドライでリアルな作品とは夢にも思わなかった。
強烈な印象を受ける映画にまたひとつ出合った、というのが感想である。

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『雪の轍』を観て

2016年02月12日 | 2010年代映画(外国)
去年、公開時に行こうとしながら、上映時間が196分なのでやめてしまった『雪の轍』(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督、2014年)をレンタルDVDで観た。

舞台は南中央トルコのカッパドキア。
そこにひっそりと佇む一件のホテル。
経営者のアイドゥンは若い妻のニハル、そして出戻りの妹ネジラと共にこのホテルで暮らしている。
元舞台俳優の彼は、父の遺産によってホテルの他にも店舗や家を持ち、その膨大な資産の管理や雑事は使用人に任せている。

ある日、アイドゥンが乗る車に道端から石が投げられる。
犯人の少年イリヤスは、アイドゥンに家賃が払えず家具を差押えられているイスマイルの息子だった。
川に逃げてずぶ濡れになったイリヤスを家に届け、運転していた使用人がその顛末を話すと、イスマイルは不遜な態度で恨み言をぶつけてきた。
丁度その時帰宅した、イスラム教導師でイスマイルの弟ハムディが謝りながら取りなし、事なきを得た。
アイドゥンは些細なそのことを追及はしなかったが・・・・

これが導入部のあらすじである。
アイドゥンは、人に寛大で鷹揚そうな感じが滲んでいる。
アイドゥンと妹ネジラ。アイドゥンと妻ニハルの関係も傍目で見れば、何の変哲もなく穏やかにみえる。
しかし、話が進行するとそうばかりではない。
日常会話の些細な事から、ふいに、アイドゥンと妹の生活態度、物の見方の違いが露わになる。
アイドゥンと妻との間でも、同じようなことが起きる。
他人からすれば、突如意見の相違が出たようにみえても、これは長年の鬱積からくるもの。
こうして、アイドゥンという人物の性格が少しずつ露わになる。
本人は、他人に善意で接しているつもりでも、芯のところでは人を信用できない性格。
これを、自然なカメラワークの室内劇として、じっくりとあぶり出す。
あたかも、観ているこちらもその場に居合わせているようで、自分の言い分を妻ニハルがアイドゥンにし、責める時、
私まで、心の奥底にしまって人目に晒したくないことを剥き出しにされていくみたいで、
あぶら汗が滲み出てくるような気にさせられる。

ふっと思ったのは、まるでイングマール・ベルイマン監督の心理劇を観ているような雰囲気であると言うこと。
特に『ある結婚の風景』(1973年)とか。
だから、どれだけ長時間の作品だとしても、その映画空間にのめり込んで飽きがこない。
そう言えば、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(1982年)だって、311分もかかる作品だったけれど、当時、劇場に浸りきれたことが幸せだった。

おまけに、この映画は風景が晴らしい。雪の冬景色なんかは目が離せず飽きが来ない。
観終わった時、まるで一冊の文学書を読んだような充実した思いが残った。

『スリー・モンキーズ』(2008年)、『昔々、アナトリアで』(2011年)とこの作品を観て、ジェイランという監督がますます好きになってしまった。
特にこの『雪の轍』は、私にとって最良の重要な作品のひとつとなった。
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『オデッセイ』を観て

2016年02月09日 | 2010年代映画(外国)
宇宙もの、SFものと言うことで『オデッセイ』(リドリー・スコット監督、2015年)を観てきた。
今、上映中の映画だから、あらすじはクドクド書いたりしない方がいいかなと思う。

火星で、クルーたちが探査中、大砂嵐が来る。
みんな、ロケットに退避するが、その最中、マーク・ワトニーに折れたアンテナが直撃する。
クルーたちは、ワトニーが死んだと判断し、ヘルメス号に乗って出発してしまう。
しかし、ワトニーは生きていて・・・・
というお話。

まず、火星って随分、地球と似ている星だなと思ってしまう。
だって、探査していた場所は、どこかの砂漠みたいで、おまけに空には雲もあって、すごく親しみ深いところ。
ちょっと、ふらっと火星まで来ちゃいましたって感じ。
だから、マット・デイモン扮するワトニーも、たった一人だけになっても、ちっとも孤独感に襲われなかったりする。
人生に前向きで、生きることに希望一倍。
おまけに、植物学者だから、火星に空気がなくても、ジャガイモをハウス栽培で作ってしまう。
水も、天才肌だからちゃんと考えて作る。マット・デイモンってすごい、何でも出来ちゃう。

と、思って喜んで観てたら、この映画、やたらと会話が多い。もう、会話だらけ。
NASAの人達もそうだけど、マット・デイモンだって、一人きりでもよく喋る。
こちらも必死になって、会話の内容を記憶しようと、筋を追ったけど30分ぐらいで諦めちゃいました。
後は大雑把に内容をつかんで、画面を楽しむだけ。
と思ったけど、宇宙場面はラスト近くでマット・デイモンが救出される所と、あと2.3箇所。

宇宙もののワクワク緊張感を楽しみたいと思ったけど、映画が終わった時、疲れがドッと出てしまいました。
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『フランケンシュタインの花嫁』について

2016年02月07日 | 戦前・戦中映画(外国)
前に『フランケンシュタイン』(ジェイムズ・ホエール監督、1931年)のことを書いたので、
二作目についても書かないと、どうも片手落ちみたいな感じになってしまう。
作品は『フランケンシュタインの花嫁』(同監督、1935年)。

嵐の夜、『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーは、詩人のバイロンと夫のシェリーに「実はこの物語には続きがある」と言い、
それを聞いて二人は身を乗り出した。

前作で死んだと思っていた怪物は、風車小屋の地下の水たまりに落ちて生き延び、地上に上がってきた。

片や、怪物の生みの親ヘンリー・フランケンシュタインは、風車小屋から運び出された後、療養している。
そこへ夜遅く、大学時代の教授プリトリアス博士がやってきて、20年間の研究の末、生命の創造に成功したと言う。
ためらいながらも興味を示したヘンリーは、誘われてプリトリアス博士の研究室へ行き、博士の創った生命体に見せてもらう。
そこで博士は、一緒に組んで人造人間を創りたいと提案する。
断るヘンリーに「今度は、二人であの怪物の伴侶を創ろう」と言う。

森の中を彷徨って、滝のある川に来た怪物。
それを見た羊飼いの娘の悲鳴。
駆けつけた二人のハンターに撃たれて、またもや逃げる怪物。
村中が大騒ぎとなり、すぐさま山狩りになって・・・・

川の水面に映る、自分の顔の醜悪さを怪物は嫌がる。
怪物には美醜の判断がいつの間にか付いてきている。
そして、逃げた先での盲目の老人との出会い。
老人は森の小屋で、一人孤独に住んでいる。
怪物が来てくれたことが嬉しくてたまらなく、歓迎し、葉巻の吸い方や言葉を教えたりする。
怪物もそれが楽しく、片言の言葉を喋りだし、少しずつ知恵をつけていく。
ひと時の二人の心のふれあいが流れる。老人と怪物の優しさ。

しかし、一般的に人は、村人達のように名もないものに対して恐怖感を抱く。
自分の中の概念にないものに対する恐れ。
それを克服するために名前をつけ、ひとまず安心する。
この映画でもそうである。
怪物はいつまで経っても怪物であり、名前がない。
それをいつの時からか、観る側が勝手に「フランケンシュタイン」と名付けた。
本当は、「フランケンシュタイン」は怪物の創造者の名前であるのに、そんなことはお構いなし。
これで、ひとつの概念ができたから、もう悩むことはないと一件落着しホッとする。

それにしても、博士が創った瓶の中の小さな人間の、トリック撮影の技術力の高さ。
これが昭和10年の時の作品であるとは俄かに信じがたい思いがする。
傑作、古典と言われる所以である。

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『フレンチアルプスで起きたこと』を観て

2016年02月02日 | 2010年代映画(外国)
『フレンチアルプスで起きたこと』(リューベン・オストルンド監督、2014年)を観た。

スウェーデン人の一家が、スキーを楽しむためにフランスアルプスのリゾート地にやって来た。
幸せそうなその家族は夫のトマスと妻エバ、それに娘のヴェラに息子ハリー。
普段仕事に忙しいトマスは、たまに取った休暇を利用し、ここぞとばかり家族サービスに精を出す。
2日目の昼に山腹のレストランのテラスでランチを食べていると、目の前の山が雪崩になって迫って来た。
トマスは一人で逃げてしまい、結果的には全員無事だったが、残りの休暇は気まずいものになって・・・・

突発的な雪崩が来て、妻のエバは子供たちを庇ったのに、夫のトマスは逃げた。
映画は、観客のこちらに向かって、あなただったらどうしますかと問いかけているみたい。特に男のあなたは?

予期せぬ突発的な災害や事故が起きた場合、冷静な判断が必要だろうけど、その時、人は本能的にどのような行動を取るかわからない。
私だったら、ひょっとして逃げてしまうかもしれない。
万一、重大な結果になった場合は、非常にまずいことになるけど。
でも、身に危険が及ばなかったら、「怖かった、怖かった、ゴメン、ゴメン」と謝るよりしょうがない。

それを、トマスは逃げなかったと言うから、話がややこしくなる。
エバからすれば、この言葉から不信感が募る。そして、夫婦の間に亀裂が入る。
挙句の果てに、決定的な溝ができてしまう。

しかし、この夫婦、ちょっとどこか変。
まず、エバに常識がない。
バカンスを楽しみに来た友人カップルに向かって、夫は逃げたとなじる。
唐突にこんな話をされても、カップルは面白くもないし、案の定、その後で深刻な話になってしまう。
トマスの方はと言えば、例の県議会議員よろしく号泣したりする。みっともないったらありゃしない。
要は、二人とも大人に成りきっていない。
それを、この監督は無批判に映し出すから、段々とこちらの気が重くなってしまった。

それでも、心理描写がきめ細やかなので、話にのめり込んで飽きずに観れた。
ただ、誰もいない視界不良の場所で子供も連れて、四人だけでスキーをするかなぁと、その不自然さに驚いてしまう。
ラストのバスのシーンといい、話の必然性が欠けてて、あれれと思ってしまう。

でも、このオストルンド監督、管理人の雰囲気とかリフトの音とか、これからどんなサスペンスが展開されるのかと変に気を持たせるところが凄い。
ちゃんとしたサスペンスを作らせたら、ビックリするような傑作が出来るんじゃないかと思ってしまった。
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