ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

グザヴィエ・ドラン・1~『マイ・マザー』

2024年07月17日 | 2000年代映画(外国)

『マイ・マザー』(グザヴィエ・ドラン監督、2009年)を観た。

17歳の少年ユベール・ミネリはカナダ・ケベック州の何の変哲もない町でごく普通に暮らしていたが、
ここのところ自分の母親が疎ましく思えてどうしようもなかった。
洋服やインテリアを選ぶセンスのなさ、口元には食べカスをつけ、口を開けば小言ばかりと、母親の一挙手一投足が癪に触っていた。
母親を受け入れ難く思う一方、理由もなく苛立ってしまう自分にも嫌気がさしていた・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

観たことがないグザヴィエ・ドランの監督作品を今後観て行こうと思う。
まずは、19歳の時の初監督作品で脚本、主演も兼ねた半自伝的な内容という本作。

青年期特有の現象と言っていいのか、二人暮らしをしているユベールの過剰な母親への反撥。
その鬱屈した母親に対する態度の中には、幼かった頃に注がれていた愛情たっぷりの生活の裏返しが潜んでいたりする。
ユベールは独立して一人生活をしたいのに、まだ子供としてしか認めて貰えず、挙げ句の果ては寄宿学校へ行かされてしまう。
そんなユベールは同性愛者であったりするので、それを他から教えて貰った母親は動転するより仕方がなかった。

親との不和、愛情と嫌悪、それに対するユベールの苦悩が目いっぱいに描かれていて、筋としてはほぼそのことで終わっている。
だから内容の起伏は貧しいとしても、19歳の青年がこれぼどまでに出演者の人間性を生かし切っている現実に感心させられる。
それ程才能がほとばしっている、と言っていいのではないかと納得した。 

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『冬の小鳥』を観て

2021年02月09日 | 2000年代映画(外国)
『冬の小鳥』(ウニー・ルコント監督、2009年)を観た。

1975年のソウル。
新調してもらったよそ行きの洋服を着て、9歳のジニは大好きな父に連れられ郊外にやってくる。
高い鉄格子の門の中では、庭で幼い子供たちが遊んでいる。
ジニは父親と離され子供たちがいる部屋に通されるが、状況が分からず思わず外に飛び出してしまう。
目に入ってきたのは、門のむこうに去る父の背中。
そこは、孤児が集まるカトリックの児童養護施設だった。

自分は孤児ではないと主張するジニは、父に連絡を取るよう院長に頼む。
出された食事にも手をつけず、反発を繰り返すジニ。
ついには脱走を試みるが、門の外へ足を踏み出しても途方にくれてしまうのだった。

翌日、教会へ行くために子供たちは着替えていた。
頑なに周囲に馴染もうとしない反抗的なジニを疎みながらも、気にかける年上のスッキは、一人準備の遅いジニの世話を焼く・・・
(オフィシャルサイトより)

11歳のスッキは最初、施設に来て途方に暮れ頑なままのジニに意地悪をする。
しかし時が経つに連れ、二人は気の通じ合う大の仲良しになっていく。
そのスッキは外国に憧れ、アメリカ人の養子になりたいと拙くても英語を覚えようと努力する。
片やジニは、いずれ父親が迎えに来るはずと信じ、この施設から出たくない。

この施設には、年長で足に障害がある少女イェシンがいる。
イェシンは施設に出入りしている青年に恋しラブレターを渡す。
その返事をスッキとジニが受け取り、スッキは結果にワクワクするが、残念なことにイェシンは失恋する。

この施設の少女たちは、いずれ養子縁組という形で施設から出ていかなくてはならない。
イェシンも不本意ながら去って行く。
他の子たちはまだ幼くてあどけなくても、いずれ貰い手からの選別が待ち受ける。

傷ついて介抱していた小鳥も死に、スッキも憧れたアメリカへ去って行った。
ジニは自分の孤独の思いを、施設のみんなに送られてきた人形の縫いぐるみをズタズタにすることによって怒り表す。
そして、十字架を立てて埋めた小鳥の墓を掘り起こし、その穴をどんどん大きくして自分が横たわる。
死のうと顔にも土を被せるが、さすがに苦しくなって土を払いのける。
ジニはそっと、生きることへの現実を受け入れる。

フランス在住の韓国人ウニー・ルコントが、養子としてフランスへ渡った少女時代を映画化した作品である。
そのためか、愛している父から理由もなく突然に施設に入れられるジニの戸惑いと反感が、ひしひしと実感として伝わってくる。
ただ、その映像は深刻ぶらず、幼い子どもの抗うことができない現実をそのまま映し出す。
その現実をジニ役のキム・セロンの瞳の表情によって、観る者の心に深く染み通らせ認識させる。
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『ヴェラの祈り』を観て

2020年12月24日 | 2000年代映画(外国)
『ヴェラの祈り』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、2007年)を観た。

アレックスと妻ヴェラとの間には会話が少ない。
アレックスはひと夏を過ごすために、ヴェラ、息子キール、娘エヴァを連れて田舎の亡き父の一軒家へ行く。
着いて一段落した家族は林にクルミを獲りに行く。

夕食後、ヴェラがアレックスに告げる。
「赤ちゃんができた。あなたの子じゃない」
アレックスは動揺し、どう対処していいのかわからない。
アレックスは兄マルクに、「話がしたい、そっちへ行く」と電話し兄の所へ向かうが、途中で引き返す。

翌日、アレックスの友人ヴィクトルらが食事にやってくる。
そこへ兄マルクから、「今、駅にいる」と電話が入る。
迎えに行くアレックスに、息子のキールも一緒についてくる。
車中、キールは言う。
「ニーナおばさんとサーカスに行って帰ってきた時、家にロベルトおじさんとママが一緒にいた」と。
アレックスはそれを聞き、仕事関係の友人ロベルトがヴェラの妊娠相手だと確信する・・・

ヴェラはアレックスの意向を踏まえ中絶する。
その後で悲劇は起きる。
ヴェラが死んでしまうのである。
でも医者はことの次第に疑問を呈し、自殺をほのめかす。

物語はヴェラの不貞を疑う夫アレックスの視点を交えて進む。
だから観客は、アレックスの心情に納得する。
ヴェラが死に、復讐しようとするアレックスがロベルトと対峙する中で判ってくることは、生まれ出る子は誰でもないアレックスの子であること。

アレックスとヴェラの夫婦間。
そこにあったのは、二人における会話のなさ。
その致命的な断絶の溝を埋めようとしてヴェラが言った、「あなたの子じゃない」。
それを聞いたアレックスはヴェラに聞く耳を持たない。
ヴェラの絶望。
だが、アレックスはそれを深く気にとめていなかった。

ゆったりとした田舎風景の中に繰り広げられる的確な映像。
だから会話が少ない分、鳥の鳴き声、車の疾走音、雨の音とかの諸々の音声が効果を表す。
そして、映像説明の省略。
ヴェラが妊娠診断書の裏に書いた内容は、物の本質に重大のはずだが観客には示さない。
それは何だったかと知りたいが、よくわからない。
同じように冒頭、兄マルクが腕を撃たれてアレックスの所へ命からがらたどり着く。
そのことも何もなかったことのように説明がないが、それでも全体を見るとおおよそ雰囲気が掴める気がする。

これらをひっくるめての映像作りがズビャギンツェフとしての魅力であり、観ていて飽きがこない。
『父、帰る』(2003年)の強烈な印象から、『ラブレス』(2017年)までわずか5本の長編だが、ロシアのズビャギンツェフ作品をすべて観たことになる。
今後もこの監督からは目が離せない。
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『リアル・フィクション』を観て

2020年01月26日 | 2000年代映画(外国)
『リアル・フィクション』(総監督キム・ギドク、2000年)を観た。

人通りが多い公園で、青年が電話ボックスの会話を盗聴しながら似顔絵を描いている。
描いた絵を下手だと破られたり、ショバ代を要求するチンピラに殴られても、反抗せずに黙々と描く。
その青年を、若い女がデジタル・カメラで撮影する。

撮影するカメラの女が青年を誘う。
行き先は小さな劇場で、そこには“もう1人の私”がいて、その男は青年の心の中に眠っている怒りや憎しみを蘇らせけしかける。
そして、青年に芽生えてきた暴力性をもとに、過去にひどい目にあわせた者たちを復讐するよう拳銃を渡す・・・

青年は、自分に屈辱を与え善良な庶民の生き血を吸う蚊のような奴らを殺害するため、街に出る。

憎悪と怒り。

花屋を営みながらその店の中で浮気をしている現在の恋人。
小さな漫画房を営むかつての恋人の、相手だった中国ヘビを輸入している男。
今は精肉店をしている、下士官訓練でいじめた軍隊の時の男。
冤罪である強姦罪で、毎晩蹴り続け拷問した刑事。
ショバ代を要求するため公園を縄張りとするチンピラの3人。
そして、なぜかカメラで撮影している若い女まで。

それらを次々と、殺しにかかる。

その後、青年はまた公園で絵を描く。
そこでは、ショバ代を要求するチンピラ3人が、それを払えないぬいぐるみ屋を殴り倒し、怒ったぬいぐるみ屋は一人を刺し殺す。
と、いうように映画的な現実とフィクションが交じり合い、その境目がわからなくなる。

この作品は、各々のシークエンスを12人の監督が担当し、それをわずか3時間20分で撮影させたという。
そうなると、内容的に雑でバラバラな作りではないかと観る前に不安が走ったが、脚本をキム・ギドクが担っているためか、違和感のない作品となっている。
そういう点も踏まえ、若干こじんまりとしているとは言え、さすがキム・ギドクだけあるな、と感心した。
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『TOKYO!』を観て

2020年01月11日 | 2000年代映画(外国)
ポン・ジュノ監督の作品が入っているオムニバス映画『TOKYO!』(2008年)を観てみた。

1:インテリア・デザイン(ミシェル・ゴンドリー監督)
売れない映画監督の彼氏アキラと共にマイカーで上京し、友人アケミのアパートへ転がり込んだヒロコ。
愛車は駐車違反で持って行かれ、仕事も住まいも見つからず、アキラのみバイトの面接に合格して働き始める。
次第にアケミにも疎まれ始めるヒロコだったが、ある日、自分は徐々に“椅子”になって行き・・・

2:メルド(レオス・カラックス監督)
謎の怪人メルド。
彼は東京都内のあちこちのマンホールから現れては走り回り、通行人にぶつかって倒したり、持ち物を奪って食べる等の奇行を繰り返して恐れられていた。
メルドの住む下水道奥の地下深くには、旧日本軍の戦車の残骸や、手榴弾が残されていた。
やがて手榴弾をいくつも持ち出し、渋谷の街に次々と投げ、爆発させるメルド。
警察は地下に乗り込んで、遂に彼を逮捕する。
そして、不条理なテロ事件の裁判が始まる・・・

3:シェイキング東京(ポン・ジュノ監督)
一軒家に独り暮らしの引きこもり男。
父親からの仕送りの現金書留で生活し、自宅に来るピザや宅配便の配達人とは決して目を合わせず、テレビも見ずに読書三昧。
そんな生活を10年も続けていた。
ある日、女性ピザ配達人のガーターソックスが目に入り、思わず顔を上げて目を合わせてしまう引きこもり男。
丁度そこに地震が起こり気絶して倒れてしまう配達人。
どうしたらよいか戸惑い、右往左往する男だったが、彼女の手足には押しボタンのイラストが描かれており、なぜか「起動ボタン」のイラストを押すと目が覚めた。
その後、彼女がピザ屋を辞めたことを知った男は、会いたさが募り、遂に玄関の外へと踏み出し・・・
(Wikipediaより一部修正)

第一話の監督、ミシェル・ゴンドリーの名は初めて聞く。
調べてみると、ビョーク等のミュージック・ビデオやテレビコマーシャル作成の出身とのこと。
だがこの作品は頂けない。
テーマが、ヒロコによるアパート探し中心かなと思っていたら、後半で突然“椅子”に変わって行って、そのことに癒やされる女の話になってしまう。
真面目に観ていて馬鹿らしくなった。

続いてのレオス・カラックス作品も同じ。
“ゴジラ”のテーマ曲が流れるなか、汚らしい怪人メルドが動きまくり人々に嫌がられる。
何のために、こんなのを作るの?とウンザリする。
もっとも観るまでは、久し振りのカラックス作品なので期待していた。

カラックス(1960生)と言えば、私がまだ30歳台の頃、『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983年)、『汚れた血』(1986年)、『ポンヌフの恋人』(1991年)の作品で凄く魅力にたけた監督だった。
そして当時、ジャン=ジャック・ベネックス(1946生)、リュック・ベッソン(1959生)と共に、ヌーヴェル・ヴァーグ以後のフランス映画界の「新しい波」だった。
この3監督の感性の鋭さに共感し、その何ものにも代えがたき思いはいまでも続いているが、それにしても、このカラックスの体たらくにはガッカリする。

そう言えばこの3監督、年齢的にはベネックスが私よりチョット上、後の二人はまだ60歳ぐらいのはずなのに新しい作品を聞かない。
もっともリュック・ベッソンは作っているようだが、私からするとあまりパァとしない。
と、この第二話を観て、どうでもいい他のことを思い出してしまった。

第三話のポン・ジュノの作品。
これがメインだったけれど、なるほど飽きはしないけれど、だからそれでどうしたの、と言う程度。

そもそもこの3作品、“東京”を題材にして、何を作りたかったのか。
単なる、意味のないお茶濁しの作品作りなのか。
そんな疑問が先に立つような内容だった。
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『ほえる犬は噛まない』を観て

2020年01月08日 | 2000年代映画(外国)
『ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ監督、2000年)を観た。

ユンジュは、出産間近の年上の妻ウンシルに養われている、ヒモ同然の大学院出の浪人。
最近、マンション内に響き渡る犬の鳴き声に神経過敏になっていた。
ある日、となりのドアの前にチョコンと座る犬を見つけて、ついふらふらと地下室へ閉じ込めてしまう。

ヒョンナムは、マンションの管理事務所で経理の仕事をしている女の子。
毎日ボーと仕事をしていたが、団地に住む少女の愛犬ピンドリがいなくなり、迷い犬の貼り紙を貼っている少女に代わって、町じゅうに紙を貼るのだった・・・
(映画.comより一部抜粋)

お腹が大きい妻が働きに出ていて、自分はブラブラしているために頭が上がらない夫のユンジュ。
そんな彼に先輩から、教授になれる話が舞い込む。それにはワイロとしての1500万ウォンが必要。

マンションの屋上で、友人チャンミの双眼鏡をヒョンナムが覗いていると、向こうの屋上から子犬を投げる男を目撃する。
子犬が失踪する犯人は“こいつだ”と追いかけ出すヒョンナム。
こうしてユンジュとヒョンナムの接点が生まれる。

物語のテンポはコミカル。
かと思えば、地下室で警備員が鍋物を作るために犬を料理しようとする場面を、ユンジュが覗き見てしまうところになると、正しくサスペンス調。
そこに、なぞの浮浪者まで絡んできて、観ているこちらをグイグイと引っ張っていく。
そればかりか、ラストに至る皮肉さ。
それも良しか、と肯定させ納得させてしまう演出がうまい。
そして、これが長編デビュー作だと言うから、後の『殺人の追憶』(2003年)、『グエムル-漢江の怪物-』(2006年)、『母なる証明』(2009年)からすると、
やはり監督としての力量はただ者ではないと感じる。

だから未見の作品をもう少し続けてみたいと思う。
それにしても、韓国では食犬文化があるようだとこの作品から知り、そのことにビックリもした。
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『やさしくキスをして』を観て

2019年05月04日 | 2000年代映画(外国)
『やさしくキスをして』(ケン・ローチ監督、2004年)を観た。

スコットランド・グラスゴー。
カトリックの高校で音楽教師をする女性ロシーンはある日、パキスタン移民二世の女子生徒タハラの兄カシムと出会う。
別居中の夫がいるロシーンだったが、クラブのDJをするカシムの誠実さに好感を抱き、ほどなく二人は恋に落ちる。
しかし、敬虔なイスラム教徒であるカシムの両親は、子どもの結婚相手は同じイスラム教徒と決めており、カシムについてもすでに勝手に縁談話を進めていた。
ロシーンにそのことを打ち明けられずにいたカシムは、二人でスペイン旅行へ出かけた際、ついに婚約者の存在を告白するのだが・・・
(allcinemaより)

男と女が愛し合う。
どこにでもある話だが、しかし、ここに示される二人に対しての壁はとてつもなく大きく重い。
スコットランド社会の中のパキスタン人。
それに伴う、宗教としてのカトリックとイスラム。
特に、カシムの父はイスラム教に基づく家族主義、コミュニティーの念が非常に強い。
だからカシムが顔も知らない従姉妹を、婚約者として父親が一方的に決める。
それを打ち明けられたロシーンは、私の愛と家族とどちらが大事なの?と迫る。
ロシーンの態度は誰がみても当然なのだが、カシムには決断ができない。
理由は、カシムが優柔不断という訳ではなく、彼の家族の崩壊を意味するからである。
その葛藤に悩む。

なぜ、カシムがロシーンを選ぶと家族を捨てることになるのか。
その社会の有りようは根深く絡み合い、解決の糸口が難しいまま残る。

カシムの父は40年前、この地に渡ってきた。
その後の苦難は語られていないが、スコットランド社会の中でイスラムコミュニティーを形成し家族が結束しなけば、やってこれなかっただろうと想像させる。
片や、ロシーンが勤めるカトリック系学校の方でも、イスラム教徒のカシムと付き合う彼女をクビにする。

このような話を、ケン・ローチは例のごとく、個人的な内容から社会的普遍性へと問題を提起していく。
だからラストは明るい内容になっていても、この家族を取り巻く現状を考える時、手放しで喜ぶ訳にはいかない。
甘い題名からは想像できないケン・ローチの鋭いタッチは、この作品でも健在である。
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『魚と寝る女』を観て

2018年04月18日 | 2000年代映画(外国)
『魚と寝る女』(キム・ギドク監督、2000年)をレンタルで借りてきた。

湖に浮かぶ釣り小屋を管理する若い女ヒジン。
ヒジンはボートで釣り人たちに飲食物を運び、時には身体も売っている。

ある日、この釣り場に元警官のヒョンシクがやって来る。
恋人を殺害し逃亡しているヒョンシクは、自殺する場所を求めていた。
釣り小屋で拳銃自殺を試みるヒョンシクに、ヒジンは小屋の下からキリで彼の腿を突いて自殺をとめる。
このことを契機として、二人の間に奇妙な感情が生じ始めてきて・・・

孤独なヒジンはしゃべらない。それとも口をきけないのか。
そんな彼女は、影のあるヒョンシクにいつしか惹かれていく。

ペンチで針金細工をしながら毎日を潰すヒョンシク。
身体を求めるヒョンシクを頑として拒むヒジン。
その代用にヒョンシクが買った娼婦ウンアとの肉体交渉を、水中から覗き見るヒジン。

本作が4作目になるこの作品には、後のキム・キドクの特色がすべてと言っていい程よく表れている。

蛙を叩き殺して皮を剥ぐ。
ナイフで身を削がれた鯉が水中を泳ぐ。
ヒョンシクは自殺しようとして釣り針を飲む。
そのヒョンシクをリール竿で水から引っ張り上げるヒジン。
と思えば、自分から離れて行くヒョンシクを取り戻すため、ヒジンは股間に釣り針を入れてボートで引かせようとする。
その残酷さと、ゾッーとする痛々しさ。



朝靄の中に浮かぶ小屋と、湖の静寂な風景。
ヒョンシクとヒジンの間の会話のなさと、そこに漂う孤独。
そして、殺され水に沈むウンアと売春斡旋のマンチ。

この絵画のような映像によって描かれる絶望的な愛に、ただただ心を揺り動かされる。
キム・ギドクの作品の中でも、これは最も印象に残るうちのひとつと言えるのではないか。

これで、日本で観ることのできるギドク監督作品20本中、未見は『リアル・フィクション』(2000年)のみとなった。
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『エレファント』を観て

2017年08月23日 | 2000年代映画(外国)
目的の作品が見当たらなかったので、『エレファント』(ガス・ヴァン・サント監督、2003年)を借りてきた。

オレゴン州ポートランド郊外にある高校での、初秋の とある一日。
男子生徒のジョンは、酒に酔った父と車に乗って学校に到着。
父のだらしなさに呆れつつ、彼を迎えに来てくれるよう兄に電話する。

写真好きのイーライは、公園を散歩中のパンク・カップルを撮影。
アメフトの練習を終えたネイサンは、ガールフレンドのキャリーと待ち合わせる。
学食では仲良し3人組の女子、ジョーダンとニコルとブリタニーが、ゴシップとダイエットの話・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

学園構内での、いつもそうだろうような学生の日常風景が、他の生徒の行動も絡まって映し出される。
勿論、アレックスとエリックも、そう。
そんな日常に、内向的らしいこの二人が、宅配便で銃器を受け取ってから、状況が一変する。

この作品は、1999年4月にコロラド州コロンバイン高校で起こった銃の乱射事件を題材にしている。

しかし、監督のガス・ヴァン・サントは、事件に対する自己の解釈を一切示さず、ごく一般的な高校生たちの日常を、一人ずつ描く。
そして後半の出来事は、校内における二人の乱射の様子と打ち倒される学生を映していくだけ。
だから、提示された内容の解釈は、観客がそれぞれ引き受ける形となる。

そこにあるのは、銃社会としての国の問題が横たわっているのか。
というのは、アレックス、エリックは一人でも多くを殺すことが楽しく、殺人に対する罪の重圧感はない。
こうなると、もうゲームの世界ではないのか。

「それでいいのか」と言うのが、監督のガス・ヴァン・サントが言いたかったことではないか。
そのように、私は解釈する。
それにしても作品中に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」と「エリーゼのために」が流れる場面が印象深い。

この映画の上映時間は、わずか1時間20分の長さ。だから、再度観てみた。
すると、登場人物同士の構内でのすれ違いなど、緻密な計算がさりげなく施されていたりする。
テーマの鋭さとは別に、なるほどなと、映画的な凄さにも感服してしまう。

再度、内容に立ち返って、この作品に関連して思い出すのが、同事件をテーマとしたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)。
銃社会。
資金を大量に持った者たちの発言権が強力、という社会をどうにかできないものか。
何も、このことは他所の国の話だけではなく、この国だって、金儲けのための武器輸出がまかり通るようになった状況と連動するのではないか。
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『グッドナイト&グッドラック』を観て

2017年08月12日 | 2000年代映画(外国)
以前から気になっていても、たぶん重い内容だからとウッチャッている作品が結構ある。
そんな中のひとつ『グッドナイト&グッドラック』(ジョージ・クルーニー監督、2005年)を、レンタルでは先延ばしばかりしているから、いっそのこと購入した。

1953年、テレビ黎明期のアメリカ。
国民は、マッカーシー上院議員による共産主義者を告発する運動”赤狩り“に怯えて暮らしていた。
そんな中、CBSの人気ニュース番組『シー・イット・ナウ』のキャスター、エド・マローは、ある空軍兵士が”赤狩り“のため除隊処分されようとしている事件を番組で取り上げる。
その結果、マローやプロデューサーのフレンドリーらは、マッカーシーからの圧力を受けることになる。
しかし54年、CBSの会長ペイリーの支持を得て、マローはマッカーシーの虚偽と策謀を露わにする番組を放映・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

放映の結果は、大きな反響を得る。
だが、それがマッカーシーからの更なる圧力の根拠となる。
それによって、政府や広告主との関係を案じる会長のペイリーは、マローたちを危険視し始める。

権力者とジャーナリスト。
いつの世の中でも、パターンは似通っている。
正義を貫ぬこうとする人に対して、それを潰そうとする圧力。
これは何も、赤狩り時代のアメリカの話だけではなく、いま正に、日本のジャーナリズムが置かれている立場と関連する。

権力に対する自己規制。
この自己規制により、なし崩し的に権力者が有利になる。
マローは言う、「最後まで闘おう」。

この作品からの、マローのスピーチを載せておきたい。

“ラジオとテレビの現状を素直に語りたい。
今の世にはびこるのは、退廃と現実逃避と隔絶でしょう。
アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す。
それが報道にも表れている。
テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。
それに気づかなければ、スポンサーも視聴者も制作者も後悔することになる”

“もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、もともと何の価値もないということです。
テレビは、人を教育し啓発し心さえ動かします。
だかそれは、あくまでも使う者の自覚次第です。
それがなければ、テレビはメカの詰まったただの箱なのです。
グッドナイト、そしてグッドラック”
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