ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

成瀬巳喜男・22~『浮雲』

2020年04月29日 | 日本映画
『浮雲』(成瀬巳喜男監督、1955年)を再度観た。

幸田ゆき子は昭和18年農林省のタイピストとして仏印へ渡った。
そこで農林省技師の富岡に会い、愛し合ったがやがて終戦となった。
妻と別れて君を待っている、と約束した富岡の言葉を頼りに、遅れて引揚げたゆき子は富岡を訪ねたが、彼の態度は煮え切らなかった。
途方にくれたゆき子は或る外国人の囲い者になったが、そこへ富岡が訪ねて来ると、ゆき子の心はまた富岡へ戻って行った。

終戦後の混乱の中で、富岡の始めた仕事も巧くゆかなかった。
外国人とは手を切り、二人は伊香保温泉へ出掛けた。
“ボルネオ”という飲み屋の向井清吉の好意で泊めてもらったが、富岡はそこで清吉の女房おせいの若い野性的な魅力に惹かれた・・・
(映画.comより一部抜粋)

煮え切らない男・富岡に森雅之、それを知りながら愛し続けて墜ちていく女・ゆき子の高峰秀子。
その二人が、伊香保でのきっかけで知り合うおせい。
このおせいを演じる岡田茉莉子が初めて顔を出すシーンの、彼女の妖艶さ。

富岡は、グズぽくってその場の取り繕いはうまいが、女には滅法だらしがない。
正確にいうと、だらしがないと言うより女に弱いというか、意志が弱い。

だから、妊娠したゆき子が富岡の引越先を訪ねると、彼はおせいと同棲している。
ゆき子は失望し、初めて肉体関係をもった義兄、伊庭杉夫に金を借りて妊娠を中絶する。
その入院先で、清吉がおせいを絞殺し自首したとの新聞記事をみる。

富岡との縁を振り切ったつもりのゆき子は退院後、伊庭の囲い者となる。
が、ある日、落ちぶれた姿の富岡が訪ねてきて、妻邦子が昨日病死したと告げる。
葬式の工面が出来ずにいる富岡を、ゆき子は用立てしてやりながら、またこの男から離れられない気持ちが沸き立つ。
そして、伊庭からかすめ取った金を持って、ゆき子は富岡を旅館に呼び出し、屋久島の新任地へ赴くという彼に一緒に行きたいと訴える。

しかし、屋久島へ行く船便を待つ桜島の見える鹿児島の旅館でゆき子は発熱する。
無理を押して土砂降りの中を屋久島に着く二人。
だが、その後で待っているのは悲劇でしかなかった。

こんなにウジウジしている内容の作品だが、以前一度観たきりでも強烈な印象を残しているのはなぜだろう。
その切なさが、成瀬巳喜男を“やるせなきお”と言わせ、小津安二郎に「このシャシンは私には撮れない」と絶賛させた作品。

それもそのはず、私が所有している『映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編』(キネマ旬旬報社、2009年版)では第3位。
1位が『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)、2位が『七人の侍』(黒澤明監督、1954年)である。
因みに、1979年は4位、1989年も4位、1995年は3位、1999年は2位で、人々の心にいつまでも焼きついている作品といえる。

今回見直して、ラストで富岡が亡くなったゆき子に泣き伏せる場面を見て、『道』(フェデリコ・フェリーニ監督、1954年)で、
ジェルソミーナが亡くなっていたことを知ったザンパノーがラスト、海岸で泣き崩れるシーンが蘇った。
男は女の気持ちを推し量らず、無頓着に気ままに過ごしてきた。
気が付いた時には、いくら後悔しても相手の女はこの世にはいなかったのである。
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成瀬巳喜男・21~『女の座』

2020年04月25日 | 日本映画
『女の座』(成瀬巳喜男監督、1962年)を観た。

舞台は、東京の下町らしき雑貨屋。
店の奥は大家族が暮らせるような造りとなっている。
住んでいるのは、石川金次郎(笠智衆)とあき(杉村春子)夫妻と、
亡くなっている長男の嫁・芳子(高峰秀子)とその息子の健。
それに、次女の梅子(草笛光子)、四女の夏子(司葉子)、五女の雪子(星由里子)が同居している。
あきは後妻のため、次女・梅子とは血が繋がっていない。
その梅子は婚期を逃し結婚の意思もなく、離れで生け花を教えている。
四女の夏子は会社が倒産し家にいて、五女の雪子は映画館の切符売り場で働いている。

このような前提があって、物語は金次郎が倒れたということで、長女の松代(三益愛子)や次男の次郎(小林桂樹)も集まってくる。
しかし容体は大したことがないと言うことで、九州の三女・路子(淡路恵子)には来なくていいと電報を打とうするが、
ひょっこりと夫・橋本正明(三橋達也)とやって来てしまった。

長女の松代はアパートを経営しているが、夫・田村良吉(加東大介)は下宿人と駆け落ちして家を出ている。
次男の次郎はラーメン屋をやっていて人手が足りなく、夏子に手伝って欲しいと言う・・・

石川家の雑貨屋は芳子が切り盛りしている。
その芳子の夫の三回忌までと、九州から出てきた路子夫婦はこの家に転がり込んだまま帰らない。
要は仕事にあぶれてしまって行き先がないのに、黙ったままズルズルと居座る。

長男の三回忌のお寺での席で住職から夏子の見合いの話が出る。
しかし雪子は、夏子と次郎のラーメン屋の常連客・青山(夏木陽介)が付き合うよう積極的に勧めている。

これだけの俳優(芳子の妹に団令子もいたりする)が出ていたりするから、話の内容も盛り沢山でややこしくなりそうだが、それが見事にこなれていて分かりやすい。
そして、あきが前夫の元に置いてきた一人息子・六角谷甲(宝田明)が現れてからの梅子が夢中になる様子といい、
その六角谷の胡散臭さを嗅ぎ取っている芳子と、母親のあきの心の落ち着かなさ。
その結果の、梅子の芳子に対する敵対心。
それに輪を掛けて芳子を絶望に落とし込む、息子・健の事故死へとクライマックスに突き進む。

すべて物事が終わってみると、石川家をやり繰りしていた他人としての芳子には行き場がなくなっている。
ある日、金次郎とあき、芳子の三人での墓参りの帰り、金次郎がこぢんまりとした他人の家を見て、このような家に一緒に住もうかと言う。

ラストを見ると、よく言われているようにこの作品は『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)のテーマと相通じるものがある。
当然『東京物語』は名作だとしても、この作品だって十分過ぎるほど心に残る魅力を持っている。
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『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』を観て

2020年04月20日 | 2010年代映画(外国)
新作の『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』(タイラー・ニルソン/マイケル・シュワルツ監督、2019年)を動画配信で観た。

家族に棄てられたダウン症のザックは養護施設で暮らしているが、子どもの頃からプロレスラーになるという夢を持ち続けている。
そのため、憧れの悪玉プロレスラーであるソルトウォーター・レッドネックの養成学校に行こうと、施設から脱出する。

兄を亡くして孤独な思いのタイラーは漁師をしているが、他人のカゴから蟹をかすめ取り、挙げ句は追われるはめになる。
この逃げるタイラーのボートに、たまたまザックが隠れていた。

タイラーが行こうとする先はフロリダ。
ザックの憧れるプロレス養成学校は、途中のノースカロライナ州のエイデン。
タイラーはザックが途中まで同行するのをしょうがなく許し、二人は、それぞれの目的に向かって一緒に行動を共にする・・・

一見よくあるロードムービー。
だから結末に向かっての物語は、どちらかと言えば予定調和的とも言える。
しかしこの作品は、よくある作品の一つとして十把一絡げにして葬り去るわけにはいかない。

プロレスでヒーローになる夢を持っているザック。
片や、兄への思いを引きずりながら将来展望もなく、どちらかと言えばワルのタイラー。
この二人に、養護施設から逃げたザックを探す若い女性の看護師エレノアが加わる。

この作品のいいのは、障害者が主人公となるとよくあるような感傷的で同情を売るところが微塵もないところ。
それもそのはずで、主人公のザックを演じるザック・ゴッツァーゲンが製作のきっかけを作っていることからもそれは当然と言える。

その内容は、エンドロールで流れる“Running For So Long (House A Home)”ともマッチして心に沁みる。
【YouTubeより】


久々に見る、心が洗われるような清々しさ。
映像的にも優れたこのような作品が、もっともっと人々の目に触れるといいのにと切に願う作品であった。
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成瀬巳喜男・20~『驟雨』

2020年04月14日 | 日本映画
『驟雨』(成瀬巳喜男監督、1956年)を観た。

結婚後4年、並木亮太郎と妻文子の間には冷い倦怠の空気が流れている。
ある日曜日の朝、些細なことからいさかいを始め、亮太郎はプイと家を出て行った。
味気ない思いの文子が買い出しから帰ると、新婚旅行に行っているはずの姪のあや子が待っていた。
旅行先で、花婿が偶然会った友人とそのまま飲みに出かけて、朝帰りしたので喧嘩をしたという。
帰ってきた亮太郎もその話を聞き男の立場を弁護してみたものの、夫に不満を持つ文子は嫌みを言う。

数日後、隣家に新婚間もない今里念吉と雛子が引っ越して来て、亮太郎には雛子の若々しい肢体が眩しく映った・・・
(映画.comより修正)

亮太郎と文子は二人暮らしで結婚してまだ4年だというのに、完全に心が離れている。
たまの日曜日ぐらいどこかへ一緒に出掛けようと言う亮太郎に対して、
毎日家事をしている文子の方は、夫婦顔を付き合わせて会話のない状態にウンザリしている。
だから、ひとりで出掛けていらっしゃいよ、と言う。
この文子は、日々の生活費のやり繰りについても何かと疲れている。
そんな妻の心理を亮太郎は理解していない。というか、理解力そのものがない。

文子は、「男って朝出て、晩帰ってくるように出来てるのね。
よその奥さんは、旦那さんが留守だと気楽でいいって喜んでいる、私、不思議だったけどわかったわ」と言う。
以前CMにあった“亭主、留守でいい”の先駆けを聞いて、いつの時代も世の夫婦関係は同じかと、苦笑してしまう。

こんな並木家に突然、姪のあや子がやってくる。
あや子の愚痴を聞いていると、新婚だというのに、並木夫婦を原形とした二人の将来がボンヤリと見えてくる。
しかしあや子としては、おじさん夫婦は理想と思っていたから、現実を見せられて目をシロクロさせてしまう。

この夫婦パターンは、隣りに越してきた今里家も多少似た感じで、
突然の驟雨の時、念吉が隣りの文子に大声を掛け、干してあった洗濯物を一緒に取り込んでやる。
それを見た雛子は、「念ちゃん何してるの、表にまだ荷物が置いてあるんじゃないの」と念吉を睨み、こちらは奥さんの方が強そう。

そもそも亮太郎も念吉も、隣りであるよその奥さんの方が魅力があると内心では思っているようで、親切にする。

このような日常の中で、それでも小さな事件らしきものが起きる。
文子は家で野良犬に餌をやっているが、その犬が靴を咥えて、片方消えてしまったと近所から怒鳴り込まれたり、
幼稚園で飼っている鶏が噛まれて死んでしまったので園長から買い取らされたりする。

それより重大な出来事は、亮太郎の会社で人員整理を4人する必要があり、退職を自主的に申し出れば退職金の上乗せが出ると周知されたこと。
亮太郎は文子に、田舎に引っ込んで農業でもやりたいと言い出す。
夕方、会社の同僚らが家にやって来て、新しく飲み屋かバーのような商売をやろう、
そして、文子がそこのマダムをやってくれるといいが、と提案したりする。
文子は面白そうじゃないの、と乗り気だが、妻は家にいるものだと考える亮太郎はむくれてしまう。

と、このようないつもの成瀬特有の雰囲気ある物語だが、今回は特に全編ユーモアが散りばめられていて、コミカルで面白い。

傑作場面は、亮太郎の同僚が相談のために突然やって来た時、文子は何を食べさせようと考えた末、
タマゴを産み過ぎているから肉が固いかもしれないと思いつつも、例のニワトリをさばいてこっそり出す。
それを、客の方は案の定、ちっともかみ切れない肉を必死で食べるシーン。

それとラストシーン。
同僚らが来た翌日、まだ気分的に面白くない二人。
そこへ、向こう隣りから紙風船が庭に飛んできて、小さい子が二人、取ってほしいと言う。
亮太郎が打ち返してやろうと風船を打つが、、子供の方へは中々行かずに一人遊びの体になる。
そこへいつの間にか出てきた文子が打ち返す。
亮太郎も打ち返すと、文子は「もっと強く」と励まし、いつしか風船は打ち合う二人の間をいつまでも行き来する。
このラスト場面で、笑いと共に、二人のわだかまりも自然と解けてメデタシ、メデタシだね、とホッコリした気分になる。

並木夫婦には、佐野周二と原節子。それに姪が香川京子。
今里夫婦の方は、小林桂樹と根岸明美。

場所の設定は世田谷の小田急・梅ヶ丘駅付近。
戦後から10年ほどの当時の風景、雰囲気がみごとに忍ばれて、今では時代考証の参考にもなる価値ある作品と言える。
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『人間の時間』を観て

2020年04月10日 | 2010年代映画(外国)
『人間の時間』(キム・ギドク監督、2018年)を観てきた。

7日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が7都府県に発令され、
名古屋飛ばしということで愛知県知事が本日、県独自の緊急事態宣言を発表した。
私にとって、どうしても観たい映画は不要不急の外出であるとは思っていないが、
それでも宣言が出れば自粛しようかなとの思いも強くなるから、その直前に行ってきた。

劇場は40席のミニシアターで、客はほとんどいないだろうと想定していたら、20名近くもいて驚いた。
と言っても、マスクをしているし隣り同士も一席離れているし、ましてや発声すらしないのでウイルス感染に極端に萎縮する必要もないではないか、
それよりか、このようなミニシアターが経営難となるほうが、文化的損失が大きいのではないだろうかと考える。

休暇へ向かうたくさんの人々を乗せ、退役した軍艦が出航する。
乗客には、クルーズ旅行にきた女性と恋人のタカシ、有名な議員とその息子、彼らの警護を申し出るギャングたち、謎の老人など、
年齢も職業も様々な人間たちがいる。
大海原へ出た広々とした船の上で、人々は酒、ドラッグ、セックスなど人間のあらゆる面を見せる。
荒れ狂う暴力と欲望の夜の後、誰もが疲れて眠りにつき、船は霧に包まれた未知の空間へと入る。

翌朝、自分たちがどこにいるのかわからず、そこから出られるのかもわからない状況に唖然とする人々は、
生き残りをかけて悲劇的事件を次々に起こしていく。
(公式サイトより)

第一幕「人間」、第二幕「空間」、第三幕「時間」、第四幕「そして人間」と副題がついているが、
残念なことに、この作品は期待したほどの内容ではなかった。

公式サイトのあらすじからすると、想像を絶するさも未知のできごとでも起きるのかのようだが、
実は、翌日になると船は天空に浮かんでいて、人々はその後の食糧難に対する危機のため、ついには殺し合いのバトルを繰り広げるという内容。
その中にひとり、老人がひと言も喋らず、死んだ肉体を打ち砕き、それを肥料として種を植え付ける。
それがずっと後年、船自体が林になり、ひとり生き残ったヒロインとその産んだ子が生きながらえるという話。

キム・ギドクはこの作品について、
「世の中は、恐ろしいほど残酷で無情で悲しみに満ちている。
どんなに一生懸命人間を理解しようとしても、混乱するだけでその残酷さを理解することはできない。
そこで私は、すべての義理や人情を排除して何度も考え、母なる自然の本能と習慣に答えを見つけた。
自然は、人間の悲しみや苦悩の限界を超えたものであり、最終的には自分自身に戻ってくるものだ。
私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った」と、メッセージをしている。

だが、メッセージそのものが素直に納得できる内容でないように、作品自体もどこか空回りしているような、そんな感じの作品だった。

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成瀬巳喜男・19~『秋立ちぬ』

2020年04月05日 | 日本映画
『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男監督、1960年)を観た。

夫を亡くし信州から上京した親子、茂子と秀男は、銀座裏で八百屋をしている伯父・常吉のもとへやってきた。
今は夏休みの秀男は小学六年生。
信州から持ってきたかぶと虫を可愛がっている。

着いた早々、茂子は、兄の家に二人も厄介になれないと、近くの旅館「三島」に住み込みで働き始める。
残された秀男は、ここの長男・昭太郎と一緒に寝起きし、八百屋の仕事を手伝いながら少しずつ都会の生活に慣れていった。
ある日、昭太郎から母の勤める「三島」へ野菜を届けるように頼まれた秀男だが、途中で、地元の少年たちとケンカになってしまった。
秀男は勝ち、少年たちが逃げていった後、一人の少女が落ちたトマトを拾ってくれた。

少女は順子と言い、秀男の母親が働く「三島」の女将の娘であった。
「三島」で、久し振りの母を待つ間、秀男は小学四年生である順子に頼まれて算数の宿題を教えてあげた。
しかし会った母親は、仕事中だと言って、素っ気なく部屋に戻っていった・・・

少年秀男を主人公とした映画である。

信州生まれの秀男は海を見たことがない。
そのことを順子に話すと、順子は見せてあげるからと、次の土曜日に二人してデパートの屋上に行く。
しかしそこから見えるのは、青くなく遠くに霞んだ期待外れの海だった。
がっかりする秀男に順子は、「近くに行けば青いわ。じゃあ、今度一緒に行きましょう」と誘う。

帰り、デパートで昆虫を買おうとした順子に、秀男は信州から持ってきたかぶと虫をあげると約束する。
しかし帰宅すると、かぶと虫は逃げ出していなくなっていた。
しょげる秀男に昭太郎が、次の公休日にかぶと虫捕りに出かけようと慰める。
当日になり、多摩川にきた二人だったが真夏の雑木林にかぶと虫はいなかった。

帰宅した秀男を前にして伯父夫婦が話している。
母茂子が旅館の常連客である真珠商の富岡と駆け落ちしてしまったと。

次に秀男と順子が会った日。
順子は「あんたのお母さん、ひどいわね。悲しいでしょ」と、秀男に聞く。
秀男は、悲しくないと言い、
それに対して順子は、「中年の女って怖いんですってよ。あんたのお母さん、中年の女でしょ」
「中年の女が男に狂うと、子供のことなんか忘れちゃうんだって。あんたのお母さんもあんたのこと忘れたんだわ」などと、
大人の世界の実態が理解できずに、秀男に同情する。

純粋な子供の世界に、無慈悲にも大人の社会が覆い被さってくる。
子供には抗えない出来事、世の仕組みが、子供だけの世界に否応なく残酷につきまとう。

その残酷さは、秀男だけに限ったことではない。
実は、順子の母親・直代は、大阪に本宅があり、月に二、三度やってくる浅尾の妾である。
そんな父親が大阪から二人の子を連れてやって来る。
順子は早速、父親に「東京にもう一人お兄さんが欲しいんだけど」と、秀男のことを頼んでみたりする。

こんな順子でも、本宅の子と自分では微妙な差異あると、どこそこ気がついている。
だから、「どうしてお父さんは、お母さんを二人持ってるの。ねぇ教えてよ」と、母親に質問する。

秀男と順子は、もうお母さんなんか嫌いと、タクシーに乗り晴海へ海を見に行く。
しかしそこは埠頭であって、大海原を眺望できる風景ではない。
二人は手を繋いで線路の上を歩き、広い埋立地まで行く。
ここでの海も、秀男の思い描くものとはほど遠い眺めだった。

秀男は、夏休みが終わるまでにきっとかぶと虫を捕まえてプレゼントすると順子に言い、目の前にいたバッタを捕まえようとする。
だが、岩場で転び怪我をしてしまい、結局はパトカーで家まで送ってもらう羽目になった。
帰って来るや、秀男は心配していた伯父に頭を思いっきり叩かれる。
片や順子も、帰りが遅いのを気に病んでいた母に、秀男と遊ぶことを禁じられてしまった。

秀男を庇う昭太郎は、もう一度かぶと虫捕りに行く約束をしたが、行く直前になって友達の遊ぶ誘いに乗ってしまう。
がっかりした秀男だが、丁度信州の田舎から送ってきた林檎箱の中に、一匹のかぶと虫がいるのを見つけた。
喜び勇んだ秀男は、走って順子の家に駆けつける。
しかし、そこは引っ越しの後で「三島」の者は誰もいなかった。

一夏の出会い。
置き去りにされてしまった秀男の心情を思う時、ふかく胸に突き刺さってくるものがある。
馴染めない都会の片隅での日常。
それでも、イジイジとしていない秀男は今後もそれなりにやっていけるのではないか、そんな薄らかな希望もみえる、心に沁みる傑作だった。
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成瀬巳喜男・18~『あらくれ』

2020年04月02日 | 日本映画
『あらくれ』(成瀬巳喜男監督、1957年)を観た。

お島は庄屋の娘だが、子供の時から農家に貰われ、結婚話をいやがって東京に逃げ出して来た。
植源の世話で神田にある罐詰屋の若主人鶴さんの後妻になるが、女出入のはげしい主人と、気の強いお島との間には悶着がたえない。
遂に腕力沙汰の大喧嘩の果て彼女は腹の児を流して家を出た。

落着いたのは、草深い寒村の旅館浜屋。そこの女中となったのである。
胸を病んだ妻と別居している旅館の若旦那は、彼女に想いをよせて関係を結ぶが、細君が回復して戻って来るとなれば、また家を出なければならぬ。

東京へ帰って洋服店につとめるようになった。
そのうち、同業の職人小野田を知り、ミシンを習って下谷に店をもつ。
小野田は怠け者だが、勝気なお島によって、どうやら商売も軌道に乗るようになった。
しかしやがて小野田の父が同居するようになると、酒飲みの老人には嫁の性格が気にくわぬ。
再びゴタゴタが絶えなかった。
その時、病気になった浜屋が上京して来る。

お島は本郷に店をかまえ、だんだん繁昌するが、夫は仕事一方の妻が気に入らない。
植源の娘おゆうを囲うようになった。

その頃、病が重くなった浜屋が死んだ。
暗い気持にとらわれたお島は、夫とおゆうが会っている現場をおさえ、物干竿で二人の間にあばれ込む。
小野田は雨の中を逃げ出して行った・・・
(映画.comより)

大正の始め。
我が強く、それでもって自立心のあるお島。
そんな女性の半生が描かれる。
それに引き換え、相手になる男の不甲斐なさ。
まさしく成瀬映画の縮図。
まずは缶詰屋の鶴さん。
ネチャネチャと嫉妬深いくせに浮気をしている最低の男。
次が旅館浜屋の主人。
物静かでかなりインテリそうだけど、いざという段にイジイジとして煮え切らない。
三番目が、二人で洋服屋を始めた小野田。
最初はよかったが、生活が落ち着いてくると全くの怠け者で、挙げ句に植源の娘おゆうを囲う。

缶詰屋の鶴さんが上原謙、浜屋の主人は森雅之、そして小野田の加東大介。
もう、どうしようもない男たち。と、実感させられる自然体が凄い。
それらに絡んで、めげずに強気で生きようとする高峰秀子。

この作品は、成瀬巳喜男を知るうえでの典型的な一作のような気がする。
そのように確信するけど、もっと観てみないと断定すべきでないとも思う。
いずれにしても、傑作の一作品には間違いない。
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