ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

グザヴィエ・ドラン・3~『わたしはロランス』

2024年08月26日 | 2010年代映画(外国)

『わたしはロランス』(グザヴィエ・ドラン監督、2012年)を観た。

カナダ・モントリオール。
国語教師をしながら小説を書いているロランスは、35歳の誕生日を迎え、交際相手のフレッドにある告白をする。
それは、自分の身体の性に違和感を持っており女性になりたいと思っているということだった。
この告白にショックを受けたフレッドは、これまでに二人が築いてきたものが偽りであるかのように思えてしまい、ロランスを非難する。
しかしかけがえのない存在であるロランスを失うのを恐れ、フレッドはロランスの良き理解者となることを決意。
ロランスに女性の立場からメイクなどについてアドバイスするが、モントリオールの田舎町では偏見を持たれ、彼らに対する風当たりは強かった・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

カミングアウトするということ。
女性になりたい願望のロランスはフレッドにそのことを打ち明ける。
ただ、ロランスはその願望があっても男性を好きになるわけではなく、女性のフレッドを深く愛している。
ショックを受けるフレッドはロランスを愛するがうえに理解者として努力する。
しかし、女装したロランスに世間の目は冷たい。
それが故に、ロランスは職を失い、やがてフレッドはうつ病となっていく。

やがて二人は別れ、ロランスは理解者シャルロットを得、フレッドは彼氏アルベールと結婚しレオを産む。
そんなロランスとフレッドだが、内心の愛は変わらない。
再会した二人の、雪積もるケベック州の小島“イル・オ・ノワール”への逃避行。

ロランスは自分に正直でありたいのに、フレッドはロランスを男として愛したい。
その葛藤故にまたしても別れ。
数年後、再びバーで再会する二人だったがそこでも口論になり、それが決定打となり、秋の気配の中、完全に別々の道を歩み出す。

ラストでの、1987年の二人の出会いのシーン。
あれから時は経ち、もうすぐ21世紀、その長きに渡るロランスとフレッドの愛の軌道。

作品は2時間50分近くの長さがあるが、その間退屈さを感じさせない。
要所要所に現れるビジュアル化された映像とか、二人の言い合いにおける素早いカメラの動き。
二人が感情を露わにするロランス役のメルビル・プポーとフレッド役のスザンヌ・クレマンの心情表現の凄さ。

監督のグザヴィエ・ドランは、自身が“ゲイ”であることを自認していることもあってか、感情の機微の表し方がとても20代前半の人間とは思えないほど卓越している。
この作品はとても重要だと感じるので、再度機会を見つけて観てみたいと思う。

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グザヴィエ・ドラン・2~『胸騒ぎの恋人』

2024年07月20日 | 2010年代映画(外国)

『胸騒ぎの恋人』(グザヴィエ・ドラン監督、2010年)を観た。

ゲイのフランシスとストレートのマリーは姉と弟のような親友同士。
ある日、2人は友人らとのパーティで1人の明るく社交的な美青年ニコラと出会う。
フランシスもマリーも口では好みでないと言いながらも、ニコラに一目惚れする。
そんな2人とニコラは友人として親しくなり、3人で遊ぶことも増える。

フランシスもマリーもそれぞれセックスの相手には不自由していなかったが、
無邪気なニコラと親しくなるに従って、ニコラへの想いを募らせて行く。
マリーがニコラに対して積極的なのに対し、フランシスはマリーを気遣ってニコラに対しては遠慮がちであったが、
3人で小旅行に行った先で、ニコラと楽しげに戯れるフランシスに嫉妬したマリーは、フランシスと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
その様子を目撃したニコラは、この出来事以降、2人と距離を置くようになる。
そんなニコラへの想いを抑え切れなくなったフランシスとマリーはそれぞれニコラに告白するが、ニコラはきっぱりと拒絶する・・・
(Wikipediaより)

ニコラに想いを寄せるフランシスとマリー、その三角関係の進み具合は、内容的にさして深みがある感じがしない。
でも、飽きなく見せる手腕は評価できるんじゃないかと思う。
映像が時にアートぽかったり、進行テンポも手際よかったりするためだろうか。

映像自体は目新しそうで、いつかどこかで観たような記憶が蘇る。
1960年代のジャン=リュック・ゴダール辺りだろうか。それも昔のことで定かではないが。
そうだ三角関係と言えば、『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー監督、1962年)があった。
青年ジュールとジムがジャンヌ・モロー扮するカトリーヌに同時に恋する話だった。
その作品を観たのは10代の時だったので、記憶もあやふやになっている。
ジャンヌ・モローが歌う「つむじ風」ももう一度聴いてみたいので、是非、再度観てみたい気がする。

そんなことを思わせるグザヴィエ・ドランの第2作目作品だった。

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『スティーブ・ジョブズ』(2015年) を観て

2022年12月13日 | 2010年代映画(外国)
『スティーブ・ジョブズ』(ダニー・ボイル監督、2015年)をDVDで観た。

1984年、アップル新製品の発表会本番40分前。
今日の主役のパソコンMacintoshが「ハロー」と挨拶するはずが、黙ったまま。
「直せ」とスティーブ・ジョブズは冷徹に言い放つ。
15分前、音声デモと格闘するアンディを脅し、突然胸ポケット付きの白いワイシャツを用意しろとジョアンナに命じ、
共同創業者で親友のウォズニアックから頼まれたApple Ⅱチームへの謝辞をはねつけるジョブズ。
そして2分前、自ら連れてきた新CEOのスカリーと舞台袖で交わした会話とは・・・
(DVDパッケージ裏のあらすじから)

1976年、スティーブ・ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックが自作したマイクロコンピュータ「Apple I」を販売するために起業することを決意し、
同年4月1日にウォズニアックおよびロナルド・ウェインとの共同で「Apple Computer Company」を創業する。
Apple Computerが1977年に発売した「Apple Ⅱ」は商業的な大成功を収め、パーソナルコンピュータという概念を世間一般に浸透させた。
その後、ジョブズは先進的なGUIやマウスを持つコンピュータ「Macintosh」の開発を主導、1984年に発表されたMacintoshはマスコミから絶賛されジョブズの名声を高めた。
(Wikipediaより)

緊張感も漂わせてスリリングな展開で始まり、「アップル」とか「マッキントッシュ」の秘話が堪能できるかと期待したが、後は尻つぼみ。
会話体だらけで、アップル新製品の発表会の舞台裏だけの話だと思って見ていたら、いつしか1988年の「NeXTcube」、1998年の「iMac」の製品発表会の舞台裏へと展開している。
そのことへの何の説明もないから、わけがわからず、スティーブ・ジョブズという人物について聞いたことがあるような、ないような者からしたらチンプンカンプンな内容。
そりゃ、コンピュータ関係に興味があってジョブズなんて名は常識で通じる人達にとってはよくわかる内容かもしれないが、映画の出来としてはそれでは困る。
開放された映画の世界は、いわゆるオタクと言われる一部の人達が納得するためのものではないはずだから。

と言っても気になるから「ウィキペディア」でスティーブ・ジョブズのことを読んでみた。
結構長い文章を辿っていくと、2011年に56歳の若さでこの世を去っってしまったとか諸々、「ウィキペディア」の内容の方が映画より興味が湧いてしまった。
勿論、映画には娘リサとの関係など気になるエピソードもあるが、購入したDVDを再度観ようとかは当分ないなと思ってしまった。
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『ノベンバー』を観て

2022年11月20日 | 2010年代映画(外国)
『ノベンバー』(ライナー・サルネ監督、2017年)を観てきた。

エストニアのとある寒村。
貧しい村人たちの最大の悩みは、寒くて暗い冬をどう乗り切るかだ。
村人たちは“使い魔クラット”を使役し、隣人から物を盗み合いながら、必死になって生きている。
クラットは牛を鎖でつないで空中に持ち上げ、主人の農場に届ける。
クラットは農具や廃品から作られたもので、操るためには「魂」が必要となる。
「魂」を買うために森の交差点で口笛を吹いて悪魔を呼び出しては、取引をするのだ。
悪魔は契約のために3滴の血を要求するのだが、村人たちはそれすら勿体無いと、カシスの実を血の代わりに使い悪魔をも騙す。

時は「死者の日」を迎える11月1日。
死者が蘇り、家に戻ってご馳走を食べ、貴重品が保管されているかを確認する。
死んでもなお、欲深い村人たち。若くて美しい娘リーナも死者の一人である母親と束の間のひと時を過ごす。

リーナは村の若者ハンスに恋をしているが、強欲な父親はそんなことは露知らず、豚のような農夫エンデルにリーナとの結婚を約束してしまう。
一方、ハンスはドイツ男爵の美しい娘に一目惚れ、リーナには歯牙にも掛けない。
ハンスが別の娘に夢中なのを知ったリーナは、村の老いぼれ魔女に相談をする。
魔女はリーナに矢を渡し、これを娘の頭に刺せば脳みそがこぼれ出るだろうとほくそ笑むのだった。

ある夜、男爵の館の様子を伺っていたリーナは、館の屋根に夢遊病者のような状態で歩いている男爵の娘を発見する。
リーナは屋根から落ちてしまいそうな娘を黙って見過ごすことはできずに助け出す。
そんな時、ハンスは雪だるまのクラットを作り、3つのカシスを使い悪魔を騙そうとする。
その策略に気づいた悪魔はクラットの魂をハンスにくれてやる代わりに、ハンスの魂を奪い取る。
ハンスはクラットを使って男爵の娘を連れ出そうと試みる。
だが、クラットは「人間を盗むことはできない、できるのは家畜と命を持たない物だけだ」と悲しげに答えるのみだった・・・
(オフィシャルサイトより)

長々とあらすじを紹介した。
と言うのも、この作品はことの前後の説明は極力省略されていて、観ていてこれはどういうことかな、と疑問やら不思議に思うことがしばしばあった。
だから事前に内容を、それも具体的に知っていれば、より一層楽しめたのではないかと思った。
しかし映画は、なんの予備知識もなく観るのが本来の鑑賞の仕方ではないかと考えるので、やはり場面場面の繋ぎの説明を作品の中で教えてくれないとまずいなぁと思ったりもした。

だからつまらないかと言えばそうでもなく、なぜか不思議な魅力を持っていた。
これってなんだろうと振り返ると、それは映像美から来ているからではないか。
モノクロ画面の美しさは目を見張るものがあり、見ていて飽きが来ない。

東欧エストニアの、そこの神話に登場する「クラット」という使い魔、“すべてのものには霊が宿る”というアニミズムやキリスト教も絡んでの、村の娘と若者、それに男爵の娘のお話。
最高とは言わないけれど、貴重なものを観たという満足感も味わった作品だった。
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『はちどり』を観て

2022年10月18日 | 2010年代映画(外国)
『はちどり』(キム・ボラ監督、2018年)を観た。

1994年、ソウル。
家族と集合団地で暮らす14歳のウニは、学校に馴染めず、 別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごしていた。
両親は小さな店を必死に切り盛りし、 子供達の心の動きと向き合う余裕がない。
ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。

ある日、通っていた漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。
ウニは、 自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに次第に心を開いていく。
ヨンジは、 ウニにとって初めて自分の人生を気にかけてくれる大人だった。
ある朝、ソンス大橋崩落の知らせが入る。
それは、いつも姉が乗るバスが橋を通過する時間帯だった。
ほどなくして、ウニのもとにヨンジから一通の手紙と小包が届く・・・
(公式サイトより)

ウニの家族の描かれ方を見ていると、1990年代の韓国はまだ相当に家父長制となっているようで、
支配的な父親が、家族に対する抑圧は多少緩やかになっていたとしても、母親や兄・姉、そしてウニは当然逆らえない。
そんな父は、いずれ兄デフンにはソウル大学に入学をと期待する。
中学2年生のウニは勉強が好きでなく、兄からは殴られたりして、バラバラな感じの家庭の中で居場所が定まらない。
ウニの心は揺れ動き、ボーイフレンドのジワンと一緒にいるのは心地良いが、
それでも、親友ジスクと万引きに手を染めて店主に捕まり、連絡を受けた父親は警察に引き渡してもらってもいいと言う。

そんな少女ウニの心の満たされない日常の中にあって、ジスクと二人で通う塾の新しい先生ヨンジに出会い、
内に秘めた感じのヨンジになぜか徐々に親しみを覚え、自分の拠りどころとなっていく。
そればかりか、後輩の少女ユリからは恋愛の感情に似た憧れの思いの熱意で慕われたりもしていく。

しかし、それもこれも壊れたり再生したり、そしてまた崩れ去って行ったりして、揺れ動く心のウニは、
先生ヨンジの悲しい出来事とも相まって、これからも続いていく日々の中で少しずつ成長していくのではと予感する。
その中心点にあるのは、多少ギクシャクしながらもやはり家族の愛と絆の結びつきと想像する。

一人の少女をこのように中心に据え、ドラマぽくなくリアルで繊細な心の綾を紡ぎ出す演出を、
第一作目の作品として監督するキム・ボラという人の今後に恐ろしさも感じ、心に沁みるこれ程の傑作は久し振りと感心した。
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『映画はアリスから始まった』を観て

2022年07月28日 | 2010年代映画(外国)
『映画はアリスから始まった』(パメラ・B・グリーン監督、2018年)を観てきた。

ハリウッドの映画製作システムの原型を作った世界初の女性映画監督アリス・ギイの生涯に迫るドキュメンタリー。
世界初の劇映画「キャベツ畑の妖精」など監督・脚本家・プロデューサーとして1000以上もの作品を手がけ、
クローズアップ、特殊効果、カラー映画、音の同期といった現在の標準的な映画製作技法を数多く生み出したアリス・ギイ。
リュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスと並ぶ映画黎明期のパイオニアでありながら、これまで映画史から忘れ去られてきた。
ベン・キングズレー、ジュリー・デルピー、アニエス・バルダ、マーティン・スコセッシといった映画人や、生前のアリス自身へのインタビューや、
彼女の親族へのインタビュー、未編集映像などを通し、その功績と人生をひも解いていく。
(映画.comより)

1873年パリ郊外に生まれたアリス・ギイは、1894年21歳の時、パリ写真機材会社のゴーモン社に秘書として入社する。
翌年、リュミエール兄弟が映画装置シネマトグラフを発明した年に、アリスも映画製作を始めている。
次の年、ゴーモン社の初代撮影所長となって『キャベツ畑の妖精』を作り、以後1920年まで1000本以上の作品を手掛ける。
(ただ当時の長さは、『キャベツ畑の妖精』でも1分程だったりするが)

その間、1907年にハーバート・ブラシェと結婚して、ゴーモン社ニューヨーク支店長となった夫と共にアメリカに渡り、
1910年には夫と映画会社ソラックス社を設立し活躍する。
だが、1922年には夫と離婚し、アリスは2児を連れてフランスに帰国。
それ以後、映画関係の仕事を探しても職は見つからなかった。

映画の黎明期に重要な人物だったアリスがどうしてその後、知られないままになったのか、という疑問を抱かえた監督のパメラ・B・グリーンは、
アリスの成し遂げたことを掘り起こすだけではなく、忘れ去られてしまった原因を探ろうとする。

事実、この作品の中でインタビューを受ける著名な映画関係者たちは、ほとんどがアリス・ギイの名を知らない。
映画創生期以来、実際は非常に沢山の女性たちが活躍していたというのに、時代は男性中心主義を作り女性を無視してきた。
例えば、アリスが作成した作品が他の男性監督の名にすり替えられたりした事は、アリスの1964年等のインタビューによっても判別できる。
つまり、歴史を通じて、女性の権利が影に押しやられてきたことをパメラ・B・グリーンは見据え、そのことを浮き彫りにする。
だから意識してナレーションには、ジョディ・フォスターに依頼したりしている。

この作品を観るまで、映画の初期段階でのリュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスについては多少知っていても、このような名も知らない人物、アリスが実際にいたとは。
そして、そのアリスのことに情熱を持ってドキュメンタリーを作る人がいるということに驚かざるを得ない。
ただ作品として少し残念なのは、テンポがやや速く流れ、じっくりと納得しながら鑑賞できなかったことか。
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『天国にちがいない』を観て

2022年07月06日 | 2010年代映画(外国)
『天国にちがいない』(エリア・スレイマン監督、2019年)を観た。

スレイマン監督は新作映画の企画を売り込むため、故郷であるイスラエルのナザレからパリ、ニューヨークへと旅に出る。
パリではおしゃれな人々やルーブル美術館、ビクトール広場、ノートルダム聖堂などの美しい街並みに見ほれ、
ニューヨークでは映画学校やアラブ・フォーラムに登壇者として招かれる。
友人である俳優ガエル・ガルシア・ベルナルの紹介で映画会社のプロデューサーと知り合うが、新作映画の企画は断られてしまう。
行く先々で故郷とは全く違う世界を目の当たりにするスレイマン監督・・・
(映画.comより)

まず登場人物の主役は、スレイマン監督本人であるということ。
その本人である人物が、ナザレの自宅、パリ、ニューヨークの町並みの中で、景色を見、そこの人々を見、多少の関わりらしきものを持つ。
だが、それにまつわる一切の物語の説明は無し、と言うか、そもそも物語がない。
そこにあるのは、スレイマンが対象として見る風景や、人物の奇妙な動きに支えられた現実場面。
だから、次にスレイマンはどのように行動し、それがどのような行く末になるのかは未知である。
そのわからなさが映像として興味を倍加する。

観ていて自然と、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)、『プレイタイム』(1967年)の記憶がよぎる。
なぜかコミカルであって、サイレント映画に近い視覚的ユーモアも似ていて、そこが非常に面白い。
もっとも、ストーリーを求める人が観れば訳が分からないとなり、最低ランクの作品評価となる可能性もある。
でも、映像主体で映画を観る者からすると、これ程面白く興味深い作品は珍しい、と言うのが感想だった。
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『エール!』を観て

2022年05月01日 | 2010年代映画(外国)
『エール!』(エリック・ラルティゴ監督、2014年)を観た。

フランスの田舎町で酪農を営むベリエ家。
16歳の高校生ポーラの家族は、両親のルドルフとジジ、そして弟が聾唖者である。
家畜を育ててチーズの販売で生計を立てる家族にとっては、ポーラは健常者との通訳、仲立ちとして必要だった。

ポーラは、気に入る男生徒ガブリエルがコーラス部を希望したため、自分もオーディションを受け入部する。
ポーラの歌声に才能を感じる音楽教師トマソンは、ある日、パリにある音楽学校のオーディションを彼女に勧める。
ポーラは家族のことも考え内緒で、3ヶ月後のオーディションに向け歌の練習をトマソンの自宅で始めた。

その頃、近く行われる村長選に父ルドルフが立候補すると言いだして家族は大忙しとなる。
そんな中、ポーラは両親に歌のことを打ち明ける。
ポーラの歌声を聴くことのできない家族は、彼女の才能を信じることができず、
もし受かってパリに行ってしまったら自分たちはどうすればと不安になり大反対する・・・

1ヶ月ほど前に『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督、2021年)を観て、その元となる作品『エール!』を是非観てみたいと思っていた。
観た結果、比較すると、親の職業が漁業と酪農の違い、細かいところでは家族が兄と弟の違い、
また、この作品では父親が村長選に立候補しようとするとかの目に見えた違いはあるけれど、後はほぼ同じ流れ。

本来は『コーダ あいのうた』がリメイク作品なので、この『エール!』から見て『コーダ』の方を感想対象にしなければいけないが、
所詮、観るタイミングが逆になってしまったので以下のような比較印象となってしまう。
『コーダ』は実生活感がリアルに出ていて共鳴するところが非常に多かったが、こちらの『エール!』は生活臭がなぜか薄く、その分全体的にスッキリしていて雰囲気も明るい。
これは良い悪いの問題ではなく、そのような雰囲気が作品の特徴として現われているとしか言いようがない。
だから、『コーダ』を観てしまった後でも、この『エール!』にも十分に感動してしまう。
それ程愛らしい作品であって、もし『コーダ』以前にこれを鑑賞していたならば、その感動は底知れなく倍加していたと確信する。
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『希望のかなた』を観て

2022年04月29日 | 2010年代映画(外国)
『希望のかなた』(アキ・カウリスマキ監督、2017年)を観た。

フィンランドの首都ヘルシンキ。
トルコからやってきた貨物船に身を隠していたカーリドは、この街に降り立ち難民申請をする。
彼はシリアの故郷アレッポで家族を失い、たったひとり生き残った妹ミリアムと生き別れになっていた。
彼女を探し出してフィンランドに呼び、慎ましいながら幸福な暮らしを送らせることがカーリドの願いだった。

一方、この街に住むヴィクストロムは酒浸りの妻に嫌気がさして家出し、全てを売り払った金をギャンブルにつぎ込んで運良く大金を手にした。
彼はその金で一軒のレストランを買い、新しい人生の糧としようとする。
そのレストランの三人の従業員たちは無愛想でやる気のない連中だったが、ヴィクストロムにはそれなりにいい職場を築けるように思えた。

その頃カーリドは、申請空しく入国管理局から強制送還されそうになり逃走し、出くわしたネオナチの男たちに襲われる。
ヴィクストロムのレストラン脇に潜んだカーリドは、いぶかるヴィクストロムと拳を交えるが、彼のレストランの従業員に雇われたばかりか、寝床や身分証までも与えられた。
商売繁盛ためにヴィクストロムは寿司屋事業にも手を出し失敗するが、それでもいつしか他の従業員たちもカーリドと深い絆で結ばれていった・・・
(Wikipediaを修正)

久し振りにアキ・カウリスマキの作品を観た。
難民問題の深刻な内容を相変わらずのとぼけた感じの味付けで、ついつい、知らず知らず作品に引き込まれてしまった。

現在のウクライナの問題といい、この映画の背景となっているのは現実の状況そのものである。
ただ、この作品を観て救われると思うのは、名もない市井の人たちの社会の片隅での善意の優しさが見てとれるから。
そして、このような優しさに共感できる人の輪が少しでも広がれば、本来、人と人ひいては国と国の争いは起きないはずなのに、と甘く夢想する。

理由をつけて他国に侵略するということ。
すべてはその国の指導者に責任があるはずだが、その指導者を支える国民がなければ出来ないはずである。
もっとも国民はそれ以前に、権力者から巧妙に言論を封じられていたり情報操作されていたりするから、否と言おうとしてもその時はもう遅かったりする。
だから物事についての判断は常に自分でするよう訓練しておかないと、いざと言う時に取り返しがつかない、と映画から派生して考えた。
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『スリー・ビルボード』を観て

2021年04月28日 | 2010年代映画(外国)
今回、『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督、2020年)でアカデミー賞主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが、
前回にも同賞を受賞している『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督、2017年)を前々から観たいと思っていて、この機会に観てみた。

ミズーリ州の田舎町エビング。
7か月前に何者かに娘を殺されたミルドレッドは、一向に進展しない捜査に腹を立て、
大通りに面した3枚の広告看板に、警察署長のウィロビーを批判するメッセージを掲げる。
人情味あふれるウィロビーを敬愛する町の人々はミルドレッドを敵視するようになり、
捜査を進展させようとしたはずが、孤立無援になっていく・・・
(MOVIE WALKER PRESS)

ティーンエイジャーの娘アンジェラがレイプされた上に焼殺された母親のミルドレッド。
犯人の手掛かりを掴めない警察に不信感を抱くミルドレッドは、事件を風化させたくないという思いもあって、殺害現場近くの道路脇に長い間放置され、
朽ち果てたままその存在すら忘れ去られていた3枚の巨大な看板に、新しく広告内容を掲げる。

ミルドレッドの犯人逮捕に執着する理由には、殺害された当日のアンジェラとのやり取りに対する自責の念がある。
それは、友人らと遊びに出かけるために車を貸して欲しいと頼むアンジェラに、その素行の悪さに悩ますミルドレッドが断ったこと。
そして、歩いて行けばいいという母親に、アンジェラは「暗い夜道でレイプされたらどうするの?」と反論し、つい「レイプされればいい」と応じてしまったこと。

ミルドレッドの犯人捜しについての執念、それに対する警察との軋轢、地元民からの偏見と冷たい仕打ち、それらが軸となって物語は進み、
犯人は見つかるだろうかとのサスペンス的要素に目が離せない。
しかし、その内容はミルドレッドの家庭崩壊や、警察署長ウィロビーの職務と自身の末期癌に対する思い、部下の差別主義者であるディクソン巡査とか、
その他諸々の人間関係、心情がみごとに映し出されて進行する。

意志の強い母親を演じるフランシス・マクドーマンド、偏見主義者ディクソンのサム・ロックウェルほか出演者の見事さには目を見張らされる。
そして、ほとほと感心させられるのは、観客がこうだろうと予想する筋書きを見事にずらしながら展開していく人間の内面ドラマの脚本。
その方法は余りにも凄すぎると唸るしかない。
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