ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『子供たちは見ている』を観て

2023年07月20日 | 戦前・戦中映画(外国)
『子供たちは見ている』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1943年)を、県図書館からDVDを借りてきて観た。

中流家庭のアンドレアとニーナは、息子プリコと共にローマ郊外のアパートに住んでいた。
家庭は一見幸福そうにみえたが、実はニーナにはロベルトという愛人がいた。

その日もニーナは、プリコと散歩がてら公園に行き、プリコが人形芝居などに夢中になっている間を利用してロベルトと密会した。
ニーナはそこで、ジェノヴァ行き列車で駆落ちしようとロベルトに迫られ、夜、アンドレアの留守を見計って家を出た。

プリコを残されて困ったアンドレアは、取りあえず洋裁店を経営しているニーナの姉の許にプリコをあずけ、翌日、田舎に住む自分の母のところへ連れて行った。
母は娘パオリーナにプリコの世話をいいつけたが、ある晩パオリーナが恋人と密会している時、それを垣間見たプリコは誤って彼女の頭上に植木鉢を落してしまい、
その結果、またアンドレアの許に戻されてしまった・・・
(映画.comより修正して一部抜粋)

その後、プリコが高熱を発したためかそれを知ったニーナは、再びプリコと夫の元に戻ってくる。
アンドレアはプリコのためにニーナとよりを戻し、三人の生活は平穏となってリゾート地へ海水浴に出かけた。
ところが、どこで知ったのかそこへロベルトが現われる。

ロベルトは再び執拗にニーナを口説く。
社用でアンドレアが先に帰ったのを利用し、ロベルトとニーナは束の間の逢瀬を楽しんだ。
それを見てしまうプリコ。
母親が自分から去って行くのではないかと考えるプリコは、ローマの父の元へ帰ろうと一人、鉄道線路をとぼとぼと歩きつづける。

まだその先は続くが、プリコが母親とロベルトの仲を目撃する場面は先の公園でもあり、要は大人の事情で、頼るべき親から見放される子供の状況が映し出される。
子供の視点から大人の世界ないし社会を見たデ・シーカの名作『靴みがき』(1946年)、『自転車泥棒』(1948年)の原点はこの作品からかなと、やや甘い出来としても納得できる内容だった。
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『キャット・ピープル』(1942年)を観て

2022年10月09日 | 戦前・戦中映画(外国)
『キャット・ピープル』(ジャック・ターナー監督、1942年)を観た。

ニューヨークのセントラル・パーク動物園。
セルビア出身でイラストレーターのイレーナが黒ヒョウをスケッチしながらクズを出したところ、通りがかった船舶設計師のオリバーが拾う。
イレーナは、快活なオリバーに心を許し、家まで送ってくれた彼にお茶を振る舞う。
その後、二人はお互い恋愛感情を抱き、やがて結婚にたどり着いたが、イレーナには秘かな悩みがあった。

彼女の生まれたセルビアの小さな村は、昔から呪われた魔女の村として、嫉妬や欲望を持つ者はヒョウに変身すると言われていた。
イレーナの父は森で不審な死に方をし、それが元で母親は猫女と罵られていた。
そのためにイレーナはいじめのトラウマを持っていた。

オリバーとイレーナは、結婚してからも寝室は別々のままであった。
イレーナからすると、本心から恋に落ちキスでもしようものなら邪悪な心が芽生えて、相手のオリバーを殺しかねないとの警戒からだった。
そんなイレーナを見かねてオリバーは、精神科医ジャドのカウンセリングを受けるように勧める。
ジャドは、イレーナの症状からみて、これは幼少期のトラウマからくる妄想だと診断する。

イレーナのことを心配するオリバーは職場の同僚であるアリスに悩みを打ち明け、この親身な話を契機に、二人は互いに友情以上のものを意識する。
そのような二人の関係に気づいたイレーナは、やがてアリスに付きまとうようになり・・・

ナスターシャ・キンスキー主演の『キャット・ピープル』(ポール・シュレイダー監督、1982年)を観て、もう40年も経つ。
あの作品では、ナスターシャ・キンスキーが黒ヒョウに変身していく様が印象深く残っている。
その元作品である1942年版を一度観てみたいとかねがね思っていて、今回やっと観た。

この作品は当時B級作品として作られ、上映時間もわずか73分足らずである。
しかし、出来は丁寧であり、シモーヌ・シモン扮するイレーナの愛することへの不安感、“猫族の血筋”に対するジレンマが素直に伝わってくる。
そしてホラーとしてのおどおどろしさは微塵もなく、イレーナはひょっとしたら黒ヒョウなんかではなく、これは単なる本人の妄想かなとの思いも想定させるようにも作ってあり、
その辺りの手腕が優れていて、今でも通用する作品であると感心した。
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『ヘンリー八世の私生活』を観て

2022年02月23日 | 戦前・戦中映画(外国)
『ヘンリー八世の私生活』(アレクサンダー・コルダ監督、1933年)をDVDで観た。

イングランド国王ヘンリー8世は、二番目の王妃アン・ブリンを不義密通の罪で処刑台に送る手筈を整えた。
ヘンリーは、この王妃が亡くなれば自分は独身として、すぐにでも侍女のジェーン・シーモアとの結婚ができると計算していた。

1536年。
晴れて、王妃となったジェーン・シーモアだったが、翌年、彼女は王子を産んでまもなく産褥死する。
政治戦略もあり、側近クロムウェルはヘンリー8世にドイツ・クリーヴス公爵の娘アン・オブ・クレーヴズを娶るよう勧める。
アンの肖像画で気に入り、結婚を決めたヘンリー8世だったが、実際のアンを見たヘンリーはひどく失望し、すぐに離婚する。

元々、ヘンリー8世は二番目の王妃アン・ブリンの従妹で侍女であったキャサリン・ハワードが気に入っていた。
キャサリンと晴れて結婚できたヘンリー8世だったが、1542年、キャサリンと廷臣トーマスの密会を枢密院から報告受け、ショックで泣き崩れる。
そして、キャサリンとトーマスは処刑される・・・

まず王妃を整理しておくと、
第一王妃 キャサリン・オブ・アラゴン:離婚(兄の未亡人、アンと結婚するために無理やり離婚)
第二王妃 アン・ブリン       :刑死(不義密通の嫌疑で斬首)
第三王妃 ジェーン・シーモア    :出産後死亡
第四王妃 アン・オブ・クレーヴズ  :離婚(見合い用肖像画ほど美しくなく、騙されたと離婚)
第五王妃 キャサリン・ハワード   :刑死(不義密通で斬首)
第六王妃 キャサリン・パー     :晩年のヘンリー8世を支える。

映画は、第一王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女で第二王妃アン・ブリンの処刑風景から始まる。
そして物語は、ヘンリー8世の当時の政治的内容、例えば、キャサリンと離婚するために離婚を禁じるカトリック教会と断絶し、
新しい法を作って自らイングランド国教会の長になって離婚を合法化するなどの事柄は綺麗に割愛されていて、次々と王妃を娶る私的な事情を映し出していく。
そこにあるのは、想いを寄せるトーマスよりは野心の方が勝るキャサリン・ハワードや、
クリーヴス公に赴いた王の使者ペイネルが、アン・オブ・クレーヴズとねんごろになってしまい、
彼女が第四王妃になった暁には、離婚の見返りとして領地と年金、そしてペイネルを執事にすることを王から承諾させたりの顛末である。

ヘンリー8世を演じるのは、この作品でアカデミー賞男優賞を得るチャールズ・ロートン。
本来、もっと横暴だったのではないかと思われるヘンリー8世を、ユニークなユーモアとウイットで包む親しみやすい人物にしている。
そのことが全体の雰囲気を醸し出して、これが90年近く前の作品だということも忘れて拍手喝采をしたくなる。

この作品の中で、印象に残るのが第四王妃アン・オブ・クレーヴズ役のエルザ・ランチェスター。
独特な雰囲気のあるエルザ・ランチェスターは、この作品の主役チャールズ・ロートンの奥さん。
一目見て、彼女の出演作『フランケンシュタインの花嫁』(ジェームズ・ホエール監督、1935年)が蘇ってきた。それ程、印象深い人。

それと、ヘンリー8世と言えば思い出すのが、フレッド・ジンネマン監督の『わが命つきるとも』(1966年)。
王は王妃キャサリンとの離婚を、ローマ法王の承認を得ようとトーマス・モアに依頼するが、モアはこれを拒絶する。
そして最後に、モアは自らの信念を信じて処刑に臨み、斬首される。
この格調高い作品に感銘を受けたことを、今回を契機に久し振りに思い出した。
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・19〜『肉体と幻想』

2019年08月24日 | 戦前・戦中映画(外国)
『肉体と幻想』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1943年)を観た。

夢と占いによる心理的現象が肉体に及ぼす影響について、二人の男の会話によって3つのエピソードが語られる。

第1話。謝肉祭の日。
ヘンリエッタは、自分が醜いために悲観して自殺しようとする。
そこへ、老人が「奇跡の光が君を照らすかも知れない」と、ヘンリエッタを思い止めさせる。
深夜までの約束で、老人の店から美人の仮面を借りたヘンリエッタは、それを着け謝肉祭の会場に行く。
街中ではヘンリエッタを無視していたマイケルが、美人の仮面の彼女に恋をし・・・

老人から、代償を求めない愛を教えられたヘンリエッタ。
謝肉祭が終わった深夜、マイケルの前で仮面を外した彼女は、自分でも信じられない程の美人となっていて、それまでの身勝手さと妬みから開放される。

仮面を付ける前のヘンリエッタと、仮面を取ったヘンリエッタを同一のベティ・フィールドが演じているとは、とても信じられない程の容姿。
それ程みごとな変身劇になっていて、そのことだけでも目を見張る出来栄え。

第2話。
占い師ポジャースが社交場の人たちを占うと、事実と一致してよく当たる。
弁護士のタイラーは、胡散臭く思いながらも手相を見てもらうと、ポジャースは話すのをためらう。
翌日、気になるタイラーは大金を出すからと言って、何があるのかを聞き出す。
そこには、思いもよらない“殺人者”の相が出ていると言う・・・

タイラーは強迫観念に駆られ出す。
自分は誰を殺すことになるのか、そんなことがありえるのか。
その苦しみから逃れようと、老婦人ハードウィックを毒殺しようとする。

そのハードウィックは死ぬが、実は、発作時に飲む薬と言って渡した毒物を飲んでいなかった。
次に狙った司祭長は、いざという時に見破られてしまう。
思い悩むタイラーが霧深い橋に来ると、偶然ポジャースと出くわす。
現在の相を知ろうと迫るタイラーは、無我夢中でポジャースの首を絞めて橋から投げ落としてしまう。

占い師ポジャースがトーマス・ミッチェルで、弁護士タイラーはエドワード・G・ロビンソン。
この両者の演技力が凄い。
特にエドワード・G・ロビンソンの鬼気迫ってくる表情は何とも言えない。

第3話。
サーカスの綱渡りのガスパーは、出番が始まる前の休憩時間に夢を見る。
ガスパーはロープから転落し、それを見ていた観客の中の女性が叫び声を上げる、という内容。
夢が気になるガスパーは、20メートルの高さのロープから3メートル下のロープへ跳ぶことが出来ず、失敗する。

翌日、ロンドンからニューヨークへ移動するために乗った船で、ガスパーはある女性と出会う。
その女性、ジョーン・スタンレーは夢の中で叫び声を上げたその人であった・・・

ガスパーはジョーンを運命の女性と感じ、いろいろと積極的に振る舞う。
しかしジョーンは、常に距離を置き、自分のことを詮索しないでほしいと態度で表す。
だから二人のことは、ニューヨークで下船したらお終いと、彼女はガスパーに言う。
ガスパーは、下船してジョーンが捕まる、不吉な夢を見る。

ニューヨークに着いて、ガスパーはジョーンに、サーカスの綱渡りを見に来るように頼む。
綱渡りは成功し、自信を取り戻したガスパーの楽屋を訪ねて行くジョーンに、刑事が近づいて来る。
実は、ジョーン自らが警察に連絡していた。
ジョーンは言う、ガスパーと出会って、今が人生で最高の夢を見ている、と。

素敵な話であって、そればかりか、主人公をシャルル・ボワイエが演じているために、いやが上にも絵になってくる。
もっとも3話とも甲乙付けがたく、優れた内容となっていて多いに満足した。

ラストの二人の男の会話からすると、夢とか占いは気にするな、迷信に過ぎない、がやはりどこか多少は気になるということか。

最後に、女優が美しくてウットリする程なので名前をあげておきたい。
第1話。ベティ・フィールド
第2話。アンナ・リー
第3話。バーバラ・スタンウィック
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・18〜『リディアと四人の恋人』

2019年08月18日 | 戦前・戦中映画(外国)
『リディアと四人の恋人』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1941年)を観た。

障害児孤児院を設立したリディア・マクミランを讃えるラジオ放送を聴いていたマイケルは、
リディアを訪ねて行き、再会を喜ぶ彼女に水曜日に来てくれるよう申し出る。

リディアがマイケルの家を訪ねると、そこにはナイトクラブの支配人のボブ、盲目の音楽家フランクもいた。
マイケルは、あと一人リチャードにも声を掛けてあると言う。

この男性4人は40年前、それぞれがリディアを愛していた相手だった。
リディアは、ここにいる3人が愛してくれているのを知っていながら、なぜ結婚しなかったのか。
そして、今現在もなぜ独身なのか・・・

回想が始まる。
ボストンの名家の娘リディアは祖母に育てられている。
リディアは、執事の息子で医者になっているマイケルと、初めての舞踏会に行く。
その舞踏会で、フットボール選手のボブと知り合い、恋して駆落ちまでするが、彼の酔態に幻滅を感じ家に逃げ帰る。
失意の底にいるリディアをマイケルは愛しているが、彼女の方は兄妹愛のような気持ちから進まない。

マイケルが海兵隊員としてキューバへ出征する。
船を見送るリディアは、そこに乗船しているリチャードを目にする。
そして、岸壁で知り合った盲目の少年ジョニーに感化されたリディアは、“盲目の子供の家”を設立することにする。
その家に、盲目のピアニスト、フランクが訪ねてきて協力を申出る。
フランクは、目がある程度見える子からリディアの容姿を聞き、彼女に恋していく。

マイケルが出征から帰って来、リディアは彼と舞踏会へ行く。
その会場にリチャードも現れ、リディアは彼に夢中になる。

船乗りであるリチャードとリディアの甘い生活。
リディアはリチャードに全身全霊を掛けて愛するが、ある日、船で出掛けた彼は帰って来ない。

回想している現在。
そのリチャードが最後にやっとみんなの前に現れて、その結末が最大のクライマックス。

この作品は、第二次世界大戦のためにデュヴィヴィエがアメリカに渡って作製された第一作目。
そして内容は、自身の『舞踏会の手帖』(1937年)に近い雰囲気となっている。
だから、二番煎じではないかとの印象が刻まれ、悪く言えば、ハリウッドに対してお茶を濁している感じを受ける。
それでも、恋愛をロマンチックに夢見る人には、これは格好の題材の映画かもしれない。
とは言いながら、やはり勝手知ったフランスと異国の地アメリカでの戸惑いをデュヴィヴィエは微妙に感じているのでは、と想像できる作品だった。
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・17〜『運命の饗宴』

2019年08月12日 | 戦前・戦中映画(外国)
デュヴィヴィエがアメリカに渡り、ハリウッドで監督した第二作目作品、『運命の饗宴』(1942年)を観た。

燕尾服。この服が、奇妙な因縁から持ち主が変わって渡り歩いていく。
その運命を6つのエピソードに描いたオムニバス映画である。

第1話。人気舞台俳優は、新調した燕尾服を着て舞台を成功させ、その足で元恋人の屋敷に走る。
結婚している彼女は、彼と駆落ちすることをやっと承諾するが、そこへ夫が現れ、猟銃をもてあそんで俳優を射ってしまう。
動揺する夫婦に、俳優は立ち上がり「芝居ですよ」と立ち去るが、車の中で倒れる。

第2話。男は、結婚に燕尾服が必要で、それを手に入れる。
ところがその服にはラブレターが入っていて、婚約者が読んでしまう。
男は親友に応援を頼み、燕尾服を昨晩取り違えたと言わせる。
だが、婚約者は親友の方に興味が行ってしまい、とうとう二人は相思相愛となり、その場から立ち去る。

第3話。貧しい作曲家の妻が燕尾服を手に入れる。
大柄の夫は、苦労の末、やっと大指揮者に認められる。
演奏会で自身の曲を指揮していると、燕尾服が小さすぎ破れてしまう。
観客に大笑いされながらも演奏していると、最後には観客も自分たちの燕尾服を脱ぎ出す。

第4話。作曲家の妻は破れた燕尾服を縫って、貧民街にある慈善ホームの経営者の妻に与えた。
経営者は郵便物の中に、ホームの失業者あての大学同窓会の招待状があり、その失業者に知らせる。
失業者は例の燕尾服を来て出席したが、席上、ほかの者の財布が紛失し、みんなが燕尾服を脱いで証明するはめになる。
疑われた失業者は、友情の薄情さを皮肉り立ち去る。
紛失したはずの財布は、後で運転手によって届けられ、一人の親友が失業者のホームを訪ねる。
親友は失業者の男に仕事を頼みたいと申し出る。

第5話。二人組の泥棒が、古着屋に売られた燕尾服を盗む。
燕尾服を着た泥棒は、カジノに行き大金を強奪する。
しかし、逃げる飛行機のトラブルで、大金を入れたままのの燕尾服は空から投げ捨てられる。

第6話。燕尾服が貧しい黒人の村に墜ちる。
拾った夫婦は、思案に暮れて司祭に相談する。
司祭は、天からの神様の贈物だとして、集落の人々に希望する額を与える。
そして残りの金額で、教会と病院が建てられることになった。
燕尾服は、欲のない老人の希望で案山子の服となった。

十代に観たこの作品は、1話から5話までのエピソードをすっかり忘れていて、それでもラストの6話には、凄く感動した記憶が残っている。
ところが、今回観てみると、何か甘い話で繋いであるなと感じ、左程期待どおりでなかったのが残念であった。
特に4話の、服の袖が破れているのを観客が大笑いし、作曲家は戸惑いながら指揮をする所。
それが後に、観客も服を脱ぎ一体感を示す。
こんな偽善的なシーンを見せられると、吐き気を催したくなってくる。
ラストの昔感動したエピソードも、あまりにも楽天的で全ての人が善人なのが、これも胡散臭く思える。
と言うことは、昔の自分はまだまだ善良であって、今は歳とともに随分とひねくれて来たという証拠か。

それにしても、キャストの豪華なのには目に見張る。
第1話のシャルル・ボワイエとリタ・ヘイワース。
第2話のヘンリー・フォンダとジンジャー・ロジャース。
第3話のチャールス・ロートン。
第4話のエドワード・G・ロビンソン
と、俳優自身には左程興味がない私でも、これは凄いメンバーだと感心する。
だから、俳優目当てなら申し分ない作品と言える。
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ガルボの『アンナ・カレニナ』

2019年04月18日 | 戦前・戦中映画(外国)
1935年版の『アンナ・カレニナ』(クラレンス・ブラウン監督)を観た。
主演はグレタ・ガルボ。

カレーニン夫妻には愛児セルゲイがいるが、アンナと夫の仲は冷めていた。
ある時、モスクワの兄の家を訪れたアンナは、ヴロンスキー伯爵という若い士官と知り合いになる。
二人はお互いに心惹かれる思いを抑えきれなかった。
兄夫婦の家庭不和を取りなしたアンナは、ペテルベルグの我が家に向かう。
その彼女が乗り込んだ汽車に、追いかけてきたヴロンスキーも乗っていた。

それからペテルベルグでの恋の日々が始まった。
クロッケー・ゲームとか、二人はいつも一緒で何かと人の目を引いた。
ある日、障害レースにヴロンスキーが出場し、落馬する。
それを見て動揺するアンナに、夫は公衆の面前で恥をかかせたと怒る。
ヴロンスキーを愛していると打ち明けるアンナに対して、離婚はしない、もう二度と彼と会ってはならぬと、夫は言い渡す・・・
(映画.comより修正)

イタリアはベニスへの逃避行が始まる。
しかし、二人だけの愛の生活であっても、華やかな社交生活の望郷の念と愛児セルゲイの会いたさがアンナに忍ぶ。
そして、再びペテルブルグに戻る頃には、アンナに対するヴロンスキーの愛が冷め始めている。
と、前回観た“ヴィヴィアン・リー”版によく似た筋の流れで話は進んでいく。
ただし当然、こちらの作品が先ということを踏まえたうえで。

作り方としては、要領よくコンパクトにまとまっていて観やすい。
特に、アンナが子セルゲイに対する思いが強く表れているのがよくわかる。

それとラスト近くで、対トルコ戦に参戦するために旅立つヴロンスキーにアンナが、“戦争を言い訳にして私から逃げるつもりね”と放つ言葉。
「行かないで」と言うアンナの切実な思いに、返すヴロンスキーの「うんざりだ」の一言。
絶望に陥ったアンナが列車に身を投げる気持ちがよく出ていて納得する。
相手が縋る切ない思いでいるのに、自分もあれ程その相手を夢中になっていたのに、人はなんで、いずれは恋のほとぼりが冷めるのか、と考えさせられる。

それにしても、アンナがグレタ・ガルボいうのは多少違和感を感じる。
ガルボの印象は、どちらかと言うと知性が勝ち、恋に何もかも捨てて邁進するタイプとはほど遠いのじゃないかと思ったりする。
なんなら、ドリー(アンナの兄の妻)の妹キティを演じたモーリン・オサリヴァンをアンナにしたらいいのにな、と個人的に思う。
なにしろ、彼女は『類猿人ターザン』(1932年)等のヒロインで、ミア・ファローの母だからと、思い入れが続く。

そして、相手のヴロンスキー役のフレドリック・マーチが当時の有名な俳優としても、この作品に関しては、この彼にアンナは本当に芯から我を忘れるかな、と思ってしまう。
と、勝手なことを思いながらも素晴らしいのは、冒頭場面の宴会場面で食卓を舐めるようにいつまでも引いていくカメラワーク。
このような映像的なテクニックが当時に確立していることに驚いたりする。
と、いうことを思ったりする作品だった。
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ロベール・ブレッソン・1~『ブローニュの森の貴婦人たち』

2019年04月06日 | 戦前・戦中映画(外国)
『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督、1945年)を観た。

観劇帰りのタクシーの中、エレーヌは男友達から“恋人ジャンはもう愛が冷めている”と忠告されるが、
彼女は“私たちは愛しているわ”と答え、別れる。
しかし、部屋で待っていたジャンには、“愛が冷め、今の生活が苦痛なの”と話す。
するとジャンは、“自分も同じ気持ちで、それを言えずずっと悩み続けていた。お互いのために別れ、今後は友達でいよう”と去って行った。

愛しているのにジャンに裏切られたエレーヌは、復讐を計画する。

場末のキャバレーでアニエスの踊りを見たエレーヌは、帰りの彼女を家まで付けていく。
エレーヌの隣人だったアニエスの母は、以前は裕福だったが3年の間に落ちぶれ、踊り子のアニエスが娼婦まがいをして食いつないでいた。
そんな親子の状況を知って、エレーヌは経済的な面倒を申し出る。

アニエス達の住まいも替えさせたエレーヌは、親子をブローニュの森に誘い出す。
そして、ジャンもそこに連れだして偶然を装い、引き合わせる。
アニエスをひと目みたジャンは、エレーヌの思惑通り、気に入ってしまい・・・

その後、ジャンはアニエスとの出会いを求めて、彼女の家の入り口で帰りを待つ。
しかし、ジャンと会ったアニエスは、どこそことなく冷たい。

ジャンはエレーヌに相談する。
ジャンがアニエスに夢中なのを、冷静に聞くエレーヌ。
エレーヌを演じるマリア・カザレスの、感情を面に表さないがその内面に秘めた嫉妬心、怒りのようなものがじわりと滲みでて怖い。

エレーヌはやんわりと、徐々に自分の計画へとジャンとアニエスを誘導する。
そして、愛し合った二人の結婚式。
その幸福の絶頂の最中に、エレーヌはジャンに向かって、ささやきながらアニエスの過去を告げる。
純粋なはずの愛を絶望の中に落とすエレーヌ。
それは、自分を弄んだジャンへの仕返し。
ただラストでは、二人はそれにもめげずとなって・・・

このラストシーンが期待していたよりも、案外あっさりし過ぎていて、もう少し盛り上げてくれても良さそうと多少の不満も残る。
それでも、主な出演者がたったの4人だけなのに、飽きさせないで見せるブレッソンの初期の手腕は、後の作品を考えると興味が尽きない。
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マルセル・カルネ・10~『悪魔が夜来る』

2019年04月02日 | 戦前・戦中映画(外国)
古い記憶の中では観ているはずの、『悪魔が夜来る』(マルセル・カルネ監督、1942年)を観てみた。

1485年5月のフランス。
吟遊詩人の男ジルと女ドミニクが馬に乗って、丘にあるユーグ公の城にやって来る。
二人は、実は悪魔の使者で、人前では兄妹だと言っているが、夫婦の間柄であった。

丁度その時、城ではアンヌ姫と恋人ルノーの、婚約の祝宴が開かれていた。
悪魔の使者ジルとドミニクの目論見としては、アンヌとルノーの幸福を壊すことにある。
宴会でのダンスの最中、魔法を掛けたドミニクはルノーに近づき、愛の矛先を自分に向かせる。
片やジルも、アンヌをその気にさせたのはいいが、どうやら自分までが彼女に恋してしまい・・・

悪魔は、人の苦しみ、悲劇を愛する。
よって使者も、恋人同士の仲を裂き、その挙げ句に絶望させようと誘惑する。
冷静なドミニクは、ルノーを計画どおりまんまと自分に恋させる。
おまけに、ユーグ公までも夢中にさせる。
そのため、後にルノーとユーグ公が決闘する羽目になってしまって。

一方の使者であるジルの場合、自分もアンヌに夢中になってしまうために肝心の思惑が狂ってしまう。
だからついに、嵐の夜、業を煮やした悪魔がやって来て、ジルを牢に繋いでしまうよう仕向ける。
悪魔はジルに契約の不履行をなじるが、恋にどっぷり漬かっているジルとしては聞く耳を持たない。
ところが何のことはない、この悪魔までがアンヌに恋をしてしまうのである。
と、このような話になって、悪魔の思惑はドンドンややこしくなって行く。

何とも憎めない人達の、恋愛謳歌の世界。
観ていて、ユーモラスな感じと和みの心情が融和して、気持ちが自然とほだされて行く。
ジルとアンヌ。
悪魔によって石像に変えられてしまった恋人たち。
しかし、二人の心臓の鼓動は鳴りやまない。

永遠の愛。このラストシーンを見て、やはり遙か昔に観ていたと思い出させてくれた納得のいく作品だった。
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・15~『旅路の果て』

2019年03月23日 | 戦前・戦中映画(外国)
どれだけ経つのか、久し振りに『旅路の果て』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1939年)を観てみた。

南仏の「サン・ジャン・ラ・リビエール老人ホーム」では、元舞台俳優たちが大勢余生を送っている。
入所者のカブリサードは、自分を侮辱するマルニーにイタズラをしたりして厄介ごとを起こし、理事長から注意を受けたりする。

ある日このホームへ、直前までパリで公演し成功を収めていたサン=クレールがやって来る。
彼はカブリサード、マルニーとも旧知の仲であった。
このサン=クレールは、女性の注目の的となり浮き身をやつすのが自慢の種で生き甲斐でもある。
実は、マルニーの妻シモーヌもサン=クレールと関係し、そのために彼女は事故死している。
だから、かつて名優と謳われていたマルニーは、このことで挫折し引退してしまっていた・・・

サン=クレールの元恋人だったシャベールが彼に写真を見せて語りかける。
22年前の写真。
“写っている息子は死んだ。誰かに似ていないか”。
不思議そうな顔をするサン=クレールに、“あなたに”と。
しかし、サン=クレールはシャベールのことを覚えていない。
人生の核となっているシャベールの思い出と、一方では、何も残っていないその記憶。
そのサン=クレールは、カフェで働く17歳の少女ジャネットまでも惑わせる。

カブリサードの日の目をみない人生。
代役専門だったためにそのチャンスも訪れず、生涯一度も舞台に立てなかったカブリサード。
そのカブリサードが、人生最後に大舞台に立とうと足掻く、まさに悲劇的な行動が身につまされる。

サン=クレールによってもたらされたマルニーの苦悩も、余りにも深い。
片や、サン=クレールは今だ舞台で演じているかのような雰囲気の実生活。

人生の黄昏が色濃く流れるなかで、唯一救われるエピソードがある。
この老人ホームが経営難で閉鎖されようとする時の、長年連れ添ってきたが入籍していなかった老夫婦の結婚式。
その二人の姿が、人生のしみじみとした喜びを表す。

サン=クレール役のルイ・ジューヴェ。
カブリサード役のミシェル・シモン。
マルニー役のヴィクトル・フランサン。
これらの俳優による個性のぶつかり合い。その演技力。
それに、隙のない緻密な内容と、そこから醸される強烈な印象。
デュヴィヴィエ作品の中でも最高傑作の一つと言われるこの作品、やはり無条件で納得させられてしまった。
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