ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『裁かれるは善人のみ』を観て

2015年11月28日 | 2010年代映画(外国)
ミニ・シアターで『裁かれるは善人のみ』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、2014年)を観て来た。
『父、帰る』(2003年)を観た時、強烈な印象を受けていただけに、是非観たいと思っていた作品である。

舞台は、ロシア北部バレンツ海に面する荒涼とした小さな町。
自動車修理工のコーリャは、息子のロマと後妻リリアの三人で、入り江の古ぼけた家で慎ましく住んでいる。
祖父の代からの土地に彼は愛着を持っているが、市が不当な値で収用しようとしている。
それに対して、コーリャは訴訟を起こしている。
夜明け前、彼は友人であるモスクワの弁護士、ディーマを駅に迎えに行く。
市長の悪事の証拠を握ったディーマは、それを元に、事を有利に進めようとするが・・・・

コーリャの家庭は、以前から三人の関係が正三角形ではなく、微妙にバランスが崩れていびつな状態になっている。
息子ロマは、リリアに対して常に反抗している。
そのことにリリアは、対処の仕方が見つからない、と言うか、対応方法を諦めている。
コーリャは、ロマもリリアも愛している。しかし、二人の間を改善しようとはしない。

そこへ、市による土地収用問題が持ち上がって来ている。
市長は、私利私欲が絡んで策略を巡らす。
権力が、一市民の家庭にずかずかと土足で入り込んでくるのである。

そのことに、個人はどのようにしたら防御できるのか。
暗雲が立ち込める状況を、映像が風景によって見事に暗示する。
そして、神父が立派な説教をしても個人を救えない皮肉と、権力者と教会の関係。
また、善意を持って友人を庇ったつもりになっても、結果的に人を貶める可能性の危険。

家庭内の人間関係を絡めながら、コーリャ家は坂道を転げ落ちるように雪だるま式に崩壊していく。
映画は、これらを冷静な目でもって映し出す。
そして、これらのことは決してロシアだけの話でないことを教えてくれる。

大抵の映画の場合、最後にエンドクレジットが延々と流れ、味気なくてつまらない。
しかしこの映画では、劇場が明るくなる直前まで音楽に聞き惚れてしまう。
脚本、演出、俳優、映像など、どれをとってもケチをつけることができない第一級の作品であった。
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『朝の少女』を読んで

2015年11月22日 | 本(小説ほか)
ブックオフで、DVDの棚を覗いた後、何か気楽に読める本はないかと探してみた。
そしたら、薄っぺらな少年少女向けらしい『朝の少女』(マイケル・ドリス著・灰谷健次郎訳、新潮社)という文庫があった。

自然豊かな島に暮らす女の子は、夢想好きで誰よりも早起き。それで、朝の少女と呼ばれている。
夜が大好きな少年は、いつしか暗闇に変身できるようになり、眠る必要がなくなってしまった星の子。
対極的な姉弟は、両親の教えや大自然との対話を通して、少しずつ大人になっていく。
海や星や太陽に抱かれ、ふたりは幸せだった。運命の日がくるまで―――。
(裏表紙より)

仲がいいのに、少女が弟を鬱陶しがる気持ち。
幸せな家庭なのに、たまには一人っきりになっていたい弟。
父親も母親も二人に、静かに愛情を注ぎながら見守って。
わかるなあ、この感じ。私にも記憶があるような雰囲気で。
どこかの南の島で素朴に生活しながら、感情豊かな二人は今後、素直にのびやかに、そして健やかに成長していくんだな。

と、そこにエピローグとして「コロンブス」の日記が挿入される。

この本は、青少年向けを装いながら、まさしく大人に対しての読み物だった。
そして、文明人と思っている者が陥りやすい、驕りに対する鋭い批判書であった。
作者はアメリカ先住民の血を引いているという。
未開と一般的にいわれる国、地域、地方の人々に対して、我々は教化してやろう、文明に導いてあげて当然と思っていないか。
無意識に見下してはいないか。

私もそういう意識があるのかどうなのか、もう一度考えてみなければならない。
随分前に読んだ『コロンブス航海誌』(林屋永吉訳、岩波文庫)、
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(ラス・カサス著・染田秀藤訳、岩波文庫)、
そして『インカ帝国の滅亡』(マルモンテル著・湟野ゆり子訳、岩波文庫)を再度読み直さないと、と思う。
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『約束の地』を観て

2015年11月20日 | 2010年代映画(外国)
今年上映されたアルゼンチンの作品(8ヵ国合作)、『約束の地』(リサンドロ・アロンソ監督、2014年)をレンタル店で借りた。

時は1882年。
場所はアルゼンチン、チリにまたがるパタゴニア地域のどこかの海辺。そして荒野。
デンマーク人技師・ディネセン大尉は娘インゲを連れて、アルゼンチン政府軍による先住民の掃討作戦に参加している。
そしてこの父親は、一人娘を深く愛してやむことがない。
ある夜、インゲは心ひかれる若い兵士コルトと共に、野営地のテントからこっそりと立ち去ってしまう。
娘がいなくなったことを知ったディネセンは、他人の忠告も聞かず、夜明け前の荒野をひとり捜しに出て行く・・・・

不思議な魅力をもった映画である。
若い娘が一人、ブルーのドレスを着て兵士たちに混じっている。
それが風景にマッチして、なぜだろうと言う違和感がない。
リアルでありながら、不可解な設定も所々に出てくる。
例えば、広大な荒野で捜索しているディネセンが、娘が持っていた小さな兵隊の人形を見つける時の場面のように。
そして、このような不可解さが幻想的なラストに向かっての布石になっている。

この作品は見方によっては、風景のための映画と言えないだろうか。
四角い画面に、コントラストが高く鮮明な風景が映える。
それを、長回しのロングショットで映す。
シーンそのものが風景写真を見ているみたいで、いつまでも飽きることがない。
固定されたカメラによって映し出される風景の中の人物が、場面外に出ていく。そして、風景だけが残る。
その余韻が素晴らしい。

撮影監督が、『ル・アーヴルの靴みがき』(2011年)等のアキ・カウリスマキ監督作品のキャメラマン。
ああそうか、だからうまい映像なんだなと納得する。
そして、長回しの撮り方も『旅芸人の記録』(1975年)のテオ・アンゲロプロス監督を彷彿させて味わい深い。

観ていて、これは傑作だな、との予感が漂ってやまない。しかし、ラストをどう捉えたらいいのか。
冒頭、テロップで「"ハウハ"は、豊穣と幸福の地と言われ、多くの者がその地を目指した。だが、その楽園に辿り着いた者はいない」と出る。
ディネセンは失踪した娘インゲをあてどもなく捜し歩いているはずで、決して楽園を求めているわけではないのに。
作品の解釈は人それぞれだとしても、もう少し言わんとすることの方向性を示してくれてもいいのにと思う。
「人生を動かし、前進させるものは何か」
このラストは、荒野を彷徨うディネセンの幻想なのか、それともうがった見方をすれば、すべてがインゲの夢なのか。

製作者(兼主演、音楽)、監督、撮影者が一体となって、まれに見る印象深い作品になっていると感じた。
この監督名、リサンドロ・アロンソは記憶に留めておこうと思う。
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『シーヴァス』を観て

2015年11月19日 | 2010年代映画(外国)
トルコの新鋭監督の初長編ということで興味が湧き、『シーヴァス』(カアン・ミュジデジ監督、2014年)を観て来た。

トルコ東部のアナトリア地方の村に住む11歳の少年アスランは、舞台「白雪姫」の王子役を希望していた。
だが、王子役は村長の息子オスマンに決まり、彼が恋心を抱くアイシェが白雪姫役に。
ある日、村で闘犬が行われ、アスランは勝負に破れたボロボロの闘犬シーヴァスを助ける・・・・
(YAHOO!映画より)

少年と闘犬の関係を軸に描く壮絶なヒューマンドラマという謳い文句である。
しかし、冒頭の「白雪姫」の話はその後出て来ず、助けた闘犬の話が中心でヒューマンドラマらしいドラマもなかった。
要は内容に深みがないのである。

そもそも映像が良くない。
この映画のオフィシャルサイトを読むと、
「アナトリア地方の広大なロケーションをバックグラウンドに、これまでに見たことも感じたこともないような、研ぎ澄まされた映像美」と出ている。

果たして、本当にそうなのか。
手持ちカメラによる画面のブレはしょうがないだろうと思う。
『奇跡の海』(1996年)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)のラース・フォン・トリアー 監督がそうだから。
しかし、カメラの視点が少年を主体にしているから、他の大人はやたらと背中ばかりで、一向に表情がわからない。
最たる場面は、クライマックスのはずの闘犬シーンは、犬同士はほとんど映らずカメラが少年を追っているから迫力がない。
それと、全体を通してカメラが被写体に近づき過ぎて、人の頭が画面から切れたりして、スクリーンに対して上からの抑圧感を感じて重苦しい。
画像も決してきれいではないし。

これを「研ぎ澄まされた映像美」と宣伝するのである。
本当にそう思って書いているのだろうか。
だったら、映像美についてもっと勉強してもらわないといけない。
そう思っていないとしたら、映画に対する犯罪である。
宣伝文句がオーバーなのは昔からであるが、その宣伝を読んで期待しながら観ると、がっかりする場合がよくある。
それが繰り返されると、映画なんてつまらないと観客が離れて行き、映画人口そのもが衰退していく。
映画愛好家の一人として、そのことをもっと真剣に考えてほしいと思う。
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『狂ったバカンス』を観て

2015年11月15日 | 1960年代映画(外国)
先日観た『太陽の下の18才』(カミロ・マストロチンクエ監督、1962年)のカトリーヌ・スパークに興味を惹かれ、
レンタル店で『狂ったバカンス』(ルチアーノ・サルチェ監督、1962年)を借りた。

離婚している中年男のアントニオは、プレイボーイ気取りで女に目がない。
野外劇場の観覧を途中で恋人たちと出た彼は、その後ひとり車を走らせて寄宿学校にいる息子に会いに行く。
その途中、エンストした車の若者たちにガソリンを分けてやるが、今度は自分の車がガス欠。
ガソリン・スタンド兼食堂まで何とかたどり着いた時、無賃飲食の若者(先程の仲間の一人)を運悪く気絶させてしまう。
仕方なく彼を海岸の別荘まで送ったアントニオはそこを去ろうとするが、車が砂にはまって動かない。
そこへ、ドライな少女・フランチェスカ(カトリーヌ・スパーク)が話かけてきて・・・・

キュートで天真爛漫なカトリーヌ・スパーク。
小悪魔的な魅力にあふれていて可愛い。
中年男のおっさん、アントニオはよせばいいのに「今頃の若者は・・・」なんて言いながら、彼らから立ち去ろうとしない。
本来、ティーンエイジャーには相手にしてもらえるはずもなくって、金づるとしか見られていないのに。
彼を小馬鹿にしたりしてやりたい放題の若者たちに、自分も仲間うちの気になって付き合うアントニオ。
それもそのはず、徐々にフランチェスカに恋心を抱いてしまっているから。
フランチェスカの方は、おちょくっておっさんを弄んでいるだけなのに、彼は段々と夢中になっていく。
もうこうなると、どうしようもない。
こんな時、結末は大体わかっているはずなのに。
案の定ラスト近く、夏の終わりの海辺での出来事も消え去って、一人浜辺に残されてしまったアントニオ。
その侘しさ、切なさがうら悲しい。

一人きりのアントニオを見て、なぜか『道』(フェデリコ・フェリーニ監督、1954年)のラストが記憶から甦る。
海岸でザンパノ(アンソニー・クイン)が、絶望的な孤独感に打ちのめされ嗚咽を漏らすシーン。
それと、設定は違うけど『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、1930年)も。
老教授がキャバレーの踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)に恋をして、身を滅ぼしてしまうあの哀れさを。
それとも案外、『ロリータ』(スタンリー・キューブリック監督 、1962年)の方が心情としては近いかなと思う。

いずれにしても、思わぬ掘り出し物を見つけたような気にさせる作品だった。
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高校生のころ・6〜『太陽の下の18才』

2015年11月11日 | 1960年代映画(外国)
高校当時、レコードは貴重だったからほしい曲があっても、吟味を重ねた上でやっと一枚買うという状態だった。
だから、時が経ってから出る4曲入りコンパクト盤(シングルレコードの大きさの33回転数)が割安で、それをよく購入した。
そんな中の一枚に「思い出のイタリア映画集」があり、『太陽の下の18才(ツイストNo.9)』(唄・ジミー・フォンタナ)が入っている。

DVDレンタル店でタイトルをチェックしていたら、この『太陽の下の18才』(カミロ・マストロチンクエ監督、1962年)があった。
一度は観ておきたいと思いながら、当時から50年経ってしまった映画である。

若者三人(ニコラ、レロ、ナンニ)が船で、ナポリからイスキア島へバカンスにやって来る。
そして、島のカルロ、マッシモ兄弟たちのグループと合流。
彼らは短い休暇中に、女の子にアタックしアバンチュールを楽しもうとする。
レロはドイツ娘を射止めるためドイツ語を習おうとし、ナンニは島一番の美人をものにしようと彼女に接近する。
一方、予約したホテルでニコラが寝ていると、ニコル(カトリーヌ・スパーク)という女の子が部屋に入ってきた。
ニコラ・モリノとニコル・モリノの名が一字違いのため、ホテル側が同じ部屋を割り当ててしまったからである。
ニコルはニコラを追い出そうとするが、ニコラも自分の部屋だと主張して・・・・

美しい海をバックに、島で楽しむ若者の青春コメディ。
はち切れんばかりの太陽の下での話だから、もっとワクワクするような躍動感があってもよさそうだか、なぜか少し物足りない。
カトリーヌ・スパーク以外、青春真っ只中のピチピチしたギャルや青年が出て来ないせいだろうか。
物語りのエピソードも詰め込み過ぎで、もう少し省略すればすっきりするのになあと思う。
それでも、エンニオ・モリコーネの音楽が雰囲気を盛り立てたりして嬉しい。
特に、当時大ヒットしラジオからもよく流れた、ジャンニ・モランディの『サンライト・ツイスト(ゴーカート・ツイスト)』が懐かしい。
いい曲である。

(後に当時のメモを調べてみたら、この作品は高校3年の時に観ていた。しかし、観たという事も忘れてしまっていた)

下にYouTubeから『サンライト・ツイスト』を貼り付けてみた。
Go-Kart Twist / Gianni Marandi サンライト・ツイスト / ジャンニ・モランディ
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『ボーダレス』を観て

2015年11月05日 | 2010年代映画(外国)
名古屋のミニ・シアターで『ボーダレス』(アミルホセイン・アスガリ監督、2014年)を観てきた。

場所はイランの国境沿いの川。国境の向うはイラク。
立入禁止区域内に放置されている廃船に、少年は寝泊まりしている。
そこで釣った魚や自分で作った貝殻の首飾りを金に換えて、少年は静かな毎日を送っていた。
そこへある日、一人のイラク少年兵が突然闖入してきた。
少年兵もここに住もうとして、船の半分にロープを張る。
言葉が通じない二人は諍いを続けるが・・・・

この映画の感想を書こうとすれば、どうしてもネタバレ(この言葉は好きじゃないけど)に近い話になってしまう。

舞台はほぼ船内だけである。
少年はホームレスみたいだけど、防水腕時計もしていてそんなに貧しそうでもない。
何かそこが不思議な感じもする。イランだとそれが一般的ということか、私には実情がよくわからない。
片や突然現れた少年兵は着の身着のままに近い。内線イラクの現状の象徴か。

この二人の言語は、少年がペルシャ語、少年兵(実は少女)はアラビア語である。
だから、言葉が通じ合わない。そのため敵意が剥き出しになる。
言葉ではコミュニケーションが取れないが、それでも徐々に意思が通じ合うようになる。
とそこへ、少女に危害を加えようとする形でもう一人が現れる。アメリカ兵である。
映画もこの辺りから一気に緊張感が高まり、本来のテーマが透けて見えてくる。

三者三様の言語。
彼らは人間としての個人であるのに、国家を背負うことを強制させられる。
特に国境付近となると、そのことが顕著、あからさまになる。
イランとイラクの関係。イラクとアメリカの関係。アメリカとイランの関係。
いざという時、常に犠牲者は一般の人々である。
権力者は物事を大局的に見ようとし、個人の悲惨さを無視する。
そして、どこかの国の首相のように相手を敵対視しながら、形だけの対話のポーズを取る。
そうでなく、難しくとも相手と根気よくコミュニケーションを取る大切さ、必要性を、この映画は静かに訴える。

このアスガリ監督はこれが初の映画とのことだが、ベテランの域に達している映像作りが素晴らしい。
このように、傑作をたくさん輩出するイラン映画界の層の厚さにも感心させられる。

このような映画を、一人でも多くの人が観ることを私は願ってやまない。








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『女神は二度微笑む』を観て

2015年11月03日 | 2010年代映画(外国)
インド映画の『女神は二度微笑む』(スジョイ・ゴーシュ監督、2012年)をレンタル店で借りてきた。
インドと言えば、世界一の年間映画製作本数の国だが、観た作品はサタジット・レイ監督「オプー三部作」の『大地のうた』(1955年)と、
『ムトゥ 踊るマハラジャ』(K.S. ラヴィクマール監督、1995年)ぐらいしか記憶にない。だから、久しぶりに非常に興味深かった。

冒頭、地下鉄毒ガス事件が起きる。
そして、2年後。
ロンドンからコルカタにやって来た妊婦のヴィディヤは、行方不明になった夫アルナブを探すため、警察署を訪れ捜索願いを出す。
しかし、夫が宿泊していたはずのホテルも、勤務先の国立データセンターにもアルナブがいた形跡がない。
ヴィディヤは途方に暮れるが、やがてミラン・ダムジというアルナブに瓜二つの人物が存在することが判明する。
それを知った国家情報局のカーン警視も捜索に乗り出すが、なぜか協力者が殺害されていき・・・・

果たして、アルナブとミランは同一人物なのか、それともアルナブがミランに似ていたために事件に巻き込まれたのか。
失踪した夫を探すヴィディヤと、それを手助けする警官ラナを軸に、物語りはメリハリがきいてテンポよく進む。
こちらも、夫に何が起こったのか、地下鉄毒ガス事件との関係はと、あれこれ推測しながら観るので飽きが来ない。
そして、結末の意外性。

しかし、ヴィディヤ役のヴィディヤー・バーランが、インドのトップ女優と言われる割には、
夫が失踪しているにも関わらず、余り深刻そうでもなく、役者としてイマイチだなと感じた。
が、観終わって、成程このようなオチだったのか、じゃ、この女優の評価も訂正しなければいけないなと納得した。

シナリオと小気味よい映像が相まって、よくできた作品だった。
地下鉄毒ガス事件が出てくるので、地下鉄サリン事件のように社会的背景があるのかなと思いきや、
そういう内容は一切なく、正しくエンターテインメントなサスペンス・ドラマだった。
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『ラムの大通り』を観て

2015年11月02日 | 1970年代映画(外国)
よく行くホームセンターには、廉価版DVDのワゴンが片隅にひっそりと置いてある。
そして行く度に、どんな作品があるか一応チェックしたりする。
そしたら今回、その中に懐かしい題名があった。『ラムの大通り』(ロベール・アンリコ監督、1971年)。
主演がリノ・ヴァンチュラで、相方がB・B(ブリジット・バルドー)である。
おまけに監督が『冒険者たち』(1967年)、『追想』(1975年)のロベール・アンリコとくれば買わない手はない。

時は、アメリカで禁酒法が施行されていた1920年代で、舞台はカリブ海。
密輸船船長のコロニー(リノ・ヴァンチュラ)は酒の密輸を行っていたが、アメリカ沿岸警備艇に発見されて銃撃を受け、船も沈没。
海岸に漂着し一命を取りとめた彼は、その後、“めくら撃ち”という賭けに挑戦する。
それは、暗闇の中で拳銃で撃たれて、生きていれば賭け金が貰えるという方法である。
コロニーは傷を負いながらも、これを10回ほど行って大金を手にし、また船を買う。
そしてある日、スコールの為たまたま入った映画館で、銀幕に映し出される野性的な美女に一目ぼれをしてしまう。
映画の中のこの女優リンダ(B・バルドー)に夢中になっていたら、偶然にも海辺で水浴びをしている本物のリンダに出会う。
その晩、コロニーの許にリンダからパーティーへの誘いの電話があり、それ以来、二人は愛し合うようになって・・・・

『ラムの大通り』って、パリの大通りの名でそこを舞台にした作品かなと、ずっと勝手に思っていた。
そしたら、カリブ海からアメリカにラム酒が密輸される経路のことだったので、へぇ、そうかと納得。

内容は恋愛コメディである。
リノ・ヴァンチュラがバルドーに夢中になる様がユーモラスで面白い。
特に後半、恋敵のイギリス貴族が現れて、決闘を仕掛けられる辺りからは笑ってしまう。
彼がアラン・ドロンと共演した『冒険者たち』もすごく良かったが、真面目にとぼけた感じのこの作品もいい。
そして、B・バルドーの天真爛漫さが何とも言えず、観ていて楽しくってしょうがない。
おまけに、歌まで歌ってくれたりするからうっとりとさせられる。
でも、スタイルは抜群だが、往年のセクシー女優と言われるほど美人とは思わなかった。
私の見る目が、年とともに変わってきたかなと考えてしまう。
このB・バルドーで思い出すのは、『ビバ!マリア』(ルイ・マル監督、1965年)。
共演したジャンヌ・モローと舞台で歌を歌うシーンもあったりして、とてもいい映画だった。

いずれにしても、とっても楽しい映画を観て心も和んだ。
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