ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『私が、生きる肌』を観て

2016年07月27日 | 2010年代映画(外国)
久し振りにスペイン、ペドロ・アルモドバル監督の作品をDVDで観た。題名は『私が、生きる肌』(2011年)。

2012年。スペインのトレド。
世界的な形成外科医ロベル・レガルは、初老の家政婦マリリアと共に大邸宅で暮らしている。
そしてそこには、ロベルの妻ガルと瓜ふたつの若い女性、ベラが軟禁されている。

実は、ガルは12年前に、交通事故で全身火傷を負い、その後、非業の死を遂げている。
そして、6年前。ロベルは自らの開発した人工皮膚を使い、この邸宅でベラを、秘かにガルに似せた姿に作り変えていた。

ベラは屋敷から脱出するためにロベルを誘惑するが、彼はベラに惹かれながらも誘惑を拒んで・・・・

この映画は、ロベルが娘ノルマの為に行う復讐劇と併せて、妻ガルに似せたベラに対する愛を描いている。
アルモドバル特有の一風変わった内容が、それ以前の秀作群と同じように興味深くて面白く、
その愛の描き方は、よくある一般的な恋愛と違ってありきたりでない。
それも魅力のひとつとなって、私はアルモドバルの作品がとっても好きである。
もっとも、上品で良識のある人からみると、ヒンシュクを買う内容かもしれないが。

ではキワモノ的な作品かというと、必ずしもそうでない。
ストーリーなんかキッチリとしていて、内容もしっかりしている。

登場人物に、マリリアの息子セカが出てくる。
ロベルとセカの間柄。そして、セカとガルの関係が露わとなる。
娘ノルマのトラウマは、母親ガルの死が要因となっている。
そのノルマの自殺の原因を作ったのは、仕立て屋の息子ビセンテ。
ロベルがこのビセンテを誘拐し、その後に、と話はドンドン進んでいく。
そしてラストで、強く印象に残る名状しがたい場面となる。

このように、整形して他人になる話としては、
恋人の前から突然姿を消し、整形手術を施した後で、他人として再度現れる『絶対の愛』(キム・ギドク監督、2006年)や、
化学研究所の事故によって顔面に醜い火傷を負い「顔」を失った男が、精巧な「仮面」を作成し妻を誘惑しようとする物語の、
小説『他人の顔』(安部公房著、1964年)を思い浮かべる。
もっとも『他人の顔』は、映画(勅使河原宏監督、1966年)もあったけれど、やはり安部公房の方がいい。

個としての人を、違う人間として愛するということ。
その時の、実像と虚像の間で揺れ動く人間関係。
そのような作品を観たり読んだりすると、人間の精神の在りようは何なのか、その不思議さをつい思ってしまう。
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忘れ得ぬ作品

2016年07月26日 | 目次・忘れ得ぬ作品
1. 忘れ得ぬ作品・1〜『ミツバチのささやき』

2.忘れ得ぬ作品・2〜『エル・スール』

3.忘れ得ぬ作品・3〜『シベールの日曜日』

4.忘れ得ぬ作品・4〜『情婦マノン』

5.忘れ得ぬ作品・5〜『ケス』

6.忘れ得ぬ作品・6〜『ルシアンの青春』

7.忘れ得ぬ作品・7〜『邪魔者は殺せ』

8.忘れ得ぬ作品・8〜『忘れられた人々』

9.忘れ得ぬ作品・9~『逢びき』

10. 忘れ得ぬ作品・10~『ヘッドライト』

11. 忘れ得ぬ作品・11~『かくも長き不在』

12. 忘れ得ぬ作品・12~『橋』
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忘れ得ぬ作品・6〜『ルシアンの青春』

2016年07月24日 | 1970年代映画(外国)
フランスのルイ・マル監督と言えば『死刑台のエレベーター』(1958年)となる。
私が映画を意識し出した当時、このルイ・マルは傑作を次々と発表し、それに歩調を合わせるように観たうちの中で、どうしても忘れられない作品がある。
それは『ルシアンの青春』(1974年)。

1944年6月。フランス南西部の片田舎。
17歳のルシアン・ラコンブは、町の病院の雑役をしながら住み込みで働いている。
父はドイツ軍の捕虜になっていて、母は雇い人の農場主ラボリと関係をもっている。

休暇で家に帰ったルシアンは、レジスタンス活動に参加しようとするが、年齢が若く拒否される。
病院に戻る途中、パンクした自転車を引いて町に着いた時は、すでに夜。
賑やかな感じのホテルの前に佇んだルシアンは、うっかり、ゲシュタポの者からスパイと疑われてしまう。

そのゲシュタポの部屋で酒をよばれながら、何の認識もないルシアンは、彼らに請われるままレジスタンスの教師の名前を答えてしまう。
そして、それがきっかけとなり、彼はドイツ警察・ゲシュタポで働き始める。
仲間のジャンは、ルシアンの服を新調するために、ユダヤ人の仕立て屋、アルベール・オルンの所へ連れて行く。
そのアルベールには、母親のほかに、娘フランスがいて・・・・

ルイ・マル作品だからと、当時、封切り上映館に足を運んで、観始めてみると、なぜか違和感が先立ってしまった。
普通、ドイツ・ナチス関係の映画といえば、レジスタンス側の心境から描くことが多い。
それが、ゲシュタポの一員となった青年が主人公である。
なんで、こんな人間の話を、わざわざ観なきゃならないのかと、一方的に拒否感がたってくる。

しかし、観進めていくと、一定の距離感を保ちながらも、自然とルシアンの心情に寄り添う形になる。
その時代に、社会で起きていること。
そのことに、冷静な客観性をもつことも、考えることすらも及ばず、情熱を傾ける対象を見つけるということ。
ルシアンにとって、権力の一部を手にすることが、小気味よい楽しみを発揮できる唯一の方法なのだろう。

映画の視点は、ゲシュタポ側からであるけれども、ユダヤ人のアルベールの、その状況の対処の仕方、態度に尊厳性が滲みでている。
このような権力と非権力の間柄のなかで、ルシアンとフランスが恋をする。
青年期の恋愛によくあるルシアンの想い。つかの間の喜び。
その後に来るルシアンの運命を考えると、この時がまさしく“ルシアンの青春”だった。

一昨年、ノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノと、ルイ・マルが共同執筆したこの作品の脚本。
よく考え抜かれたこの優れた脚本は、何を本質的に言わんとしているか。
そのようなことを反復して思ったりしているうちに、いつしか私にとって、これは印象深い大事な作品となってしまった。
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『ブルックリン』を観て

2016年07月19日 | 2010年代映画(外国)
なんの予備知識もなしに『ブルックリン』(ジョン・クローリー監督、2015年)を観てきた。

1950年代。
アイルランドの小さな町の食料雑貨店で働くエイリシュは、偏見に満ち口うるさい店主のケリーに我慢の連続だった。
会計士のローズは、そんな妹エイリシュの将来を案じていた。
この姉のつてで、エイリシュにアメリカで働くチャンスが訪れ、彼女は渡米する。
場所は、ニューヨークのブルックリン。
だがそこは、生まれ育った町とはあまりに違う生活だった。
高級デパートでの仕事に慣れず、同郷の女性たちとの寮生活にも戸惑い、エイリシュは激しいホームシックに陥っていく。
エイリシュの様子を見かねた同郷の神父は、ブルックリン大学の夜間・会計士コースの受講を彼女に勧める。
真面目に勉学するエイリシュは、あるダンス・パーティーでイタリア系移民のトニーと出会い・・・・

うら若い娘が他国の地で、心細い想いをしながら徐々に馴染んでいく様子が描かれ、
内容としては、いたってシンプルなストーリーとなっている。
その娘エイリシュを、『つぐない』(ジョー・ライト監督、2007年)の少女役だったシアーシャ・ローナンが演じ、
片田舎から大都会へ出て来れば、まさしくこんな感じだろうなと、その自然体に好感をもった。
そればかりでなく、その雰囲気を見ているだけでも飽きない。
第一、意地悪な人はいても、全体的に善良そうな人ばかりなのが心地よい。

だったら、無条件に感動できたかと言えば、ここが問題である。
本来、上映中の作品のキー・ポイントを喋ってしまうのは良くないことと重々にわかっているつもりだが、
それを省くとこちらの思いが伝わらないので、書いてしまう。

ある日、エイリシュのもとへ、故郷にいる姉ローズの悲報が入る。
トニーとエイリシュは、エイリシュが故郷へ旅立つ直前に、二人だけの結婚式をあげる。
帰郷したエイリシュは、誰にも、肝心の母親にも結婚したことを言わない。
そして、以前からの知り合いだったジムに言い寄られてエイリシュもその気になり、結婚してもいいかなと思う。
母親もまた、この二人が結婚してくれたらと思う。

聡明なはずのエイリシュが、自分が結婚していることを忘れたかのごとく振る舞う。
愛している夫からの手紙も封を開けないし、自分の思いに悩む様子もない。
不思議なことだなと思う。

フィクションだから、どのように作られても良いわけだけど、
それにしても、これでは一般的な感覚からすれば、結果的に、ジムの精神をいいように弄び、母親も裏切ったことになる。
それと共に、エイリシュっていう女性は、相当鈍感な人間だなと思ってしまう。
いくら原作がそうなっていても、脚色する段階で、誰でもが納得する内容にしないと作品全体の価値が落ちる。
私の考えでは、みんなが納得する方法は、結婚した事実の場面をただ1箇所削除するだけで済むと思っている。
たったそれだけのことで効果が違ってくるのではないか。
いい映画なのに、このことだけが残念であった。
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『リトル・ダンサー』について

2016年07月16日 | 2000年代映画(外国)
現在までのスティーブン・ダルドリー監督の作品を続けて書いてきたので、残る1本の『リトル・ダンサー』(2000年)についても書いておこうと思う。

1984年。場所は、イングランドの東北部、ダーラムの炭鉱町。
11歳のビリーの家族は、父と兄トニーが炭鉱の労働者であり、軽度の認知症を患い徘徊癖のある祖母の四人暮らし。
ビリーは、父親がボクシングファンのために、好きでもないボクシング・ジムに通っている。
そんなある日、ジムの隅でバレエ教室が開かれることになった。
偶然目にしたビリーは、バレエに魅せられ、密かに女の子たちに混じって練習するようになる。
どんどん上達するビリーに、ウィルキンソン先生は自分が果たせなかった夢も重ね、彼を熱心に教えていった。
しかし、それを知った父親は激怒。
バレエへの思いを理解してもらえないビリーは、悔しさをぶつけるようにして一人で踊り続け・・・・

この映画は大雑把にいえば、セクサスストーリーの部類になると思う。
でも、そのような作品の中にあって際立って特徴があるのは、その背景。

炭鉱不況によって、ストライキに参加している父親と兄トニーは失業同然で、お金に対して切実な状態にある。
だからビリーにとって、ウィルキンソン先生が熱心にロンドンのロイヤル・バレエ学校のオーデションに勧めても、そう簡単なことではない。

そんな中、ビリーの踊りを見た父親は、その踊りに目を見張る。
その後の、父の行動。
ビリーの夢を叶えてやりたいと、金のためにスト破りまでしようとする決心。
その父親の行動を見てしまうトニー。
このような社会状況を背景に、浮かび上がってくる家族愛。
これらの事と、ビリーのバレエに対する憧れ、不安がない交ぜとなり、観る側としては無意識のうちに感動を呼び起こされる。

特にラストの、ビリーが大人になって、舞台に飛び出し踊り出す「白鳥の湖」。
そのワン・シーンは感動しかない。

人が、ひとつのことに興味を持ち、それに打ち込み努力するということ。
すべての人がその結果に報われる保証はどこにもないけれど、その真摯な姿勢に心打たれない人はいないと思う。
私にとって、そんなことを思わせてくれる非常に印象に残った作品である。
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『愛を読むひと』を観て

2016年07月07日 | 2000年代映画(外国)
『愛を読むひと』(スティーブン・ダルドリー監督、2008年)を観た。

1958年、ドイツ。
15歳のマイケル・バーグは、学校からの帰宅途中に具合が悪くなり、たまたま通りがかった21歳年上のハンナ・シュミッツに助けてもらった。
3ヶ月後、猩紅熱から回復したマイケルは、お礼の花束を持って一人暮らしのハンナを訪ねる。
彼はハンナの魅力に惹き付けられて、翌日もまた彼女の部屋に向かってしまう。
そんなハンナから石炭を運ぶよう言われたマイケルは、煤だらけとなり、それを見たハンナから風呂できれいにしたらと促される。
バスタブから出る彼を、大きなタオルで抱きしめる裸のハンナ。情交。
次の日もその次の日もハンナの部屋へと走るマイケル。
ハンナもその時間に、路面電車の車掌の仕事を終えて帰ってくる。
やがてハンナは、本を読んで聞かせてほしいとマイケルに頼み、彼は「オデュッセイア」や「子犬を連れた奥さん」、その他を一心に読み続けた。
そんなある日、マイケルが彼女の部屋を訪ねると、ハンナの姿は消えていて、中は空っぽだった・・・・

なぜハンナは突然、行方をくらましてしまったのか。
そのことは、後ほどハンナの過去についての事柄がわかってくるので、一応理解ができる。

1966年、法学生としてマイケルは、ある裁判の傍聴をする。
そこには、戦前のナチ親衛隊としての被告人ハンナがいた。
裁判の中で、他の5人の被告からハンナが看守の責任者だったと言われ、裁判官はハンナに筆跡を求める。
しかしハンナは拒否し、責任者としての罪を認める。その結果は、無期懲役。

物語の中で、あれ程ハンナがマイケルに本を読んで聞かせてほしいとせがむ段階から、ハンナの文盲はおおよそ察しがつく。
ラスト近くに語る言葉で、裁判の段階ではまだ、自分が死に追いやった人達に対する罪の意識は、さほど強くないことがわかる。
となると、文盲であることを恥とし、自分の生涯を刑務所で過ごそうという、その感覚がどうしても理解できない。
一般的な感覚からすると、恥の意識と、一生涯の自由の束縛を天秤にかけた場合、大抵正直に事実を明かすのではないか。
そして、この作品の致命的なところは、それ以前にいろいろな書類にサインをさせられているべきではないだろうか。

映画は、マイケルの視点から描かれているから、他の箇所でもハンナの心理がわからないところがある。
では、マイケルの心理はよくわかるかというと、これもすべて納得できるわけではない。
特に、マイケルが留置所にいるハンナに、真実を語るよう説得するために面会に行きながら、後一歩のところで引き返してしまう。
なぜそうするのか、その意味を誰か教えてほしい。
やはり心理描写の説明不足ではないのか。

原作の『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著、1995年)はベストセラーになり評判も高かったが、私は未読なので、映画の上でしか感想が述べられない。
ダルドリー監督は、他の作品と同様に、物語を丁寧に描いている。
だから大概の人は、いい作品を観たと感激するのではないかと思う。
しかし、私としては物語性を先行させた主体性のなさが気にかかる。
前半の、年上の女性と少年の話は、『思い出の夏』(ロバート・マリガン監督、1971年)の青春の痛々しさを観てしまうと、
ケイト・ウィンスレットの裸体ばかりが目につき、そちらに興味がそそられてしまう。
そして、後半の内容は、立場が逆であってもナチスの収容所の話が共通する『ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ監督、1982年)と比べると雲泥の差が出てしまう。

ここのところ、一連のダルドリー監督作品を観てきたが、やはり一番優れていると思うのはデビュー作の『リトル・ダンサー』(2000年)。
折角なので、次回はこの作品について書こうと思う。
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