「峻ちゃん」こと
加藤峻二とはどんな選手なのか。
登録番号は1485。競艇学校第5期生。1942年1月12日生まれ。
デビューは1959年7月の桐生競艇場。
加藤のホームプールである戸田や平和島、江戸川といった関東の水面は幅員が狭く、そのため、インが不利という定説があったため、古くは、ダッシュスタートからまくり上げて先マイを試みるという、「関東ガマシ」という言葉があったほどだが、加藤はその頃の競走スタイルをそのまま今日も貫き、どちらかというと、アウトに回ったほうが良績を挙げている。
1970年代には、同じく戸田をホームとしていた、後にボートレース研究やバッハプラザの解説者として活動した、金子安雄(全日本選手権2回優勝など、現在のSG通算3回優勝)とともに、「埼玉KK砲」としてその名を轟かせ、1970年に鳳凰賞(後の総理大臣杯)、1972年に全国地区対抗、1977年には笹川賞とモーターボート記念を制した。また、現在のGIの通算優勝回数も21回を数えるが、不思議なことに、ホーム・戸田での周年優勝はない。
2002年の平和島・笹川賞の優勝戦に進出。当時61歳であったが、優勝の平石和男と2周1マークまで優勝争いを演じ、ファンをあっと言わせた。その後、
2007年後期にはA1級復帰。2012年6月2日、蒲郡で、当時公営競技選手最年長選手として勝利を挙げた。
そして2013年3月25日、ホームの戸田で71歳2か月にして優勝を果たした。
ところで、「峻ちゃん」というニックネームだが、今では競艇選手でさえもほとんど使わなくなった(当たり前だわな)。
なぜこの名前がついたかというと、加藤の全盛期時代というと、彦坂、野中、北原の、いわゆる「ビッグスリー」の時代でもあったのだが、この3選手は互いに口も聞かないという、真の意味での「ライバル関係」にあった。これが当時の競艇界に蔓延し、ピットでは常に「ピリピリムード」が漂っていたのだが、そんな中、加藤だけは勝とうが負けようが「飄々」「淡々」としていて、そのさまは「勝負師」ぞろいの競艇選手の中ではきわめて「異質」に映ったようだ。それがいつしか、「峻ちゃん」というニックネームを生み出した、と言われている。