浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

議会質問

2010-06-21 06:59:34 | 国際・政治

議会質問にもいろんなタイプがあります。もちろん発言者の特徴や専門性が発揮されることは前にも少し書きましたが、議案に対する質問もさることながら、その時の話題性のある質問内容に集中することになります。

私はできる限りいろんな分野をまんべんなく質問するようにしていますが、それでも集中する分野があります。財政及び公会計、国保事業関連の福祉、環境整備といった分野が中心になります。いずれも地味な分野で派手さがないため、あまりマスコミで取り上げられるといった分野ではありませんが、根幹をなす重要な分野だと思っています。

議会は予算が上程されなければ、なかなか議論できないといった環境にあります。そのため、基本計画が策定されるとそれに応じて予算が提出され、可否の表明しかできません。つまり基本計画案を策定する行政に対し、策定段階では議会の議論の場はないという状況です。予算額が大きくない基本計画であれば問題ないのですが、大きな案件となると可否の表明だけでなく、議論による部分修正や停止などの計画変更ができなくなることも往々にあります。そのため、名古屋市議会では、基本計画案も議会の審議事項に挙げるところも出てきています。このような状況にあるわけですから、議会質問における事前の議論でしかができないといったことにもなるため、基本計画に対する質問も極めて重要になってきます。

今朝一番での議会質問となります。また、この件については書くことになるでしょう。

以上


地方議会を問う

2010-06-20 07:33:55 | 国際・政治

岐阜市議会の構成は自民党が絶えず過半数を占め、与党として力を持ってきました。そのため、国の選挙や首長の選挙においても力を発揮し、それはとりもなおさず、岐阜市民に郷土愛意識の保守的な考えが強く、リーダーシップがなくても強烈な団結力によって地方政治を推進してきたという歴史があります。おそらくこのようなことは、岐阜市のみならず日本全体を覆っていた政治体制ではなかったかと思います。

高度成長と相まって、その推進力が多様な意見を吸収しながら同一の方向に向かっているときは、問題にならなかったといえます。しかし、一度壁にぶつかると、その多様な意見を吸収することが難しく組織体分裂を起こさざるをえません。昨年の世間交代後の自民党の分裂がそうでしょうし、今二分されている岐阜市の自民党もその状況にあるといえます。

しかし、このような分裂は不健全なことでしょうか。多様な意見を吸収するシステムとしての民主主義は、体制翼賛的な状況であってはいけないし、議会の役割そのものは、議論し民意を集約しながら政治を行うという本来の姿にあるべきです。特に、地域主権が進められようとしている将来において、意見集約が十分できない議会制民主主義は機能不全を起こすと考えられます。

権力を得るための数の論理であってはいけません。多様な意見を尊重しながら、意見集約の結果の政治権力であるような考え方をしない限り、良い政治結果を生むことにはならないでしょう。たとえその結果が悪くとも、その過程をしっかりと踏まえていれば、選択が間違ったということになっても許されるということになります。それは民主主義の欠点でもあり、民主主義が政治システムとして最上のものではないが、今ある政治システムの中では最高であると言われるゆえんです。

このように分裂が決して悪いものであるとは言えません。前にもこのブログで述べたと思いますが、議論できる単位の分裂や意見を集約するための分裂はあって当然であり、多少の時間を要しても難局を乗り切るためには、組織の試行錯誤は必要であるような気がしてなりません。時代錯誤も甚だしい単に昔の団結心だけを懐かしがるような時代は終わったと言えるでしょう。繰り返しますが、権力を握ることだけの組織化が優先されてはなりません。

以上


漂流する言葉

2010-06-19 07:35:23 | 日記・エッセイ・コラム

「漂流する言葉」という表現が正しいかどうか分かりませんが、高邁な理想を語る政治家の発言に軽さを感じてしまいます。理念や信念を語る抽象的な言葉やイメージとしての言葉自体を理解できても、政治家の言葉には責任に裏付けされた現実性がないといけないのではないでしょうか。「自家撞着」、「自己矛盾」、「二律背反」の言葉が浮かびます。一つの行為を正当化するために強引に信念や理念に結び付けようとする主張、発する言葉の反作用に対する無知、自己中心的な配慮のなさ、など自分自身の反省も含め、政治家の資質が問われるところです。政治家と言うよりも人としてかもしれません。しかし、そうでなければ実行力を問われるかもしれないという逆説的な理解をしなければいけないのかもしれません。客観的な見方ができる人間はそうそういないことを思えば、限界を感じなければならないと言えるでしょう。

私の内面的な苦悩を語ろうとしているためうまく表現ができませんが、中央政治を見ても地方政治においても、半ばあきらめに似た切なさを感じて仕方がないという今日この頃です。

以上


オルテガ「大衆の反逆」

2010-06-18 06:39:08 | 日記・エッセイ・コラム

先日も少し書きました西部邁氏の対談集に出てくる、オルテガの「大衆の反逆」を読み始めました。百年近く前に書かれた文章と思えない、今書かれたのではないかと思う文章・内容に驚かされます。それぞれの時代にそれぞれの社会体制の違いはあるとはいえ、思想の差がなく価値観が同じであればこれだけ共感できるものかという感覚で読んでいます。ただ、文章の意味が十分理解できているかどうか自信はありませんが。

今朝は、議会質問を書かなければなりませんのでこのぐらいにします。機会あればまた感想を述べたいと思います。

以上


平成22年6月岐阜市議会

2010-06-17 07:36:08 | インポート

今日から平成22年6月の岐阜市議会「質疑・一般質問」が4日間の日程で始まります。私の質問日は3日目となりTV中継には入りませんが、意見表明および議論のきっかけの場であるという議会質問の本質に立ち、しっかりと質問をする予定です。内容は、「国民健康保険事業について」・「大学病院跡地の計画について」・「多文化共生事業計画について」・「情報システム最適化事業計画」についてです。そのうち2点は補正予算で議案が提出されており、2点は政策執行を問うものとなっております。

議会質問は、とかくパフォーマンスで行われているように取られがちですが(実際そのような質問が目立つこともありますが)、答える行政側は議会質問を真摯にとらえ、議会質問が多様な市民意見であることを認識して答弁し、政策執行に当たることが議会主義の大前提となります。考えや意見の違いがあってもお互いに議論し、溝を埋めていくことが説明責任の一つといえます。形式にとらわれることなく、闊達な意見交換がなされるべきだと考えます。

昨日で国会が閉幕し参議院選挙に突入します。法案成立が過去最低だったとの報道がなされています。十分議論がなされないまま、議会を閉じることは議会軽視につながる恐れがあります。政権奪取を目標にした民主党は、議会の本質を見失っているような気がしてなりません。法案成立率が問題ではなく、選挙日程が詰まっているという物理的な理由があるにしろ、議会を軽視するような行動があったとすれば看過できない問題です。一部報道では、「選挙を通して意見表明に変える」とか、「TV,マスコミを通して議論をしていく」などの発言は、仮にあったとすれば非常に危険なことであるといわざるを得ず看過できません。議会制民主主義を履き違えることにもなりかねないでしょう。

地方議会にもそのような傾向が見られます。先にマスコミに発表し、市民の意見や反応を優先するような行動は、意見集約や議論の方法として、議会はいらないという考え方なら別ですが、議会制度の崩壊につながります。今一度、議会、議員そして行政の役割と責務を考えてみましょう。

以上