筑紫哲也さんのエッセィを読んでいたら、古い友人との付き合いの席では「病気」と「孫」の話は厳禁だそうだ。それが最近自分の病気療養もあり、今後はそうもいかないだろうなと述懐されている。
そして「孫」の話をしないのは、自分自身に「孫」が居ないせいもあり、他人の「孫」自慢を聞きたくないらしい。
確かに同じ年代の元の同僚達との宴席でも、最近の中々結婚しない子女たちを抱えた連中にすれば、得々と語る他人の「孫」自慢など聞きたくないに違いない。
幸いに我が家には「孫」が一人居る。今年から小学校に入学した。
考えてみたら子どもが成人すれば当然親元から離れて行く。結婚したらなおさらの事だ。
ところが「孫」ができると、再び親と子は近い存在に早変わりしてくる。
どなたでも同じだと思うが、祖父母にとって「孫」は無性に可愛いものである。
親になった我が子の手助けをもして上げたい。子の方も「孫」を祖父母に見せて、自慢や愚痴も聞いてもらいたい。
そして自分たちだけで育児に困る場合は、祖父母に手助けを求められる。
そんな事でお互いに家族は、さらに上手に紡ぎあいをしていく様になる。
そして年寄りと「孫」の間には、何か深いところで通い合うものがありそうです。
年寄はほとんど無条件で「孫」の言ふことを受け入れる。「孫」も遠慮なくわがままを言ってくる。
「孫」は私をむしろ祖父であるよりも、友人かそれ以下としてしか見てない様な事もある。
(大好きなTVのアニメやゲームの登場人物などを、ほとんど私が知らないのが大いに影響している様だ)それはそれで「孫」が本音でぶっかってくるのが判っているだけになお可愛いのだ。
「孫」にとり、いいなりになってくれる人の存在が、ありがたく、大いに自尊心ももてる事になる。
この夏休みにも、是非我が家に遊びに来たいと言ってきている。優しく受け入れてやりたい。
しかし甘やかすだけでは「孫」をわがまま一杯に育てる事になりかねません。
その辺の限度は今後も弁えて付き合いたいと思っている。
「年寄りっ子は優しく育つ」と昔から言はれます。
子どもの情緒を安定させ、ひいては他人に対する思いやりを持つ子に育てるのが、親に協力していく祖父母の務めであろうと考えた次第です。そして強く逞しい健康体を持った子に育て上げたいものだ。
そして「孫」の話をしないのは、自分自身に「孫」が居ないせいもあり、他人の「孫」自慢を聞きたくないらしい。
確かに同じ年代の元の同僚達との宴席でも、最近の中々結婚しない子女たちを抱えた連中にすれば、得々と語る他人の「孫」自慢など聞きたくないに違いない。
幸いに我が家には「孫」が一人居る。今年から小学校に入学した。
考えてみたら子どもが成人すれば当然親元から離れて行く。結婚したらなおさらの事だ。
ところが「孫」ができると、再び親と子は近い存在に早変わりしてくる。
どなたでも同じだと思うが、祖父母にとって「孫」は無性に可愛いものである。
親になった我が子の手助けをもして上げたい。子の方も「孫」を祖父母に見せて、自慢や愚痴も聞いてもらいたい。
そして自分たちだけで育児に困る場合は、祖父母に手助けを求められる。
そんな事でお互いに家族は、さらに上手に紡ぎあいをしていく様になる。
そして年寄りと「孫」の間には、何か深いところで通い合うものがありそうです。
年寄はほとんど無条件で「孫」の言ふことを受け入れる。「孫」も遠慮なくわがままを言ってくる。
「孫」は私をむしろ祖父であるよりも、友人かそれ以下としてしか見てない様な事もある。
(大好きなTVのアニメやゲームの登場人物などを、ほとんど私が知らないのが大いに影響している様だ)それはそれで「孫」が本音でぶっかってくるのが判っているだけになお可愛いのだ。
「孫」にとり、いいなりになってくれる人の存在が、ありがたく、大いに自尊心ももてる事になる。
この夏休みにも、是非我が家に遊びに来たいと言ってきている。優しく受け入れてやりたい。
しかし甘やかすだけでは「孫」をわがまま一杯に育てる事になりかねません。
その辺の限度は今後も弁えて付き合いたいと思っている。
「年寄りっ子は優しく育つ」と昔から言はれます。
子どもの情緒を安定させ、ひいては他人に対する思いやりを持つ子に育てるのが、親に協力していく祖父母の務めであろうと考えた次第です。そして強く逞しい健康体を持った子に育て上げたいものだ。