平成元年に京都から滋賀県へ、
丘の向こうから登りくる朝陽を眺めて夜明けのコーヒーが飲めると・・・
気がつけば此処は工業団地、
県道が出来て丘は工業団地に変身、
バブルが弾けてどん底へ打ちのめされて、
弾けて飛び散った夢。、
令和の時代に幾年かでも生かされるならば、
もう暫くは地べたを這いつくばって.生きてゆくであろうけれど、
生きてきたけじめだけは何としても残してゆきたい。
けじめとは・・・
昭和18年12月父は国から「勅令」で海軍の2等兵を命じられ、19年12月
栄養失調で戦病死、すなわちトラック島で餓死。
私がまだ3歳にもならない内に戦争に父を奪われた衝撃は一生消えないでいて、
発達障害や性的暴力や貧困等々、
未だその記録は完成していない。
厚生労働省社会・援護局援護・業務課より送られてきた色あせた父の戦争履歴、
その中に「勅令」の文字を見つけた。
命令の「令」
辞書を探れば、命令する・言いつける・いましめ・おきて・いいつけ等々、物騒な意味合いばかり目について、万葉集にまで到達しない。
私は戦争犠牲者だから。