西やん中洲にいます。

西やん67歳、日々の出来事独り言

手術の思い出(再掲4)術後、麻酔から覚めるまで

2022-10-15 12:15:03 | 手術の思い出
こんにちは。

手術中のことは全身麻酔だったので何も分かりません。
麻酔から覚めるまでは時間がかかったようで、でも、知らない間に私は何をしたのか。

【手術後の説明は】
手術後に、担当医から家族に説明があるのですが、私が最初にその場面に立ち会ったのは母親の手術の時でした。

母親は身体中に結石ができ、その除去手術をしました。私が高校生の時でした。手術後に手術室の前に父親や兄たちといたら、担当医からの説明があり、そこで摘出した石を見せてくれました。金属の皿のようなものの中に指先ほどの大きさのオレンジがかった白っぽい石が確か13個入っていました。

息子が肺気胸の手術をした時も、手術後に担当医か切除した肺の一部をビニール袋に入れて持ってきてくれて、説明を受けました。数センチの薄汚れた灰色のビニールがしわしわで重なっているように見えました。

私は、麻酔で眠りについていましたので、後で聞いた話なのですが…

当時、吹田市に住んでいた兄が来ていてくれて、手術後に兄が担当医から説明を受けたそうです。その時に、私から切除された胃を見せてくれたそうです。もちろん、私は見ていませんが、人間の胃の3分の2って、それなりの大きさがあるのではないでしょうか。

その日、兄が家に帰ったら、夕食が『焼き肉』だったそうで、さすがに食べれなかった。とか。

どこまで本当か分かりませんが、あまり見て気持ちのいいものではないでしょうね。

【麻酔が覚めた時】
『痛ーい 痛ーい 痛ーい …』
自分の声が聞こえてきて(本当にそんな感じ。他人事みたいな)麻酔から醒めました。

面白いもので、お腹の中も外も切ってるのに、痛いのはお腹の表面だけ。中は痛くない。

あれっ、体が動かない。顔と目を動かして確認すると、右手は板の様なものと一緒にベッドに縛られ、点滴がうたれています。左手はベッドに縛られています。更に両足もそれぞれベッドに縛られています。

無意識に傷口に手を持っていかないように。寝返りや暴れて、点滴が外れないように、両手、両足をきつく縛られていました。

その状況を理解するまで、しばらく時間がかかったような気がします。酸素のチューブと、胃から内容物を排出するためのチューブが鼻から入れられ、おちんちんには、尿を排出するためのチューブが差し込まれていました。

目覚めた時の私は、そんな状態でした。


では、続きはまた。


手術の思い出(再掲3)手術当日、手術室に行くまで

2022-10-15 07:57:15 | 手術の思い出
おはようございます。

手術することを決めたのですが、やはり初めてのことでドキドキ。
その頃には症状もだいぶん治まっていたので、「手術やめたいなぁ~」なんて。
でも、その日は始まります。

【手術当日の朝は】
手術の前日の事は、あまり良く覚えていません。食事は病院食でおかゆですが、夕食も食べたと思います。

ただ、夕食後に『ひましゆ』(下剤)を大量に飲まされた記憶があります。何せ内臓、それも消化器の代表、胃の手術ですから、胃から腸まで空っぽにする必要がありますから、量も多かった。まずくて、量の多いひましゆを苦労して飲みました。

あと、きっと精神安定剤か何かの薬ものんだのだと思います。比較的早く寝たようにおもいます。

そのせいか、手術当日は、朝から『ボーッ』としていて、あまり何も考えられませんでした。

【看護師さんが・・・】
手術当日の事も、細かな事までは覚えていませんが、2つだけ覚えています。

《浣腸》
消化器の手術なので、お腹の中を空っぽにする必要があります。看護師さん(もちろん女性)が、小ぶりの透明なバケツの様な容器に、なみなみと液体を入れて病室に来ました。容器の下からはチューブが伸びています。その時の姿勢は覚えていないのですが、その後の事を考えると、四つんばいだっのではないかと思います。それもおしりを出して。
看護師さんが、チューブの先を肛門に差し込み、大量の液体を注入。お腹の中を液体が逆流して、ぐるぐるいって入って行きます。
注入が終わったら、『もようしてきたら、トイレに行って全部出して。』と言われ、トイレに行って、これでもかと言うくらいに出し切ります。
朝から『ボーッ』としてるので、言われるまま、恥ずかしいも何もありませんでした。

《毛剃り》
看護師さんが来て、今度は下半身丸出しで仰向け。看護師さんが大きな(私の名誉のため)ピンセットで、しなれた『おチンチン』をつまんて、下の毛をジョリジョリ剃っていきます。これも、ボーッとしてるので、何の抵抗もなく、何も変な気も起きず、言われるがままでした。

後は、ストレッチゃーに乗せられ、手術室へ。ストレッチャーのからからいう音と、廊下の天井、エレベータの中。2階に着いて、また手術室に向かう廊下の天井。手術室に入り、手術台に移され、目の前に酸素吸入のためのマスクが見え、顔に向かって降りてくる…
記憶はそこまで。全身麻酔で眠りにつきました。


では、続きはまた。


手術の思い出(再掲2)検査~手術決断まで

2022-10-15 03:40:03 | 手術の思い出
こんばんは。

1時間に1回吐血から入院して検査。
結果、手術をした方が良いと言われたのですが、初めての手術ですから。
でも、決断できたのは母のひとこと。

【人生初の胃カメラ】
一時間に1回の吐血を4回か5回繰り返して、症状が落ち着いて2~3日後に人生初の『胃カメラ』を経験しました。

検査室前の椅子に座り、隣の60歳位の男性といっしょに胃の動きを抑える注射を打ち、喉の麻酔の液体を飲み込まないようにと言われて我慢し、待つこと一時間。先生が遅れ、麻酔の意味なし。

先に隣の男性が検査室に入り、しばらく経過してから私の番。検査台の上に左側を下にして横になる。検査室には先生と看護師1名。

30年以上前の胃カメラなので太かった。先っぽを口に突っ込まれ、ゲエゲエ言ってる間にグイグイ押し込んでくる。苦しい。先端を回したり、少し出したり入れたりしながら、先生が診察。

すると、先生が笑いながら看護師を呼んで、『君も見てみるかい』。看護師が、胃カメラを覗いて『ゥワーッ』って。(何がゥワーッなんだよ。)胃カメラのモニターは、私が精一杯上目遣いして微かに視界に入る位置なのでよく見えない。

先生は私に、『君も見てみるかい』と言って、胃カメラの私の口から出ている部分をグルリと回し、私の目に当ててくれました。円い画像の中は一面の赤、と言うより、オレンジに近い鮮やかな赤で、その中に白い点がいくつか点在している。

『赤いのは、胃がただれている部分。だから、胃全体がそんな感じ。白い点が胃潰瘍。全部で13個ある。多発性潰瘍。ストレスで短期間に一度に潰瘍ができたんだな。』と、先生。ゲエゲエ言いながら、今度は胃カメラを引き抜かれ、『検査しないとはっきりは言えないが、腫瘍は悪性ではないと思う。』おまけに、『前の人はガンなんだよね』って、私に言われても。
これって、今の時代なら大変な発言?

翌日、先生から『自分の胃酸で自分の胃を傷つけてる状態だから、胃酸の出る胃の下3分の2を切除する手術をしよう。薬でも治せるが、あなたの場合は繰り返す可能性が高い。手術しますか。』と言われ、さすがに即答できず、実家に連絡して、相談することにしました。

【手術を決断】
私の家族の病歴ですが、

父親は、私と同じで胃を3分の2切除しています。兄弟の中で長男も、胃を3分の2切除しています。
母親は、私が高校生の時に全身の石を10数個取り出す手術をしています。

私も、小さい時から胃腸が弱い方で、更に胃下垂ぎみでした。
先生から『胃を3分の2切除する手術をした方がいい』と言われ、実家に電話して相談したのですが、母は即答で、

『切ったら治る』

この一言で、手術決定!


では、続きはまた。


手術の思い出(再掲1)きっかけ~発病まで

2022-10-14 23:01:16 | 手術の思い出
こんばんは。

昨日、ふとアクセス履歴を観ていたら、「手術の思い出」を観て下さっている方がいらっしゃって。
私も読み返してみたら、いろいろ思い出して、再掲載しようと思いました。
私が23歳の時の話なので、もう40年以上前の話です。
内容は、その時のまま掲載します。

【きっかけ】
今日、仕事先に来たら、お世話になっている先輩が、今週末3日間で入院して手術すると本人から聞きました。

1週間位前に、先輩が盛んに脇腹から腰のあたりが痛いと言っていたのですが、病院での診断は、胆石が胆嚢の内部を傷つけているそうで、形も、丸くなく、尖っているそうです。それで、胆嚢ごと切除するそうです。でも、それでも3日間。

一昨年、息子が肺気胸になり、肺の一部切除と縫合の手術をしました。内視鏡での手術で、時間は3時間ほど。その半分は麻酔が覚めるまでの時間でした。

手術にもよりますが、今から34年前。私は胃を3分の2切除する手術をしました。今なら切らないで済んでいる病気なのかもしれませんが、その事を思い出したので、記録として残していきたいと思います。

【発病】
今から35年以上前になりますが、大学4年で就活をしていました。その時につき合っていた熊本出身の人との事を考え、当時の『寿屋』(今はないのですが)の面接を受けに熊本市の本社に行き、大阪に戻って、大学に寄り掲示板を見たら、私立男子高校の教員の募集かあり、商業科教員の教職課程もとっていたので、迷わす教員に応募して、採用されました。

勤めた学校は豊中市にある男子高校。正直、がらの良い学校とは言えなかったのですが、一年勤め、2年目に2年生のクラス担任になりました。5月のある日の朝、自分のクラスの教室に行くと、四人の生徒が喫煙していて、当然、停学となり、停学明け前の日曜日に四人の生徒の家に家庭訪問に行くことになり、自分の車で出かけたのですが、朝何も食べてないのに胃が重い感じがしていました。

夕方までかけて、四人の家を回り、大阪の茨木市鮎川にある田んぼの中のアパートに帰ったのが、19時頃。その頃は妻(元)と同棲していたのですが、帰っても食欲がなく、朝と同じ胃が重い状態が続き、21時頃に吐血。茨木市鮎川は高槻市との境目で、家から見える出来て間もない救急病院へ彼女の運転で行き、点滴と腹部を冷やし、処置室に居ましたが、その後も一時間に1回の吐血が続き、そのまま入院しました。


手術の思い出33 【番外編 飴の効能】

2015-09-16 20:02:14 | 手術の思い出
手術の思い出ではありませんが。手術をする前。学生の頃の話です。

大阪の茨木市に住んでいた頃、休みの日に、吹田市に住む兄夫婦の所に遊びに行きました。
ついでに、夕飯をご馳走になり、その時に兄にビールをすすめられて、コップ一杯だけ飲みました。実は、この頃は、お酒飲めなかったんです。

帰りに、最寄の阪急電車の駅まで送ってもらい、茨木市駅まで電車に乗ったのですが、走り出してしばらくして、急に気持ちが悪くなってしまって、立っていることもできなくなりました。

それで、カバンの中に薬か何かないかさがしたのですが、あったのは『カンロののど飴』だけてました。しかたなく、のど飴をなめたのですが。

なめはじめて、しばらくしたら、気持ち悪いのが、だんだんスッとしてきて楽になりました。

私の頭は単純です。いちど、いい経験をすると持続します。
それからは、気持ち悪いとかだけでなく、調子が悪くなったら、飴をなめれば何とかなりました。飴の種類も問わなくなりました。

おまけに、飴なら、コンビニ、スーパーなどどこでもあるので、持ち歩かなくても大丈夫になりました。

私にとっては、今も、飴は大事な『薬』です。

単純。


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