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祈り








ご訪問くださいましてありがとう存じます。

みなさま全員を喫茶モエのクリスマス・パーティーにご招待できたら! 
と空想してしまうほど感謝しております。


あなたの2015年が0時の瞬間まで温かく
2016年が清々しく幸せに始まりますように。


来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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喫茶モエのママが語る一神教 蛇足編




付喪神っていうイメージ、大切にしたいなあ、というハナシから一神教の壮大なハナシになってしまった。


喫茶モエのママが語る一神教

前編

中編

後編


今日は蛇足編です。無視していただいても。


喫茶モエのママは前回の後編までに、ユダヤ教一神教のキモは、

「人間は自由であるが、自由には必ず責任が伴う。神に対面して恥ずかしくない人間になる」
「神からのメッセージを、自分に向けられた一対一のメッセージとして受け取る。メッセージを理解するためには、知的リミットを広げ組み替えることがしばしば要求される」

という結論に達したのだった。


以下、マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上』から引用する。


「シナゴーグと祈祷を持つようになって、ユダヤ人はもう特定の祭司組織や神殿や国に縛られることがなかった。どこにいても、仲介者なしに、神と直接に対話できる。(中略)いまや不可視の、柔軟な宗教、輸送可能の宗教になった。「捕囚」の、「離散」のユダヤ人の存続が、ここに保障されたことになった」(65頁)のである。

「この人間と神との関係こそが四〇〇〇年前に思想の大分裂を生み、異教徒の世界がユダヤ人を引き離す結果を招いたのであった。多神教の世界では、神の観念が人と他人を縛った。人間と神の関係についてのユダヤ人の概念は、自由な行動へとユダヤ人を解き放った」(17頁)西欧人が宗教的な自由という観念に目覚めたのは、マルティン・ルター以後である。



4000年ほど前の異教の時代に、当時はごく一般的だった多神教を捨て(実際、「創世記」には、族長時代のユダヤ人の間で偶像が日常的であった描写が出てくる)、不可視の神と一対一の関係を結ぶ信仰を選んだことが、ユダヤ民族がアイデンティティを保ちつつ生き延びた術になったということになる。

一神教を考え出した人物が(アブラハムが考え出し、モーセが洗練したことになっている)、ユダヤ人を守るためにそれを考え出したのか、単に結果的に一神教が民族を守るために有効に働いたのか、それはわからない。卵か鶏か、どちらは先かは今となってはもうわからないのだ。



わたしは高校時代の歴史便覧を見るのが今も大好きだ。
見開きページの歴史年表、一番下に設けられている「日本」は壮観である。

他の文明に飲み込まれたり、「日本人」が消滅してしまうのではないかという危機をほとんど感じたことのない国。

そういう日本のような国と、環境的要因により、集団ごとに定住する民族と、集団ごとに移動を繰り返す民族が同エリア内に入り乱れ、(今日のニュースを見ても、シリアには多くの少数民族がいることがわかる)、隣のグループの話し言葉が理解できなかったりすると、やっぱり危機感が全然違うのかなあと思う。

熊襲や蝦夷が唯一の神を信じていたら大和民族に吸収され滅ぼされなかっただろうか。どう思われます?


......



喫茶モエのしゃべり好きママのハナシでした。これで終わりです。

分かりにくいハナシを、つたない説明でいたしましたが、もし「おもしろかった!」と感じてくれた方がいらっしゃったら幸いです。
論理の破綻や内容に関するツッコミ、分かりにくい点、質問など、歓迎です。メールを頂けましたらうれしいです!
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カルロス・アコスタと仲間たち




キューバ出身、ロイヤルバレエのプリンシパル、カルロス・アコスタ(Carlos Acosta)は、英国ではカリスマ的人気を誇る。

彼が引退を表明した後にいくつか残されたパフォーマンス、そのうちの「カルロス・アコスタと仲間達」に行ってきた。

ロンドンの街はクリスマスの雰囲気で盛り上がり、まあ何を見ても楽しい季節ではある。
それを差し引いてもとっても楽しかった!

ミックスプログラムで、「瀕死の白鳥」あり、「アゴーン」あり、「シルフィード」あり、「ブエノスアイレス」あり、'Non... Je ne regrette rien'(<Yuhui Choeすばらしかった!)あり...強いて例えるならば大晦日の紅白を見ているような楽しさ、と言えばいいだろうか。
ステージの奥が楽屋という形式で、ダンサーの楽屋裏のあれこれがちょっと覗けた「気分」になれ、それも楽しかった。


アコスタはもちろんカリスマにあふれているのだが、やっぱりわたしはマリアネラ・ヌネツ(Marianela Nunez)に釘付け。

マリアネラ、ああ、マリアネラ...

「ダイアナとアクタイオン」のダイアナ!

ナショナル・ギャラリー像のティツィアーノの「ディアナとアクタイオン」に比較したら、女神の邪悪さが全然足りないが、それは演出・振り付けのせいであってマリアネラのせいではない。
ピュアゆえに残酷でちょっと邪悪なダイアナをマリアネラに踊って欲しいと願うのだった。
ものすごいダイアナになると思う。
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ルブタンのクラッカーが欲しい








クリスマス前にロンドンの繁華街にはもう行かないと誓ったのに...


うろうろ買い物をするのが苦手なので、
ネットで目当てを決めてから各店を回ったのにもかかわらず、売り切れが2点も!

最初からネットで注文すべきなのか。
でも、質感や色のチェックで実物を見たいとかありますよね。


ハロッズを出たら、ロンドン・サンタ・スケートの皆さんで
(いま調べたら400から500人ほどだそうな)公道が通行止めに...


通行止めが解除されるのを待つ間、撮影してみたルブタンのウインドウ。
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喫茶モエのママが語る一神教 後編



前編

中編


まずは前回のおさらいから。


ユダヤ教一神教の神と人間の関係は...

神と人間は、一切の介在なしで一対一の関係を結ぶ。
「介在」というのは、国(土地)や、神殿や、祭司組織や、偶像などのことだ。

つまり神は、人間に何にも縛られない自由を与え、人間がその自由の責任を負うことを望んだのである。

そうすることによって神は、神が土から創造したにずぎない人間が、いつか神自身の高みへと成長することを期待した。
罰を与える気まぐれで傲慢な神、罪にまみれた人間というイメージは、キリスト教の時代になって「介在」があったほうが都合がいい人々によって作られたような気がするのだが考えすぎか?

「ユダヤ人は人類の手本とならねばならぬ」(マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上 64頁)のである。



今日はもうひとつの柱、不可視の神についてみてみよう。

不可視の神とは、偶像を作って拝むことを許さない神のことだ。

「フロイトがとても面白いことをいっている。もし神の像が持てないとしたら、その結果神にはやはり名前も表情もないことになるだろうから、目に見えぬ神を信じるよりしかたがないということになるだろう」

「神をものではなく精神的な存在にすることによって、ユダヤ人はただたんに神の具象に変更を加える代わりに、神の精神性に変更を加える自由を与えられたのだった。それは預言者や救済者やラビたちによってなされた。石で作られた神々ではなく精神の神を持つことによって、ユダヤ人は自らの文化を優れたものと感じることができた」

「ユダヤ人の知性的な傾向はまさしく、神を抽象的な存在にしたことによって生まれた」(以上、同書42-43頁)

以上はユダヤ人である著者自身がユダヤ人の優秀性について語っている下りなので、自分自身のことを「美魔女」と自称するような薄ら寒さがなきにしもあらずだが、まあいいや。



わたしなりにまとめてみると、ユダヤ教の一神教と不可視の神、ユダヤ人の知性的傾向というのは:

人間は自由であるが、自由の責任を負う。
神と一対一で対面しても恥ずかしくない行動を選択する。例えば旧約聖書の「ヨブ記」のヨブのように、神の御前で堂々としていられる人間になること。

神からのメッセージは「一対一」、自分へ向けられたものとして受け取る。
理解不可能のメッセージであってもそのまま受け入る。アブラハムも住み慣れた土地を出て行けとか、息子を生贄にしろなどと訳の分からないメッセージを何度も受け取った。ノアは巨大な船を作るよう突然命令された。
神からのメッセージを理解するためには、自分が安住している思考の檻を組み替えたり、大きくしたり、成長しなければならないのである。

被造物である人間が、神のように高貴な存在に成長することを神自身が望んでいるのだとしたら、その「神」は白く長い髭を生やした白人の老人(しかも知り合いの爺さんに似ていたりする)というイメージの限定があるよりも、不可視で無限な存在である方が知的な説得力がある。


いかがだろう。

この、神との関係を守ることができたら、ものすごく優秀な人間になれるだろうな、とは思いませんか。


後編で終わりにできるかと思ったが、長くなりすぎたので次回は「蛇足編」。



参考図書は
マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上下』朝日新聞社 1984年
長谷川三千子『バベルの謎 ヤハウェストの冒険』中公文庫 2007年

前回も書いたが、『バベルの謎』は抜群におもしろく、長谷川三千子さん自身も「あとがき」で、この本は「学術書」でも「研究書」でもなく、一つの謎を追って行く楽しみだと書いておられる。改めておすすめします。
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