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噺家の扇子




日本の友人から聞いた話だが、彼女の知人が2歳半になるお嬢さんに与えるモノの量に驚愕したそうだ。


建物も家具も素敵な超リッチなそのお宅が、あ○ぱ○マンを中心とする無邪気の牙城と化していて、その量はわたしの友人をして「リビングにいると精神的に不安になる」と言わしめたほどだ。

あなどれぬ奴だ、あ○ぱ○マン。でももうちょっとバ○キ○マンとバランスを取ってくれたまえ。善と悪で世界が均衡することは神話が証明してるんだしさ...そういう意味じゃないか。


で、お嬢ちゃまのママ、「子どもの頃からできるだけ多くのモノにふれていると豊かな人生になるよね~」とおっしゃったそうだ。

われわれは「それはちゃうやろ」と同時に突っ込む。

「多くのモノにふれていると豊かな人生になる」というのは真だと思う。
でも、例は良くないが、ゴミの埋め立て地の真ん中で暮らしていても人生は豊かにはならない...はずである。
量より質の方が大切なはずなのである。


わたしは子どもが多くのモノを持つよりも、「噺家の扇子」のようなモノで遊ぶ方がずっと豊かだと思う。
ほら、文脈によって、お箸になったりお盆になったりする、あれです。



あ○ぱ○マンは今はどうだか知らないけれど、わたしが小さい頃は地味でちょっと不気味ないい話だった。



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かおなし




不景気である。

先週訪れたパリでも、ソルド2週目にもかかわらず、モノが山ほど余っているのが目についた。
パリの店員さんは普段からとても親切で気持ちのいい人が多いが、さらに腰が低いような気がした。


多くの国で、会社がバタバタ潰れる一方で、国民の消費を促そうとしている。
資本主義はその本質のために、いついかなる時にも、もっともっとモノを作れ!もっともっとモノを売れ!もっともっと人々の欲望を煽れ!と要求し、無限に自己を拡大しようとする。

ああ、こんな童話があったなあ。娘は「顔なし?!」と言ったけど(笑)。ちょっと違うかなあ。


海のむこうでは民草にお金を使ってもらうために一人当たりわずかな現金が支給されたり、「自社製品を買え」と会社が社員を脅したり、そんなことが無駄なあがきに見える人が責任者の中にいないのだろうか。不思議。
今のシステムを修復しようとすると同時に、一つのシステムには寿命があるということを心において、次にはどんなシステムが来るのか備えるような人が責任者の中にいないのだろうか。不思議。


革命によって社会主義は到来しなかったが、別の理由でネオソフト社会主義が到来するかもしれないような今日この頃。


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使える英語




将来キャビンアテンダントを目指しているという、高校1年生のかわいいお嬢さんに「学校の授業を受けていても、受験勉強をしても、英語は絶対話せるようにならない。意味ないわ。モエさんはどうやって話せるようになったの?」と聞かれた。


真面目に答えないとあかんの?

わたしも大してできるわけではないが、彼女のママの「めっちゃできるという前提で答えてやってね」視線が痛かったから真面目に答えた。



わたしは大学受験の際に「基礎からの英語」と「英語150構文」を、最低この2冊は絶対!と丸暗記させられた世代である。

この2冊、高校生の目にもよくできているように映ったが、構文と構文の間に脈絡がなく、しかも面白味もなく...
I had my purse stolen...I had my purse...財布なんか盗まれるなよ!(笑)


でも、この2冊を丸暗記したのはのちに会話力をつけるのに本当に役に立ったと思う。

後知恵だが、受験勉強式/丸暗記式の勉強で覚えたことは、そのままでは「何の役にも立たない雑学系知識」のままである。が、それを「使えるように」自分で変えることはできる。
例えばトランプは柄の書いてある50数枚のカードだけど、ルールを与えられたり、自分で考えだしたら、ものすごくたくさんのゲームができるツールではないか。え?あんまりいい喩えじゃない?(笑)
じゃあ...公園に落ちている湿った木の枝は何の役にも立たないけど、火も起こせるし...(笑)。


受験勉強はわたしの世界を広げる予備知識(旅行ガイド程度かな)になったと思う。で、まさに世界を広げて己の矮小さを知るとか、「ここ」から先へ出て行くとか、そういうことこそが教育だと思うのである。


現行の英語の授業や受験勉強に意味がないというのはウソである。
受験のためには学校より塾に行かなければならない、という風潮はアホ臭いと思うけど。



今後教育制度が見直されることで英語の授業が英語になるらしいが、それで「英語がしゃべれるようにはならへんよ」と断言しておこう。しゃべりたい「内容」がないならば、それはハワイ辺りへの旅行で使える会話レベルにしか達せない。

文部省も何年後かに「英語で英語の授業をするように改めたのにもかかわらず、一向に英会話力が身に付かないのはなぜなのか?英語教育を再度見直すべきだ」とか言わないでほしいね。



学問に王道はないのである。たぶん。



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Liu Nan, Distant Dream









美術館も大好きだが、「自分の家に飾ることができるかもしれない」作品を扱うギャラリー訪問も好きだ。

美術館の作品を鑑賞する時には、意識したことはないが、いろいろな感覚器官を使っていると思う。
ギャラリーで作品を鑑賞する時には、そこにもう一つの感覚を加えて鑑賞できるのが醍醐味である。つまり「これが欲しい!」とストレートに感じる感覚(そんなんあるんかな。所有欲?)。「これ、うちの居間に飾りたいわ。」と発言しても下品でないどころか、かえって喜んでいただける。


Liu Nanという芸術家の作品を見た。
たぶんこれほど好きだと思える作品群に出会えることはめったにない。
残念ながら一番惚れたこの絵は売約済みだったが、似た感じの別の絵、Dynastyというのを検討中。

この緑が青銅の緑で、古代アジア人の血が騒ぐのだ。
Distant Dreamですよ。




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In Bruges 再び




運河スケートの話をブラッセル在住の友人にしたら、「なんでそんなに盛り上がれるん?」という反応だった(笑)。


そうか...
ブルージュに関しては冷静でいられると思っていたが、やっぱりわたしもブルージュ万歳住民と化しているのか?
保守的で閉鎖的で頑固で内気で裏表のあるブルージュ人化。

わたしはもう新しいもの好きで開放的で軽薄な神戸人ではなくなったのか?

わたしの人生は終わるのか、この○○ブルージュで。

笑。








ゴールデングローブ賞で映画 ”In Bruges” 主演のコリン・ファレルがコメディ部門で男優賞を受賞というニュースが入ってきた。
作品賞にノミネートもされていたようだ。知らなかった。

これでオスカーでも完全無視されることはないだろうし、日本で公開されるかもしれない、と友人Tさん、大喜び。


そんなことがかなりうれしい、在ブルージュ神戸人。


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