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子どものアイデンティティについて




「あなたのお嬢さん(ベルギー人と日本人の間の子ども)のアイデンティティはどうなっているの?」


日本の知人から不安げに投げつけられた、「お嬢さんは何人(なにじん)なの?国籍アイデンティティがはっきりしないと根無し草になるんじゃないの?」という質問だ。悪意からではなく、彼女はわたしたちに深く同情しているようだった。

アイデンティティか...何年何十年か前に流行ったキーワードだが、ここしばらくはあまり聞かなくなったような気がする。


日本では、「日本は日本語を話す生粋の日本人が住む国」と考えることが普通である。それが幻想であっても、わたしたちは普通、それを前提にしてものを考えたり行動したりする。
それで世界の国々も、例えば「ベルギーはベルギー語を話す生粋のベルギー人が住む国」だ、というイメージを生むのだと思う(本当にそう思っておられる方と時々出会う)。

しかし周知のように、世界を見渡すと日本のような国の方が少ない。
また、EUが目指しているのは、国民国家が目指した「ベルギーはベルギー語を話す生粋のベルギー人が住む国」という種類の考え方とは逆の方向だ。

このようにナショナリティというものはベネディクト・アンダーソンが言うように、共通属性の産物ではなく、政治の産物なのである。



わたしの知人の中には、父親がインド人で母親がイギリス人、シンガポールで生まれで大学はアメリカ、スイスの企業に勤めていて、現在は駐在でベルギー住まい、特定の信心はない、という人などいくらでもいる。

彼ら彼女らには「○○人」というアイデンティティが希薄だから、一言語、一文化、一国籍の人々よりも自我形成が不完全で、文化継承度が低いと言えるのだろうか。わたしはそうは思わない。


わたしは日本人として、日本語と日本文化、日本の歴史、日本の風土や食文化などに絶大なる誇りを持っているが、現代社会で子どものアイデンティティ形成に大切だと思うのはただ一つ、


世界と幸せな関係を結ぶ(簡単に言うと幸せな経験)こと


これだけである。




(でも子どもの頃の幸せな記憶というのはいくらでも捏造できるそうなので、まあ、人間個人のアイデンティティなどというものは「国民」「国家」などと同様に結局政治的なものなのかもしれない)
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ひとはなぜいきるの




娘が3年生の時のことだ。


祖父が「人間はなぜ生きるんだろうね」

と聞いたら、彼女は

「そりゃ神さまにしかわからないことですよ。人間はそれがわからないから生きるんですよ」

と言った。


という話を思い出した(当時は作文にも書いたから、ここにも記しておいたと思うのに、見当たらない)。


娘とその祖父はこういうスモールトークをよくやっていて、娘も小さい頃はしょっちゅう「ええこと」を言っては大人の胸の中の柔らかいところをわしづかみにしたものだったが、成長するにつれ、ごく普通のことしか言わなくなって来た。まあそれが社会的に成長するということなのだ。



昨夜、娘は宮崎駿監督の「ぽにょ」を観終わって、

「ああ、ラーメンが食べたくて死にそうですよ」

と楽しそうに言った(主人公等がおいしそうにラーメンを食べるシーンがあるそうだ)。

ほんまに普通のことしか言わんようになっとるな。

でもほら、わたしにとっては、娘はわたしの「文化」を最も理解してくれる最も身近な人なのである。夜中にラーメンが食べたくなる人なんか、わたしの周り半径2キロには彼女しかいない。


ああもしかしたら、人が生きるのは、人生においては、映画を観て無性にラーメンが食べたくなるような、そういう種類のことが時々起こるからなのかもしれない。

(ラーメンを食べるため、じゃなくってよ)


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後藤さん




わたしは芸能界や芸能人についてほとんど何も知らないから、正しい情報を記すことは目指していない、ということを断ってから書き始める。



後藤久美子と言えば、ときどき雑誌のグラビアで見かける、パリでも何度か見かけたことがある、大変綺麗な人、という認識しかなかった。
最近、文章のスタイルがものすごく好きなブログに、彼女のことが詳しく書かれていて、そこから「へえそういう人なのか」とその一面を知ったのである。



この人物の魅力は完全なる現状肯定だ、と思った。


子どもの時分から容姿に恵まれ、その面での自信というのは世間一般以上にあったに違いないが、「今、これでいい」という自信(根拠はないかもしれないけれどそれでも十分)が醸し出す、常に「素」の状態が彼女の魅力なのだ。


わたしが芸能人一般に興味がないのは、彼らが注目をおねだりする仕方が「見苦しい」からである。


「素」や「自然体」(<ああイヤな言い回し)を売りにしている芸能人はよくいる。でもその多くは「自然である」ように見せかけているだけの大根役者(だってわたしが見ても偽物だと分かるもん)に過ぎないと思う。

たいがいの人間はそのように世間に向かって自分をより良く見せようという努力をする。
人からこう思われたいとか、感心されたいとか、認められたいとか。
自然体だと思われたいとか、自然体だと感心されたいとか、自然体だと認められたいとか(笑)。

その結果、言い訳をしたり、説明をしたり、媚を売ったり、ブログを書いたり(笑)に忙しくなる。
一方、彼女はそういうことをしなさそうにわたしには思えた。そんな必要がないのだ。
それゆえ人付き合いもあっさりしていそうな気がする。



ここで手前味噌、わたしは以前も書いた祖母の教えを思い出す。

「外面も内面も美しく努めるのは自分の家の内だけにする。
そして外出時はのびのび自然のままに振る舞う。
つまり外出時に美しくありたいなら普段から身も心も常に美しく生きるしかないのである。」


わたしは彼女が美しい心持ちの人なのかどうかは知らないが、「ええかっこ」する必要がない人というのは見苦しくない、つまり美しいのだな、としみじみ感じたのである。





その点、特に容姿に恵まれて産まれて来た人というのは「素」で平気な可能性が高いので得である(こういうことを損得で考えるのが恵まれていない人の悪い習慣である)。
そういえば以前塩野七生氏かどなたかが書かれていた。すなわち絶世の美女トロイのへレナは服装にも化粧にも全くこだわらなかったはずだ、と。


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la grande dame




義理の母は身長170センチ、押し出し堂々たる女性である。

加えておしゃれが大好で、「おお!グランダム」と誤解(?)されることしばしばであるが、彼女の中の人は一昔前の小さな少女であり、はにかみやで、そこが逆に落ち着いたマダムの風格、と勘違いされるわけだ。


先日も友人が彼女と初対面の挨拶をかわし、「ヨーロッパのマダム、っていう感じだわあ」とほれぼれ言うから、

彼女の人となりをひとことで表わすとですね...



娘のお友達が遊びに来てくれた時、

「まいちゃんとまきちゃん。まいちゃんはパパがベルギー人、ママが日本人でアントワープに住んでて、
まきちゃんはご両親ともに日本人でブラッセルに住んでるの。」


「まあっーかわいいわあ!

で、二人、姉妹?!」



この逸話ほど彼女のエッセンスを表すものはないと思う。

このように人の話を全然聞いてなくて、いつも失敗するわけです。


このうえなく人のいい女性なんですけれどね...
わたしが祖母になっても彼女ほどは孫に好かれないだろうという自信があるほど。





本当に少しの邪気というもののない人物なのだが、物の分かった方は、そういう人物の及ぼす害毒の方が時に大きいということをご存知であろう。
そしてこのように人のことを笑っていながら、もちろんMoetを表す逸話もある。またの機会に。



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ブランメル




「優雅な生活が最高の生活である」を読みたいのだが、絶版で残念、というメールを有り難く拝見した。


「優雅な生活が...」はトムキンスの小説で、たしかに優雅な生活が最高の復讐、ではある。
しかしわたしがこの美しい諺から想像する内容とはかなり違う(んですよ、Oさん!) 。


わたしが「優雅な生活が...」から連想するのは、むしろ例えばジョージ・ブランメルのスタイル、生田耕作著の「ダンディズム」の方だ。


すべての物事に対して泰然自若と距離を置く様。

最も価値のないものに価値を付け、その音色に合わせて王侯貴族を踊らせ、しかも自分は無傷。ボー・ブランメル。


「ダンディズム」から、バージニア・ウルフなどによるブランメル評を引用しようと試みるも、難しい...
「要するに、他の芸術家たちがその作品で認められたように、ブランメルはその人格の芸術でもって認められたのだ。すなわち、ブランメルの価値は、その場限りのもの,彼の人格とともに消滅する種類のものであった。」
と書かれているように、上手く彼のその「優雅さ」が引用できないのである。

もしかしたらこれが、ブランメルが映画化されていない原因なのかもしれない。

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