goo

海を眺める山の船



ネットの発達のおかげで、蟄居しながらにして新しい情報を手に入れられると同時に、子供の頃の淡い思い出の場所や物を再発見できるようになった。

普段は落ち葉のように重なり合い沈んだままになっている記憶が、何かのきっかけで炭酸飲料の最後の泡のようにゆらゆら表面に浮かんで来ることがある。
そうなるとわたしは居ても立ってもおられず、その小さな泡のような思い出をすくってそっと検索にかけてみるのだ。

過去には「ヘボソ塚」、「クイーン・エリザベス2世号」、「おてんきぼうやとおてんきみどりちゃんの着せ替え」、「須磨のカーレーター」、「フランス人のP神父」、「ゴンチャロフさん」...


先日、記憶の底からゆらゆら浮かんで来たのは摩耶観光ホテルだった。

廃墟ブーム(そんなブームが1998年頃からあったのですね...)で全国的に有名になり、ネットにもたくさん写真が上がっているからご存知の方も多いかもしれない。


摩耶観光ホテルは摩耶山(摩耶「山」の「さん」は、山田「さん」の「さん」と同音で発音される)の中腹に、神戸市街と海の方向に客船が船頭を突き出すようにして優雅に建っていた(正確には今も建っている)。


わたしがそこをしょっちゅう訪れたのは70年終わりから80年初め頃だった。

当時もすでに廃れ感いっぱいではあったが、摩耶学生センターという研修所として一部機能していたのだ。

研修所に様変わりする前には、モダニズム建築のホテルとして使用されていた形跡がまだあちこちに残っており、事情たっぷりで妖しげな寂れ方と、建物全体が醸し出す不思議な懐かしさに誘われて、館内をよく探検した。
一時的に閉鎖されたり、間に合わせで改装されたりした箇所が多かったので、迷路のような魅力があったのだ。

研修所としては解放されていなかった下の方の階へ行くと、深閑と客室のドアが並び、明らかにしばらく使用されていない空気が漂っていた。
白壁とマホガニー色。メタルやタイルが多く使われていた。

ドアノブを回すと意外にも鍵はかかっておらず、息を止めてドアを開けてみる。

客室の家具には白いシーツなどがかぶせてあり、意外に清潔で、ちょっと掃除をしたらまだまだレトロなホテルとして使えそうだった。
アールデコ風のしつらえは華美でもなく、安っぽくもなく、趣味がよかった。

怖かった。
幽閉された人か死体をを発見してしまったようなそんな感じがした。
こんなに整った施設があるのに、なぜこの客室を使わせてもらえないのだろうかと言い合った。
そして怖がりながらもこの客室群を何度も見に行った。
だれも部屋の中に入って行く勇気は持っていなかった。


おそらく最後に訪れた時だったと思うが、講堂(ネットでも写真がよく上がっている)のステージが丸ごと某新興宗教の豪華な、しかしどこかうら悲しい祭壇になっていた。
○○教xxxなどと黒々と墨で書かれた板が両脇にかかっている。
枯れかけの安っぽい花。
色あせたカーテン、白黒の大きなポートレイト。
可憐な信仰心で思いつく限りに飾り立てた祭壇は、拙いほど生臭く不潔な欲望で彩られているように見えた。

これを見つけたときはさすがに罰せられるのではないかと飛び上がってみなが我先に逃げ出したのだった。

最後までこの館の管理人の姿を見ることはなかった。
管理人なぞ最後まで存在せず、建物そのものが自給自足していたと聞いても納得してしまいそうではあった。


...


大学生の頃、20世紀初頭の洒落た文化とミステリと妖しくも美しいものが好きなことで意気投合した年上の友人と話をしている時に「摩耶観光ホテル」の話題になった。

わたしたちはいつかあそこがアールデコのホテルとして再建されればいいのに、救えるうちに救えたらいいのに、と夢見るように話し合った(1993年まで学生センターとして使用されていたとは知らなかった)。

ネットに上がっている写真を見るともう手遅れなのか、と思う。

わたしたちの世代が20世紀初頭の神戸の残り香を覚えている最後の世代ではないかと思うので、何か心残り。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

queen elisabeth music competition




毎年、ベルギー人は...少なくともわたしの周りのベルギー人は...この季節になるとそわそわする。
ユーロビジョン・ソング・コンテストとエリザベト王妃国際音楽コンクール (Koningin Elisabethwedstrijd / Concours musical international Reine-Elisabeth-de-Belgique) が開催されるからだ。

ユーロビジョンの方はブラック・ジョークのネタにされるだけだが、ベルギーのブラッセルで開催される世界で最も権威ある3大コンクールのひとつエリザベト・コンクールの方は、市井の人々も中継をTV前で正座せんばかりの勢いで鑑賞し、大真面目に語り合って楽しむ。

語り合うと言っても高度な話ができるわけではないから、ようはあのコンチェルトが一番好きだとか、華がある演奏家は観客にアピールして得だとかいう話になり、でもそういう話を聞いているだけでも人々の関心の高さが伺えておもしろい。また、技術的芸術的なネタをそれぞれが新聞やラジオなどで仕入れて来ているので、そういう受け売りをああだこうだと料理し直すのも楽しいのである。さらに専門家が座に加わると、別の視座を手に入れたような気になり、展望が開け、爽快で興味深い。


今年のコンクールはピアノで、そのファイナル開催が娘のハーフ・ターム(一週間の学校休暇)に合うのに目を付けた夫がチケットを早々に購入していたものの、翌週から学年末試験が始まるということは忘れていたそうで、わたしは行かないつもりにしていた...

しかしブラッセルの友達とごはんに行けるという誘惑と、また娘のピアノの恩師がメジャーなメディアでコメンテーターをするというので、一緒に食事をしながら普段は聞けないような話を聞けるという下心もあり、結局1泊の強行でブラッセルまで往復。

結果、行きは特にユーロトンネルの遅れの影響が3時間も出、9時間近くかかってブラッセルに到着...それでも行ってほんとうによかった。運転手には気の毒だったが。
生で鑑賞できたことの喜びは大きく(1夜目の Zhang Zuo のヴィヴィッドな演奏!)、また娘の恩師に話が聞けたのは本当に有益で、あるいは会場でプログラムを貸してくれたりした隣のマダムの独善的な劇場論ですらもおもしろかった。友達と念願のレストランにランチに行けたのはもちろんのこと!!


今も昨夜の演奏を聴きながらこれを書いている。今夜、3夜目も楽しみ。そして明日も明後日も...しばらく楽しみがある。今夜は義理両親が観に行くので、またそれでわが家は盛り上がるだろう...

ヨーロッパは音楽に彩られたいい季節なのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

chopin nocturne in c minor op. 48 によせて




最近はフォーレとプロコフィエフとプーランクと、もちろんバッハを練習中の娘のお楽しみが、ショパンのノクターン13番を弾くことだ。
娘がショパン・ファンを自称し始めた頃、わたしが一番好きなショパンとして聞かせたら、たちまち彼女にとっての一番にもなり、それ以来時々弾いているのだ。
他の曲の練習はさっさと終わらせてしまうのに比べ、この曲は一種の情熱とともに練習しているのが分かる。聴いている方も気持ちがいい。
今のピアノの先生は大層難しい方なので、娘はこの曲を見て欲しいとは自分からはとても言えないらしいが。


13歳から15歳くらいで、ずっと続けていた楽器などの稽古を一旦止める人は少なくないのではないかと思う。
これは自分自身の経験からと、子を持つ人の話などからの帰納。

勉強や部活、趣味や友人関係が忙しくなるのはもちろんだが、今までは親に言われたからやっていたにすぎないお稽古を「止めたい」と理屈で説明できるだけの知恵がついてくる。同じ曲を次の次元の完成度を目指して繰り返し教える先生にうんざりして、「なぜそこまで」と問うことができるようになる。あるいは自分の能力と関心の限界や、理想との齟齬を客観的に見つめられるようになるからかもしれない。こういう「目覚め」は人間の成長としては決して悪いことではないと思う。
続けてもいいけど、技術や理論はもういいから弾きたい曲だけ弾きたいよ...どうせプロにはならないんだし、それが無理なら止めたい、もっとおもしろそうな楽器に乗り換えたい、みたいなことを言い出す。


もうかなり前のこと、娘にもそういう時期が来た。
英国では音楽教育は「グレード」試験パスが目的になっている一面があり、試験に通るための地味で陰険なレッスンは子供を音楽嫌いにする要因になっている...とさえ言っていいかもしれない。娘はグレードは終了しているので、コンクール等に出ていい成績を出すのが現行の目的のひとつで、こちらの練習も同じように地味で陰険で巨人の星的練習を要求してくるのだ。
家族としても、同じ曲を傷の入ったレコードのように何度も聞かされ(特に気持ちの入っていないいいかげんな練習を何度も聞かされるのは精神の安定に悪い)、なだめてすかして練習させ、弱音を吐かれたり、グズグズと文句を垂れるのを励ましたり仏の笑顔でやりすごすのは簡単ではない。
そしてついに怒る母。仏の顔は3度までですよ。

ある日とうとう娘が「ピアノは絶対に止めたくないけれど、同じバッハを半年もやらされるのはもうたくさん! 気が狂いそう! わたしはショパンが弾きたいのよ!」と言った。
試験勉強と宿題と、オーケストラの練習、コンクール初出場へのプレッシャー。そしてたまたまその日、休み時間中の友達とのお楽しみで弾いていたアデルの「スカイフォール」の楽譜をピアノの先生に見られ、「あなたみたいなピアニストがこんな曲を弾いてるの?!」と苦笑された、と言う。
この先生は優秀なピアニストであり熱心な教師だが、このように思ったことをすぐに口に出すという困った癖をお持ちなのである。例えば「あなたが他の先生にピアノを教わって来たことが邪魔になるのよね。わたしがあなたのたった1人の教師だったらどんなによかったか!」とか。言うなら言うで、もっと上手いこと言えよ(笑)。

わたしとしては「日本には『守破離』という言葉があってね...」などと説教を垂れてうんざりされることにも疲れていたし、ピアノ嫌いになってしまうくらいなら(<自分がピアノを止めた頃を思い出している)、純粋に楽しみのためだけに教えてくれる先生を探してもいいかな、と思ったりもした。コンクールはエントリーを済ましていたので、それが終わり次第...いや、この年度が終わり次第...そう、プロになるわけじゃないんだし...ただ、ショパンが好きならそれは続けて欲しい。


そうしたら某音楽祭の某部門で優勝して人生初のトロフィーを頂いたのだ。
その後も続けて何度か。

ええ、その次はもうお分かりですよね...

次のコンクールにも出たい、どんどん出たい、もっと難しい曲を弾きたい、地味な稽古も止めない、とこれですよ。


彼女の単純さを笑うこともできるが、人間が何かを続けるためには密室の練習だけでなく、発表会やコンペティションに出、誉められ、賞をもらい、名前が印刷物に踊り、あるいは試験にパスし、特別なグループに入れてもらう、そういう達成感が絶対に必要なのである。
天才じゃない限り。

天才とは「好きなことを長く太く続けられる才能」だと言うが、いや、天才とはひとつのことを誉め言葉やトロフィーなしでも、たとえ失敗続きでも、長く太く続けられる才能のことだ、と言い直そう。


うちの娘はとても天才じゃないので、側にいる時間が一番長いわたしが仏になって誉め続けおだて続ける所存である。

誰かわたしがおだての天才だと誉めて(笑)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

"keep passing the open windows" あるいは白いタキシードの男




夕方から晴れたのでハンプシャー州のホテル lime wood へ。


夫に、「ハンプシャーのホテルと言えば『ホテル・ニューハンプシャー』やんね!」といつも言いたくなるのだが(もちろん「ハンプシャー」が共通しているだけでなんのつながりもない)、彼はあの類いの小説や映画は絶対に読んだり観たりしていないから、何度も飲み込んで来た。

わたしの予定ではアーヴィングを愛読するような男と恋愛するつもりだったんですがね...

そのかわりに、「ニュー」ハンプシャーと開拓者が新大陸の土地に名付けたということは、少なくとも「ハンプシャー」が彼らにとっては美しい思い出を誘ういい土地だったということよね?
だって、汚くて惨めな土地名をわざわざ選ぶことはないもんね。新天地なんだから希望に燃えていい名前を選んだはず...
そんな話をした。


ところで、「ホテル・ニューハンプシャー」には「白いタキシードの男」がマクガフィン的に登場する。

ハンプシャーのホテルのレストランに入ると...

白いタキシードの爺さんがおられたんですよ!
正確には白いダブルのスーツ。
さすが英国である。
薔薇色の顔を銀髪が縁取り、全身の1割がピンクで残りが真っ白という、白ウサギの着ぐるみのような人だった。
白いウサギのような紳士の出入りするホテル...そんなホテル、経営したくなりますよね?ね?ね?

で、これはおもしろすぎる! と思って夫に説明しようとするも、やはり失敗に終わり(まさに上記のような根拠の乏しい説明をしたので)、ここに記すことにしたのである。このブログをご覧のみなさまの中には「ホテル・ニューハンプシャー」好きの方も何人かはおられるだろうと...



アーヴィング的に次々と問題が起こり、家庭内でドタバタやってるうちに問題も喉元を過ぎ、そこへまた次の問題が...という感じで、まさに "keep passing the open windows" (開いてる窓の「覗いてみる?」「飛び降りてみる?」という誘惑に負けずにそこを通り過ぎろ)のホテル・ニューハンプシャー。この警句は20代のわたしのモットーでもあった。

わたしも何十年かぶりでもう一度観てみようと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

あの朝はもう来ない




夫は朝からとても機嫌がいいタイプだ。

わたしも血圧が低い割には元気だが、忙しい時間帯なのであまり構われるとイラっとくることもある。


先日の朝は余分な用事があったので、夫にわたしのことを構うなと少々きつく言ったら、彼は何も言わずに出かけてしまっていた。

誰とでも、こういう別れ方はしてはいけないと思った。
不吉なことは言いたくないが、もしこの朝が最後の朝だったら? 
後悔してもしきれないだろう。

これが最後かもしれないと常に思いながら生きるのは無理にしても、明るい笑顔とやさしい言葉で生きるのは無理ではないだろう...


...


もう前のことになってしまったが、こんなことがあった。

英国では同じく外国人の立場である母娘がいた。
お母様はポスドクで変わった人だったが、わたしと話が合わないこともなく、またお嬢ちゃんは抜群に頭のいい大人びた子で、不思議とうちの超無邪気な娘と大の仲良しだった。
母娘2人とも日本のことが...特に和食と、お嬢ちゃんはジブリが大好きだった。


ある日ロンドンで待ち合わせをした時に、お母様から、事情の説明もなくちょっと非礼な...いや、目が点になるような、と言った方が相応しいのか...驚きのワガママを言われ、こちらの予定が台無しになり他所にも大きな迷惑をかける結果になってしまった。
ロンドン南部のお宅まで車で送った時点で、またね、という月並みな挨拶をしながら「娘同士は仲良しでいいけれど、親のおつきあいにはちょっと距離を置いた方がいいのかも。ごく普通のコミュニケーションがしんどいから」という気持ちになっていた。
普段から「変わった人」だという先入観がわたしサイドにあったので、「何か特別な事情があるのでは?」とまで思い至らなかったのだ。
そう、事情や理由をきっちり話せば、大体のワガママは理解してもらえるというようなコミュニケーションの仕方が彼女は苦手だったのだから。
察してあげればよかったのだ...


それがその母娘に会った最期だった。

その翌日か翌々日に急に母国に帰ったと1週間ほど経ってから聞いたのだ。
もう英国には戻らないらしい、と。

なぜそんなに急に帰らなければならなかったのか、なぜ一言も話してくれなかったのか、わたしのツテも誰も知らなかった。第一、お嬢ちゃんは最後に会った日も事情は全く知らないような感じだったし...

ある人はビザが切れ、当てにしていた更新がされなかったのではと言い、ある人は母国の家族に重病などがあり、国を空けられなくなったのではと言い、ある人は研究費が取れなかったのかもしれない、と無責任に言った。
娘はお嬢ちゃんに何度もSNSやメールで連絡を取ったが、返事は来なかった。


あの日、娘がお嬢ちゃんにプレゼントしたトトロのルーム・ランプ(日本から取り寄せたのだ)くらいは持って行ってくれたろうか。

あの日、ムッとしたりせず、最後まで思いやりを持って接することができていたなら...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ