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「フランスの最も美しい村」の日曜日




「フランスの最も美しい村」(Les plus beaux villages de France)という協会が、フランス国内で158の村を選定しているそうだ。




認定の基準は3点

人口が2000人以下
最低2つの遺産・遺跡(景観、芸術、科学、歴史など)を持ち、土地保護のための政策が行われている
コミューン議会の同意がある


オクシタニーのラグラス村 Lagrasseもそのひとつだ。

中世のバスティード(Bastide オック語)式に建設された村には、今も古い舗装道路や壁の一部、路地などがよく残り、とても美しい。

2枚目の写真は市場。すてきだ。




オルビュー川 (L'Orbieu)は遊泳ができ、しかし21度と肌寒かったので誰も泳いでいない。
ハンサムなライフガード氏が暇そうに石投げをしていた。




わたしが興味があったのが、7世紀に基礎が置かれたベネディクト派の修道院(4枚目5枚目の写真)。

カロリング朝のカール大帝から与えられた憲章によって特権を得た修道院が、中世にえげつない栄華を極め、その後100年戦争や、昨日記事にしたカタリ派などの異端との対比などで凋落、フランス革命時には2つに分割されて金持ちに売り飛ばされるなどの歴史に彩られている。

現在、半分になった修道院ではThe Canons Regular of the Mother of God、律宗司祭の共同体が入っている。







村の閉ざされたロマネスク様式の教会の庭へ入ろうとし、どう角度を変えても頭が入らずに泣き喚いていた今日の一番かわいいひと。
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カタリ派の最後




フランス南部、オクシタニー地域は多様性豊かな土地である。

葡萄畑が櫛の目のように並び、オリーブの葉が銀色に揺れ、プラタナスは巨大で、果物も野菜も味が多層でおいしい。
鴨肉は大きく、ヤギのチーズの旨味ときたら。

丘、平野、川、谷、岩山が入り組み、西にはピレネー山脈をも望む。その向こうはスペインだ。




小さなかわいらしい集落が、教会や修道院、あるいは優雅な城を中心に丘の上に形成されているかと思えば、美しい白い岩肌を見せる山頂には、岩から自然に湧いてできたかのような要塞型の山城があちこちにに見える。

山城は10世紀も終わりごろ、カロリング朝の分割化により、多く建設されたのだそうだ。


例えば一番上の写真は「風の城」と呼びたくなるケリビュス城 (Château de Quéribus) 。
左には月が...
モーリー峠を下に見る標高728メートルの岩山の上に立つ。




アルビジョワ十字軍では、カトリックへの改宗を拒むキリスト教会派のひとつカタリ派の人々が籠城して戦った場所である(1255年5月陥落)。

この一つ前の戦い、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールの陥落(1244年)では、改宗を拒んだ200人は火炙りにされたが、その残党がこちらケリビュス城に立てこもった。

ケリュビュス城に立てこもった彼らのその後の消息は辿れないとか。

まるで鳥になって天に昇ったか、風に消されたかのように。




わたしが最初「カタリ派」の名前に触れたのは、大学受験用の参考書「世界史一問一答」だったと思う。

カタリ派は12世紀から13世紀にかけて南仏で熱烈に支持されたキリスト教の一派である。


ローマ教皇を頂点にカトリック教会はピラミッド型のヒエラルキーを持ち、人々の生活を誕生から死まで、すみからすみまでコントロールし、権利権益を独占していた。

聖職者はモラル的に堕落し、汚職が広がっていた。

カタリ派は、腐敗したカトリック教会への対抗運動のひとつであった。
いわく、物質世界に汚された魂は禁欲生活によって救われ、非物質世界である天国へ入れると教え、不安定な社会に生きる人々の支持を受けたのである。

現代のわれわれには考え難いかもしれないが、死後、一番いい場所を確保したいというのが人々の最も重要な関心ごとであったのだ。


清貧と禁欲を理想としたカタリ派の増大は、カトリック教会権力を脅かすかに見え、教会はこれを異端認定し、破門した。

清貧と禁欲による生活を理想とした派としては、同じような時期にフランシスコ会やドメニコ会などがあるにもかかわらず、異端認定されなかったのはローマ教皇に対する従順が会則だったからだろう。

こちらも現代人には考えにくいが、破門されたら天国に入れなくなるため、キリスト教徒にとっては大ごとなのである。




この時代、フランスは統一された国ではなく、カタリ派支持が広がっていた南仏は、北仏よりもずっと豊かだった。

南仏の諸侯は、聖俗の長、教皇からもフランス王からも支配が及ぶことを嫌い(それほど南仏は強大だった)、カタリ派取締りを無視した。
当時はフランス王とは言っても、諸侯とほとんど横並びの存在であり、王にしてみればどうしても南仏を併合してフランスをひとつの国として統一し支配したい。

こうして聖俗の欲望が一致し、教皇が南仏へ送り込んだ改宗を説く説教師が暗殺されたことをきっかけに、カタリ派とカタリ派を擁護する南仏諸侯を討つ異端征伐、異教徒ではなく同じキリスト教徒に向けての征伐が行われたのである。これがアルビジョワ十字軍だ。

この十字軍は異端征伐というよりは、フランス王と北仏の諸侯らが、王権に服従していなかった南仏諸侯らを服従させ、その土地と土地のあがりを奪うためのものであった。
これがきっかけとなり、フランスの南北は統一される。


カタリ派の信者たちは改宗を迫られたら喜んでカタリ派信者のまま死を選んだという。

強い風が吹き、空を遮るものは何もない天空の城は、天国にとても近いように思えたことだろう。
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発泡性ワインの故郷、リムー





リムー(Limoux)に8世紀に築かれたベネディクト派修道院。

当初、聖サトゥルマンに捧げられた修道院は、10世紀にカルカッソンヌ伯の意向で聖ヒラリー(6世紀のカルカッソンヌ司教)を祀るようになった。

安定した運営は13世紀以降、100年戦争、ペスト禍、飢饉などの煽りをうけて徐々に傾き始める。


が、特筆すべきは1531年、聖ヒラリー修道院の修道士らが世界で初めての発泡性ワインを発見し、Blanquette de Limoux、リムーのブランシェットとして醸造、知られるようになったことだ。


伝説としては、かのドン・ペリニヨンが、こちらリムーの修道院の発泡性ワイン醸造法をシャンパーニュ地方に持ち出したのだと...

気持ちはわかる。
最初に発見したのはこちらだったのに、名誉はむこうに全部持っていかれたではないかという悔しさ。よくある話だ。

確かにドン・ペリニヨンはベネディクト会修道士ではある。しかし彼はシャンパーニュ地方のワインの質向上に努める過程で発泡性ワインの醸造に成功したのだそうで別ルートだ。


シャンパーニュの知性あふるる繊細さや優雅さには及ばなくとも、素直な発泡性ワインはこの土地が与える惜しみなく豊かな食卓に似合う。




以下、わたしの想像に過ぎないが。

南仏は土地が豊かだ。
悪名高きアルビジョワ十字軍の動機の一つは、豊かな南仏を配下に置くというフランス王の政治的野望であった。
ここではでぶどうを含めた農作物は掘っておいても育つ。ワインも安価でそこそこな質のものがいくらでも製造できる。

一方、シャンパーニュ地方を含む北方フランスでは、作物を含め、アルコールの製造なども苦心と研究と錯誤を重ねて製造するものであり、当然それは質の向上につながった、と...


翡翠のように美しいぶどうはMauzac。
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ミルポワの朝市




ミルポワの大朝市(ヒッピー・マルシェ)の有機野菜専門屋台で買った茄子、クルジェット、トマト、ガーリック。

庭からローズマリーを採って、オリーブ・オイルと塩、バジルのペーストを載せてオーブンで焼く。




野菜は他に味の濃さに驚いたホワイト・マッシュルーム、カリフラワー、じゃがいもなども。
チーズは大好物のモルビエ、ヤギのミルクのペラルドン、ロカマドゥール 。

大好物のシャランタイス・メロン、桃。
メロンは両手に2つを持ち、重さで熟れているかどうかを判断するのだと教えてもらった。これからはお尻を触ったり、香りを確かめたりして確かめなくてもよさそう...
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corbières




南仏色。
世界の隅々まで色がついていて、その数がとてつもなく多いことに驚かされる。


今季の収穫も近し。

数日前は、とある葡萄園が南仏で一番最初の収穫をしたと伝え聞いた。
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