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夜中のドライブ




「この年になっても、夜中のドライブに出かけるのはわくわくします」

日本の友人からメールが来た。


彼はポルシェ・タルガで湾岸線の光の中を走り、海にかかる大きな橋を渡り、神戸海上にいくつか浮かぶ人工島に入り込み、六甲山か摩耶山から夜景を眺めるのだろう。
BGMはR. Kelly。なつかし。わたしならボサノバかな。

ホテルのバアがまだ開いていたら、そこでコーヒーを入れてもらう。
時間が遅ければ、途中、宇宙に浮かぶ飛行船のように光る自動販売機で缶コーヒーを買うのだ。





わたしはその夜、夫と近所のホテルのバアでいつものように少しだけ飲んでいた。

友人のわくわくの話をして、「ああーええなあ」と言ったら、なんとヤツは笑うではないか。

ブラッセルやアントワープやらの都会の住民に夜ドライブの慣習があるかないかについては敢えて言及しないが、この辺りでは「ドライブ自体が目的の夜のドライブ」というのはフェラーリでも所有しない限り、ちょっとあり得ないことだ、と言う。

そう言えばわたしもベルギーでそういうドライブに連れて行ってもらったこともないし、自分で行ったこともない。

車は単に地点Xと地点Yを結ぶ移動手段なのである。どんなすてきなスポーツカーを所有していようとも、それに乗って地点Yへ行く、というのが目的であり、単に車をクルージングさせて夜景と音楽を楽しむ、ということは...
わたしの周りの人間が特に色気が少ないからなのかもしれないが、まあない。


だから夜景評論家のわたくしとしては、夜のドライブは比較的新しい不眠の大都会固有のカルチャーである、と結論せざるを得ない。
大都会と言ってもパリの環状線を走るのはちっともおもしろくないし、街中も確かに光の洪水は美しいが、ああいう夜景はドライブ向きじゃないんだな。おまけに道は狭いか広ければしょっちゅう信号にひっかかるかだ。

例えば5月に再訪したドバイは、高層ビル群が水に接しているという「最高レベルの摩天楼」条件をクリアしつつ、また高速は両側10車線でダイナミズムがすばらしい...(摩天楼、という漢字がまたええですな)



夫は「そんなに行きたいなら夜の海にお連れしましょうかね。道中は(田舎を通過する故)真っ暗だし、海も真っ暗でしょうけど(笑)。それがダサいと言うなら、数百年の歴史を誇るマルクト広場の夜景を見ながら飲み直しましょう。」とからかう。うるさい。


次回、日本へ帰ったら、彼をドライブのためのドライブに連れていくつもりだ。わたしのロマンをぜひ知ってもらいたいね。

でもできたら、そんな説明は不要な相手と出かけたいんだが...









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道祖神










義理両親の家、二階部分の外壁に鎮座する極彩色のマリア像。ホドロフスキーの「エル・トポ」な色。

建物の装飾とは別に、こういう道祖神的な「祠入り」マリア像は街に何カ所かある。

教会でもなんでもない普通の家のたいてい角、道の辻にあたる場所にあり、人間を災いから守ってくれる。


宗教的に正確な情報かどうかは知らないが、お地蔵さまはその霊的な高さ(菩薩だからして)にもかかわらず、人間を見守るためにわざわざ俗世に属することを選びとった、と聞いたことがある。
あの羽衣のようなシンプルなお衣装は、災いが起こる前に風の早さで駆けつけるためなのだ、と。

その慈悲は地の底まで染み渡る。


古今東西、ありがたいものですな。


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ひとはなぜいきるの




娘が3年生の時のことだ。


祖父が「人間はなぜ生きるんだろうね」

と聞いたら、彼女は

「そりゃ神さまにしかわからないことですよ。人間はそれがわからないから生きるんですよ」

と言った。


という話を思い出した(当時は作文にも書いたから、ここにも記しておいたと思うのに、見当たらない)。


娘とその祖父はこういうスモールトークをよくやっていて、娘も小さい頃はしょっちゅう「ええこと」を言っては大人の胸の中の柔らかいところをわしづかみにしたものだったが、成長するにつれ、ごく普通のことしか言わなくなって来た。まあそれが社会的に成長するということなのだ。



昨夜、娘は宮崎駿監督の「ぽにょ」を観終わって、

「ああ、ラーメンが食べたくて死にそうですよ」

と楽しそうに言った(主人公等がおいしそうにラーメンを食べるシーンがあるそうだ)。

ほんまに普通のことしか言わんようになっとるな。

でもほら、わたしにとっては、娘はわたしの「文化」を最も理解してくれる最も身近な人なのである。夜中にラーメンが食べたくなる人なんか、わたしの周り半径2キロには彼女しかいない。


ああもしかしたら、人が生きるのは、人生においては、映画を観て無性にラーメンが食べたくなるような、そういう種類のことが時々起こるからなのかもしれない。

(ラーメンを食べるため、じゃなくってよ)


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ブルージュの朝







朝の散歩。
そのまま犬も連れてテラスへ朝食へ。

街は目覚めたばかりで、観光客も、車も、ほとんど見かけない。
晴天を約束する空はうす青く、風は涼しくやさしい。
鐘の音が聞こえる。
コーヒーとバターの香りが絡まり合ってただよう。

幸福とは小さな幸せのリストをどれだけ長くできるかにかかっていると言うから、わたしも無理にこういう朝を幸せに勘定しようとする。けれど上手くいかないんだな。退屈で。
まあそういう朝もあるさ。


幸せって何?


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さようなら、パースハース





娘がシュノーケルを紛失したので、夫と一緒に行きつけのダイビングショップへ行った。

その時のことである。


会計時、コンピューターにポイントを加算するため、娘に会員名を訪ねた女主人、

「えっと、今までにシュノーケル、マスク、スーツ、それからダイビングバッグのポイントが溜まってるわ」

と言ったのである。


はて面妖な。ダイビングバッグは今年のパースハース(復活祭のウサギ。卵形のチョコレートととともに、子どもにプレゼントを持ってくる)が娘に持って来たのに、なぜこんな普通の店に購入記録が...


「パパ...」と娘は薄笑いを浮かべて夫の彼を見たそうだ。



彼らが帰宅してからこの話を聞いたわたしは憤懣やる方なかった。

この女主人、不用意が過ぎる。
もし、うちの旦那に不倫相手があったとして、彼女の趣味がダイビングで、色々買い与えてやっていたとしたらいったいどうするつもりなんだね。



娘いわく、今夕、この瞬間までパースハースのことを信じていたそうだ。

おそらくそれは本当だろう。なぜならば今年の復活祭の朝、いつもパースハースがプレゼントを置いて行く定位置にプレゼントがないと言って、この世の終わりのように大泣きしたのは記憶に新しいから。

こうやって世界のひみつのひとつひとつが彼女の前にベールを剥がれていくのだ、と思うと、なんだかすべてがつまらなく感じ始めた。

「パースハースが本当にいないわけではないんですよ。子どもを持ったお父さんとお母さんは誰でもパースハースになれるの。あなたに子どもができたら今度はあなたがパースハースになるんですよ。その子もまたパースハースになるの。すてきでしょう?」

前にも書いたことがあるが、事実、プレゼントを持ってくるのが魔法を帯びた3月ウサギの特権ではなく、誰もがウサギになれるとしたら、それはやはりマジカルなことである。

あるいはこれは「王殺し」のような機能だったのだろうか? 森羅万象の全き秩序を司る存在として王位に就いている人間は、その王位を保証する能力を失った時に殺害され、新たな王が擁立され、秩序を回復させる...みたいな。
上記の話を聞いたとき、確かにわたし自身が魔法を失ったように感じたし。



「うん。....でもまだ聖クラースのことは信じてる。だって本当に見たことあるの!」

娘は世界をあきらめていないかのように言った。

聖クラースをどこで見たんでしょうか...
それとも「信頼できない語り手」となって、彼女は無邪気を装っているんでしょうか...




*聖クラース サンタクロースの原型になった子どもの守護聖人。12月6日に子どもにおもちゃを持ってくる



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