青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

大阪のチベット・能勢町~汐ノ湯温泉

2023-10-04 | 昭和・懐かしい北摂の風景

全国どこでも人口減少に悩んでいますが、若い人に言いたいのは、買うなら電車の沿線・駅近にした方がいい!ということ。

駅からバスに乗って・・という場所の物件は安いかも知れませんが、長い目で見れば損をします。(あくまでも僕の意見です。)僕の親しい友人の例では、茨木市のサニータウンと呼ばれた山手台。かつては高級住宅地として名をはせたこの場所は、一時町にあったスーパーが倒産し、買い物のためにはわざわざJR茨木に出ないといけないという危機的な状況でした。病院や高校・大学への通勤にも時間が掛かります。昭和の時代、大金を投じないと買えなかった高級住宅地が、今ではただの不便な土地になっています。

同じく大阪府の能勢町。 2022年(令和4年)4月1日 過疎地域に指定。(豊能町と同時でした。)こちらはバスの本数も無く、大阪に出るまでには一苦労。とても通勤には適さない地域です。しかも大阪のチベットと言われるだけあって、町内全域が標高200m(天王地区は500m)地帯で大阪市内と6~10℃気温差があり、夏は涼しいものの、冬は氷点下まで下がる日が多いなど冷え込みが厳しく、2012年2月3日にはマイナス9.1℃を記録しています(天王付近ではー13℃)。ガスはプロパン、水道は町水道で料金がべらぼうに高く、テレビ電波が入らない家もある。水道も未だに井戸水で、トイレは汲み取りの場所も多い。

かつてここに住んだ僕は、引っ越した後に物件が無料でも引き取り手がなく、苦労して手放すまで固定資産税は勿論ですが、驚いたことに住民票は東京都・実際に住み、働いている場所が東京なのに、東京都に住民税を払いながら、能勢町からも住民税を請求されて払っていました。(間違いではありませんので、念のため。)住んでもいないし、住民登録も無いのに住民税です。

不便な場所に住むと家自体は安価で手に入りますが、インフラが整備されておらず、町の経済が破綻しかけている場合があります。病院も遠く、自動車の運転がおぼつかなくなれば、まず生活することは難しくなります。またいろんな既得権を巡り、自治体がむちゃくちゃなことも。現に僕が能勢町に移った時には、町会長が自治会の積立金数千万を持ち逃げする事件もあり、その後はダイオキシン騒動もあり、ずさんな町政治のせいで地価は信じられないほど下落して、ローンを完済しても無料で引き取り手もありませんでした。能勢町には立派なスポーツ施設もありましたが、ボイラーが故障してからは修理も出来ず(お金が無かった)シャワーは使えない、温水プールは閉鎖。次々と想像もできない事態が続発しました。

都会ではこういうことはまずあり得ませんので、若い方は家を買うなら交通の便の良い所、病院に近い場所、治安の良い場所にすべきです。

そんな能勢ですが国道が整備されており、自家用車があるなら大阪市内に出るより、京都市内に出る方が早く楽しい。また亀岡に向かって温泉も点在していました。仕事が無ければ都会から離れ、住み心地もそれなりでしたが、今はゴルフ場も閉鎖になったり、喫茶店も店じまいするばかりで不便なばかりです。

写真は昭和59年(1984年)の能勢町・汐ノ湯温泉前です。一級河川の山田川は、現在は写真のような土橋は少なくなりました。川に沿うのは国道173号で、この当時までは2車線でした。蛍も多く見られましたが、この年に拡幅工事が行われました。

そしてこちらは同じ平成15年(2003年)の汐ノ湯温泉前。生活道路に繫がる橋もコンクリート橋に架け替えられ、温泉の正面入り口も改装されています。

こちらは現在ですが、町のど真ん中を通る173号線は閑散としています。

同じ能勢・豊能地区には「妙見の森」があります。能勢電鉄が妙見山で展開している観光事業です。能勢電鉄の終点妙見口駅から約1.5km離れた黒川駅を起点として「妙見の森ケーブル」が運行しており、山上には能勢電鉄が運営する自然と遊びのエリアが広がります。

「妙見の森ケーブル」のほか、「妙見の森リフト」(索道線)といった乗り物や、バーベキュー場や遊具、足湯もありますが、能勢電鉄は、こうしたエリア全体の事業を本年2023年12月4日に廃止します。

西日本唯一の標準軌のケーブルカーも廃止となるのは寂しいものです。賑やかな都会とは違い、その周辺地域では、どんどん消えて行くものが多い。地方行政や世の中の流れに目を向けるのを忘れてはならないと考えます。どこかの芸能事務所の騒ぎなど、僕らの生活や人生には無関係です。そういうものに目を向けるのではなく、マスコミも我々も自分たちの生活に直結することにこそ目を向け、考え、対策に時間を使うべきではないでしょうか。

 


未来に向かう“千里ニュータウン”

2023-10-02 | 昭和・懐かしい北摂の風景

昭和と令和の1番の違いは、昭和が未来に向かって行く時代だったこと。

僕が小中学校時代は、1学年に10クラス以上があり、子供たちは多かった。万博の少し前に完成した千里ニュータウンには、多くの人々が入居して町が栄えていました。今ではエレベーターも無く、空き部屋が多く、高齢者が住む千里ニュータウンは「団地」と呼ばれていますが、僕が子供の頃ここはとてもハイカラな造りで、今でいうマンションのような輝きを放っていました。

写真は北千里駅の西北側、千里北地区センター北側から青山台の公団住宅を臨んでいる昭和42年(1967年)のものです。大勢のサラリーマン達が、早朝に駅へと向かって行く姿です。明るい未来に人々が希望を持って歩んでいるように見えます。

左の土手は、後に今はもうない千里小学校校地となりました。

こちらは違う角度から。横断歩道の向こう、後の校地で車の販売会を行っている風景です。こちらは先ほどの2年後、昭和44年(1969年)で、マイカーを持つ人々が増えて行く時代です。

子供も自動車も増えていく良き昭和の時代。令和も未来が輝くことを信じて、子供が増えて行って欲しい。どんなに世の中が便利になっても、人がいない町では未来は暗いものとなります。子供の声が聞えない町、子供の姿が写っていない町並み。どちらも寂し過ぎます。

 


アントニオ猪木一周忌:新日旗揚げ・わが町興行!

2023-10-01 | 昭和・思い出は色褪せない

私の子供時代からのヒーローの1人、アントニオ猪木がこの世を去って1年。本当に寂しく思いますが、猪木が引退して、彼の試合が新たに見ることが出来なくなったのは1998年4月4日ですから、それからは25年もの年月が経過しているのです。だから猪木さんが亡くなったことで、実は僕は以前にも増してDVDで猪木の残してくれた名勝負の数々を鑑賞する機会が増えています。

猪木が種を捲いた格闘技の概念は、彼の多くの弟子達により総合格闘技として体現され、徐々にルール整備もされ、観る人々を教育して、今日の総合格闘技の繁栄につながったことは誰にも否定出来ません。ただ僕は今日の総合格闘技を観ることはあっても夢中になっていません。選手が小さいからです。かつてのプロレスラーやボクサーらはヘビー級であり、その存在感だけで強さを感じました。しかし、今の一般人と変わらない体格の選手は、戦う前にトークで吠えまくる。そのスポーツマンらしからぬ言動は好きになれません。昔のプロレスラー達が黙って電話帳を引き裂いたり、リンゴを掴んで粉砕するデモンストレーションの方が心に響きました。

これは1972年(昭和47年)3月に旗揚げした新日本プロレスが、最も観客動員に苦戦していた苦難の時代の興行写真です。



7月24日の「ニュー・サマー・シリーズ」の開幕戦。場所は大阪・豊中市上新田千里インター横広場。千里ニュータウン前での野外試合でした。この時の記録を残していました!左が勝ち選手です。

第一試合 リトル浜田(逆エビ固め)木原伸一
第二試合 魁勝司(背骨折り)藤波辰巳
第三試合 レオン・バクスター(首固め)木戸修
第四試合 サパタ・マルチネス(反則)山本小鉄
第五試合 豊登(逆エビ固め)ディック・ダン 

バトルロイヤル8人参加 藤波(逆エビ固め)浜田

セミファイナル コーア・チキ(反則)ハロルド坂田

メインイベント 猪木・柴田勝久(2-1)ボビー・キャッシュ&エニー・ラスター
①柴田(片エビ固め)ラスター
②キャッシュ(片エビ固め)柴田
③猪木(体固め)キャッシュ

メインは3本で30分弱、観客を魅了していました。地方だからと手を抜いて早く試合を終わらせていたら、次回お客さんは来てくれません。猪木を先頭に、「次は知り合いを連れて来てくれる試合」を心掛けていました。懐かしい写真です。

木原はこの日がデビュー戦。このシリーズからやっと、バトルロイヤルを含めて、初めて8試合が組めるようになりました。有名外人レスラーなど1人も呼べず、「猪木が出場する新しいプロレス」が、唯一の売り物の時代でした。

本当に「闘魂」だけを選手一丸となって見せていた、素晴らしい時代の試合を観戦できたことは、今から思えば幸せなことです!