これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

芹(せり)尽くし料理の思い出

2023-09-09 08:49:16 | 人生
【はじめに】
 9月に入っていますが、連日暑い日が続いています。 それでも、1週間ほど前に、赤トンボが2匹飛んでいました。

 先日、窓を開けて上半身だけ外に出して、タバコを吸いながら稲妻の走るのを見ていました。 何故か?ふと、大昔に『芹尽くし料理』を頂いた事を思い出しました。

【芹(せり)尽くし料理の思い出】
 仙台の大学に合格して、下宿を探す為に3月の末に仙台に行きました。駅前でタクシーの運転手に、「貧乏なので、安い宿に連れていって下さい」とお願いしたら→→榴岡公園の近くの料理旅館に連れていって→→女将を説得して→→素泊まりを条件に、格安の料金で泊めてくれる事になりました。

 当時、仙台にはワンルームマンションは勿論、共同の炊事場の付いた安アパートが無く、学生寮に入るか、下宿に入るかでした。学生寮は何カ所かに有ったので見に行きましたが、ボロボロで、学生運動の拠点になっていたので、論外でした。下宿は沢山有りましたが、私の予算内のは見当たらず、探し回りました。

 翌日の夕方・クタクタになって→→料理旅館に帰ると→→仲居さんが、「お客さんと食事をしてくれませんか?」と言うのです。願っても無い事だったので了解しました。電気炬燵を置いた六畳程の和室に通されました。炬燵に高価そう和服を着た老人と女将が座っていて、私が入室すると女将は出て行きました。 そして、老人は身の上話を始めました。

 老人は癌の末期で、余命が幾許(いくばく)も無く、病院に最後の外出を許可してもらって→→馴染みの料理旅館に、大好物の芹(せり)料理を食べに来ていたのです。 「悔いの無い素晴らしい人生だった!」と言う様な話をされました。

 暫くすると、芹の入った炊き込みご飯、芹の和え物、澄まし汁・・・などなどが運ばれて来ました。肉料理も魚料理も無かった様に記憶しています。私は若かったので、「イワシかアジを焼いてくれたら!」と思いましたが、タダですから贅沢は言えませんでした。

(質問 :最後に何を食べたいですか?) 私は、そろそろ鬼籍に入ってもおかしくない歳になりましたが、「最後に何を食べたいですか?」と問われても、今のところ思いつく料理は有りません。 その時になったら、多分、妻の得意な料理を選ぶと思います。

 私の故郷・紀州では毎年・どの家でも『秋刀魚の押し寿司』を作ります。 母は、病院で103歳で亡くなったのですが、亡くなる3か月ほど前に『秋刀魚の押し寿司』買って、病院に行き→→二人で食べました。 母は食欲が無くなり、味も分からなくなっていたのか?、少し食べましたが「美味しい」とは言いませんでした。

(質問 :最後の晩餐は誰と食べたいですか?) イエス・キリストには妻と子供が(一人か?二人)いたようですが、最後の晩餐に12人の使徒達を招いた様です。然し、最後の食事は妻と子供達と食べたのでは?と私は勝手に思っています。

 芹尽くし料理を御馳走してくれた老人は、裕福で幸せな家庭の主人の様に見えました。 最後の晩餐を、家族や親しい人では無く、何故?私と食べたのでしょうか?

コメント :榴岡公園) 榴岡(つつじがおか)公園は、楽天イーグルスの本拠地になっている宮城球場の近くの岡の上に有ります。 私が学生時代には、勿論、楽天イーグルスは有りませんでしたが、(田舎の球場と言う感じの)宮城球場は有りました。友人の家が球場の近くに有ったので、何回か行った事が有ります。 私が泊まった料理旅館は、木造の和風建築でした。現在は無くなっています。

 料理旅館の近くで、家庭教師の口を見付けて、食堂の一人っ子の娘さんを教えました。家庭教師をすると夕食が出る事になっていました。有り合わせの食材で、チョコチョコっと、賄い料理を作ってくれたのですが、何時も素晴らしく美味しかったです。

【子供の頃の思い出】
 私は紀州の山村で育ちました。水田の用水路に芹が沢山自生していて、青野菜の無い頃は芹を澄まし汁や味噌汁にタップリ入れていました。

 私が小学校に入る前から、芹を採って来るのは私の役目でした。 用水路の畦道(あぜみち)に時々蛇がいました。姉達は皆、蛇が怖かったのです。 芹を採る頃、蛇はまだ冬眠していましたが、姉達は畦道には近づきませんでした。

 紀州では朝食に『茶粥(ちゃがゆ)』を食べるためだったのか?、我が家では『七草粥』は作りませんでした。 なお、我が家では茶粥を『おかいさん』と呼んでいました。

 我が家の茶粥には、たいていサツマイモが入っていました。茶粥は直ぐにお腹が空いてしまうので→→腹持ちを良くするために、サツマイモを入れていたのだと思います。

【妻と芹】
 妻も紀州の生まれですが、茶粥は作りません。その代わり、毎年必ず、芹がチョッピリ入った七草粥は作ります。 然し、他には芹の入った料理は作りません。

【楽しい学生時代が始まりました!】
 月一万円の下宿を見付けました。日当たりの良い、南向きの部屋で、小母さんの料理が美味しかったので四年間過ごしました。

 下宿は大学からは遠かったのですが、北回り/南回りの有る循環バスの起点の近くでした。 循環経路には大学だけで無く、仙台駅と仙台市の繁華街(一番町)が含まれていたので、通学だけで無く、家庭教師等のアルバイト、古本を買ったりするのに便利でした。定期券を買うと、循環路線内の全ての停留所で昇降出来ました。 (榴岡公園の近くも通りました。)

 家から送って貰ったお金は『12,000円/月』でしたが、奇跡の様な事が幾つも起こったので、貧乏学生でしたが、色々工面してスキーを楽しむなど、楽しい学生時代を送る事は出来ました。 学生時代に起こった奇跡は、次のプログに書きました。

 『私の貧乏学生時代』 投稿日=2020年7月11日

正月に働いた事が有りますか?

2023-01-07 12:02:18 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の年末年始の記憶を書きます。

 私の管理している大阪の賃貸マンションに、30歳前後の男性が一人で住んでいます。入居する時「接客業です」と言っていました。9時頃に出掛けて→→22時頃に帰宅します。休みは木曜日だけで、年末年始は休み無しですから、年間310日以上働いています。

【正月の屋台】
 私は無神論者なので最近は初詣には行きません。子供が小さい頃は毎年行きました。子供にとっては、『屋台』は正月の楽しみの一つですね! 初詣の屋台は、宗教に関係なく楽しい/素晴らしい風習だと思います。

 ある屋台の前を通りかかると、「さっき一万円札を渡したのに、貴方は五千円札と間違えて釣りをくれた。僕が渡した一万円札には印が付いている。」と言う客がいました。私の目の前で、女性の店主が金を入れている木箱を開けて、印の付いた一万円札を探し始めました。木箱にビックリするほど沢山『札』が入っていました。屋台は儲かるんですね!

 印の付いた一万円札が見つかっても、釣り銭を間違えた証拠にはなりません。私は『詐欺』ではないのか?と疑ってしまいました。

【明治神宮→浅草→成田山】
 私は19歳頃に、東京の2室しか無い小さなアパートで、1年間ほど自炊した事が有ります。共同のトイレと炊事場が有りましたが、風呂は近くの銭湯に行く必要が有りました。出稼ぎ労働者達と肉体労働をしました。

 正月休みに何もする事が無かったので、大混雑すると言われていた東京の初詣を見に行く事にしました。31日の22時頃に出発して→→明治神宮の賽銭を投げ込む場所の前に0時頃に到達しました。

 当時、参道は一方通行でした。おぼろげな記憶ですが、原宿駅で下車して代々木駅の方に歩いたと思います。噂通り凄い人込みで、私の前に若い芸者と思われる着物姿の女性を二人連れた、和服の大店の旦那と思われる方が歩いていました。周りの人達が大きな声で旦那を冷やかすのです。旦那を目掛け蜜柑を投げる輩もいて、私の頭に当たった記憶が有ります。

 多分今でも同じだと思いますが、本殿の前に筵を敷いて、その手前に縄を張ったのが賽銭を投げ込む場所です。一番前まで行ける人は少なく、後ろの方から硬貨を投げていました。私は、どれだけ賽銭が集まるのか見たかったので、一番前まで無理して進みました。初詣が始まったばかりの時間でしたが、ビックリするほど沢山賽銭が入っていました。

 次に向かったのは浅草寺です→→その後、成田山新勝寺に行きました。途中、屋台で休憩して、朝食と昼食を頂きました。その後で川崎大師に向かう予定だったのですが、疲れてしまって帰路につきました。(雑踏の中を歩くのは疲れます!)

 アパートに帰って、牛乳を温めないでガブガブ飲みました。体が冷えていたので、酷い腹痛と下痢になって→→二日間寝て過ごしました。姉が、「お賽銭を入れなかったので罰が当たったのよ!」と言いました。

【藪入り(やぶいり)】
 私の父は1901年(明治34年)生まれです。尋常小学校を中退して、和歌山県・南部町の商店に丁稚奉公に入りました。その頃はまだ藪入り(やぶいり)が来るのを待っている子供や親がいたのです。藪入りは、『旧暦の1月16日』と『旧暦の7月16日』ですから、丁稚達は正月も働いたのでしょう!?

 藪入り以外に、月に何回か丁稚に休みが与えられた様です。休みの日、父は10kmほど歩いて田辺市の『辻の餅』と言う店に『おけし餅』を食べに行ったそうです。私が小さい頃、私を田辺市に連れて行くと、『辻の餅』に寄って『おけし餅』を御馳走してくれました。

 店の奥に10人程が座れる椅子が置いていて、何時も老齢の女将さんと父は世間話をしていました。女将さんが茶をだしてくれて、私は『おけし餅』を沢山食べました。私は今でも、田辺市に行ったら必ず『おけし餅』を買って帰ります。

(余談 :お盆) 浄土真宗では盆や法事にお餅を仏壇に供え、その餅を『おけそく』と呼ぶそうです。 田辺市では宗派に関係なく、盆に『おけし餅』を買って食べる様です。妻の実家が田辺市に有るので、私は盆には早起きして、『おけし餅』を買って来ました。未明から作ったら、追加は作らないので、早く行かないと売り切れてしまうのです。段々・この習慣は下火になって来たので、今は午後からでも買えるかも知れません。

(余談 :店は正月二日から) 私が子供の頃、故郷の龍神村には商店が20軒以上有ったと思います。現金商売では無くて『掛売』でしたから、12月の末には店主は集金で大忙しでした。疲れてしまって、多分どの店も元日は『寝正月』だったのだと思います。正月二日から店は開いていた様に記憶しています。

 街の丁稚を使っていた大きな店も、元日は休みだったと思います。丁稚達も『寝正月』だったのでしょう!

 父は山林労務者を10人以上雇っていました。賃金は盆前と12月の末に支払っていました。その金で商店の支払いをしたのです。

【年末年始の賃金】
 製鉄所や製紙工場は24時間の連続操業をしています。機械のメンテナンスや改造工事は、一般に運転を止める正月、お盆、ゴールデンウイークの時期に行います。

 正月工事の時は、昔から全国的に特別な日当が支払われました。31日~2日は3倍、30日と3日は2倍、29日と4日は1.5倍だったと思います。 工事費が嵩むので、正月工事は段々と少なくなって来ました。

 私は製紙機械の設計開発に通算9年間ほど携わりました。富士市の製紙工場で3回正月工事の現場監督をやった事が有ります。正月に営業しているビジネスホテルや安宿が少なくなっていました。現役か元か忘れましたが、市会議員が銭湯を相続して、隣接地にビジネスホテルを建てていました。ホテルのロビーから直接、銭湯の脱衣所に入れる様になっていました。

 このビジネスホテルは料理が美味しくて、リーズナブルな料金だったので、普通の時はなかなか予約出来ませんでしたが、年末年始はガラガラでした。そんな分けで、私は3回の正月工事の時、利用させてもらいました。

 年末年始は従業員の多くを休ませて、配膳を御主人がされました。31日~3日まで通常の2倍ほど高い料金でした。 但し、夕食には毎回大きな伊勢海老を一尾(いちび)焼いた料理が出ました。最初の二日は幸せな気分でしたが、4日目になると普通の料理が食べたくなりました。 ご主人は、何時も私の傍に座って、「大赤字です!」と言っていました。

 会社は12月29日~1月5日まで休みでした。1月2日か3日に社長が『10万円』入った紙袋を持って工事現場に来て、各自に渡しました。

 現場作業者は、休日手当、残業手当が貰えた上に『10万円』頂けるので喜んでいました。 設計担当者は、出勤した事になっていなかったので、休日手当も残業手当も出ないのです。通常の出張費は支給してもらいましたが、ビジネスホテル代は2倍以上もして、「間尺に合わない!」と思いました。 勿論、会社は設計の人件費を顧客に請求していました。

 正月休みが全く無いと、「区切りの無い、何か可笑しい!一年」の様に思えました。

生き甲斐と夢

2022-01-01 11:07:32 | 人生
【はじめに】
 新年おめでとうございます!

 人間には生き甲斐と夢が必要だと、最近・熟(つくづく)思います。 去年、大阪のクリニック放火で25人も亡くなられました。年末に犯人が亡くなったので、真相は分からなくなってしまいました。「犯人には話し相手も夢も希望も無かったのでは?」と私は想像します。 今回は、近所に住む私と同年配の男性と、私の生き甲斐と夢について投稿します。

【TM氏の生き甲斐と夢】
 「節税が生き甲斐だ!」と言ったTM氏の話です。 「TM氏の人生は悲しくて、可哀そうだ!」と思えますが、元気で頑張って生きています。

 私の家から私鉄の最寄駅まで徒歩で7分ほどです。 駅の近くに、子供が同級生だった私と同年配のTM氏の家が有ります。 戦後直ぐの頃は、駅の周辺には田圃が沢山残っていたそうです。多分・その多くはTM家が所有していたと思われますが、先代が大半を売ったのか?私が家を建てた時(1985年)は商店街になっていました。

 35年程前にTM氏と顔見知りになりましたが、その数年後に奥さんが『くも膜下出血』になり、TM氏は勤めを辞めて、二人の子供の世話と、奥さんの介護を始めました。 奥さんは介添え無しでは歩けなくなり、散歩させているTM氏と時々すれ違いました。 下のお子さんが小学年だったので、TM氏は料理・洗濯など家事一切されていた様です。 私は、当時「感心な男だ!」と思っていました。

 TM氏は、親の遺産だったと思われる広い駐車場、商店街に複数の貸家、10軒程の古い長屋を所有していました。お金が沢山有った様で、駐車場の隅に大きな賃貸マンションを建てて、一番日当たりの悪い1階をTM氏の住まいにしました。 現在は、医者になった息子と、45歳程になる独身の娘に、それぞれ部屋を与えています。 

 子供の弁当を作ったりした様ですが、何故か親子関係はうまくいかない様で、一緒に食事することは無い様です。十年ほど前に息子さんが台湾出身の女性と結婚されて、孫が出来た時、TM氏は喜んでいました。そろそろ小学校入学か?と思っていたら、コロナ感染が始まる直前に、奥さんが孫を連れて台湾に里帰りしたままだそうです。TM氏は、コロナが収まったら孫が帰ってくると思っているようですが、近所の奥さん達は「台湾に逃げたんだ!」と言っています。

 TM氏の奥さんは、その後・何回も『くも膜下出血』になりましたが、生きています。数年前から植物人間状態になって、入院しています。TM氏の話では、「植物人間になっても、同じ病院には3ヶ月しか置いてくれない」そうです。3ヶ月毎に病院を変わっています。「どんな手を使ったら、そんな事が出来るのか?」聞いても教えてくれません。

 TM氏の趣味の一つは花を育てる事です。少しでも顔見知りになると、花の苗をくれます。貰ったら最後で、数日に一度やってきて、「水やりが足りない」、「肥料をやれ!」・・・と煩く言います。TM氏のアドバイス通りにすると、見事な菊の鉢植えが出来ます。妻が一度貰ったのですが、こちらの都合を無視して頻繁に来るので、音を上げてしまいました。

 TM氏の幼馴染の女性が近所に住んでいます。(彼女は、妻の友達の友達です。) 彼女は若くして結婚され、子供にも恵まれましたが、旦那さんが若くして亡くなられ、以来一人で暮らしています。子供の頃からTM氏は彼女が好きだった様で、今でも花の苗を運んだり、口実を作っては彼女の家を訪ねています。 家に入れてもらった事は一度も無い様です。

 TM氏は、もう70年間ほど彼女に御節介焼を続けている事になります。彼女の家の方に歩いていくTM氏を見たら、少し可哀そうに思えます。 私は女性を口説く手練手管には疎いのですが、「花より団子」ですよね! 叶わぬ恋を追い求めるのが、TM氏の生き甲斐の一つになっているのかも知れません。

 二、三年ほど前から、妻が友達と立ち話しているとTM氏が寄って来て、節税の方法を話す様になりました。妻の友達は皆さん年金生活をしていますから、節税には興味が有りません。 去年「節税で貯めた金で空き地を買う」と言って、その後、ほんとに買いました。 「あの土地には5階建てのビルを建てて、1階の一部は息子の在宅医療の事務所にして、残りは賃貸マンションにする」と嬉しそうです。近々・着工するそうです。

 後期高齢者になっても節税で金を貯めて、何かに投資すると言うTM氏の生き方は、私には出来ませんが、立派だと思います。

【私の生き甲斐】
 私が元気でいるのは、生き甲斐が有るからだと思っています。

① 第一の生き甲斐 :私には女の子の孫が二人います。嫁さん達が時々写メールしてくれます。最近はマスクを付けているのが、残念ですが、それでも可愛いです。

② 頼りにされています :義理の兄の奥さん(義姉)は痴呆症で、今では5分前の記憶が有りません。 以前は義姉の話し相手をする為に、毎月一度は義兄の家に行っていたのですが、最近は義兄の話し相手が目的の様になっています。待っていてくれる人がいるのは、生き甲斐になります。

③ 花咲か爺さん :我が家の狭い庭に、牡丹、芍薬(しゃくやく)、金木犀、椿、木瓜(ぼけ)、蠟梅(ろうばい)など花の咲く植物を育てています。花が咲くと散歩している方が、足を止めて見てくれます。 褒めてくれる方には、切って差し上げています。 金木犀の剪定は一般に枝先を切り揃えますが、枝先に花が咲くので、私は木が大きくならない様に配慮しながら、花を咲かせる枝を残しています。そうしたら、見事に花が咲きます。

 南高梅と茗荷(みょうが)も育てています。近年、南高梅は40kgほど、茗荷は300個ほど収穫して、妻が隣近所に配っています。

④ 趣味 :現役時代、私は『仕事一筋人間』と誤解されて来ましたが、実は沢山趣味が有ります。 「芸は身を助く」と言いますが、「趣味も身を助く」だと思います。 趣味の一つが、SACDでクラシック音楽を聞く事です。大晦日には去年入手した「エルネスト・アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団」のアレクサンドル・ボロディンを楽しみました。「今日は、誰の指揮する、どの曲を聴くか?」と考えるのも楽しいです。

⑤ ブログ :ブログを始めて、もう直ぐ4年になります。面白い内容では無いので読んでくれる方は少ないですが、生き甲斐になっています。 妻は私より2.5歳ほど若いのですが、最近・めっきり記憶力が低下して来ました。 私の記憶力が衰えないのは、毎週・ブログの原稿を作成しているお陰だと思います。 (妻と子供達には、ブログをやっている事は話していません。何をやっているのか?不思議に思っている様です。)

【私の夢 :自動運転自動車】
 私は車の運転は出来ないのですが、妻は免許を持っているので、10年以上前にホンダのヒィットを買ってプレゼントしました。二、三年前に「2025年頃にレベル4の自動運転自動車が販売される」と報道されたので、「それまで今の車で我慢してくれ」と妻に言っています。

 私は、「レベル4の自動車を入手して年に一度は故郷に帰りたい!」と言う細やか(ささやか)な夢を持っています。レベル4の車は、発売開始の頃は高価で手が出なくても、レンタカーが借りられるかも知れないです。 とにかく、妻には免許証は返却しない様に言っています。

 レベル3の車は市販されていますが、同クラスのレベル2の車と比較すると価格が2倍以上もするので手が出ません。レベル4の車は既に公道で実証実験を開始しています。2025年にはレベル4の車は市販されると予想します。 (私にとっての問題は価格です。)

 昔は『鉄は国家なり!』でしたが、近年は『自動車は国家なり!』になっています。この状態を維持する為には、トヨタを始めとしたメーカーに頑張ってもらう必要が有りますが、車の自動化には道路交通法等々の改正が不可欠です。メーカーの開発に先行して法律の改正が必要です。 2020年の法律改正で、レベル3の車の走行はある程度出来る様になっています。

 日本政府の現在のスタンスは、「レベル3やレベル4の車の需要がどの程度有るか?」検討中の様です。 私が総理大臣だったら、(悠長な事を言わないで)日本をレベル4までの自動化の最先端国にします。❶今年(2022年)中にレベル3とレベル4の定義を明確にし、関連法規を改正します。❷高速道路だけで無く、一般道も、レベル4の車が走れる道路と、問題の有る道路を区別します。➌問題がある道路の改修計画を立てます。➍2023年度から改修工事を始めます。❺2025年から主要道路でレベル4(高度運転自動化)車の走行を可能にします。

 高齢化した過疎地では自家用車を廃車した家が増えて来ています。レベル4の車が実現したら、老人でも運転(?)出来ますから、過疎地でも老人が快適に生活出来る様になると思われます。

・・・ 米国自動車技術者協会(SAE)の定義 ・・・
レベル5 :完全運転自動化  (運転者=システム)
レベル4 :高度運転自動化  (運転者=システム);ブレインオフ
レベル3 :条件付運転自動化  (運転者=システム);アイズオフ
レベル2 :部分運転自動化  (運転者=人)  ;ハンズオフ
レベル1 :運転支援      (運転者=人)
レベル0 :運転自動化なし   (運転者=人)

(余談 :自動化とEV化) 自動車の世界では自動化だけで無く、電気自動車(EV)化への動きが有ります。欧米諸国は日本の自動車メーカーを蹴落とす為にEV化を大声で叫び始めました。中国は北京などの大都市のスモッグ対策などの為にEV化を進めたい考えの様です。 日本は、EV化にも自動化にも対応出来る技術を持っています。

 日本に必要なのは、政府が柔軟な考え方に立って、早急に法律を改正し、レベル4の車が走れる道路網を構築する事です。レベル4のEV車の時代になると、社会は大きく変化すると予想しています。 そんな社会について、私は考察中です。 もう少し考えが纏まったら、投稿します。