これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

社会人になってからの勉強 (その2)

2020-07-25 09:47:09 | 勉強
 「私が社会人になって、どんなにして勉強したか?」について書きます。時代が大きく変化したので、私のやり方を真似る事は出来なくなっていますが、現在にマッチする様に工夫して勉強して下さい。 日本は年功序列の社会ですが、社員の能力をチェックして、有能な社員には”それなりの賃金”を支払う企業が増加しています。スキルアップして高給をもらいましょう!

【フォートラン】
 K社に入社すると同期が450人ほどもいました。 私を含めて10人程の工学部卒が機械開発部に1年間仮配属になりました。 私ともう一人が、化学工学関係の先端技術を調査するグループに仮配属されました。 そこで、幸いな事に大形コンピューターを用いた技術計算の仕事をしました。

 コンピュータを用いる計算では『フォートラン(FORTRAN)』と言う言語が使用されます。残念ながら大学では勉強しませんでした。新入社員研修の一環として、数時間・基礎を教えてもらいました。その知識を直ぐに活用出来たのです。

 戦後、アメリカ政府はアメリカの企業に金を出して種々の研究を依頼しました。その結果は、国の報告書として出版されました。 その一つが、ゼネラル・エレクトリック(GE)が担当した、非常に特殊な熱交換器の性能計算プログラムでした。報告書には、使用している計算式、プログラム、テスト用のインプットデータ、計算結果が記載されていました。

 この種の報告書には、巧妙に『故意のミス』が隠されているので、計算が出来なくなっていました。私達の仕事は、計算式の『故意のミス』を解明して、プログラムの『故意のミス』を見付けて、正しいプログラムを作成する事でした。 私達の作ったプログラムに、GE社のインプットデータを入れて計算すると、報告書と全く同じ計算結果が得られました。

 NECが88や98シリーズのパソコンを発売した頃からは、ベーシック(BASIA)と言う言語で計算しました。 1985年にアップルPCでエクセル(Excel)が使用出来る様になりましたが、私は1990年頃から使用しました。現在のエクセルは使い勝手が悪くなっていますが、当時は『絵』も描き易く、フィルター機能も有るので重宝しました。 その後、ヴィジュアル ベーシック(Visual Basic :VB)にも取り組みましたが、中小企業に出向するとVBを操作出来る社員が殆どいなかったので、エクセルに戻りました。 エクセルで『絵』、計算式、説明付きの技術計算プログラムを沢山作成しました。

【半導体】
 私が社会人になった1971年頃は、部長職や重役向けの、民間企業が主催する(高額な会費を取る)最先端技術や国が力を入れる工業分野に関する講習会/勉強会が東京で有りました。K社の重役達も申し込むのですが、予定が入って参加出来なくなると、機械開発部に「誰か参加させて、会で配布した資料に要約文書を付けてを提出しろ」と言ってきました。 部員50名程集めて、挙手で希望者を募りました。

 私は勢いよく手を挙げたのですが、他には誰もいませんでした。重役に報告書を提出する事の大変さを、私は全く理解出来ていなかったのです。 第一回目の報告書はすんなりと受け取って貰えたので、次の時も私は挙手しました。何回目からか、秘書室から「もう少し大きな字で書け」、「もっとポイントを絞れ」・・・とか、電話でアドバイスしてくれる様になりました。1年程すると、秘書室が私を指名して来る様になりました。

 そんな中に、半導体に関する勉強会が有りました。報告書を提出すると、「半導体の開発状況を調査して、時々報告書を提出するように」と指示が有りました。重役の”お墨付き”が頂けたので、私は半導体の情報を集める様になりました。当時は半導体の技術革新は凄まじく、価格は急激に低下しました。

(余談) 何の講習会だったか忘れてしまいましたが、GHQ本部の有った『第一生命ビル』で開催されたことが有ります。 「吉田茂とマッカーサーがここで交渉したのだ!」と思い、休憩時間に許される範囲で見て回りました。『第一生命ビル』にはその後も行きました。外観は昔のままですが、1989年から内部のリホームが始まり、マッカーサーの執務室以外は昔の面影は無いようです。

【ガスタービン】
 私がガスタービンの仕事を始めた経緯は、先週のブログに書きました。課長のNM氏は素晴らしい技術者で、私を厳しく育ててくれました。

 ノルウェーの兵器廠(KB社)が開発したガスタービンを、国産化するのが狙いでした。最初は完成品を輸入し、次の段階では部品の状態で輸入して組立、最終的には部品を国産化する事になっていました。 課長以下5人でスタートしたガスタービン課は1年後には10人になっていました。課員が増えても仕事は山の様に有り、毎日残業しました。

 現在は『日本ガスタービン学会』が有りますが、当時はまだ勉強会の様な組織でした。私は、直ぐにガスタービンの勉強会に入り、東京で年に二、三回開かれた会に参加しました。

(余談) NM氏は私同様に貧しい家に育った様で、酸いも甘いも知っている方で、課員がミスしても決して怒鳴る事は有りませんでした。英会話も上手で海外出張の経験が豊富でした。奥さんも良く出来た方で、課員が初めて海外出張する事になると、会社に来られて用意すべき物を事細かく教えていました。 出張先で一緒に風呂に入った課員が、「課長は褌(ふんどし)をしていた!」と吹聴して回りました。 NM氏は何時も趣味の良いオーダーメードと思われるスーツを着ておられたので、想像外でしたが、私は「ほっと!して」親しみを覚えました。

【消音器】
 ガスタービンの仕事を始めて二、三か月後に、大手ホテル企業が東南アジアに建設中の大きなホテルから、非常用ガスタービン発電装置の引き合いが入りました。地下室に発電装置を設置して、吸排気口を日本庭園の隅に設ける計画でした。運転時に許容される騒音レベルは、日本の住宅街並みの、厳しいものでした。 非常に大掛かりな消音器が必要なのです。

 第1回目の打合せの3日前に、NM氏から消音器の設計を担当する様に言われました。私はまだ消音器については全く勉強していませんでした。(前稿に書きました)振動・騒音の研究チームのリーダーだったA氏に相談しました。A氏から2時間ほど消音器に関する講義を受け、『騒音・振動対策ハンドブック』を貸して頂きました。

 私は2日間このハンドブックに齧り(かじり)付き、一人で顧客との打ち合わせに行きました。(NM氏は同行してくれなかったのです。) 大手ジェネコンのOB社がホテルの建設を受注済みで、研究所で騒音を研究されていた方が出席されました。彼が、「貴方の先生は何方ですか?」と聞くので、「A氏です。」と答えると、「それなら大丈夫だ!」と言ってくれました。 当時、日本で騒音を研究されている方は、(A氏とOB社の研究員を含め)10人程しかいなかったのです。時々集まって勉強会を開いていた様でした。

 私が設計した最初の消音器でしたので、計画通りの性能が出るか心配でしたが、何のクレームも来なかったのでOKだったのだと思います。その後、私は消音器の設計ノウハウを整理して、課員の一人に教えました。

 『騒音・振動対策ハンドブック』を読んでいて、「データーを波長で修正する必要が有る」と気が付きました。ハンドブックのデーターは周波数(Hz)で整理されていました。ガスタービンの排気温度は500℃~600℃にもなるので、音の速さ(音速)が早くなりますから、同じ周波数でも波長が長くなります。 この閃き(ひらめき)で、高性能のガスタービン排気消音器の設計が出来る様になったのです。

(余談 :HP社の関数電卓) 1972年にアメリカのフューレット・パッカード(HP)がスマホ程のサイズの関数電卓を発売しました。(関数電卓とは、三角関数、指数関数、√、logなどが計算出来る電卓です。) A氏の研究室では直ぐに一台購入しました。ガスタービンの排気消音器を設計するためには、前述の様に波長の補正計算が必要でしたが、手で計算すると長時間掛かりました。それで、A氏の研究室から時々、HPの電卓を借りて来ました。 (この電卓の価格は、私の月給の5ヶ月分以上しました。)

 1973年の3月末に、私は夜中の12時過ぎに一人で残業していたのですが、経理の方が来られて、「80万円ほど金が余ってしまったので、至急使ってしまう必要がある。君の欲しい物を買ってあげるから、明朝一番までにリストを作ってください。但し、買った物は会社の資産に出来ないので、君が責任を持って保管して下さい」と言いました。私は徹夜して「欲しい物リスト」を作りました。 HPの電卓は他部署の社員まで勝手に使う様になって、時々行方不明になりました。次の年の3月末にも、夜中に経理の方がこられて、2台目のHP電卓を買ってもらいました。

(余談 :騒音・振動対策ハンドブック) 私は消音器の設計では社内で有名になり、時々他部署から相談を受ける様になりました。当時、日本には高温ガスを扱える消音器メーカーが無かったので、2社育てました。 騒音・振動対策ハンドブックを借りにくる人が多くなり、私は貸した相手の名前と日付をメモしていたのですが、「僕は借りていない」と言う輩がいて、二冊目を買いました。 その時、絶版になっていたので、入手に苦労しました。 何年かすると、また「借りていない」と言う輩がいて、結局・三冊買いました。 消音器の設計には、それほど貴重な本だったのです。

【機械の制御】
 ガスタービン課に、大学で機械制御を勉強した、私と同期の社員(OI君)がいました。OI君が制御設計を、私が機械設計を担当して、ペアを組んで仕事をする事が多かったのですが、OI君は制御設計には全く向いていな性格でした。 OI君の設計にはバグ(プログラムの誤り)が多くて、試運転に入ってもバグの修正に時間が掛かって、なかなか機械を動かすことが出来ませんでした。

 K社では受注案件の予算管理と工程管理を機械設計担当者が負う事になっていました。 要するに、OI君がミスすると私が怒られたのです。 それで、機械制御関係の本を買って来て、独学で勉強しました。OI君が作成した設計図をチェックして、朱記訂正して返しました。

 OI君は何台設計してもバグは少なくならなかったので、結局・私は自分で制御設計が出来る様になりました。私はその後、機械の開発を担当する様になり、①サイリスターを用いた電流制御、②パソコンを用いた機械の制御、③インバーター制御、④シーケンサー制御に取り組みました。 50歳で出向してから、制御担当者が現地で修正した制御プログラムをメールに添付して送ってもらい、プログラムを読んで機械の動きを把握して、(私が残業して)「取り扱い説明書」を作成し、→メール→現地で印刷する様にしました。 引き渡し運転/説明の時に「取り扱い説明書」が渡せるので、顧客に好評でした。

(余談)  OI君はその後も制御設計部署で仕事を続けましたが、ミスは無くならなかった様で、叱られ続けました。十年もすると、性格が悪くなって冗談も通じなくなり、嫌われ者なってしまいました。然し、私が制御設計が出来る様になったのは、OI君のお蔭ですから感謝しています。

【英語】 
 ノルウェーのKB社とは英語で”やり取り”しました。KB社の図面、技術資料は全て英語でした。 冬季オリンピックのスキーで活躍するので、日本人の多くは『ノルウェー』と言う言葉を知っていますが、どんな国か詳しく知っている方は少ないと思われます。人口は兵庫県と同じくらい(540万人)しか有りません。国内の需要が少ないので、ちょっとした企業は国外に売る事を前提にして、カタログなどは英語で作成していました。

 ガスタービン課は流体研究課の課長兼務のNM課長の下に、入社数年の社員二人と、前述のOI君と私の4人でスタートしました。私は4人の中で英語力が最も弱い社員でした。たぶんNM氏は、「私に英語力を付けさせないと、何ともならない」と考えたのだと思います。KB社から送られてきた図面や資料の翻訳は、全て私に命じました。 課が発足して1年程経つと、課員は9人に増強されており、2人は英語が堪能でしたが、英語の仕事は私が続けました。

 NM氏がKB社に出す質問書等は、和文の原稿を私に渡し、私が英文にして返すと、チェック/訂正してくれました。そして、私がテレックスで送信するのです。 KB社からの返信は、最初の頃は、「30分で翻訳せよ」でしたが、→「25分で」→最後には「15分」の要求になりました。 お陰様で、英文の読み書きが人並みに出来る様になりました。 別の仕事に移っても英語の読み書きは不可欠でしたので、NM氏には今でも感謝しています。

(余談 :テレックス) 昔の通信システムは、電話とテレックス(Telex)でした。国際電話料金が無茶苦茶高かったので、海外とのやり取りにはテレックスが使用されました。テレックス装置は小さな机ほどの大きさで、キーボードを叩いて紙テープに打刻(穴を開け)→送信器にテープを挿入→送信するのです。 テレックスには①受信機能、②送信機能と③テープを作る機能、三つの機能が有りましたが、一つの機能を選択する様になっていました。 つまり、受信中は送信とテープ作成が出来なかったのです。

 社員が200名ほど入ったビルに、テレックスは一台しか有りませんでした。テレックスは受信優先にセットされていたので、テープ作成中に受信すると、作業は中断しました。K社には欧米に何か所も事務所が有ったので、夜間は沢山受信しました。 夜の9時過ぎからテープ作成を始めましたが、終わるのが12時を過ぎる事が多々有りました。

【加工技術】
 課長のNM氏から頂いたアドバイスは、「加工を外注する時は、担当者を会社に呼ぶのではなく、最初はその会社に君が行って打合せなさい」、「部品や機器を発注する時も、営業担当者を呼ぶのでは無く、初回は君が出向いて打合せしなさい」でした。 新幹線を利用する必要の有る遠方の会社にも出向くのです。

 二十歳代だった若造の私が打合せに行っても、その会社で一番の技術者が丁寧に説明してくれ、必ず工場見学をさせてくれました。 私が依頼しようとしていた加工や機器以外の、その会社の自慢出来る技術や機器を説明し/見せてくれました。

 北海道と沖縄以外の、多くの加工業者を訪問しました。加工技術の知見を深めたので、社内で特殊な加工が必要になった部署から、私は相談を受ける様になりました。 それで、更に業者を探し続けることになりました。メッキ、熱処理、鍛造、放電加工などの業者は沢山有りますが、(多分・世界に誇れる)高度な技術を持った中小企業も数社有りました。残念ながら、若手の育成に力を入れていなかったので、現在では出来なくなっているかも知れません

(余談) NM氏のアドバイスを、K社から出向した後も、私はずっと守りました。そして、若い社員達に同じアドバイスをしましたが、誰一人従ってくれませんでした。

(余談) 特注したら肉厚が非常に薄いステンレスのパイプは作ってくれますが、曲げるのは極めて難しいのです。国内で加工業者を探したのですが、見付かりませんでした。ヨーロッパの競合企業に、駄目元で業者を聞いたら笑われてしまいました。彼等は、九州の中小企業で加工してもらっていたのです。日本には、他にも素晴らしい技術が沢山有ります。

【各種弁の構造】
 ガスタービンは非常用発電装置の原動機として、主として使用されました。 非常用が起動する時は、電力会社からの電気が止まった時です。 蓄電器(バッテリー)から直流電気を供給して、起動する方式でした。 バッテリーの容量を小さくするためには、電力消費量の少ないパイロット式直流電磁弁が必要でした。

 NM氏は私に、ノルウェーのKB社が採用していた弁類を分解して、スケッチして、メカニズムを解明する様に指示しました。 電磁弁だけでなく、燃料制御弁、減圧弁、温度調節弁等も分解しました。ヨーロッパにフィッシャー(Fischer)と言う、有名な制御弁メーカーが有りますが、その製品を何点か分解しました。非常に良く出来ていたので感心しました。

 A重油を使用される顧客が有ったのですが、タール状の物質が燃料系統の弁の内部に蓄積するので、年に一回分解して洗浄する必要が有りました。工場から作業員を出してもらうと金が掛かるので、何時も私が出張して作業しました。

(余談 :SMC社) 1979年頃、日本ではパイロット式直流電磁弁は輸入品を使用していました。国産のパイロット式直流電磁弁を調査する様に命じられていたのですが、国内にはメーカーが有りませんでした。 「焼結金属と言う会社が開発した」と聞いたので、私と同年配の担当者(S君)を呼んで打合せを始めました。

 前述の様に、私は欧米の電磁弁を勉強していましたので、焼結金属工業の製品について細かい質問をしましたが、S君の回答は全て適切なものでした。焼結金属工業は自社製品と欧米メーカー品の詳細で/正直な(社内用の極秘)比較資料を作成していたのです。 納入実績を聞くと、殆ど売れていない事が分かりました。

 東京ガスから、大手重電のH社経由で発電装置の引き合いが来て、私が担当する事になりました。当時、東京ガスは「電磁弁は信頼性の高い欧米の電磁弁しか使用しない」と言う社内規定が有りました。

 S君に、「貴社の納入実績表に、大手企業の名前が書けたら、きっと売りやすくなる」、「この案件に貴社の電磁弁が採用して貰える様に努力するから、全面的に協力して欲しい」と言うと、S君は「極秘の社内資料を私に渡して良い」と言う許可を得てくれました。幸いな事に、東京ガスの担当者もH社の担当者も勉強家で優れた方でした。 東京ガスから特別の許可が出ました。 その後、ガスタービンには焼結金属工業製電磁弁を採用しましたが、(私の知る限りでは)電磁弁は一回もトラブルを起こしませんでした。

 焼結金属工業はドンドン成長されて、社名を『SMC株式会社』に変えられました。今では従業員が2万人ほどの大企業になっています。

社会人になってからの勉強 (その1)

2020-07-18 10:00:26 | 勉強
 今回は、私から高校や大学で勉強している若者達へのアドバイスと、私が入社する前後に頂いたアドバイスについて書きます。

【私からのアドバイス】
 高校生や大学生に、私からのアドバイスを書きます。まあまあ良い考えだと思われたら、ご息女、ご子息やお孫さんに、このブログを推奨して下さい。

≪アドバイス①≫ :長文を書く練習が必要です!
 社会人になったら報告書等の、長文を作成することが必要になります。私は大学卒業して直ぐの沢山の社員に仕事を教えました。1985年頃から、修士卒が多くなりましたが、年々旨く報告書が書けない新入社員が増加して来ました。 現在はスマホの時代ですから、状況は更に悪くなっているそうです。

 社会人に成っての評価は、大学で学んだ学問よりも、文章力によって決まると考えて下さい。 大学を出る前に「長文を書く練習」をして下さい。そして、表現力を高めるために、小説など沢山の本を読む事を推奨します。

 私は『一枚ベスト』と指導して来ました。A4の用紙一枚に纏める事です。特に重役に提出する報告書は、A4一枚に纏め、文字のサイズを『14』か『16』にしました。 大企業の重役が一日に読む報告書は半端な数ではありませんから、小さい文字で書いたら読んでくれません。『16』の文字で、A4一枚にポイントを纏めるためには、相当練習する必要が有ります。

≪アドバイス②≫ :パソコンを買いましょう!
 私の様な人間は、スマホで長文の練習するのは無理です。パソコンを買って、長文を作りましょう!ExcelやPowerPointもマスターしましょう!技術屋を目指いしている学生諸君はVisual Basicにも挑戦しましょう!

 近年、中古を整備して、何年でも使えるソフト(Word、Excel、Internet Explorer)を入れたパソコンを、格安の値段で(amazonなどで)売っています。学生さんでも、小遣いを少し貯めたら買える値段です。

(余談) 長男の嫁さんはスマホで長文を、スラスラと作成します。多分そんなにして作ったと思われる、誤字脱字の無い長文のメールを、時々くれます。 彼女の様な才能が無いので、私が長文を作ると、誤字脱字だらけで、”てにおは”も可笑しいい文章になってしまいます。 白状しますが、このブログはExcelで原稿を作成して、ブログの投稿画面に貼り付けています。

≪アドバイス③≫ :入社したら得意な分野を作りましょう!
 大学で勉強するのは基礎の基礎です。社会人になって『馬鹿にされない/疎まれない』ためには、仕事に必要な知識を得るための勉強が不可欠です。仕事に就いたら出来るだけ早く、「その仕事に必要な知識/経験は何か?」を考えて見て下さい。

 大学を卒業して直ぐなら勉強出来ますが、数年後から勉強を始めるのは難しいです。 東大や京大の工学部を卒業して、数学が必要で無い部署に数年間勤務していた社員が、技術計算が必要な部署に転属して苦労しているのを多々見ました。 彼らは、フォートランの様なプログラム言語を用いて、大形コンピューターで計算する事は、ほぼ出来ませんでした。

 入社したら「あれもこれも勉強しよう」と考えないで、一番必要と思った分野の本を二、三冊精読して、まず得意な分野を作って下さい。 そうしたら、自信が持てる様になり、周囲からも認められる様になります。(私は、後述の様に消音器の勉強から始めました。)

≪アドバイス④≫
 入社して直ぐに、「こんな仕事は嫌だ!」と言って辞めた人が結構沢山いました。私は、預かった新入社員に、「情熱を掛けて仕事に取り組んで見て、それでもこの仕事が嫌いなら、転職したら良い」と何時も言いました。

 子供は遊びが好きです。人類は「遊びが好きになる遺伝子」を持っているのだと思います。 残念ながら「仕事が好きになる遺伝子」は持っていない様に思われます。 「仕事に耐えられる様になる」、更に「仕事が好きになる」ためには、自分で努力する必要が有ります。

≪アドバイス⑤≫ :仕事でミスが続いたら
 本人が気付くのは難しいかも知れませんが、「この仕事は彼には向いていない」と思う事が多々有りました。 そんなケースでは、仕事のミスを連発して怒られ続けることになります。十年もすると付き合いきれ無いほど性格が悪くなってしまいました。

 良い上司に恵まれた時は、上司が動いて他部署に移動させてくれますが、殆どの場合は本人が移動願いを出しても簡単には移動させてくれません。一度しか無い人生ですから、会社を辞めて、全く別の仕事に就く方が良いと私は思います。

≪アドバイス⑥≫ :パワハラとセクハラ
 世の中では「パワハラは犯罪だ!」が常識になってきていますが、大企業でも中小企業でも、パワハラを根絶する事は非常に難しいのです。40年間程の私の現役時代に、部下を虐める社員が10人以上いましたが、注意されたり、免職になった社員は一人もいませんでした。

 「部下がミスしたら上司が怒鳴り付けるのは、当たり前のことだ!」と考える人がいる限り、企業でパワハラを無くすのは難しいでしょう。躁病の人は、躁の状態になると些細な事でも怒鳴り始めます。躁病を理由にして首にすることは、法的に難しい様です。

 支配欲が病的に強い人は、部下を持つ様になると「根掘り葉掘り理由を見付けて」虐め始めます。 この手の人は、『虐め』がどんどんエスカレートして来ます。 不幸にして、この手の人間の部下になったらサッサと転職した方が良いです。

 自分のミスを部下に押し付ける輩(やから)は結構います。この手の人は日常は怒鳴ったり、虐めたりはしません。重要な開発に失敗したり、大きな仕事が受注出来なかった時に、責任を部下に押し付けるのです。 会社に取って極めて重要だった開発が進まなくなった責任を押し付けられて、精神的に可笑しくなりかけた社員を二人知っています。彼等は、精神異常になりかけている事に気付いて、さっさと退職しました。「良い選択だった」と思います。 精神的に耐えられるのだったら、我慢しましょう! 二、三年も経ったら笑い話になります!

 昔は勤務時間中に若い女性社員のお尻を、平気で触る社員が結構いました。20世紀の終わり頃には酒が入った席でも、女性社員の身体に触れる”輩(やから)”は見なくなりました。現在の民間企業では、セクハラをやったら厳重注意に、繰り返してやったら懲戒免職になると思います。 最近・話題になっている故・朴ソール市長の様な”輩”は、被害者が訴え無い限り、事件が表に出ませんから、日本にも沢山いるのだと想像されます。 自分の欲望が抑えられない人は、どんな人種にもいると思われるので、被害に遭ったら退職するか?、勇気を出して訴えるか?考えて下さい。

 会社で嫌なことが続いて、「この世は嫌だ!」と思ったら、精神科の先生のカウンセリングを受けましょう! 一回しか無い人生ですから、楽しく過ごしましょう! 仕事が楽しく無くても、『釣りバカ日誌』の浜ちゃんの様に趣味を楽しむ人生も有ります!

(余談) 久しぶりに会った友人・数人と、東京の高級レストランでディナーを楽しんでいました。隣に大きなテーブルが有って、外資系の企業が女性社員の送別会をしていました。白人の男性が数人、日本人の男性が二、三人、若い日本人の女性が四人程いました。英語でしたが大きな声で喋るので、女性社員の一人が結婚で退社する送別会だと分かりました。「セクハラは犯罪だ!」と日本でも認識されていますが、送別会が終わりに近づいた頃に、白人の男性達が退職する女性を強引に!強く!抱きしめてディープキスを繰り返しました。 白人達は、「未だに日本人は同等の人間だ」とは考えて無いのだと思いました。

(余談) 1995年頃の話しですが、当時・仕事上は全く繋がりの無い大手ゼネコンの所長(TS氏)と懇意になって、時々ですが勤務時間中に雑談していました。TS氏は温厚な紳士でした。ある日訪ねて来て、「さっき新入社員に注意したら、大粒の涙を流して泣いた」と深刻な顔で言いました。 それから数か月して、会社の親しかった管理職が私を部屋の隅に連れていって、「○○君が余りにも凡ミスが多いいので、工場の隅に連れて行って注意したら泣き出した。どんなにしたら良いか分からないから、置いてきた」と言いました。

 私は長男が幼稚園に行っている頃、悪ガキ二人で駐車場の車のガラスを石で割ったので、厳しく叱った事が有ります。次男は悪い事を全くした事が無く、兄弟喧嘩も友達との喧嘩もした事が無いと思います。現在の若者の多くは次男の様に育ったのだと思われます。 会社で少し厳しく言われたら、泣いても仕方がないでしょうね! 気にする必要は有りませんが、叱った方のショックは大きいです。 (俗に言う上級国家公務員試験に合格して官僚になった新人が、「大臣に怒られて泣いた」と言う話を聞いた事が有ります。)

≪アドバイス⑦≫ :英語を勉強しましょう!
 私は英語が大の苦手でしたので、英語について偉そうな事は言えませんが、貿易商社は勿論ですが、製造メーカーでも英語で図面や購入品を手配する仕様書、取り扱い説明書等を作成する事が多くなって来ています。 外国からの旅行者が増えて来ていますから、サービス業でも英語が必要です。

 私が社会人になった1971年頃の国際学会では、既に英語で発表していましたが、フランス人やドイツ人は英語が堪能なのに、イギリス人やアメリカ人に母国語で質問しました。 英米の研究者の多くは、仏/独語が苦手な様で、英語で質問する様に要求しました。紛糾する事が多々有りました。

 戦後・アメリカが強国であり、1993年に(イギリスも参加した)欧州連合(EU)が設立された事も要因になったと思いますが、現在は英語が国際標準語になっています。1985年頃にソビエトに機械を輸出した時でも、提出書類は英語でした。 (私の学生時代は第二言語が必須でしたが、現在では英語だけで事足ります。)

(余談) 私には小学1年生の孫がいます。2年前に幼稚園に入った時から、英語の塾に通っています。もう一人の『ジージ(Tジージ)』は大学で英語を学び、英語を日常的に使う仕事に従事してきたので、英語はペラペラです。Tジージと孫は英語で会話しているそうです。 英語の絵本だったら読める様です。 小さい時に英語に接したら、そんなに努力しなくても身に付くものですね!

【恩師から頂いたアドバイス】
 大学のゼミの先生(D助教授)から、種々のアドバイスを頂きました。 就職先を検討していた時に、K社について相談すると、「K社には優秀な技術者が殆どいないから、君にはピッタリだ!入社して少し勉強したら直ぐに仕事を任せて貰えるだろう!」と言う様な話をされました。 まさにその通りでした。

 K社に入って直ぐに同期で同じ寮に入ったS君と友達になりました。S君が、「当社の社員は勉強しない。二人で勉強しよう!」と言い出しました。寮には狭い・名ばかりの図書室が有りました。 本棚は有りましたが、辞書を数冊置いていただけでした。

 S君はドイツ語の金属工学関係の論文を、私は英語の騒音と振動に関する論文を、図書室で休日に読みました。 K社で出向の嵐が吹き出したら、S君は九州大学に移り、暫くして教授になりました。 教授になっていたS君に偶然・会った時に、「ドイツ語は上達したか?」と聞いたら、「あれから、ドイツ語は全くやっていない」との事でした。

(余談 :株の話し) D助教授は、「技術屋でも、新聞の経済欄を読むべきだ!、上場企業に入社したら、その会社の株を買いなさい。そうしたら、株式欄を読むようになる」と学生にアドバイスされていました。 私は入社して直ぐに持ち株組合に入りました。新入社員と子供達にも勧めました。 大学生諸君にも、株を買う事をお勧めします。

【姉のアドバイス :本を買いなさい!】
 一番上の姉が、「二、三年間は貯金しないで、本を買って勉強しなさい!」と入社した時にアドバイスしてくれました。

 入社後4年間ほど神戸市内の事務所に勤務しました。当時、神戸市には古書店は沢山有りましたが、工学関係の書籍を扱っていたのは、小さな店が2軒しか無かったと記憶します。専門書を扱っていた書店は、売り場面積の狭い『丸善』だけだったと思います。

 丸善の外商担当者が時々会社に来ていたので、学生時代に欲しかった本を注文しました。 最初に買ったのは『機械工学便覧』でした。 問題の項目を調べると言うより、私は機械工学便覧を、小説を読むように何回も読みました。 改訂版が出る度に、この便覧を買いました。

 私の勤務したK社には、中央図書館と各研究所や工場に図書室が有って、だいたい必要な本が保管されていましたが、中小企業に出向したら専門書は皆無と言って良い状態でした。専門書の多くは第一版だけ出版されて、絶版になるケースが多いいのです。 一方、専門書を扱う古書店は、ドンドン店仕舞いして、現在残っているのは神保町の『明倫館書店』だけになっていると思います。

 技術計算をするには種々のデータ(強度、粘度、・・・)が必要です。 データは色々な専門書に散在しています。 絶版になった本にしか記載されていない場合も有るので、明倫館書店に『探求書』扱いにしてもらいました。 二、三か月後に連絡が有ったり、忘れた頃に連絡が有ったりしました。 現在は、amazonから古書の専門書が入手可能ですが、『売り切れ』のケースが多いいです。 そんな時は、インターネットから明倫館書店に探求書の申し込みをして見て下さい。

 欧米で出版されて、絶版になっていない専門書が欲しかったら、輸入代行店に依頼するのが良いと思います。 出版社、本のタイトルが分かれば、結構・短時間で入手出来ます。 丸善経由だと安心ですが、手数料が高くて、時間が掛かります。

(余談) 2017年に私は技術屋を廃業しようと決意して、自宅で保管していた論文と専門書を処分しました。 専門書は若い人達に読んでもらいたくて、明倫館書店に引き取ってもらいました。450冊ほど有りました。 私の恩師の一人・横堀武夫先生の『材料力学』が400円程になって嬉しかったです。 学生時代に古書店で数十円で買った本で、材料の強度が問題になった時、何回か読み返した本でした。 「今でも読みたい人がいるのだ!」と思って、嬉しかったのです。

【先輩・A氏のアドバイス】
 K社に入社して直ぐに、大学の10年ほど先輩(A氏)の知己を得ました。 通勤路が重なっていた事も有って、時々ですが美味しいコーヒーを奢ってくれました。 その時、色々なアドバイスをして頂きました。

 A氏は振動と騒音を研究するチームのリーダーでした。(私の大学には振動や騒音を研究されている先生はいませんでした。) 私は仮配属中で、1年後に正式配属になると言われていました。 A氏の話を聞いていて、振動と騒音の専門家になろうと決心しました。

 K社では超大形の高炉を建設中でした。排気口が大きくなるので、数ヘルツ(Hz)の超低音騒音(超低周波騒音)の発生が予想されていました。日本ではまだ超低周波騒音について研究している人がいませんでした。 A氏が、欧米の論文を沢山コピーして渡してくれました。 この論文を、(前述の様に)休日に寮の図書室で読んだのです。

 A氏のチームに正式配属して貰える事になったのですが、A氏が「まず、機械の勉強をした方が良い!」と言って、ガスタービンの技術導入を始めようとしていたNM課長に「2年間預けるので、みっちり鍛えて下さい」と交渉してくれました。 そんな分けで、ガスタービンに取り組んだのですが、約束の2年が経過しても、NM課長が「もう1年貸してくれ」、次の年にも「もう1年貸してくれ」と言って、結局・A氏のチームに参加する事は出来ませんでした。

(余談) A氏はスポーツマンでスキーとヨットが得意でした。 二、三回スキーに連れて行って頂きましたが、当時は非常に珍しかったアクロバットスキーをやられるのです。宙返りやジャンプ等々。 A氏はクラシック音楽の愛好者で、私も好きだったのでコーヒーを飲みながら話をしました。 1985年頃に久しぶりにお会いした時、アメリカの黒人ソプラノ歌手・キャスリーン・バトルを薦めてくれました。彼女の声は、少し特徴が有り、味が有りますね!素晴らしいです。

私の貧乏学生時代

2020-07-11 11:19:53 | 勉強
 私は、「学生時代に幸運を使い切ってしまったのではないか?」と思えるほど、ラッキーな出来事が続いて起こりました。 それで、貧しかったですが、楽しい学生生活を送る事が出来ました。

【学資の目途は付いていませんでした】
 1967年~71年に学生でした。 私は小さい頃から「大学で勉強したい」と考えて来たのです。年老いた(当時、既に66才の)父が、「月・12,000円仕送りする」と言ってくれたので、それでは足りないのを承知で入学したのです。4年間は無理でも、やれる所までやって見ようと考えました。 (1967年の大学への進学率は13%ほどでした。2019年は54%ほどです。)

【家庭教師 :最初の幸運】
 奨学金とアルバイトで不足分を補う必要が有りましたが、大学は仙台でしたので、アルバイト口が殆ど無かったのです。 (まだ、コンビニもスーパーも有りませんでした。)

 大学が家庭教師の紹介をしていました。 入学して直ぐに申し込んだのですが、高学年優先の抽選制で、係の方から「一年生は当たりませんよ」と言われたのですが、二、三回申し込んだらラッキーにも当たったのです。 当時の家庭教師代は安かったので、一か所では食べていけません。 何回も紹介の担当者を訪ねて、「もう一か所紹介して欲しい」と頼んだら、「女の子の家庭教師なら紹介します」と言ってくれました。

 女の子の家庭教師には女子大生を紹介していたのですが、私の大学には女子大生が少なく、ほぼ抽選無しの状態でした。 多分、係の方は「私が真面目人間で、女の子にイタズラをしない」と判断してくれたのだと、勝手に思いました。

【下宿代】
 私は、大工の棟梁が自宅を増築して始めた下宿に入りました。 私が入居第1号だったのです。 大学から遠かったので、その近辺には下宿屋は無くて、下宿代を安く設定して始めた様でした。朝夕・二食付き、4.5畳で一万円でした。夏休みまでには六室中に四室が入居していました。

 秋になって、小母さんが「1.1万円に値上げしたい」と言い出したので、私は「卒業するまで値上げしないなら、1.2万円だす」と言うと、了解してくれたのです。当時、毎年・物価は数%上昇していたので、下宿代は毎年1,000円以上高くなりました。 小母さんは約束を守ってくれたのですが、下宿代を渡すたびに、「貴方に騙された」と言い続けました。 (私は、下宿代の値上がりを心配しなくて良くなったのです!)

(余談) フォークソングの『神田川』に「三畳一間の小さな下宿」とありますが、友人の下宿がそうでした。畳は三枚敷いているのですが、半畳の押し入れが天井から釣り下がっていて、下に60センチ程の空間がありました。布団の一部を、その空間に敷いて寝るのです。当時の学生は、そんな環境で頑張って勉強していたのです。

(余談) 小母さんの料理は最高に美味しかったです。4年間に十人以上の出入りが有りましたが、料理に文句を言った下宿人はいませんでした。 毎年・11月になると、多量に白菜を買って、4種類の白菜の漬物を作ってくれました。これは、本当に美味でした。他にも、ニラを多量に入れた”おすまし”とか、カレーとか、金も儲けでは無く真心を込めて作ってくれました。 私は、四年間小母さんのお世話になりました。

【大学の授業料】
 1967年~71年の国立大学の授業料は、なんと『12,000円/年』で、公立高校の授業料より安かったのです。 そして、4年間値上がりしませんでした。 私が卒業した後から急激に高くなりました。 この点でも、私は幸運だったのです!

 近年の国立大学の授業料は『535,000円/年』ですから、幾ら勉強したくても、私の様な貧乏な家の子供が国立大学に入るのは非常に難しいと思われます。

(余談) 大学の無償化が議論されていますが、勉強が嫌いな子供が入る大学の無償化には反対です。中小企業に出向した時、簡単な仕事以外は担当させられない社員がいたのですが、彼は『大学卒』がばれてしまいました。「学歴詐称で首にすべきだ」と言うのを、私は止めました。 『鉄は熱いうちに打て』と言いますから、「彼が高校を出て直ぐに仕事を始めていたら、もう少し正面(まとも)に仕事が出来たのでは」と思いました。 国も貧しくなってきていますから、有効な金の使い方を考えるべきです。

【全学連の学生運動】
 私の学生時代は、全学連の学生運動が盛んな時期でした。私の大学には活動家は少なかったと思いますが、東京から沢山遠征して来ました。 リーダーは殆ど東京の学生だった様です。 彼等は、屋外ではヤジ演説をしませんでした。

 授業が始まると、三、四人の暴力学生が侵入して来て、教室を乗っ取るのです。リーダー以外はヘルメットをかぶり、顔を手拭いで隠して、鉄パイプを持っていました。大学の授業は100分単位でしたが、その間、馬鹿馬鹿しいリーダーのアジ演説をジット我慢して聞く以外には無かったのです。 寝たり、読書をすると、鉄パイプで思い切り殴られるのです。 (私は、殴られて頭に大きな瘤(こぶ)が出来たのを何回か見ました。)

 私が入学する前に、「出ていけ!」と叫んだ先生がおられたそうですが、鉄パイプでコテンコテンにやられたそうです。 先生達は椅子に座る事も許され無くて、100分間立ち続けました。

 教養部では、10%以上の授業が出来ませんでした。 不思議に、彼等はテスト中はお休みでした。多分、彼等もテストを受けていたのだと思います。 先生達は授業の進捗状況に関わらず、予定通りに授業をしたと言う内容の問題を出しました。

 工学部は幸いにも山の上に有ったので、殆ど暴力学生は来ませんでした。 私のゼミ担当の教授は、前年に全学連の学生の被害に遭った(?)らしくて、全く講義をされず、ゼミは助教授に押し付けていました。 教授は授業をし無かったのに、テストだけはやりました。

(余談 :疑問に思う事) 「学問の自由、言論の自由が最も大切だ!」と言う理由付けで、全学連の横暴を大学側は許容していた様でした。 然し、暴力は犯罪で、刑事罰の対象です。 金額は少なかったですが授業料を払っていたのですから、学生には授業を受ける権利が有ります。 自分の考えを、暴力を使って無理やり相手に聞かせることが、『言論の自由』だと皆さんは思われますか? 「警察の力を借りてでも、全学連を学外に退去させるべきだ」と思いました。

【教科書】
 仙台には古本屋が数軒並んだ通りが有りました。 先生達は毎年同じ教科書を使うので、全ての教科書が格安の値段で入手出来ました。 教科書以外の本も、古本屋で買いました。

(余談 :一万円) 使い込んだ・箱付きの独和辞典を買ったのですが、”なんと”一万円札が挟まれていました。「奥さんが絶対に手を出さない本を選んで、旦那が臍繰りを隠していたのだ」と想像しました。

(余談 :カフカ) 一年生の時に難解で有名なフランツ・カフカの『歌姫ヨゼフィーネ』の文庫本を古本屋で買いました。 和訳してくれてもカフカは難しいですね! (この文庫本は当時は絶版になっていたと思います。) 殆ど読まないで放置していたのですが、二年生のドイツ語のテキストが『歌姫ヨゼフィーネ』だったのです。 私は翻訳本を参考にして予習していたのですが、教授は毎回・一回は私を指名しました。 「君の訳は素晴らしい!」と褒めてくれましたが、凄く”後ろめたかった”です。

【娼婦のお蔭で、卒業までやって行ける目途が付きました】
 1年の夏休みが始まると、早々に東京の姉の家に転がり込んで、途中・畑の畦道を通ると30分弱で行ける豊島園でアルバイトをしました。 (豊島園は今年閉園しました。)

 沢山・学生アルバイトがいましたが、徒歩通勤は私だけでした。 私は電車の最終時間以降も働けたので、チケット売りだけでなく、閉園後に残ったお客さんに帰って頂く仕事もさせて頂きました。 アフリカやエスキモーの住居を真似た小さな小屋が点在していたのですが、担当の方と手分けして内部を確認して回る仕事でした。殆どの小屋にアベックが残っていて、ラブホテルと勘違い?していました。時々、真っ裸のカップルさえいました。 一、二回注意しても帰らないカップルもいて、2時間以上残業?する日も有りました。

 担当の方と親しくなって、3日ほど後に、「明日から素晴らしい売り場に廻してあげる」と言ってくれました。 人気のお化け屋敷のチッケット売り場で、売り子が一人しか入れない小さな建物でした。 毎日朝11時頃になると、厚化粧で/ど派手な服を着た二十歳前後の女性達が集まってきて、その頃から米兵と思われる青年達も集まって来ました。

 彼女達は結構流暢な英語で商談を始め、成立すると青年がチケットを千円札で2枚買いました。 大抵、釣銭を取らずに行ってしまうのです。 中には、五千円札や一万円札を出して、釣り銭を取らない青年もいました。 売り子は私一人ですから、追っ掛ける分けには行きません。 持って行かなかった釣銭は別に取っておいて、閉園後に担当の方に相談すると、「その金を会社に入れると経理処理が難しいので、君が貰っておいて下さい」と言ってくれました。 担当者が『素晴らしい売り場』と言った意味が分かりました!

 田舎で待っている両親に会うための往復の旅費を稼ぐためにアルバイトしたのですが、20日強働いて予定を遥かに超えるお金を得る事が出来ました。なんと!十万円以上・貯金が貯まり、ほぼ四年間やって行ける目途が立ちました。

【蔵王でスキー】
 豊島園のアルバイトで得た金で、スキー用具を一式買いました。 大学主催の格安のスキー教室が、毎年二、三回蔵王温泉で有ったので、1年生と2年生の時は毎回参加しました。安い!安い!旅館に二泊した様に記憶しています。 (この費用も、豊島園で得た金を当てました。)

 パラレル・クリスチャニアが出来る様になってからは、安い宿を探して、自分一人か友人と二人で出掛けました。 皆さん!蔵王地蔵尊に行って、樹氷を見て下さい! 素晴らしいです! 学生時代の最も楽しかった思い出です。

【おかき屋さんのアルバイト】
 1年生の冬休みに”おかき屋”さんのアルバイトを見付けました。 御主人に気に入ってもらえたので、休みの前になると、御主人が下宿までこられて「何時から来てくれるか?」と言って頂きました。 当時の仙台にはアルバイト口が少なかったので有難かったです。

(余談 :松の葉) この店では、一年に一回だけ見事な”おかき”を作りました。 最高の糯米を弐升ほど、入念に餅にして→硬くなったのをマッチ棒程に切り→乾燥させて→醤油に砂糖を加えて煮た液体を餅に絡め→二本をクロスさせ→青海苔の粉を塗し(まぶし)て出来上がりです。 (想像して見て下さい!)色も形も松の葉の様に仕上がりました。 膨大な手間が掛かるだけでなく、歩留まりが非常に悪く(作業中に餅が壊れてしまう等)、とんでもない金額で売らないと利益が出ない逸品でした。 仙台で有名な茶道の先生方に、日頃のお礼として配っていた様でした。

【工場実習】
 3年生の夏休みに大手鉄鋼会社(S社)の尼崎工場で、2週間ほどの工場実習の応募が有りました。宿/食事付き、日当有り、その上・仙台から大阪までの往復旅費付きでした。毎年・夏休みに、紀州に帰省していたので、私にとっては願っても無いアルバイトだったのです。

(余談 :国鉄のキップ) 仙台から紀州の実家に帰省する時は、乗車券を「東北線→東海道線→大阪→紀勢線→名古屋」にすると安かったです。当時、新宮から東京までの夜行列車が有り、安かったので何時も利用しました。 『青春18キップ』はまだ発売されていなかったと思います。

(余談 :工場の昼食) 工場の食堂で昼食を頂いたのですが、病院食より酷い味でした。S社は求人の一環として工場実習をやったのだと思いますが、「一生不味い昼食を食べるのか?」と考えたら、S社に就職する気にはなれませんでした。 一般に・どの会社も業者に社員食堂を利用させませんが、私は設備診断、自動化のアドバイスなどで全国の会社を訪問したので、特別に社員食堂の利用を許してくれました。 2000年代になってもS社の時と同様に、「二度と食べたく無い」と思う会社が多々有りました。

【就職が決まった会社からの奨学金】
 私が4年生になった年は、多分、戦後最も求人難だったのではと思います。当時は、4年生になって就職活動しました。 私は工学部でした。 各科に就職担当の教授がおられ、その方から推薦状を頂かないと、企業に応募出来ませんでした。 理由は今でも分かりませんが、「(ゴーン氏が務めていた)N自動車会社以外には推薦状を出さない」と言われました。

 私は自動車関係の仕事はしたく無かったので、何回も、何回も、教授室に行って「他の会社への推薦状を書いて下さい」とお願いしましたが、「N社以外は絶対だめだ」の一点張りでした。ゼミの教官に相談すると、「N社にはペーパーテストが有るから落第点をとれ、探偵社が身辺調査をするから、下宿の小母さんに適当に言ってもらえ」とアドバイスして頂きました。

 N社は東京往復の旅費を支給して、旅館も手配してくれました。 試験の問題は非常に簡単で、白紙で出してはいけないとアドバイスして貰っていたので、(無い知恵を絞って)試験官が思わず笑ってしまう回答を書きました。 貴方は、落第点を取るための試験を受けた事が有りますか?! 結構、楽しかったです!

 毎年・雪掻きを一緒にやった隣の若い奥さんと、下宿の小母さんに、「探偵社が来たら、女好きで、酒飲み・・・」と言って欲しいとお願いして置きました。 本当に探偵社が来ました。

 N社から(嬉しい)不合格の連絡があって、教授から希望企業(K社)への推薦状を頂いたのが7月の始めでした。 友達は皆、既に就職先が決まっていました。 K社の学生向けパンフレットを見ると、以前には無かった「一年間、月一万円の返却不要の奨学金を支給する」と言う紙が入っていました。 (すんなりと、推薦状を貰っていたら、奨学金は貰えなかったのです!) 応募すると数日で内示を頂き、その月から奨学金が振り込まれました。

 この奨学金は非常に有難かったです。4年生になると、卒業実験とゼミの担当教官から渡された沢山の論文を纏めた報告書の作成等々で、家庭教師をする時間を取るのが難しい状態だったのです。

(余談) K社からの、ある月の振り込みが『100万円』と通帳に記載されました。天の恵みか! 一万円だけ出して、残りはそのままにして置きました。 仙台を去る前に全額引出しに行ったら、長いこと待たされて、支店長が出てきて、「この100万円はミスでした」と言われて、結局数百円引き出しました。

【勉強と遊び】
 私の学生時代のモットーは「よく遊び、そこそこ勉強する」でした。 2年生の2学期から機械工学の勉強が始まり、授業の他に設計/製図やレポートの作成やらで、要領よく勉強しないと遊ぶ時間が出来ない状態になりました

 私は、「大学は学問の基礎を学ぶ所だ」と今でも思っています。 日本は幸いにも大学の成績が、アメリカや韓国の様に入社の合否判定にも、昇格にも関係しません。 仕事に必要な知識は、大学で勉強した学問の範囲に収まりません。 そして、もっと広く/深い知識が必要になります。 会社で一流と言われる技術者達は、入社後に本格的に勉強した人達です。

 スキー、マージャン、囲碁、クラシック音楽等に結構・時間を割きました。クラスで何かする時は必ず参加しました。勿論、飲み会にも! 入社して仕事に必要な工学的な勉強に取り組みましたが、大学で勉強した時よりも、格段に身に付きました。 次回は、社会人になってからの勉強について書きます。

私の大学合格までと勉強

2020-07-04 09:55:26 | 勉強
 今回は、私の高校時代の話しと、大学受験の失敗から合格するまでの話しを書きます。

【高校入学】
 私の村には日高高校の分校が有ったのですが、田辺高校に入学して、一人暮らしを始めました。 貧しかったですが、楽しかったです。軍人恩給を送って貰ったので、送金は二か月に一度ですから、計画的にお金を使わないと大変な事になってしまいます。それで、計画的に金を使う習慣が身に着きました。東京の姉が、内職で稼いだ金を時々送ってくれました。

【間借り生活】
 高校に寮が有りました。母が女学生の時に住んだ寮です。見に行くと、男子用には畳敷きの18畳程の3部屋が有り、一部屋に数人が同居する様になっていました。 部屋の中央が朽ちて床が抜けて・大きな穴が開いていました。襖を撤去した押し入れに寝る様になっていたのです。 雨漏りの跡は酷いし、紀州でもこんな部屋では寒くて冬・勉強出来そうに有りませんでした。

 急遽、下宿を探して入りましたが、下宿代が高かったので長く住む事は出来ませんでした。担任の先生に相談すると、①先生が独身の時に間借りしていた家に話をしてくれ、②昔・芸者だったと言う気風の良いお婆さんが経営する食堂で昼食を半額で食べさせて頂く事になりました。③夕食を寮で食べて良い(特別な)許可を得てくれました。 先生のお蔭で仕送りで何とか生活出来る様になりました。

 台所が無かったので、電気湯沸かし器とトースターを買って何とか生活しました。ゴミを出すのが難しかったので、お茶では無くインスタント・コーヒーを飲みました。洗濯は洗面所で手洗いしました。(入社して寮に入るまで、手洗いしました。)

(余談) 
間借りしたS氏の家は、偶然ですが我が家とは深い繋がりが有ったのです。 二所帯が住める二階建てで、台所付きの”離れ”が有ったのですが、戦前に父の弟が結核でその一室で亡くなっていました。S氏は製材所と木材商を相続したのですが、仕事よりも釣りが大事という方で、戦後・会社を倒産させてしまいました。その時、父が管財人(?)になって会社、家屋敷と離れ、不動産の一部が残る様にして処理したのだそうです。S氏は父の恩義を忘れていませんでした。

 私が間借りを始めた頃も、釣り船を1艘所有し、船頭を常雇いして、毎日3時前には帰宅して釣りの準備をしていました。早く下校した日は、私に釣り餌作りを頼むのです。S氏には娘2人と息子がいましたが、奥さんも子供達も絶対に手伝いませんでした。何時も雑談しながら、30分間程手伝いました。

 2年生の終わりの頃(2月頃)、下校すると餌作りを頼まれたのですが、その時は奥さんも珍しく横に座っていました。S氏が「将来、娘(次女)を貰ってくれ」と言い出したのです。 彼女は私より1学年上で、眉目秀麗/容姿端麗でミス田辺高校の様な存在でしたから、彼女の方から断ってくると思いました。何と答えたか?良くは覚えていませんが、一応了解しました。(身分相応と言いますが、彼女は私には不似合いな美人だったのです。) それから3カ月ほどして、S氏は脳溢血で急死されました。 死んだ方との約束でしたので、気になっていました。入社した年に挨拶に行くと、結婚された長女と奥さんがおられ、小一時間雑談しましたが、結婚の約束の話しは出ませんでした。(内心、ほっとしました。) 後に、田辺市の裕福な旧家に嫁がれたと聞きました。

(余談) 
S氏宅から20m程の所に新聞社(A社)の事務所が有り、若手の独身の記者が一人派遣されていました。 独身の歴代の記者は全てS氏宅で間借りしていました。1年生の終わり頃に赴任して来た記者は、私の都合を考えないで、「酒を飲もう」と誘いに来るのです。 大抵は日本酒でしたが、時々・ワインとシャンパンを飲みました。「何と旨い酒だ!」と思いました。私は、酒は少ししか飲めませんが、辛口ならドンな酒でも好きです。(彼は、試験中でも誘いに来ました。)

 S氏宅には誰でも出入りして良い応接室が有り、そこに全ての全国紙と紀州の地方紙を置いていました。多分、A社が記者の為に取っていたのだと思います。私は毎日30分ほど読みました。記者が時々、原稿を書いていました。A5かB5ほどのサイズの原稿用紙に、凄いスピードで書くのを見て、「私には無理な職業だ」と思いました。

(余談 :チキンラーメン) 寮には一学年上の、バスケットボール部の大男の生徒が二人いました。寮の夕食は棚に名札が付いていて、そこに各自の分が置かれていました。 二人は他人の夕食を毎晩・一、二人分勝手に食べるので、二人か四人は夕食をべられなくなりました。 寮には男性と女性の先生が住んでいましたが、『事なかれ主義』で見て見ぬふりをしていました。 私も、週に一度か二度・被害に遭いました。 町の飯屋に行く金が無かったので、そんな日の夕食は日清食品のチキンラーメンになってしまいました。 結構よく食べたので、今でも時々チキンラーメンが食べたくなります。

【村長さん】
 高校一年の夏休みだったと記憶するのですが、村長さんに呼ばれました。「医学部に入れたら、村から学費を出す」と言われました。 私は、大学に入って勉強はしたかったのですが、将来の仕事までは全く考えていませんでした。何学部でも良かったのです。 それで、「医者になって、田舎で暮らすのも悪く無い」と考えました。

 当時、医学部はそんなに難しく無かったです。後述の様に二浪する様な形で、国立大学の工学部に入ったのですが、入学して直ぐに「医学部に数名の空きが出来たので、転部を許可する。但し、入試の得点が医学部合格者の最低点より高い事」と言う掲示が出ました。 駄目元で、私が条件をクリアするか調べてもらいました。「OKです」との回答だったので、「村長さんに相談して見ようか」と悩みました。「あと7年間貧乏生活を続けるのは耐えられ無い」と思ったので、転部はしませんでした。

【高校時代の勉強】
 剣道部に入りました。講堂兼体育館を剣道部、体操部、バスケット部でシェアしていたので、練習は週2回でしたが、週に一回は町の道場を借りたり、砂浜を走ったりしたので週に3日はクタクタになってしまいました。1年生の終わり頃に、成績が落ちて来たので担任の先生からストップが掛かって退部しました。

 私は「予習する事を」大切にしていました。 明日の授業で進むと思われる分を予習するのには、1時間も掛かりません。 当時・大学受験では高校での成績は考慮され無かったと思います。 中間試験や期末試験の時は、クラスメートは「徹夜した」とか言っていましたが、英語以外は勉強しませんでした。 試験の頃、不思議と面白い洋画がきたので、東京の姉が送ってくれた金で見にいきました。 (クレオパトラ、ヒッチコックの”鳥”、シャレード・・・、この頃、マカロニ・ウエスタンの製作が始まりました。)

 2年生になって、問題集を買って来て本格的に受験勉強を始めました。 近くに住んでいた叔父が月に一度は祖母の家に連れて行ったり、自転車で30分は掛かる姉の家に食事に行ったり、もう一人の叔父の所で叔母とビールを飲んだり、勉強に割いた時間は決して長く無かったです。

【教頭先生の英語塾】
 私の通った高校は”市”にありましたが、当時・塾は有りませんでした。英語と数学の先生が数人、日曜日の昼間に塾を開いていました。 私は2年間ほど、教頭先生の英語の塾に通いました。 素晴らしい教育者で、私が教えて頂いた多くの先生の中で最高の方だったと今でも思っています。 先生の教えは、「分からなかったら、(誤魔化さないで)分かりませんと言いましょう!」です。

 受験勉強では無くて、「短編小説を原文で楽しむ」のが趣旨の塾でした。使用したテキストは下記の①~④だったと記憶しています。 塾生は同じ高校の生徒で、六、七人でした。予習が絶対に必要でした。少し原文を朗読して、口頭で翻訳して次の塾生に渡すのです。私以外は英語が得意の生徒で、一日に読む量は結構多かったです。その為に、私の予習は大変でした。 (今の塾とは違って、夏休み、冬休み、春休みは、塾もお休みでした。)

 塾用に離れを建てて、そこに国内で発行された・ほぼ全ての辞書(英英辞典、英和辞典、和英辞典)と英国で出版された分厚い辞書を置いていました。 誰かが可笑しな翻訳をすると、「僕にも分からない」と言われて、10分ほど籍を外されました。その間に、皆で協力して辞書を調べるのです。

① フィフティ・フェイマス・ストーリーズ (Fifty famous stories )
② オーヘンリーの短編集 :『最後の一葉』を含む
③ ジョージ・エリオットの短編 :『サイラス・マーナー』を含む
④ サマーセットモームの短編集

(余談 :先生のテニス) 教頭先生は小柄な方でしたが、テニスが大変上手でした。友人が、「教頭先生のテニスは素晴らしい」と言うので、見学した事があります。テニス部の生徒を相手にして、テニスを楽しまれていたのです。 下手な生徒が相手の時は、打ち返せる所に、上手な生徒には少し難しい所に打ち返すのです。 ラリーを続けて、生徒がテニスが楽しいスポーツだと思う様に、でも教頭先生もテニスを楽しんでおられました。 先生の英語塾と同じスタンスでした。

【日本史の先生】
 私は高校の社会科で日本史を選択しました。先生は”とんでもない”方で、教科書は無視して「ジンギス・カンは源義経である」との自説を延々と続けました。 私は馬鹿馬鹿しいので、図書室から読売新聞社が刊行していた『日本の歴史』を借りて、授業中に読みました。

 時々、先生の声が聞こえなくななりましたが、先生が私の傍に立って、私が『日本の歴史』を読んでいるのを見ていました。 私と目が合うと、また・ジンギス・カンの話を続けるのです。当時、『日本の歴史』は十巻ほど刊行されていましたが、全て読みました。(私が日本史を好きになったのは、この先生のお蔭です!)

 皆さんは、「日本史の授業が無くても、大したことでは無い」と思われるかも知れませんが、当時・国立大学では理科系でも入試で社会科の一科目を受ける必要が有ったのです。

【大学合格の内示】
 高校3年生の9月か10月頃に、教員室に呼ばれると、担任の先生から「県立医科大学から合格の内示がきた」と言われました。 「多分、村長さんが働き掛けてくれたのだ」と思いました。 両親に報告すると、母が大反対でした。 母は「国立大学の医学部以外は認めない」と言うのです。 県立医科大学の授業料は国立大学より高かったので、貧しい村に大きな負担を掛けたく無かったのだと思いました。

 二、三週間後に、某私立大学の医学部からも「合格の内示」が来ました。 大学の総長は政治家(衆議員)でも有って、昔から父がボランティアで選挙運動を手伝っていました。 我が家に一年に一度、総長が挨拶に来られていました。私は小さい頃から挨拶して、何時も少し話をしていました。 もしかしたら、私を覚えていて「合格の内示」を出してくれたのかも? (この方は、私が高校を卒業した年に亡くなられました。)

 入学試験を受けて無いのに、”合格”では『不正入学』です。 私の模擬試験の成績は、両校の偏差値より可成り高かったのですが、それでも、『不正入学』には変わりません。 

【大学受験に失敗しました】
 模擬試験の成績から、ほぼ間違いなく合格出来ると判断した金沢大学の医学部を受験する事に決めていました。 金沢大学の過去問だけやりました。 馬鹿な話しですが、不合格になるとは、全く思っていなかったのです。

 一期校の試験は3月の初めに有りましたが、第一日目の朝起きると、見た事が無いほど多量に雪が積もっていました。 旅館の女将さんに相談すると、「貴方以外は、皆さん昨夜の内にタクシーを予約されました。今日はバスは運行されませんよ」と言うのです。「誰かの車に同乗を頼めないか?」とか話してみましたが、駄目でした。

 来ないバスを長いこと待っていると、女将さんが気を利かせて呼んでくれたタクシーが来ました。試験場に着いた時は、私の得意な数学の試験が終わる寸前でした。結局、数学は0点だったのです。それでも奇蹟を信じて次の日も受験しました。 勿論、不合格でした。

 東京のH義兄のお世話になって、予備校に通い出したのですが、急に血圧が上がり始め、絶不調になってしまいました。6月頃には血圧が190以上になり、薬を飲み始めました。予備校に行けなくなって、勉強が手に付かなくなってしまいました。

【アルバイト】
 高血圧の薬を飲んで、体調が良くなって来たのが高校を卒業した年の11月頃でした。 両親は貧しい生活をしており、H義兄の所は二回目の出産で双子の赤ちゃんが出来ていましたので、「大学進学を諦めて自力で生きて行こう」と考える様になりました。

 東販か?日販?がアルバイトの募集をしていたので、応募して働き始めました。 働き口が出来たので、姉の家の近くの安いアパートに移って自炊を始めました。 四畳半、共用の台所/トイレの古い小さなアパートでした。 職場で沖縄出身の三、四歳年上の青年と親しくなりました。彼は、「4年間大学に通える金を貯める」夢を持って働いていました。 彼には両親がいなくて、祖母に高校を卒業するまで面倒を見て貰ったそうです。 彼と話していると、私も頑張って大学に行きたいと考える様になりました。 私は、両親は少しは仕送りしてくれるし、実の兄弟以上に面倒を見てくれるH義兄がいましたから、彼より、ずっと恵まれていると思ったのです。

 高校卒業後・2年目の9月に両親に大学進学について相談するために田舎に帰りました。1か月ほど、川釣りをしたり、水彩画を描いたり、熊野古道の途中に有る近露(ちかつゆ)に住んでいた一番上の姉に会いに行きました。父から借りた地図を頼りに、半分・獣道の様な山道を数時間・歩いたと思います。東京に帰って、アパートを引き払ってH義兄の家に引っ越して、勉強を始めました。

【大学に合格しました】
 H義兄が、「慶応大学に入ったら家庭教師先を紹介できる。食費の面倒は見るから、この家から通学しなさい」と言ってくれました。 それで慶大の理工学部と、滑り止めに東京理科大の応用数学を受験する事にしました。 国立大学の受験勉強をしていたので、行く気は無かったのですが、東北大学の工学部・機械系も受けて見る事にしました。

 慶大には6名程の集団面接が有って、「合格したら幾ら寄付してくれますか?」と聞くのです。「○十万円」、「百万円」と答えていましたが、私は予想外の質問で寄付は考えていませんでした。「貧しいので寄付できません」と言う様な答えをしたと思います。H義兄が、「嘘でいいから百万円と言うべきだった!合格は難しいよ!」と怒りました。 H義兄が慶大の合格発表を見に行ってくれて、自分の事の様に喜んで、「合格」の電話を掛けてくれました。 入学金を払いました。

 半分骨休みのつもりで、塩釜の昔・遊郭だった旅館に泊まりました。 他の受験生達は緊張した雰囲気でしたが、私は旅館の二十歳代の主人と昵懇(じっこん)になって四方山話をしました。 東北大も合格しました。 迂闊(うかつ)にも、両親に東北大の合格を言ってしまったのです。 母が「東北大に行け!」と何回も電話を掛けてきて、叔父達からも、電話が掛かってきました。

 親身になって私の事を考えてくれていたH義兄を悪者には出来ませんから、生活の目途が全く付いていなかった東北大に進学する事にしました。 次回は、私の貧乏学生時代について書きます。

(余談 :恵みの雪) 入社して数年後に、金沢の雪は私にとって『恵みの雪』だったと気付きました。 機械工学では私の得意な数学、特に幾何学が役立ちましたが、開業医では生かせません。 私は技術屋として楽しい、悔いの全くない人生を送る事が出来ました。 決して負け惜しみでは有りません。