これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

鰹は刺身がうまい!

2018-07-28 09:20:14 | グルメ
 私はカツオの刺身が大好きです。ただし、カツオの叩きは好きではありません。
 家内の実家は、和歌山県の田辺市にあります。義母が顕在だった頃は、良く超新鮮なカツオの刺身を頂きました。

【新鮮なカツオは薄いピンク色です!】
 解凍直後のカツオの刺身は、透き通る様な薄いピンク色をしています。魚臭さがほとんどありません。時間が経つにつれ赤見が強くなり→黒くなり、光出し、臭いが出て来ます。(専門用語では”メト化”と呼びます。)

 まだピンク色の内に、ワサビ醬油で食べるのが最高に美味いです!
 食通を自負する方や刺身の好きな方には、自信をもってお勧めします。
 美味しそうなカツオの刺身の写真が『gooプログ 世の中のうまい話 鰹(カツオ)』で見られます。

【どんなにしたら食べられる?】
 カツオの上がる漁港の旅館に宿泊し、夕食にピンク色の刺身を期待しても無理です。カツオは普通の冷凍庫に入れても”メト化”はドンドン進みます。夕食の頃には、赤見が強くなり、光出しています。

 カツオの上がる漁港に行って、魚屋の開店時間に買って、持参するワサビと醬油で食べてみて下さい。「風情がない!」と仰る方は、朝9時頃開店する食堂を探してみて下さい。

(注記) 漁獲量が減少していると言う話をよく聞きますが、カツオも例外ではない様です。”カツオの旬”と言われている時期でも、港に上がらない日がある様です。そんな時は諦めて下さい!

【上りカツオ、戻りカツオ】
 念のために書きますが、カツオが捕れるのは年2回です。私の故郷の紀州では、カツオの旬は、上りカツオが5月~6月、戻りカツオは9月~10月です。

 カツオは季節によって味が違います。淡泊な味を好まれる方は”上りカツオ”をお勧めします。脂がのるのは”戻りカツオ”の方です。

【私とカツオの刺身】
 5月の連休には必ず家内の実家に帰りました。義母が近くの魚屋が開店したら直ぐにカツオを一本買って来てくれました。ビールか冷酒を準備してくれて、朝食兼昼食として堪能しました。
 義母がお元気な頃は、毎年2~3回は帰省しましたので、20年間で40食以上超新鮮な刺身を頂いたことになります。

【カツオの漬け】
 義母は、残った刺身を醤油に着け、次の日に御飯の上に乗せて、熱いお茶を掛けて食べていました。 単に”ヅケ”とよんでいました。 (私は、好きでは有りません。)

【カツオの刺身を食べた同僚】
 カツオのシーズンに車で紀州を旅行すると言う同僚に、カツオの刺身を推奨しました。天候にも恵まれて素晴らしい旅行だった様で、「串本で早めの昼食を取ろうと入った食堂に、カツオの刺身があったので、食べて来た。絶品だった!嫁がまた来ようと言っていた。」と上機嫌でした。

 南紀では有名な”ケンケン鰹”を彼に紹介するのを忘れていました。田辺市と串本町の中間に”すさみ町”と言う町が有ります。”ケンケン鰹”は”すさみ町”が本場です。多分、彼が食べたカツオも”ケンケン鰹”だったと思いますが。

 ”ケンケン鰹”は春の上りカツオのシーズンしか味わえません。秋の戻りカツオは紀伊半島から離れた位置を南下します。”ケンケン船”は小さな漁船なので近海でしか操業出来ないためと思います。

 現在は、高速道路が大阪から”すさみ町”まで続いています。

【昔はカツオは安かった!】
 江戸時代、江戸では”初鰹”一本が一両ほどしたらしいです。私の子供の頃はそんなに高価な魚では無かった。特に高校生の頃(1960年代)は安価でした。最近は、カツオは片身で売られていますが、昔は安い値段で一本で売っていました。

 私の田舎は山奥だったので、新鮮なカツオは手に入りませんでした。母は一本か二本買って、生節(なまぶし)をよく作ってくれました。カツオの生節も好物の一つです。

【カツオの肝(きも)】
 むかし田辺市では、おばあさん達が木箱を手押し車にのせて「キモドウデスラ!」と言いながら”カツオの肝”と”カツオの心臓”を売って回りました。

 安価で栄養価が高いので庶民の食卓には、よく上ったと思います。我が家では煮付けにして良く食べました。私の好物の一つでしたが、残念ながら近年田辺市に帰っても食堂のメニューには有りませ。

【カツオ漁船】
 豪快な一本釣りをするカツオ漁船が時々テレビに登場します。吊り上げられたカツオが次々とコンベアを流れて、船内の冷凍処理ラインに送られるシーンまでは、良く放映されます。

 一度だけ、複雑な冷凍処理を説明する番組がありました。短時間にマイナス45℃まで冷却して鮮度を維持する様です。『日本冷凍空調学会 B1カツオ』で検索すると、船内でどの様にして冷凍されるか分かります。

 ”B1カツオ”とは、鮮度が維持できる様に工夫された冷凍方法と冷凍温度で処理されたカツオのことです。

 上記・日本冷凍空調学会の文献に、時間と鮮度(メット化率の上昇)の関係がグラフで示されています。

余談 : 私は”カツオの酒盗”が大好きですが、今回は割愛します。

広島の原爆と父

2018-07-21 09:20:59 | 原爆
 もうすぐ広島に原爆が投下された8月6日が来ますので、いままで家族以外に話したことの無い、私の父が広島で被爆した話しを書きます。
 広島に原爆が投下された時、父は広島に住んでいましたが、家族は福山市に疎開していました。父は被爆しましたが、奇跡的に助かり87才まで生きました。
 父はノモンハン事件、シンゴラ上陸作戦等々、戦争の話をよくしていましたが、広島の原爆にについて私に語ったのは2回だけでした。

【小学6年生の夏休み】
 私の父が被爆したことは、姉達から聞いていましたが、父は広島の原爆については一切話しませんでした。私が小学6年生の夏休みの夜、私だけを呼んで原爆の経験について話してくれました。(姉達には、死ぬまで話さなかった様です。)

 父から聞いた内容を長文の作文にして、学校に提出したのですが、何故かその作文は返してもらえませんでした。従って、私のおぼろげな記憶を頼りに、この記事は書きました。

【父は陸軍の軍人でした】
 私の父は旧姓”寒川(そうがわ)”で、船舶砲兵団司令部に勤務する少佐でした。原爆が投下された日は上官二人が東京に出張していたため、父が司令部の責任者だったそうです。
 『広島原爆戦災誌』によれば、船舶砲兵団司令部は『比治山』に有りました。父はそこで被爆したのだと思います。

【父が原爆について話したこと】
 高台の広場に兵隊を整列させ、父が台の上に立って朝の訓示をしていたそうです。父の背後、数百メートル(注記:1)の所で原爆が爆発し、父は十数メートルほど吹き飛ばされて、気絶していた様です。

 覚醒すると、多くの兵隊さんが焼け焦げて”呻いて”いました。生き残った兵隊さんは極少数だった様です。 父の背後に立っていた大きな木は、葉っぱが殆ど吹き飛ばされていました。この木が閃光を遮ってくれたので、父は助かったのです。

 焼け焦げた兵隊さんは、次々と息絶えていったそうですが、父は「何も出来なかった」と言っていました。 (注記:2)

 生き残った兵隊さん達を連れて、市内にリヤカーや大八車を調達しに出掛けると、夥しい人が亡くなっており、苦しそうに呻く人が沢山おられたそうです。

 それから何日も掛けて、兵隊さん達とリヤカーと大八車で遺体を運びました。余りにも多かったので、穴を掘るのは無理と考え、小さな谷の奥に運び、最後に土を被せた様です。二か所に埋めたと言っていました。

 遺体を運んでいた時、”黒い雨”が降ったとも言っていました。後に井伏鱒二の小説『黒い雨』を読んで、本当の話しだった事を知りました。

 注記:1) 父は爆心から数百メートルと言ってましたが、2kmが正しい様です。余りにも凄まじい爆発だったので、直ぐ近に落ちたと錯覚していたのだと思います。

 注記:2) 『広島原爆戦災誌』によると、『比治山』の船舶砲兵団司令部にいた500名の内、生き残ったのはわずか35名だった様です。

 {疑問} 『広島原爆戦災誌』の”ページ113”に、父達の活躍についての簡単な記述が有りますが、不思議な事に数日前に着任したばかりで、爆発時に不在だった主計大尉からのヒヤリングによるものです。何故、実際に遺体の処理に当たった(父を含めた)兵隊さんからヒヤリングしなかったのでしょうか? きっと、違った内容になっていたと思われます。

【終戦後の父】 
 父の残した記録では、1945年(昭和20年)12月1日まで、広島で残務整理をしていた様です。その後、福山市の家族のもとに帰りましたが、二か月ほど寝込んでいた様です。母は『原爆性白血病』だったと言っていましたが、真否の程は分かりません。

 1946年(昭和21年)の春先に、家族揃って和歌山県の山奥の貧しい父の実家に帰りました。

 開業医だった叔父が、『被爆者の無料検診』を受ける様に何度もアドバイスしましが、死ぬまで受診しませんでした。それでも84歳まで、元気に野良仕事をしていました。

  1952年に警察予備隊が出来ました。何回も入隊の誘いが有りましたが、毎回、丁重にお断りしていました。母・姉達・私も、都会に戻るために警察予備隊に入って欲しかったのですが。

【二回目に話したこと】
 1985年、「死ぬ前にもう一度広島に行ってみたい」といって、父が母を連れて出掛けました。何泊かの予定でしたが、二人とも疲れた様子で、その晩に帰って来てしまいました。

 次の日、「遺体を埋めた所は探し当てたが、二か所とも沢山住宅が建っていた。奥さん達に、この下に夥しい数の遺体を埋めましたとは言えなかった!」とだけ話しました。

 父は、埋めた場所に碑を建てるなどして、丁重に扱われていることを確認しに行ったのだと思います。自分の部下だった方も沢山眠っているわけですから。

 注記) 宅地造成で出て来た遺骨は、『原爆供養塔』に埋葬されているそうです。父が知ったら喜んだと思います!

【威力3,000倍の水爆】
 ロシアとアメリカは、広島の原爆より威力が3,000倍以上ある水爆を保有している様です。何と愚かなんでしょう!

 私は、「原爆や水爆を保有する国から、国連の安全保障理事会の”拒否権”を剥奪する世界的な運動」を提唱します。 剥奪出来るとは思いませんが、原爆と水爆を保有国が国連を支配する現実を問題視して欲しい!


【お詫び】
 私が小さいころ、「父が被爆した後で出来た子だから、染色体に異常があるかも?」と何人かに言われました。『10月10日』のひと月を30日で数えるとそうなります。真実は、原爆の前に母が身ごもった子です。

 説明が面倒なため、(若い頃から髪の毛が少ない事もあって、)年齢を誤魔化してきました。そんな訳で、このプログの自己紹介に『喜寿』を過ぎていると書きましたが、『古希』が正しいです。

ユニセフについての身勝手な意見

2018-07-14 15:07:21 | 社会問題
 私の子供の頃は、山村はまだまだ貧しかったのでユニセフ(国際連合児童基金)の支援を受けて育った方が多かったと思われます。私も、その一人です。
 私の意見に反対の方が多数おられると推察しますが、勇気を出してこの記事を敢えて投稿します。

【日本もユニセフの支援を受けました!】 
 ほとんどの人は忘れてしまっていると思いますが、戦後(1949年~64年)15年間も日本はユニセフの支援を受けました。

 私は、1953年に小学生になりました。貧しくて弁当を持って来れない子がいて、村の有力者達(旦那衆)が県等に働きかけ、募金を募って小学校と中学校に給食室を作ってくれました。

 給食のメニューは、(少しずつ良くなりましたが、)外米の御飯、脱脂粉乳、ちょっとしたおかずです。外米の御飯と脱脂粉乳は小学校を卒業するまで続いたと思います。

 脱脂粉乳はユニセフの支援品だったと思いますが、外米もユニセフの支援品だったのかも知れません。安かったと思いますが、給食費が徴収されました。払え無い子もいたようですが、中身の見えない封筒に入れて先生に渡しましたので、誰が払え無かったかは先生以外には分から無い様に配慮していました。
 お陰様で、6年間、クラス全員揃って昼食を頂くことが出来ました。

【私はユニセフに持論を伝えました!】
 かなり昔、ユニセフが大災害が起こった国の子供達を支援する募金に応じた事があります。その後、ユニセフからパンフレットが送られてきて、時々電話が掛かってくる様になりました。

 ユニセフの支援を受けて育ったのに、身勝手な意見ですがと断って、以下のような私の考えをはっきり申し上げました。それ以来、(御理解頂けたのか、)パンフレットの送付も、電話も無くなりました。

 『支援した子供達が成人になった時に、仕事も食料も無いと思われる国で、飢えて死にそうな子供に食糧を与えて助けたとします。 その子達が成人して子供を産んだら、もっと悲惨な状態で育てなければならないと推察します。こんな支援は ”偽善”と思います。』と言いました。

【爆発的に人口が増加したら!】
 昔は我が国でも十代で女性が結婚しましたから、女性一人が(一生で)平均5人~6人くらい子供を生んだと思われます。後進国では今でも十代で結婚している国がある様です。そんな国で産児制限をしなかったら、(単純計算で)30年で人口は2倍になります。

 現在、仕事と食糧が何とかある国でも、30年で人口が2倍になったら、最貧国に転落する可能性は極めて高いと思われます。

 一国が養える人口は、食糧(農業・漁業)の生産量、工業の生産量、鉱物資源の生産量などによって決まります。これらの生産量の増加以上に、人口が増えたら食べられない人が増えて来ます。

【ユニセフは産児制限を推奨出来ません!】
 産児制限に反対する宗教(カトリックなど)や団体が、先進国には多いい現状で、ユニセフが最貧国で産児制限を推奨し、避妊具を無償で配布する運動をしたら、募金が減るのは明らかです。

 ローマ法王が、ユニセフが支援している最貧国に行って、惨状を見たら考え方を変えると思いますか? 多分、「これも神の思し召しです!」と仰るでしょう。

 この100年間で世界の人口は、おおよそ20億人が→70億人(3.5倍)になりました。地球はどれだけの人類を養えるのでしょうか?

 高名な先生の本に、「人類は季節によらないで交尾し、交尾したら雄雌とも気持ちが良くなるのは人類だけだ!」と書いていました。 娯楽の少ない最貧国の人達に「セックスするな」とは言えません。避妊具を無償で配布する以外に方法は無いと考えます。

【新しい総合的な国際基金を設けるべきです!】
 薄っぺらい人道主義で最貧国を支援すると、より貧しい人口を増やす事になります。目を覆いたくなる様な悲惨な光景がますます多くなるのです。  この悪循環を断ち切ることが肝要です。

 内戦が続く国や国の大半がスラム化して治安の悪い国は、人間としては忍び難いですが、支援するのは止めるべきです。

 内戦が収まり、治安が良くなった国に、『教育、職業訓練、産業を興す資金の提供など』の支援をする『新たな国際基金』を設けるべきです。そんな国で災害が発生した時は、子供に限定しないで、大人にも食糧や医薬品を支援しましょう!

皆で声を挙げましょう!

2018-07-07 20:14:10 | 社会問題
 多くの人が声を挙げたら、”ユックリ”ですが法律が見直され、社会は良くなります。今回は、(皆さんが、助けてあげたいと思う)悲しい女性達の話しです。

【尊属殺人罪は廃止されました!】
 旧刑法には『尊属殺人罪』の規定がありました。この規定は、”やっと“1995年に制定された新刑法から無くなりました。

 これは1955年頃の悲しい話です。

 山奥の私のふる里の、そのまた山奥に父親と娘・二人だけの家がありました。その娘が子供を産み、私の近所では『フシダラな女』だと評判になりました。二年もたたない内に二人目を生みました。

 問題の女性の家の近くから、私の家の隣に嫁に来ていた(普段はもの静な)女性が、「父親は、彼女の実父だ! 彼女は泣いて嫌がっていた!」と言って回りました。誰も信じ無かった様でしたが。

 暫くして、問題の彼女が父親を殺して逮捕されました。それで、隣の嫁さんの話しが真実だった事が分かりました。
 尊属殺人罪の規定に賛成していたと思われる旦那衆達も話し合って、減刑の嘆願書を作成しました。

 その後、彼女と幼い子供達がどうなったか知りませんが、『現在だったら、執行猶予付きの判決がでて、彼女が子供を育てられる時代になっている』と私は信じています!

注記 :ウィキペディアの『尊属殺重罰規定違憲判決』に、1968年に栃木県で起きた(よく似た)事件の最高裁判決が記載されています。私の田舎の事件は、それよりも10年以上前に起こりましたから、彼女には重い(無期刑か死刑)判決が出たと思います。

【カラダを売って払います!】
 1960年頃の話です。農協に勤めていた女性が、少しずつ何年にも亘って大金を横領していた事が発覚しました。

 あまりにも大金だったので、(私の父もその一員でしたが)旦那衆達が秘密裏に対策を話し合っていました。我が家でも、その会合が開かれたので、私の耳に入りました。
 その女性は一人っ子でした。両親が病気で、高価な医療費、薬代と生活費を支払うために横領していた事が分かりました。

 旦那衆達が出した結論は、「懲戒免職にはしない、給料はいままで通り支払う、少しずつ弁済すること」でした。

 彼女は、「今の給料では両親を養うことも出来ないので、カラダを売って弁済します」と言いて、すぐに村を出ました。

 その後、2年も経たずに完済したと、父が母に話すのを盗み聞きしました。

 今では社会福祉制度が充実していますから、彼女の悲劇が繰り返される事は無くなっていると信じています!

【お母さん、美味しいね!】 
 2015年頃の朝日新聞に、幼い二人の女の子を抱えた離婚訴訟中の女性の記事がありました。(私の怪しい記憶ですが!)

 彼女は、夫のDVのため子供を連れて家を出て、離婚訴訟を起こしていました。現在の法律では、この様な場合は、生活保護費の受給などが難しい様です。

 家を出る時に持っていた金が、段々と少なくなり、シーチキンを御飯にのせて醬油を注いで食べていたそうです。シーチキンを買う金もなくなって、食用油と醬油を注いだ御飯をだしたら、二人の女の子が「お母さん、美味しいね!」と言ったと書いていました。

 2018年の今日現在、この親子三人に生活保護費を支給するのは難しい様です。 皆さん!ネットを使った運動を起こして、政治家を覚醒させましょう!

 こう言う問題に取り組むのが、リベラルを掲げる政治家&政党の務めだと思います。森友問題や加計問題より、悲しい三人の話しを繰り返さない様に取り組んで欲しいものです!