これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

春がやって来ました!

2021-03-24 10:41:57 | 園芸
 我が家の狭い庭にも春がやって来ました。 今は、種々の草花と木瓜(ボケ)が満開です。

 正月前に八重の蠟梅が、2月には南高梅が、そして3月にボケが咲きます。 この3種類の花が咲いている間は、番い(ツガイ)のメジロが、日に何度も飛んで来ます。

 濡れ縁から2メートルほどの所にボケを植えています。 ボケの花が密集して咲くためか?濡れ縁に座ってジットしていると、手が届きそうな距離までメジロがやって来て、花のほんの少ししか無い蜜を一生懸命突きます?!

 メジロは時々、花を落とすので嫌う方がおられますが、私は大事に見守っています。 今年も南高梅の花をメジロが落としましたが、昨日見たら・小さな実が沢山付いていました。 今年も食べきれ無いほど、梅が収穫出来そうです。

 花の直径が二十センチほど有る、大輪の牡丹を地植えしているのですが、蕾の先が綻び始めました。来週には開花するでしょう! 今年の牡丹は元気ハツラツで、30輪以上咲きそうです。

我が家の芋粥(いもがゆ)

2020-01-11 11:12:06 | 園芸
 今回は、私の大好物の”芋粥”とジネンジョ掘りの話しです。 我が家の・お嫁さん二人に芋粥を食べて貰って、感想を聞きたかったのですが、二人とも食べた事があり、「好きですが、噛めないので胃を悪くしますね」と言いました。 (我が家の芋粥は、まだ食べて貰っていません。) 芋粥を食べたら、必ず胃薬を飲んで下さい。

【芋粥が大好物です!】
 我が家では、ジネンジョかツクネ芋を擂鉢で擂って、出汁(だしじる)を加えて、少量の御飯に芋汁をタップリ掛けたのを”芋粥”と呼んでいました。 父の大好物で、私も好きです。 何故か?母と姉達は殆ど食べませんでした。

 家の東側の石垣の上に馬酔木(アセビ)の垣根が有り、父はその根元でツクネ芋を育てていました。収穫する為には、石垣を壊す必要が有りましたが、父は他の場所では育てませんでした。 ジネンジョ堀りは、私の仕事でした。 小学低学年の頃から、近くの2才年上の男子について急な山に入り、掘って来ました。 父は、何時も喜んでくれました。

 結婚後、家内が私の母の味で”芋粥”を作ってくれる様になって、うす塩の干し”うるめいわし”を添えてくれる様になりました。 『芋粥+うるめいわし』は絶品です!

(余談 :故郷の茶粥) 紀州では、ほうじ茶か番茶で少量の米を炊いたのを『茶粥(ちゃがゆ)』と呼んで、今でも人気が有ります。 私の故郷では、『おかいさん』と呼んでいました。 戦後の食糧難の時代には茶粥に薩摩芋を入れていました。それを、近所の家では『芋粥』と呼んでいました。

(余談 :番茶) どの家でも、畑の周囲に茶を植えていて、新芽を摘んで”お茶”を作りました。集落の数軒が大きな釜を持っていて、庭に仮設の竈(かまど)を築き、何軒かの主婦たちが協力して一年分の”お茶”を作ったのです。 茶葉の水分を飛ばしたら”番茶”になり、さらに過熱する(焙じる)と”ほうじ茶”になります。 私の集落では”番茶”を作りました。 茶摘みには子供達も参加しました。

【芥川龍之介の芋粥】
 私は少しませていたので、姉が借りてきた芥川龍之介の『芋粥』を小学五、六年生の時に読みました。 我が家の芋粥を食べながら、”五位”を想像しました。 ずっと後になって知ったのですが、五位が好きだったのは、植物を煎じて作った甘い汁で、ジネンジョを煮たものだった様です。 (私は食べた事が有りませんが、多分好きにはなれないと思います。)

【飯屋のトロロ定食】
 入社後、結婚するまでの4年間ほど寮生活でした。バスや電車が無くなる時間まで働いて、30分ほど掛けて歩いて寮に帰る日が多かったのですが、途中に遅くまでやっている小さな飯屋が有って、何時も『トロロ定食』を頂きました。

 米と麦を混ぜて炊いたご飯(麦御飯)に、粘り気の強いヤマノイモを擂って出汁に溶かした物を少量掛け、焼き鰯、味噌汁、沢庵が添えられていました。 母の作ってくれた”芋粥”とは全く違う物でしたが、鰯が良く合っていました。 

【ヤマノイモ】
 ヤマノイモ科に属する食用の芋には、大きく分けて4種類有ります。 地方によって呼び名が違うので、”ややこしい”です。 私の故郷では、ジネンジョを『ヤマイモ』とか『ヤマノイモ』と呼びます。 近所に鳥取県出身の方がおられ、毎年12月になると「到来物のヤマイモです」と言って、スーパーで売っている”ナガイモ”とソックリの芋を頂きます。 粘り気が非常に強く、子供の頃に食べたジネンジョの様に美味しいです。 (私は、ジネンジョを栽培した物ではと思っています。 ”芋粥”にして頂いています。)

 ヤマノイモ科は雌雄異株です。 白い小さな花が咲きます。 ジネンジョとナガイモには種子が出来、種子から育てる事も出来ます。 種子は、風で飛びそうな形状をしています。 (ツクネ芋とイチョウ芋は雌株しか無いので、種子は出来ません。)

 ツクネ芋以外は、蔓に沢山”零余子(むかご)”を付けます。(私は、ツクネ芋の零余子を見た事が有りません。)

① ジネンジョ(自然薯) :雌株+雄株が有り→種子、零余子(ムカゴ)が出来ます。
② ツクネ芋 :雌株のみ、零余子(ムカゴ)は殆ど出来ません。
③ イチョウ芋(大和芋) :雌株のみ、零余子(むかご)が出来ます。
④ ナガイモ(長芋) ::雌株+雄株が有り→種子、零余子(ムカゴ)・・・スーパーで売っています。

 粘り気が最も強いのは、ジネンジョで、その次がツクネ芋です。 ジネンジョは、赤土で育ったのが一番美味しかったと記憶しています。(赤土には殆ど肥料分が無いのに不思議です!)

【ジネンジョの繁殖と成長】
 ジネンジョは種子とムカゴ、何方でも繁殖します。山の上の方でも自生していますから、種子は遠くまで飛べるのでしょう。 ムカゴが地面に落ちて、次の春、芽を出したとします。 蔓が近くの木の幹に絡みつき、上へ上へと伸びて行きます。葉が太陽の光に当たる所まで蔓が伸びると、芋が成長し始めます。これが、次の年の親芋になります。 11月の中旬から葉が枯れ始め、12月頃には蔓も枯れて、蔓は根本からバラバラになって、地上に落下してしまいます。

 次の年に親芋から芽が出て、親芋に蓄えた養分を貰って蔓が成長します。蔓の付け根に新しい芋が出来て、親芋の横を下へ下へと成長します。 秋ごろには、親芋は殆どの養分を蔓に与えて、皮だけになってしまいます。 新しい芋は、親芋よりも地下深くまで伸びて、太くなります。 (人間の一生に似ていますね!)

 何年かすると、蔓は太くなり、芋は2メートル近くまで長くなります。 平地で深さ2メートルの穴を掘るのは難しいですが、急な斜面なら長い芋を比較的簡単に掘り出せます。

【ジネンジョ掘り】
 私は、和歌山県の山村で育ったのですが、11月頃になると、男の子供達が山に入ってジネンジョを掘りました。 (私の集落では、大人はジネンジョ堀りはしませんでした。) 2メートル近い芋は、せいぜい一日に1本か2本しか掘れません。 私は、何時も芋の一番上の方を30cmほど折って、穴に埋め戻してやりました。 親芋になって、次の年から又、成長してくれます。

 小腹が空くとムカゴを食べました。 喉が渇いたら、谷の水を手で掬って飲みました。 食べ物を得る遊びは、”しんどくても”楽しいかったです!

(余談 :蛇の冬眠) 蛇や蛙が冬眠する事を学校で教えて貰ったと思いますが、殆どの人はドンな状態で、ドンな所で冬眠しているか?ご存知無いと思います。ジネンジョを堀っていたら、時々・蛇や蛙が出てきました。 蛇の直ぐ近くに蛙が冬眠している事も有りました。 「来年、目が覚めたら”こいつ”を食ってやろう!」と蛇は目論んでいるんだと、年上の子供は言ったいました。 多分、嘘です。 (元気な蛇は殺して遊びましたが、動かない蛇と蛙を見付けたら、何時も直ぐに穴を掘って、埋めてやりました。)

(余談 :川石) 山の上の方でジネンジョを掘っていると、丸くなった”川石”が所々に落ちていました。 大昔は、この付近を川が流れていたのだと、知る事が出来ました。 「どれだけの年月を掛けて、あんな下の方を川が流れる様になったのかな?」と、自然の力の大きさに感動しました。

【ジネンジョ掘りの名人】
 四歳年上の男性が、私が育った集落の最長老になっています。彼は、小学生の頃からジネンジョ堀りの名人でした。 2メール近いジネンジョを、傷一つ付けないで、木に括り付けて持ち帰っていました。 町から、ジネンジョを買い付けに来る人に売って、小遣い稼ぎをしてたのです。 (私達が掘った物には、必ず傷が有ったので、買い取って貰えませんでした。)

 ジネンジョは周囲の岩や石を避けて、前後左右に曲がって成長します。 スーパーで売っている様に、真っすぐい棒の様では無いのです。 断面は丸かったり、平べったかったりするので、気を付けながら掘っても、傷を付けてしまいます。 名人に、何回も弟子入りをお願いしたのですが、結局・一回も連れて行って貰えませんでした。

【ツクネ芋を栽培しています。】
 我が家の居間の窓の下に、二坪ほどの小さな花壇が有ります。 (我が家では『ハタケ』と呼んでいます。) 夏季は胡瓜かゴーヤを植えてグリーンカーテンにしていました。(冬季は玉葱を育てて来ました。) 連作障害か(?)、胡瓜は生育が悪くなりました。 ゴーヤは今でも元気に育つのですが、家内も私もゴーヤが余り好きで無く、近所に配っても、喜んでくれる方が少ないので、数年前から”ツクネ芋”を育てています。

 ツクネ芋を育てるのは意外と簡単です。 グリーンカーテンにはなりますが、11月頃まで葉が枯れないので、少し問題です。

 最初の年は、スーパーから小ぶりのツクネ芋を2個買ってきて、それぞれ四等分して、大きなプランターと”ハタケ”に分けて植えてみました。 11月に掘ってみると、プランターの方はスーパーで買って来た物より小さかったですが、地植えした方は結構な大きさになっていました。

 一番大きかった芋を擂り下ろしていたら、黒っぽく変色して来ました。多分、灰汁(あく)が強いのだと思い、少し食べて見ましたが美味しく有りませんでした。 インターネットで調べたらツクネ芋には、余り肥料を与えたら駄目と書いていました。 次の年から、発酵油粕の固形肥料を少量、年に1回だけ与えています。

 去年、芽の出る前(3月頃)に、ハタケに植えた1個が猫に掘り起こされ、乾燥して萎びていました。駄目元で埋めたら、芽が出て、スクスクと育ち、大きな芋になっていました。 植物の生命力の強さには、時々驚かされます。

 ツクネ芋にも連作障害が有る様ですが、今の所、生育は順調です。 「土に有機物が沢山入っているためか?」と勝手に判断しています。 病気は一度も発生していません。 毎年、蛾の一種のキイロスズメが葉を食べます。 薄い草色の保護色ですが、大きな黒い糞を落とし、私の中指ほどの大きさになるので、簡単に見付ける事が出来ます。 一度・徹底的に退治すると、(我が家の場合は)その年はもう発生しません。

【我が家の”ハタケ”】
 家の西側の半分と南側に幅1メール、東側の半分に幅2メールほどの花壇を作っています。そして、居間の窓の下に”ハタケ”が有ります。 40年ほど前に家を建てた時、周囲に畑が沢山あり、毎年、少しずつ家が建ちました。 不要になった畑の土を頂いてきて、花壇と”ハタケ”に入れました。 レンガを沢山買って来て、最初は横に寝かせていたのですが、土が増えてきたので今ではレンガを立てています。 特に”ハタケ”は水はけを良くするために、レンガを二段に立てて、庭より40センチ以上・土を盛り上げています。

 家内は花が好きなので、最初の頃は一年草の花や、紫陽花等を化学肥料で育てていました。(家内は”土弄り(つちいじり)”が嫌いな方なので、花壇の手入れは私の担当です。) 数年もすると、ミミズや蝉の幼虫が殆どいなくなってしまいました。 以来、化学肥料は出来るだけ少なくして、バーク堆肥、骨粉、発酵油粕で育てています。(時々、魚粉、牛糞、鶏糞も使います。)

 竹村電機製作所の土壌酸度測定器でペーハー(PH)の管理もしています。 PH計は4,000~8,000円程で入手出来ます。 化学肥料を多用される方には、お勧めします。

盆栽は誰のものか?

2018-06-29 17:40:37 | 園芸
 今回は、明光商会の創業者の故高木禮二さんに教えて頂いき、私の座右の銘にしてきた事を書きます。 (私のプログでは実名を使用しない事を原則としていますが、今回は敢えて禁を破る事にしました。)

 昔、明光商会は市ヶ谷にありました。田舎者の私は市ヶ谷を全く知らなかったので、最初に明光商会を訪問した時、一時間ほど早く着いてしまいました。(玄関に石像の有るビルと聞いていたので、迷わなかったのです。)
 受付の女性に「早く着きすぎたのでロビーで休ませて下さい」とお願いすると「盆栽を展示していますので、如何ですか?」と案内してくれました。

 それまでに見た盆栽とは全く異質な、芸術の域にあると言っても過言でない盆栽が展示されていました。木は人間とは逆で、歳月を重ねると堂々とした風格と威厳が出て来ます。
 樹齢800年と書いた札の付いた盆栽もありました。鎌倉時代から延々と受け継がれてきたわけです、毎日毎日、誰かが水をやり、手入れをして、病気を乗り越え今日まで生きて来たのか!

 その後は明光商会で打ち合わせがある時は、必ず1時間以上早くいって、盆栽を鑑賞しました。ある時、木の無い鉢が一つ展示されていました。見事な絵が描かれていて、見とれていると、後ろから「見事なものですね、国宝級だと思いますが、鉢には穴が開いているからか? 国宝にはならないのだと思います」と声を掛けられました。
 商談が進んで、社長を紹介して頂いたら、先日・鉢の説明をして頂いた方でした。

 「盆栽は育てられる人に引き継ぐ物で、後継者が育てられそうに無い時は、死ぬ前に育てられる人に譲るものです。」と最初にお会いした時に教えて頂きました。
 高木さんは盆栽だけでなく、会社も譲って亡くなられた様です。 オーナー社長がボンクラ息子に会社を継がせて、死んだ後も社員を苦しめる例が多いいですが!

 私は技術屋でしたが、仕事をするだけでなく、知識と経験を若い人に伝える事に時間と労力を掛けるべきだと考える様になりました。

 ある大手企業(A社)の開発をボランティアで手伝った時、お礼に盆栽を上げたいと言われ、案内されました。素晴らしい盆栽が木製の棚に二十数鉢置かれていました。高木さんの教えを思い出し、ちゃんと育てる自信が無かったので辞退しました。

 A社が吸収したB社のオーナー社長が持っておられた盆栽だった。B社が倒産した時、オーナー社長の家屋敷、骨董品等々すべて没収されたそうです。オーナー邸の庭に立派な盆栽が有った事を思い出した重役が、社員二人に見に行かせ、持ち帰らせたものでした。その後、その二人の社員が手入れしてきたのですが、二人とも定年が近づき困っていたのです。(簿外資産ですから処分が難しい!)

 高木さんが長い年月を掛けて収集された盆栽の一部は『さいたま市・大宮盆栽美術館』で見られます。盆栽に興味の無い方でも、一度是非とも見に行って下さい。考え方が変わると思いますよ!


余談(1) :高木禮二さんの恰幅の良い姿は舛田利雄監督の映画「大日本帝国」で見られます。

余談(2) :私が明光商会に行っていた頃、隣に新社屋を建設していました。ほぼ完成した新社長室を見せて頂いたのですが、床と壁に素晴らしい紋様の入った大理石が埋め込まれていました。もう一度是非見てみたいものです!

今年も芍薬の花が咲きました。

2018-05-12 10:45:58 | 園芸
 先月、プログで紹介しました『牡丹』と同時(三十数年前)に、山奥の実家の庭から芍薬も移植しました。今年も沢山花が咲き、今日最後の花芽が開き始めました。

 この芍薬も、田舎の庭に植えたのは明治時代の様ですから、100才を超えています。

 田舎では施肥、水やり、その他の一切の手入をしなかったので、繁茂し過ぎる事も無く、毎年十輪ほどの花を咲かせていました。

 我が家の庭に移植する時、日当たりの良い場所を選んで、腐葉土などの有機物を沢山入れて植えました。そのためか、とても100才を超えているとは思えない程、元気はつらつです。

 毎年春になると芍薬は、全部成長したら葉を広げるスペースが無いほど多くの芽を出します。適当な間隔になるように、私は芽を摘んでやります。

 今年、芍薬の芽を摘みながら思ったのですが、人間は何故か豊かになったら『子供は要らない!』とか『子供は二人しかいらない!』とか考える様になる。

 人間にも『子孫を増やしたい!』と言う本能があるのに、『遊びたい!』とか『〇〇も××も欲しい!』とか考えるのですね? 自分で『芽摘み』をしているわけです。

 自分の子供や孫は可愛いと思い、他人の子供はそれ程には思わないのは、多分本能だと思うのですが! 人間の脳細胞は、その人(主人)に内緒で本能の一部を蹴散らしているんですね!

添付の写真は、我が家の芍薬です。


道端のバラ

2018-05-04 17:36:15 | 園芸
 私は、古い街並みを散歩するのが好きです。10日ほど前、そんな街を散歩していたら、道端に咲きかけのバラを見付けました。

 今日は、好天でしたのでカメラを持って、バラに会いにいきました。残念なことに少し盛りを過ぎてしまっていました。そのバラの写真を添付します。赤い方は、直径10センチ以上の大輪でした。

 この道は、(多分戦前からある、)片側二車線の広い道です。元は街路樹が植えられていた場所に、草花やバラ等々が勝手に植えられています。余り手入れはしていない様ですが、通行の邪魔にはならない程度には管理されています。 公共の土地でも、この程度なら許してあげましょう!

 よく耕された畑の様な個所もあり、野菜が植えられていました。公共の土地ですから、いくらなんでも野菜はダメだと私は思うのですが!

 路地に入ると、どの家の前にも堂々と鉢植えが並べられていました。大抵はろくに手入れもしていない、雑草の生えた鉢ですが、一軒だけ良く手入れした鉢を並べていました。赤と黄色の綺麗なシンビジュームが満開で、写真を撮りたかったのですが、奥様達の井戸端会議の邪魔をしてはと考え、断念しました。

 「通行の邪魔をするのだから、鉢植えを少しは手入れをしろ!」と言いたいです。余り目くじらを立ててはいけませんか⁉