これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

賃貸マンションは儲かりません!

2019-12-28 14:13:32 | 社会問題
 私は2年程前から友人の所有している、11室の小さな賃貸マンションの管理を、ボランティアでしています。 まだ短い期間ですが、色々有りました。 今回は、小さな賃貸マンションは、苦労が多いいのに『儲からない!』と言う話です。

【思わず笑ってしまう悪戯(いたずら〉】
 2019年3月9日に『法律の不備を正せない日本』と言うタイトルで、家賃を滞納して、強制執行が入った部屋について書きましたが、これは・その後の話しです。

 家賃保証会社が家具を撤去した後、部屋の内部と備品をチェックしたのですが、『ここまでやるか?!』と言う程の悪戯をしていました。 多分、家賃保証会社が厳しい催促をしたので、”腹いせ”にやったのだと思います。 復旧するのに、『家賃2年分ほど』も掛かりました。

① ユニットバスの取替 :家賃1年分ほど掛かりました。
② 換気扇2台の交換 :一台は新しかったのですが、壊していました。
③ インターホーンの取替 :分解して内部を壊していました。
④ 壁に6か所の穴 :大きなハンマーと金槌で叩いた様な穴
⑤ ガラス戸のガラスを2枚壊していました。
⑥ 3枚の網戸の網を切っていました。
⑦ 室内灯のスイッチのカバーを全て取り外し、スイッチが宙ぶらりんになっていました。
⑧ コンセントのカバーを全て取り外し、コンセントが宙ぶらりんになっていました。
⑨ 使用していなかったコンセントは、コンセントも無くなっていて、配線が漏電寸前の状態で放置されていました。 (大家と、「火事にならなくて幸いだった」と話しました。)
⑩ 2か所のガス・コンセントのカバーが無くなっていました。
⑪ シーリングライト用のコンセントを実に巧妙に壊していました。(一見、正常に見えました。)
⑫ エアコン用コンセントに200Vのシールを貼っていました。(100Vが正解)
⑬ 洗濯機パンの排水ホースを固定する部品が無くなっていました・・・パンの取り替えが必要になりました。
⑭ エアコン用配線を分電盤のノーヒューズブレーカーから取り外し、天井裏に押し込んでいました。 (無理な姿勢で、やっと手が届く位置まで押し込んでいたので、復旧作業が大変でした!)

【不法駐輪の退治】
 私が管理している賃貸マンションは、地下鉄の駅まで3分弱の所に有ります。 建物の間に、10台ほど置ける屋根付きの駐輪場が有り、エントランス部に中形の自動車が3台置けるスペースが有ります。道路の向かい側に、200台ほど置ける、民間の有料駐輪場と、駅には公営の駐輪場があり、更に、歩道に有料の駐輪スペースが設けられています。

 私がここの管理を始めた時、夜は30台ほど、昼間は50台ほど、酷い日はマンションの出入りに支障が有るほど沢山の自転車を駐めていました。 それで、私は、①住人が使用している自転車、②使用していない自転車、③住人以外の不法駐輪自転車に分ける事から始めました。

 ①住民が使用しているのは約15台で、②所有者不明が約15台、③住民で無い人が30台以上留めている事が分かりました。 警察に相談すると、「エンジン付きは関与するが、自転車は管轄外です。市の交通局に相談して下さい」と言われました。 交通局は、「民有地に放置された自転車を撤去する事は出来ません」との回答でした。

 自転車の回収業者に相談すると、「駐輪禁止の表示をして、不法駐輪車に”○○日に撤去する”と言う警告札を各自転車に取り付ける」アドバイスを貰いました。 警告の札を取り付けると、日に日に、不法駐輪は少なくなり、業者に持って行って貰ったのは16台でした。 暫くすると、また不法駐輪車が増えて来たので、エントランス部に留めていた自転車を、毎日奥の駐輪場に移動して、警告の札を取り付けました。 他人の土地に勝手に置く『不届き者』にも、気の弱い人がいる様で、奥まで入って来て自転車を持ち帰れなかった様です。半年ほどで、6台溜まったので業者に渡しました。

 努力が報われて、最近は不法駐輪車は週に1台程になり、余り支障が無いので大目に見ています。

【枯れ葉の掃除】
 このマンションの隣は某宗教法人の教会で、100坪ほどの敷地に、高さ10メートルほどの木が茂った雑木林の様でした。南向きの敷地ですが、教会には陽光が入らず、外から建物は(殆ど)見えない状態でした。母親と40歳前後の息子、娘の三人で暮らしていました。 ほぼ一年中、多量の葉が飛んで来るので、困ってしまい、ここの大家が「剪定か、伐採して欲しい」と何回もお願いした様です。 母親が、「庭の木を切ってはならない」と言うので、木は伸び放題だいだったのです。

 去年の夏頃に、落葉を掃いていたら息子さんが通られたので状況を見てもらいました。「母が入院して、二度と帰って来れないと思われるので、切ります」と言ってくれました。信者数人で、10本ほど伐採して、枝も4/5ほど切ってくれました。(道路から教会が見える様になりました。) それからは、被害は少なくなっています。

 道路を挟んだ向かい側に中規模の賃貸マンションが有ります。 幅1.5メール程の花壇(?)にソメイヨシノを植えていて、幹はドンドン太くなって、枝の大半は公道の上に張り出しています。 (現在のアスファルトは、雨も空気も通しますから、公道の下に根を張って成長しているのだと思います。)

 毎年、11月になると、多量の枯れ葉が落ち、風でこのマンションのエントランス部に飛んで来て溜まります。 今年は特に酷く、一週間に飛んで来た枯れ葉は、45リットルのゴミ袋にギュウギュウに押し込んで、ほぼ一杯になりました。 一時間以上、箒で掃いてたので、腰が痛くなり、前のマンションの管理会社に電話して、「伐採して欲しい」と頼みました。「状況を確認して、大家と話して見る」と言った切り、連絡が有りません。

 来年、証拠写真を撮って、粘り強く交渉しようと考えています。 野党の皆さん、『桜を見る会』を問題にするついでに、『隣のマンションのソメイヨシノの枯れ葉』も取り上げて下さい!

【畳屋さんの話し】
 二年ほど前から友達の様になった畳屋さん(G氏)の話しです。 G氏はまだ五十歳代で、大手企業に勤めていましたが、両親が年老いて家業(畳屋)を継ぐ事になりました。 畳屋だけでは食べていけないと考えて、壁紙や床クロスの張替え職人に弟子入りして、1年ほど修行した後に家業を継いだそうです。

 賃貸マンションでは、部屋が空くと大抵の場合、壁紙、床クロスや畳の張替えをします。 この世界は全国展開したリフォーム会社や無数の工務店など、競争が激しいですが、G氏は種々工夫して何処にも価格/技術で負け無い体制を構築しました。 G氏の仕事のやり方を以下に整理してみました。

① 畳の張替え :G氏の本業
② 壁紙や床クロスの張替え :G氏の本業
③ 網戸張替え :G氏の本業
④ 部屋やベランダの清掃 :掃除専門の職人さんを一人雇って、G氏か弟さんが手伝っています。
⑤ 大工工事と左官工事 :簡単な工事はG氏が、自分でやっています。 (非常に稀なケース以外には必要有りません。)
⑥ 塗装工事 :簡単な塗装はG氏が、自分でやっています。
⑦ ガラス戸の修理 :戸を外して→専門店で修理 (非常に稀なケース以外には必要有りません。)
⑧ 襖の張替え :襖を外して→専門店で貼替 (この賃貸には障子は有りません。)
⑨ 廃材の処分 :G氏は畳店(?)の近くに廃材を仮置くスペースを所有していて、数か所の工事で発生した廃材を、暇な時に纏めて処分場に運んでいます。この工夫で年間・100~200万円ほど経費節減が出来る様です。

 マンションのリフォームには、畳屋、クロス貼り替え以外に、大工、左官、塗装などの職人が必要ですが、一般に職人さんは、材料を手配したり、見積をするのは苦手です。 G氏は、工事に必要な材料を自分で手配して、腕の良い職人さんに限定して仕事を回す事にしています。 見積依頼が入ると、自分一人で現場の状況を確認して、必要な職人さんの人数、材料を出して、直ぐに見積書を提出しています。 見積書は、FAXやメールに添付して提出し、原則として顧客に出向いて説明はしません。 職人さん達には、「この金額でやって下さい。足が出た時は相談しましょう!」と言うのだそうです。 

 私はG氏に2回お世話になりました。工務店やリフォーム会社から見積書が提出されるまで、10日ほど掛かりましたが、G氏は三日以内を原則としている様です。価格は、他社より30%~50%安かったです。

 G氏は勉強家で、リフォームに必要な色々な資材のカタログを車に積んでいます。「カビが発生し易い部屋の対策は?」と相談したら、直ぐにカタログを出して来て、「これはどうでしょうか?」と説明してくれました。

 私はG氏のやり方に感服して、「後継者を育てるべきだ!」と言ったのですが、「息子には好きな事をやって欲しい。他人に教えるのは難しい」と言いました。 私は、G氏の商売のやり方を全国に広めたくて、この文書を書きました。

【独身で身寄りが無い外国籍の住人】
 最初にお断りしておきますが、私は差別主義者では有りません。 外国籍の身寄りの無い方でも、亡くなった時に大家に迷惑を掛けない体制に(法律を整備)して、最後を迎える時まで安心して賃貸マンションに住める世の中になって欲しいと考えています。

 30年以上前からこの賃貸に、(子供のいない)朝鮮籍の独身の女性(K氏)が住んでいます。 入居した時は男性と住んでいた様ですが、現在は75歳ほどになられ、一人です。 私が管理を始めた時、「国内に身寄りがいるか?」聞いてみました。「80歳代で、寝たっきりの親戚が一人いる」と言われました。 そのすぐ後に、転倒して骨折され、歩くのが不自由になってしまいました。 かなり体調も良くない時期があり、「万一の場合、遺品の処分をどうしたら良いか?」調べました。

 外国籍の方でも、国内に親族がおられたら、手続きは簡単な様です。 弁護士事務所・数か所に聞いて見ましたが、「国内に親族がいないケースは、母国に住んでいる親族を調査する必要が有るので、母国の弁護士事務所と契約して、調査を依頼する必要がある」との回答でした。「時間と膨大な金がかかります」とも言っていました。

 朝鮮籍と言うと、全ての弁護士事務所は相手にしてくれませんでした。某弁護士事務所は、「数年前に、韓国籍の方の遺品処分を扱った事が有る」と言われましたが、「朝鮮籍で北朝鮮出身のケースは対応出来ません」とのことでした。 北朝鮮とは国交が無い為に、『北朝鮮在住の親族を調査するのが難しい』だけの問題では無いようでした。

 国は、労働者不足を外国人に頼る方針ですから、今後は益々、賃貸に外国籍の方が入居される様になると思われます。 国内に身寄りが無い外国籍の方が、亡くなるケースが増えて来ると予想されます。 そんなケースの為の保険の創設や、大家を救済する法律の整備が必要です。

(余談) 賃貸に一人で暮していた方が亡くなったとします。家具や貯金を大家が勝手に処分するのは”違法行為”です。 その遺産を相続出来る権利がある親族を調査する必要があります。 大家は、弁護士に戸籍調査を依頼する事になります。 無くなった方が日本人だったとしても、高齢(長生きされた方)だったり、何回も結婚された方だったりすると、弁護士費用が嵩む事になります。

【猫を放置して夜逃げした女性】
 このマンションの工事をしていた職人さんが、「別の現場から緊急の応援依頼が入ったので、今日は失礼します」と言って帰ってしまいました。 その職人さんから、次の日に聞いた話です。

 ある賃貸マンションで、猫を沢山飼っていた独身の女性が、何か月か家賃を払わないで、夜逃げしました。 数か月後に強制執行が行われ、ドアを開けたら酷い悪臭で、部屋に入れなかったそうです。 そういったケースを扱う専門業者に、60万円以上支払って、人が立ち入れる状態にして貰ったそうです。 (先ず、徹底的に消毒する様です。)

 猫が10匹以上死んで腐敗し、部屋中に糞が落ちて、悪臭を発生させていたのです。 家具を持ち出し、壁紙や床クロスを全て剥がした様ですが、「悪臭が酷く、長時間部屋におれないので、沢山人を集めて交代で作業した」と言っていました。

 発生した費用は、私の予想では2~3年分の家賃になったと思います。全て、大家が負担する事になります! (このケースは、法律で大家を救済するのは難しそうです。)

企業の民主化 (その9)

2019-12-21 09:52:09 | 民主主義
 今回も、チョットした事で、社員が楽しく/生き生きと仕事が出来ると言う例を書きます。 政治家や大きな組織の力を借りなければ出来ない、会社の改革については、もう少し考えを纏めてて、後日、公表したいと考えています。

【放任社長の例 :1】
 私の小学校以来の友達(S君)の話しです。 S君は幼い頃から、かなりいい加減な性格です。 高校卒業後、色々有りましたが、1980年頃に地方都市で奥さんと二人で、フェンス工事や花壇作りを主とした工務店を始め、 そして直ぐに、人を雇える様になりました。 最初の頃に雇った方が、非常に優秀で会社は安定した経営になり、少しずつ成長し始めました。 (会社名に創業者の氏名を入れたがりますが、S君はカタカナの近代的な名称にしたのも良かったと思います。)

 S君は高校時代に将棋が強くなり、会社が少し順調になって来ると、徹夜で将棋を楽しみ、会社には余り出勤しなくなりました。 奥さんと、社員で会社を運営していると言っても過言では無い様に見えました。 S君の出した素晴らしい提案は、「会社の経営をガラス張りにし、利益を三等分して、①会社の内部留保と設備投資、②S君の取り分、③社員への第3番目のボーナス(特別ボーナス)にする」ことでした。

 特別ボーナスは、社員一人一人の業績を加味して決めました。かなりの差をもうけた様ですが、誰が幾ら貰ったか分かる様にしたのです。 日本には種々の資格試験が有りますが、受験費用を会社負担にしたので、沢山資格保有者が出来、会社の業績は益々上がりました。→→2019年現在、社員数は60名ほどになっています。

(余談) S君は年老いたので、数年前から会社を息子に譲る事を考え始めました。 今年・電話で、「僕は会社の為に何もしてこなかった。死ぬまでに役に立ちたいので、新しい事業を2年前から始めた」と言うのです。 私は、「①優秀な社員を自由に働かせた。②(前述の)素晴らしい提案をした。両方とも普通の人では出来ない事だったから、十分会社に貢献した」と言いましたが、新しい事業は続けると言い張ります。私は、「多分失敗する」と心配しています。

【放任社長の例 :2】
 家庭電気製品も作っている大手重電気会社(M社)の、小さな協力会社の話しです。パートの女性が10名弱いました。 彼女達がこの会社を支えていると言っても過言では無い状態でした。 社長は高齢で口煩い人でしたが、彼女達が担当している仕事には興味が無く、任せ切りでした。

 M社の数工場から、小さな種々雑多な部品が定期的に多量に注文されていましたが、各部品の担当の女性が受け付けて、必要な材料を手配し→プレス会社に発送し→彼女が簡単な加工をし→メッキ工場に発送し→彼女が検査して納品するのです。素材の在庫管理、外注費用の管理、納期管理を全て彼女達がやりました。納期が間に合いそうに無い時は、その部品の担当の女性が夜中の12時頃まで自主的に残業していました。

 昼食の時間や、仕事が終わってからは楽しそうに雑談していましたが、女性社員が勤務時間中に無駄話をしているのを見た事が有りませんでした。会社から出る生ゴミなどは、町内のゴミ置き場に出していましたが、女性達が早く出勤してゴミ置き場周辺の草引きをしたり、仕事が終わった後にゴミ置き場の掃除をするのです。工場内の掃除や草引きは、夕方、タイムカードを押した後に皆で自主的にしていました。

 最低賃金より10%~20%高く、残業代もキチット支払っていましたので、パート社員の定着率は非常に高かったです。

(余談 ①) 裕福な家庭の奥さんが何人かいました。その一人に、60歳後半の寡黙な方(Bさん)がおられ、皆に一目置かれていました。 この会社では、時々大きな機械を製造するのですが、そんな時はパートの女性達も参加していました。 部長と課長の指示で作業が始まるのですが、組立時に問題が発生すると、Bさんがテキパキと指示を出すのです。

(余談 ②) 積層絶縁板をCD(コンパクトディスク)状に加工して欲しかったのですが、正社員に頼んだら商品として出せる物は出来ませんでした。 別の仕事を担当していたパートの女性が、「社長に内緒にしてくれるのなら、私がやります」と言ってくれ、慣れた手つきで機械を操作して、申し分ない物を作ってくれました。 彼女は、機械加工の小さな会社の奥さんだったのです。

【民家の様な建物】
 これは、私が長くお付き合いして頂いた機械系の設計事務所の話しです。 田園地帯の一角に沢山・木を植えて、その中に大きな民家の様な二階建ての建物を建てて事務所にしていました。内装も少し金の掛かった民家風でした。社長に、「民家を買って事務所にしたのか?」と聞くと、「社員は一日、部屋の中で図面を描くので、明るくて落ち着く雰囲気にしたかったので、家内と相談して設計した」と言われました。

 この会社は、まだ高価だったキャド(CAD)をいち早く導入しました。当時は、IBMのキャダム(CADAM)が主流で、一式1,000万円ほどしたと思います。 その後、パソコン(PC)で動かせる廉価版のCADの時代になりました。 この会社は、大手企業数社と取引していたのですが、各社が導入したCADが違うので、数種類のCADで仕事をしていました。 (私は、数社に出向したので、3種類のCADで仕事をしました。)

(余談) 残念ながら、社長が二代目に代わられて、事務所は建て替えられ殺風景な外観になっています。その周辺の田圃は工場と住宅になっています。昔の様に社員が生き生きと働いている様には思えません!

【溶接と農業】
 この話も、田園地帯に有った会社の話しです。 私が出向していた会社に、納品の途中に雑談をしに来る、小さな溶接の会社の社長がいました。 私は溶接で苦労した時が有ったので、仕上がった物を見たら溶接工の腕の良し悪しがだいたい分かりました。 何時も、社長がトラックに積んだ品物を見せてくれたのですが、非常に複雑な形状で、肉厚の違った部材を見事に溶接していました。

 社長は大手の重機械メーカで溶接技術を磨いて、お弟さんと二人で独立した様です。 大形のプリンターを購入し、顧客からのメールに添付された図面を即アウトプットして、見積書をメールで返し、金額が了承されたら製作する分けです。納品は、自前のトラックで社長がしていました。 A1(新聞を広げたサイズ)の印刷が出来るプリンターでした。

 私が雑談していた頃は、三人雇って五人の会社になっていました。 五人に共通するのは、広い田圃を相続した米農家だった事です。 農繁期の時は会社は休みにして農作業する分けですが、大形の機械を使用するると、春の田植え、秋の収穫もそれぞれ一週間程で終わってしまいます。 米作と会社は、殆ど問題無く兼業出来る様でした。 米農家の多いい地域では、参考になると思います。

【農業機械のメーカー】
 農業機械メーカーを数社訪問しました。その中で、最も旨く経営していた会社を紹介します。 農業機械にも色々有りますが、比較的小形の機械を得意としていた会社(T社)の話しです。 一般には余り知られていませんが、中堅の農業機械メーカーは東北地方に結構沢山有ります。

 各社で、ほぼ共通していたのは、(価格競争が激しいので、)残業無し(定時操業)の運営をしていた事です。 T社には、設計/経理/営業などの社員にサービス残業(ただ働き)をさせる習慣は全く有りませんでした。「残業したら割増賃金を支払う必要が有るので、熾烈な価格競争に勝てない」と言っていました。 T社の製品が、T1、T2、・・・TNまで有ったとします。今日、T3を40台組み立てる計画です。前日までに40台分の部品を全て揃えて置き、数量だけで無く、欠陥の無い事を確認していました。今日、組立現場に必要な作業者の人数を正確に出しておきます。現場社員では不足する場合は、設計を含めた事務所の社員を動員していました。

 私は設計担当者と打合せしましたが、「月単位で生産計画が立てられるので、自分が組み立てに参加する日を加味して、設計の日程計画を立てるので支障は無い」と言っていました。「たまに現場で身体を使った仕事をする方が、楽しい」とも言っていました。 私は、「自分が設計した機械を組立たら、こんなに設計変更したら、もっと組み立て安くなると言ったアイディアが湧く」とも思いました。

 多くの農業機械は赤一色の塗装をしていますが、機械を大きく見せる為だそうです。 中堅の農業機械メーカーでも、本格的な自動塗装装置を所有しています。 エンドレスのハンガー付きワイヤーが組立工場内を走る様になっていました。 組立の順番に部品をハンガーにぶら下げると、自動塗装装置の中で塗装/乾燥した部品が組立ラインに運ばれます。その日の製造計画で、ワイヤーの走る速度が決められていました。

 完成した機械は、とんでもなく大きな倉庫に保管され、注文を受けた後に全国に出荷していました。洋服には夏服、冬服、合服が有りますが、農業機械も季節によって売れる機械が違います。倉庫にも限界が有りますから、T社では年間を通して工場が稼働する様に工夫していました。 例えば、私が最初に訪問した時、数年前にまでは秋に売れる機械が少なかったので、社員達で知恵を絞って秋売れる機械を開発したのです。非常に単純な機械でしたが、確かに農家の作業を効率化出来ると思いました。ヒット商品になっていました。

 T社では、殆どの部品を協力会社に依頼していましたが、溶接の必要な部品は自社で作っていました。南向きの窓側にブースを幾つか設けて、溶接の光が組立工の目に入らない工夫をしていました。 溶接場所は3K(きつい、危険、きたない)が一般的ですが、結構清潔で明るかったです。

【傲慢な社長】
 これは典型的な反面教師の例です。 昔は、○○重工と言う会社には超大型の工作機械が沢山有りました、私の会社にも有りました。 関西では1985年頃までに超大型の工作機械は殆ど廃棄されて、重工会社はK鉄工所に依頼する様になっていました。 私の勤めていた会社もK鉄工所で加工して貰っていましたが、「経営状態が悪化して来たので、工場サーベイ(調査)をして欲しい」と資材部署から何回も言われていたのですが、断っていました。 (私は、超大型の工作機械についての知識と経験が全く無かったのです。)

 ある日、別の加工会社に出張しようとしていたら、H部長が、「僕も出掛ける所だから、車で送る」と言うのです。 暫くドライブして、「途中寄る所がある」と言い出し、着いた所がK鉄工所でした。 私と、ほぼ同年代の社長と名刺交換をしたのですが、開口一番「僕は、東京大学の機械工学科の出身だ!」と言い出したので、面喰ってしまいました。 社長は、「東大卒業後、大手企業に就職していたのだが、2年程前に先代の社長が急死したので、仕方なしに社長になった」と初対面の私に言うのです。

 一応工場見学はしました。 古い超大型機ですから、数値制御(NC)機能付きの工作機械は1台も見当たりませんでした。 「職人さんの腕が頼りですが、この社長では職人は辞めてしまうから、多分数年以内に倒産すると思います」とH部長に言いました。 本当に私の予想通りになりました。 こんな社長に代わったら、社員は出来るだけ早く転職するのが、最良です。

【東京近辺と職人さん】
 2005年頃の話です。大手製紙会社から、全ての製紙ラインに組み込まれている、一見単純そうな装置のメーカーを調査して欲しいとの依頼が有りました。 その数年前から、その装置を製造していたメーカーが、次々と撤退してしまったのです。私が知っていたほぼ全ての製紙関係の方に電話したら、「昔、関東の小さな会社(Z社)で作った」と言う方がいました。電話したら、「転業した」と断られたのですが、強引に説得に行きました。

 古かったですが広い工場で、老人達が数名働いていました。社長だけが40歳代で、「職人さん達が働ける内は、無理してでも、会社を維持したい」と言われました。「貴社、一社しか作れないのだから、若い人を雇うべきでは」と言うと、「会社を継いだ後、何回も求人を出したが、一週間以上勤めた人がいない。もう諦めた!」と言われました。 東京に電車で一時間程で行ける所では、職人の求人は無理なんです。

 社長が職人の頭(かしら)を呼んで、私が持ち込んだ案件を受けるか?相談してくれ、了解を得ました。但し、大幅な計画変更が必要だと指摘されました。 彼らの指摘を加味した、シミュレーションプログラムを作ってみたら、顧客の計画では駄目な事が分かりました。 顧客に報告に行くと、「君の会社経由で発注する。改造が必要になったら費用は出すから、当社の案で作れ」と言われました。

 納入前に、私は旨く行かなかった時の改造案を検討しました。 試運転すると、Z社の職人が予想した通りの結果になってしまいました。 顧客も改造案を考えられていて、事前に改造に必要な部品/資材を購入されていました。顧客案を試して見ましたが、駄目でした。 私の改造案は、金と時間が掛かりましたが、何とか旨く行きました。

(余談) 東京近辺には、Z社以外でも優れた技術を持った会社を知っていましたが、店仕舞いした所が多いいです。大阪には、今でも、若い人達が優れた職人さんと一緒に働く中小企業が沢山有ります。関西では東大阪市が特に有名です。 「国の発展には製造業が極めて重要だ!」と言うのが私の持論です。 若者達が中小の製造業で働きたくなる様に、官民挙げての取り組みが必要だと思います。

企業の民主化 (その8)

2019-12-14 11:41:39 | 民主主義
 今回も、私と取引の有った会社の話しです。 経営方針によっては、会社が長続きしたり、あっという間に破綻するケースも有ります。チョットした工夫が、会社を良くする場合も有ります。

【先端技術を追求した会社】
 ガラ携→スマホへと急激に技術が進歩しました。それらに欠かせない部品を開発/製造していた会社の話しです。 その会社から製造ラインに組み込む高価な部品を、年に二三回発注して頂きました。毎回、新しい工夫を要求するので、私は、その都度打合せに行きました。対応してくれる方は、何時も同じ課長さんだったので、お互いに何でも話せる関係になりました。彼は、給与の話もしました。私の2倍以上の高給でした。

 工場は立ち入り禁止で、現場社員の様子は分かりませんでしたが、スタッフ達は生き生きと働いている様に見受けられました。 然し、私は「この会社は長続きしない」と思いました。

 私の”持論”では、『ある技術が急激に進歩する時期がありますが、→停滞する様になり、→飽和状態が続き、・・・→周辺技術が進んで、→その技術がまた進歩し始めます。』 会社が永続する為には、開発は重要ですが、安く製造する努力はもっと重要なのです。 特に・この会社が手掛けていた巨大なマーケットが有る場合はそうです。 中国の企業が、この会社の製品を真似て、安価な製品を売り始めました。この会社は、更に難しい製品を開発して上市するのですが、暫くすると、ほぼ同機能の製品を中国企業が安価に売り始めるのです。・・・→現在、この会社は存在していません。

(学生諸君へのアドバイス) ベンチャー企業への就職を考えられている方は、「将来、市場が拡大すると予想される分野の企業では、競合企業に対抗する事を加味した経営をしているか?」と言う視点でも、企業を選択すべきです。

(私の心配) キーエンス社は1974年の創業以来、難しい/優れた製品を開発し続けて、超優良企業になっていますが、機器の製造は全て製造委託しています。換言すると、工場を持たない会社なのです。シュレッダーの明光商会も、製造委託の会社でした。シュレッダーの技術革新は直ぐに飽和したので、明光商会の創業者・故高木禮二氏の採用した営業戦略は、『製造を委託する会社を3社程に限定して、技術と製造は委託会社に任せ/競争させ→安価に作らせて、明光商会は新規参入会社を叩いて国内市場を独占し、価格低下を招かない体制にする』ことでした。数社からシュレッダーが販売されましたが、殆どはOEM(相手先ブランド名製造)で、明光商会が協力会社に作らせた物でした。 キーエンス社は、斬新なアイデアが少なくなった時の事も、そろそろ考えるべきだと思います。

【制御設計を四直三交代へ】
 ある田舎のメーカーに受け取り検査に出張しました。 試運転で少し問題が発生したので、徹夜する事になってしまったのですが、夜中の12時過ぎに外に出てタバコを吸っていたら、二十歳代の女性が目の前を通り過ぎたのです。

 この会社では、現地据付や納入品の点検/修理に、男性の機械組立工と男性の制御設計者をペアーで派遣していました。 現地での作業は、顧客が働かない夜間や休日に行う事が多く、制御プログラムの修正を机/椅子の無い現場で、床に座って行うケースが多かった様です。 

 インターネットが普及して、結構大容量の制御プログラムもメールに添付して送れる様になりました。 制御設計担当者を24時間、最低一人は会社にいる様にして、現地には機械組立工を一人派遣する体制にしてみたのだそうです。 プログラマーが良好な環境で、落ち着いて仕事が出来るので、ミスが減る等、効果大だったそうです。

 それで、制御設計部隊を四直三交代にして、女性も平等に扱うことにしたのです。 予想に反して、女性達は夜勤に抵抗せず、寧ろ男女平等にしたことを歓迎したそうです。 

 近年、「女性の活躍出来る社会へ!」とか、「働き方改革」が叫ばれていますが、成功した例は沢山有ります。 与野党の政治家や会社の経営者は、女性が男性と同様に働いたら、国家にも会社にも大きなメリットが有る事を認識して、足を使って勉強し、工夫する事が肝要です。 全てのケースに適応出来る妙案は有りません。 それぞれのケースで工夫する必要が有ります。

【工場の中央にNCプログラマー室を設けた例】
 軽合金の素材も手掛けている某大手企業の重役が、「素材で売るのでは無く、部品に加工して、付加価値を付けて売る」事にしました。 第一段階として機械加工を委託する協力会社を育てる事にした様です。 小さな町工場を経営していた、従順で真面目なだけが取り得の社長に大金を融資して新工場を建設させ、工作機械等の設備は破格の条件で貸与しました。 然し、全ての営業権は大手企業が握りました。

 一見良さそうな戦略ですが、私は「この会社は長続き出来ない」と思いました。予想の通り現在は存在していません。 大手企業の営業マンは会議が多く、報告書の作成などで多忙で、販売活動に割ける時間は少ししか有りません。 彼らの給与は高く、もろもろの経費が沢山発生するのです。 (経費の例 :兆円単位の売り上げの有る企業では経理処理用のプログラムが必要です、一件受注すると経理処理の為の番号を取って、大形コンピューターに登録(インプット)します。この時点で一万円以上の経費が発生します。)

 私が打合せの為に出張した頃は、工場建屋は真新しく、工作機械は全てNCで、購入して数年しか経っていませんでした。当時は受注量も多く、四直三交代でフル稼働に近い状態でした。 殆どの社員が二十歳代で、生き生きと仕事をしていました。毎日、掃除をする様で、東京ディズニーランドの様にゴミは落ちていませんでした。

 私が一番感心したのは、工場のほぼ真ん中に十畳ほどのガラス張りのNCプログラマー室を設けていた事です。 若い女性が三人ほど働いていました。 プログラムに問題が発生すると、彼女達がその機械まで行って、状況を確認して直ぐに修正していました。

(余談 :自惚れ!) 「いずれ大手企業は手を引くと思われるが、私に会社を任せてもらえたら十分維持/発展させられる会社だ」と思いました。

【私の精密機械加工の大先生】
 1984年頃に、私は超精密機械加工が必要な機械を開発していました。 八方手を尽くして業者を探していたのですが、 なんと! 私の家から歩いて行ける所に、日本有数の素晴らしい会社が有ったのです。

 戦後、東京工業大学の機械工学科を卒業された、五十歳代の方が三代目の社長になっておられました。社長の超精密機械加工への情熱には敬服しました。 最初に訪問した時、社長の机の上に、ほぼ完成した機械式ジャイロスコープを置いていました。 ジッと見てたら動かしてくれました。私の目では正常に動く様に見えましたが、少し修正加工が必要だと社長は言われました。 (機械式ジャイロスコープには高度な加工技術が必要です。)

 現在では、カメラは全てオートフォーカス(自動焦点)ですが、1984年当時はまだ普及していませんでした。ミノルタがオートフォーカス・カメラの名機『アルファ(α)-7000』を開発中で、主要部品の試作を、この会社(M社)に依頼していました。ミノルタは1985年にα-7000を発売し、私は直ぐに買いました。社長(M社長)に、「何故、量産に参加しなかったのですか?」と聞くと、「ミノルタの生産計画に対応する為には、新工場の建設が必要だが、私の後継者がこれ以上大きな会社を経営出来ると思えないので辞退した」と言われました。

 M社長から最初に紹介して頂いたのは、機械検査技能士の特級か1級の資格を持った検査員(N氏)でした。 N氏の横で、「N君が合格だと言ったら、間違いは有りません」と大きな声で言われました。私が製作依頼する時、どの寸法をチェックするか決めておくと、N氏が測定した数値を記入した検査成績書を添付して納入してくれました。 一年程してM社は、まだ高価だった三次元測定機を購入し、N氏が操作していました。

 M社は、スイスやドイツ製の超高価な精密工作機械を十台ほど所有していて、それらを『マザーマシン』と呼んでいました。 社長が全幅の信頼を寄せている社員に一台ずつ与えていました。 彼らは超硬(タングステン・カーバイド)のバイト(切削の刃物)を自分で製作して、それぞれが、鍵付きの収納ケースに保管し、社長でも勝手にバイトを見てはいけないルールになっていました。

 私の依頼した部品の加工の一部に、『マザーマシン』が必要な個所が有りました。それぞれのマザーマシには月単位の工程表が作成されていて、月の始めには、その月の工程表には”空き日”が無い状態でした。 M社は、マザーマシを担当しているベテラン社員には、余程の事が無い限り残業を強いない事を社訓の様にしていました。 (タイムカードを見なくても、各工作機械の工程表で社員の会社への貢献度がチェック出来ると、私は思いました。)

 当時、私は精密機械の知識が乏しかったのですが、M社長が何回も何回も、私を機械の前に連れて行って説明してくれました。 日本製の工作機械も多数所有していたので、同じ機能の輸入機械と国産機械の違いなども詳しく教えて頂きました。 (M社長の知識と経験の深さには、敬服しました。)

(余談) 私はコーヒーが大好きなんで、コーヒーカップの収集も初めていました。 M社長は、美味しいコーヒーを出してくれる様になり、ヨーロッパ製の飾り棚を買って高価なカップも買われました。 M社は私の家から近かったので、M社が土曜日出勤の時は、時々電話が掛かってきて、散歩がてらコーヒーを頂きに行きました。私の土産は、超電導や原動機などの技術の話しでした。 精密加工には幾何学の計算が必要なんですが、定年後には幾何学の顧問になる約束でしたが、残念ながら私がリタイアする前に亡くなられてしまいました!

【富士フイルムの尊敬すべき技術者】
(余談 ①) 大正時代に大日本セルロイドと言うセルロイドの会社が出来ました。 セルロイド以外にも事業を展開して、戦後、社名を「ダイセル」に変更しました。(日本とロイドを省略し、大を”ダイ”にした分けです。) 昭和初期に写真フィルム部門を独立させて『富士フイルム』を設立しました。 富士フイルムがアメリカのゼロックス社と合弁企業を設立したのが『富士ゼロックス』です。

 ダイセルは私達の身近な製品をほとんど製造していませんが、自動車のエアーバックに入っているインフレーター(火薬を燃焼させてガスを発生させる装置)では日本一で、日本たばこ社が製造するタバコのフィルターは全てダイセルが作っています。

 富士フイルムは、生みの親のダイセルの血を引いているのか?斜陽の本業(写真フィルム)からの事業転換が見事でした。 (現在では、写真用のフィルムの貢献度は数%まで低下しています。)

(余談 ②) 写真のフィルムは結構厚いですが、薄いフィルムを何枚か積層している様です。 富士フイルムは薄いフィルムを製造する技術があり、その技術を応用してPCやTVの液晶ディスプレイの表面に貼る偏光層保護フィルムに進出し、現在この分野では世界一になっています。

 当時、私は均熱ロールを手掛けていました。富士フイルムは他社製の均熱ロールを多数所有されていて、その修理と難しい改造の仕事を沢山頂きました。難しい仕事の大半は、F氏から頂きました。 F氏は表面に硬質クロムメッキを施したロールをピカピカに磨き上げる技術開発に情熱を注がれていました。 私がお付き合いを始めた時は、既に世界最高と言っても過言でないノウハウを確立されていました。 (均熱ロールの詳細はhttp://www.hidec-kyoto.jp/heat_roll/shr.htmlを参照願います。)

 F氏から修理するロールが着くと、→私の会社で分解して、ロールに仕込まれたヒートパイプを殺します、→ロールだけメッキ会社に送り、メッキ補修して、→研磨会社に送り、→私の会社に帰って来ました。 ヒートパイプを生かして、ロールを組立、ロール表面に傷が無いか目の良い社員が目視検査をしました。 F氏が許容していた表面粗さは、市販されていた面粗度計の精度を超えていたので、目視検査しか出来なかったのです。

 F氏の技術のポイントは二つ有って、①クロムメッキのレシピを業者と決めていた事(F氏から、「今回は〇×番のレシピで」と指示が有り、私は、その番号を書いたタグ(札)を付けてメッキ業者に送りました。 ②研磨職人を育てた事(G社に二人、H社に一人、合計三人はF氏が認定した職人でした。 更に、別の社で一人を育てていました。) 卓越した職人には、誰でも成れるわけでは有りません。 日本を代表する様な職人に育てる為には、F氏がやった様に沢山の職人に会って、人物を見極めて、じっくりと時間を掛けて支援し続ける必要が有ります。

 F氏が地道に仕事を続けられたのは、富士フイルムの技術を大切にする社風によると、私は思いました。F氏の作ったロールを使用しているラインは極秘扱いでしたので、見るチャンスは有りませんでしたが、富士フイルムにとって重要な製品を製造しているのだと思いました。

(余談 :F氏) 私がお付き合いしていた時は、F氏は定年まじかでしたが、最後まで情熱は尽きませんでした。 ハンサムでスラットされていて、趣味の良い服と高価そうなブーツを履いておられたのですが、何故か独身でした。 趣味はスキューバダイビングで、インドネシアのある村に、毎年、一二回出掛けられていました。

企業の民主化 (その7)

2019-12-07 11:02:44 | 民主主義
 私が、お付き合い頂いた会社の中で、社員が”少しですが”楽しそうに働いていた会社を三回に分けて紹介します。 テレビ東京の『カンブリア宮殿』で紹介される程の優良企業では有りませんが!

【結論 :私の言いたいこと】
 企業にとっての宝物は”人財”です。社員を”人財”にするにはどうしたら良いと思われますか? 非常に難しい質問の様に思われるかも知れませんが、答は簡単です。 重役達が『社員は”宝物”だ』と考えれば良いのです。

 社員を押さえつけたら駄目です。 経営者が社員を大切に思っている事を社員が認識して、社員に少しだけ”自由”を与えたら、社員は”人財”と呼べる存在になると、私は考えます。 前稿に書いた、”駄目な社員”は、害虫の様に見付け次第に処置する事も肝要です。

【甥を営業マンにした加工会社】
 1990年頃のプレス加工の会社の話しです。 私は当時、開発に成功したら部品をプレス加工で量産する計画の自動車向けの装置を開発していたので、プレス加工業者を調べていました。 面識の無い重役から、「プレス加工のK社との取引を検討中なのだが、工場サーベイ(調査)をしてくれ!」と依頼がありました。 早速、K社を訪問しました。

 一般にプレス加工の会社は、”3K(きつい、危険、きたない)”のイメージが強いですが、全く違った印象でした! 何故、こんな優良会社に成れたのか?興味深かったので、隅から隅まで見学させて頂き、沢山の社員と話しました。

 数年前までは、社員10名弱の小さな会社でした。 社長の甥が、東京六大学のスポーツ選手だったのですが、プロ選手になれず、適当な就職口が無かったので、引き取って営業担当にしたのです。 一般には、小規模の加工業者の営業は社長が担当しますが、積極的で人当たりの良い若い担当者にしたことで、仕事が沢山入る様になって、新工場を建てました。 新工場には最新の機械を導入し、照明器具を多くして工場を明るくしました。

 プレス加工には重い金型が必要で、金型を取り替えるのに、1~3時間掛かります。 金型は最終形状/寸法に作らないで、何回か試し打ちをして、少しずつ修正して完成させるのです。 新工場が立ち上がると、旧工場の古い機械を全て廃棄して、新工場と同じ機械を導入しました。 旧工場は、試し打ちと金型の修正に専念出来る体制にしたのです。 これらの工夫で、顧客からの注文から試作品の納入までに掛かる時間が大幅(約1/2)に短縮される事になりました。

 新工場は量産だけを担当するので、効率が飛躍的にアップして、コストダウンになったのです。 私は工場サーベイに行く前に、他社の納期や価格を調べてみたのですが、納期は短い、価格は20~30%安い、多分相当無理していると予想していました。 特別な納期でも価格でも無く、この会社では適正な利潤の出る普通の見積でした!

私が訪問する数日前に、事務所の机、椅子等の備品を全て廃棄して、オフィスレイアウト専門家に依頼して超近代的な事務室にリホームしていました。 制服も明るい色のモダンな物に変えていました。 日本の経営者は、儲かった金の大半を内部留保に回しますが、この会社の様に金を使ったら、短時間に会社が変身出来る事を学びました。

(余談) 工場に隣接して駐車場が有りました。大形の車は有りませんでしたが、なんと!全てカラフルなヨーロッパ製でした。 給料を、それなりに出しているのだと、判断しました。 現在、この会社は海外にも工場を所有しています。

【地方に移転して成功した会社】
 東京に機械加工と軽合金の”冷間鍛造”をする町工場が有りました。 プレスに上型と下型を装着し、下型に金属素材を置いて、(素材を加熱しないで)室温で圧縮成形する事を冷間鍛造と呼びます。 どうしてもプレス加工には振動/騒音問題が有りますので、東京都から支援金を沢山貰って、プレス部門だけ地方に移転しました。 田舎の新設の工業団地に工場を建設して、数名の従業員を単身赴任させました。

 新工場は、社員10名程でスタートした様ですが、東京から行った社員は次々と辞めてしまい、一人だけ残った方が、工場長になっていました。 一方受注量は順調に伸びて行ったそうです。 それで、地元の高校卒業生を次々に採用しました。 定着率が良かったので、高校は優秀な生徒を紹介してくれる様になったそうです。 まだ二十歳代の若者達が工場の中心になりました。一番優秀な社員を東京本社勤務にして営業を任せ、彼より二三歳若い社員を技術の中心に抜擢していました。 (二人とも、難しい加工に挑戦する、優れた技術者でした。)

 隣の工場が閉鎖したので、買い取って工場を倍に拡張しました。私が付き合っていた時、隣の農地の買収交渉を始めていました。 さらに増設すると、「契約電気量が大幅に増えるので、新たに電気技師を採用する必要があります。探して貰えませんか?」と言われました。その後、海外にも工場を建設した様です。

 私が最初に訪問した日は給料日で、「工場長が社員全員に話しがあるので」と言って、打合せを中断しました。彼等は満面の笑みを浮かべて帰ってきました。 その月から、大幅に給料を上げる事になったのだそうです。この工業団地を取得する条件に、人材が一社に偏らない様に、給料の上限を約束させられたのだそうです。ドンドン儲かる様になたので、社長が給料の上限規定を撤廃して貰う様に働き掛けていたのですが、了解が得られなかったのです。しびれを切らせた社長が、約束を違えて適正給与にしたわけです。

(余談) 私は、プレス加工をする会社を十数社見学しました。 その多くは典型的な『3K(きつい、汚い、危険 』の職場でした。 (私は更に『暗い』を追加して4Kの職場だと思います。) 昔から、手の指を切断する事故が多数発生する危険な職場です。 然し、上記の2社は全く違っていました。 4Kの職場では、若い人から敬遠されますから、いずれ会社を閉める事になります。

 一方、プレス加工は日本の産業にとって極めて重要です。 貴方の身近には沢山プレス加工した品物が有ります。 上で紹介した様な、会社が増える様に国は支援すべきだと思います。

【工場のレイアウトをチョット変えただけ!】
 社員数十名の、機械加工の田舎の会社の話しです。 この会社では、比較的小さな部品を加工していました。材料はアルミが50%、鉄と銅が50%ほどでした。 アルミは素材も完成品も比較的軽いので、女性達が担当していました。 工場を二等分して、アルミを加工する機械と、その他を加工する機械を別々に配置しましたが、期待した効果は得られなかったそうです。

 私が訪問した時は、工場を背丈ほどの高さのベニヤ板で仕切っていました。 案内して頂いた方から、「この仕切りを設けたら、効果覿面でした! 何故だと思われますか?」と問題を出されました。 貴方の回答は?

 仕切りを設けたら女性達は古手の男性社員から、とやかく言われなくなります。 「ちょっと、これを運んで!」などと男性達に使われる事も有りません。 女性は綺麗好きが多いいですから、毎日、職場の掃除をします。 女性はタバコ休憩も少ないです。 ・・・⇒女性達のアルミ加工部署の生産性が向上します。

 男性社員達も負けてられません。男性達も掃除をする様になり、無駄話をしなくなったのです。

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大切な姉が逝きました!
 今週、私にとって大切な姉が逝きました。 16歳も離れた、一番上の姉でした。 恥ずかしながら、まだ少し落ち込んでいます。

 私は六人兄弟の末っ子で、上は全て姉です。父は息子を熱望・切望・渇望していた様で、私を可愛がりました。 何処かに出掛ける時は私を連れて行き、何かする時は私と一緒にやりたがりました。 母は、それが嫌だったようで、普通の”お母さん”の様には私に接してくれませんでした。 一番上の姉は、多分その事を知っていたのだと思います。私が物心が付く前から、姉は母親の様に私を可愛がってくれたのです。

 母は、亡くなる一か月程前に、「お前に焼きもちを焼いていた、ごめんね!ごめんね!」と何回も言いました。私は言葉が出なかったです。 会社での逆境に耐えられたのは、小さい時に姉が優しく育ててくれたお陰だと思っています。