これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その4-2)

2021-09-25 08:26:27 | 民主主義
【はじめに】
 民主主義/自由主義が最も進んでいるイギリス、アメリカ、フランスの3か国を纏めて書く計画でしたが、この3か国に共通する植民地政策について書きたくなり、分量が多くなり過ぎたので2回に分けて投稿する事にしました。 先週投稿した(その4-1)も読んで下さい。

 この3か国の民主主義の歩みは、全く違っています。 「現時点で民主主義/自由主義が最も進んでいるのは、フランスだ!」と私は思いますが、皆さんはどう判断されますか?

第8章 :アメリカの民主化
【アメリカの歴史】


 イギリスは16世紀後半から、アメリカ大陸の植民地化を進めました。13州の入植した住民達が1775年にイギリスと戦争(独立戦争)を始め、1776年に独立宣言を公布しました。建国後100年ほどして、アメリカは植民地の獲得に動きました。

 西欧諸国には、「植民地政策(覇権主義)は悪である!」と言う認識が無かったので、植民地化を進め、維持してきたのです。 第二次世界大戦後に植民地で独立の機運が高まり、利得よりも維持費が大きくなって、アメリカを含めた各宗主国は植民地を手放しました。

 アメリカが独立宣言を公布したのは、245年前の1776年です。 比較的新しい国ですが、建国時に採用した制度の多くを、少しずつ修正しながら245年間も続けてきました。 18世紀の後半に出来た統治制度を今でも維持しているのです。 (江戸時代後半の制度を維持している事になり、私が時代遅れだと思う事が多々有ります。)

 建国時・13州でしたが、現在は50州になっています。 州の権利が現在でも尊重されており、軍隊(州防衛軍と州兵)と州法が存在します。アメリカの正式名は『 United States of America』ですが、『State』には『州』の意味が有りますから、『アメリカ合衆国』では無くて『アメリカ合州国』の方が良いと思います。

★ 大陸会議 :1774年 ・・・13州の代表者による会議で、上院の始まりです。
★ 独立戦争 :1775年~83年 (13州)・・・76年に独立宣言を公布しました。
★ 合衆国憲法 :1787年作成 ・・・各州に州憲法が有る。
★ 合衆国下院 :1789年
★ 第一回大統領選挙 :1792年 ・・・ジョージ・ワシントン大統領
★ 南北戦争 :1861年~65年
★ 奴隷解放 :1862年・・・人道主義思想で奴隷を解放したのでは決して無い!
★ 男子の普通選挙権 :1868年
★ 米西戦争 :1898年・・・アメリカとスペインの戦争/スペインの植民地を奪った。
★ フィリピンの植民地化 :1898年
★ 第一次世界大戦 :1917年にアメリカが参戦

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ 女性参政権 :1920年
★ 第二次世界大戦 :1939年~45年
★ 公民権運動 :1960年 ・・・男女平等の選挙権

【アメリカの植民地】
 イギリスの植民地だったアメリカは、独立後にスペインと戦争(米西戦争・1898年)を起こしてカリブ海と太平洋のスペインの植民地を獲得しました。そして、スペインから2,000万ドルでフィリピンを買い取りました。

 この戦争でキューバはアメリカと一緒に戦い、戦後はアメリカの支配下に入りました。1903年に独立する時に、グァンタナモの永久租借を認めたのです。

【非民主主義の象徴】
 1903年に共産党政権になる前のキューバから、116km2の土地を『4,000ドル/年』で永久租借の権利を得ました。カストロ政権になって一回だけ租借料を受け取りましたが、その後は受け取りを拒絶して基地の返却を要求しています。アメリカは交渉に応じていません。これが、『グァンタナモ米軍基地』です。 (普天間基地の面積は4.8km2です。)

 「租借地だから国内法も国際ルールも適用する必要が無い」とアメリカは主張して来ました。 基地の中に法律を適用しない『収容所』が有ります。 多分、CIAや軍隊が捕まえてきた人間を、裁判無しで放り込む施設だと想像します。 難民を収容した事も有ります。 ジャーナリストは立ち入り禁止だと思われるので、好き勝手に出来ます。

 オバマ氏が収容所の廃止を目論みましたが、反対が多くて実現しませんでした。バイデン大統領も閉鎖すると言っていますが、実現するでしょうか?

【他国への介入】
 第二次世界大戦後にアメリカ軍が参加した戦争を下に纏めて見ました。反共が正しいと考えたら、大戦後に『世界の警察』の役割を果たしたと言えます。貴方は、どう思われますか? 米軍の作戦の全ては否定はしませんが、「世界の平和には貢献し無かった」と私は思います。

★ ブリーガー作戦 :45年~49年 ;中国の河北省と山東省を占領しました。
★ フィリピンに駐留軍 :1945年~92年 ;左派ゲリラに対陣する政府軍を支援した。
★ レバノン危機 :58年 ;港と空港を占領した。
★ 朝鮮戦争 :50年~53年
★ ベトナム戦争 :60年~73年
★ ドミニカ内戦 :65年~66年 ;ドミニカ共和国を占領。
★ レバノン介入 :82年~84年
★ グレナダ侵攻 :83年 ;軍事独裁政権の打倒。
★ パナマ侵攻 :89年~90年 ;麻薬対策
★ 湾岸戦争 :90年~91年 ;クウェートに侵入したイラク軍を押し返した。
★ イラク :91年~2003年 ;イラクの飛行禁止区域施行作戦・・・イラク軍の武装解除が目的。
★ ソマリア内戦に介入 :1992年~95年
★ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に介入 :1994年~95年
★ ハイチ介入 :1994年~95年
★ コソボ紛争 :1998年~99年
★ アフガニスタン紛争 :2001年~21年
★ イラク戦争 :2003年~11年
★ ソマリア内戦に介入 :2007年~現在
★ ソマリア海賊対策 :2009年~16年
★ リビアへの介入 :2011年 ;カダフィ政権の崩壊
★ ウガンダ :2011年~17年 ;テロ対策
★ イラクへの介入 :2014年~現在 ;イラクのイスラム国への攻撃
★ リビアへの介入 :2015年~19年 ;リビアのイスラム国への攻撃
★ シリア :14年~現在 ;シリアのイスラム国等への攻撃

【官僚/役人の交代制度】
 1792年に第一回大統領選挙が行われました。 初期のアメリカでは、大統領が変わると、上から下まで全ての役人が入れ代わった様です。総数は30万人~40万人ほどでした。 役人の人選権は上院が握っていた様ですから、上院議員には色々な役得が有ったのです。

 大統領が変わると、事務手続き等を担当する下っ端の役人まで、入れ替える制度では種々の問題が発生します。 それで、下の方から交代の制度が無くなって来ました。然し、現在でも大統領が交代すると役人のトップ・3,000人~4,000人が入れ代わっています。 民間で働いていた人が、担当部署の業務内容や問題点を十分把握しているとは思えません。 アメリカが、一貫性の無い、可笑しな政策をする原因の一つは『役人の交代制度』だと私は見ています。

【銃社会】
 2019年のアメリカでの殺人事件は『16,425件』も有りました。(日本は950件でした。)1日に45件も発生した事になります。 「自分の身は自分で守れ!」と言う、開拓時代の考え方を国民の多くが現在でも持ち続けている国です。1871年設立の『全米ライフル協会』の現在の会員数は400万人だそうです。 ピストルやライフル銃だけでなく、大砲や戦車の所有も許可される様です。

【麻薬の蔓延】
 昔からアメリカでは、麻薬が社会問題でしたが、近年は放置出来ない状態になっています。フェンタニルと呼ばれる強力な麻薬による死者が急増している様です。2020年・1年間の薬物の過剰摂取による死者が93,000人もいました。(1日に250人が死んだ事になります。)

 フェンタニルの原料は中国で製造され→メキシコで合成してフェンタニルを作り→アメリカに密輸されていると、アメリカ政府は主張しています。中国に対して「原料の製造停止」を要求しています。 米中貿易戦争の課題の一つになると予想します。

【人種の割合と差別】
 1862年にリンカーンが奴隷解放令を出しましたが、南北戦争を有利に進める為であって、決して人道主義的な配慮をした分けでは有りません。その後も、白人による黒人差別は続いています。

 1960年の白人の割合は89%でしたが、2014年には白人≒62%、2020年には58%まで低下しました。 2045年には白人の割合が50%以下になり、2060年には44%になると予想されています。ヒスパニックとアジア系が増加してきているのです。

 独断と偏見かも知れませんが、アジア系は勤勉/努力家/お互いに助け合う様に思うので、アメリカの政治及び経済の世界で、(現在のユダヤ人の様に)将来重要な存在になると私は予想しています。(現在、ユダヤ人の割合は、1.7%~2.2%です。)

 今後のアメリカの選挙では、白人以外の票を集める事が重要になって来ますから、アメリカの社会は種々の点で変わって来ると予想します。 差別と犯罪が減少して、安全な国になると思われますか?

★ 1960年 :白人≒89%
★ 2014年 :白人≒62.2%、ヒスパニック≒17.4%、黒人≒12.4%、アジア≒5.2%、その他≒2.9%
★ 2020年 :白人≒57.8%、ヒスパニック≒18.7%
★ 2060年 :白人≒43.6%、ヒスパニック≒28.6%、黒人≒13.0%、アジア≒9.1%、その他≒5.7

第9章 :フランスの民主化
【フランスの基礎データ】


 フランスの正式名は『フランス共和国』です。
 現在のフランスでは、人種、民族、宗教で差別する事が禁止されており、その情報を集める事も違法なので、各宗教の信者数に関するデーターを調べる事すら難しい様です。カトリック教徒が多いい事は確かです。

★ 人口 :6,281万人(2020年)  (日本≒12,536万人・・・2021年)
★ 面積 :55.1万km2 (日本≒37.8万km2)
★ 民族 :種々の民族と・その混血の国です。民族意識は非常に薄い様に思われます。
★ 宗教 :カトリック≒70%
★ 一人当たりのGDP :39,257ドル(2020年) (日本≒42,928ドル・・・2021年) ・・・MER

【フランスの歴史】
 中世以降のフランスの歴史を、民主主義の進歩と言う視点で年表に纏めてみました。

★ ブルボン王朝 :1589年~1792年
★ フランス革命 :1789年・・・農奴解放
★ 第一共和制 :1792年〜1804年
★ 第一帝政 :1804年~15年・・・ナポレオン・ボナパルト
★ ブルボン王朝 :1814年~30年
★ オルレアン王政 :1830年~48年
★ 第二共和制 :1848年〜52年
★ 第二帝政 :1851年~70年・・・ナポレオン3世
★ 第三共和制 :1870年〜1940年
★ 女性参政権 :1871年・・・短期間だけ
★ 第一次世界大戦 :1914年~18年

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ 第二次世界大戦 :1939年~45年
★ フランスの敗戦 :40年にドイツと休戦協定
★ ヴィシー政権 :40年~44年・・・親ヒットラー政権
★ フランス共和国臨時政府 :44年6月~46年・・・アルジェで発足
★ ノルマンディー上陸作戦 :44年6月6日
★ ドイツ降伏 :45年5月7日
★ 第四共和制 :46年〜58年・・・左派政権(共産党,人民共和運動,社会党)の時代
★ 女性参政権 :45年
★ 第五共和制 :58年~現在 ・・・ド=ゴール

【農奴解放】
 フランスも農奴制でしたが、1789年のフランス革命で農奴制度は廃止され、農民は無償で農地を手に入れました。 (イギリスが完全に農奴を解放したのは、200年も前の1574年でした。)

【王国→共和国→王国→】
(1789年~95年の)フランス革命までは王制でした。フランス革命では、①王制と封建制の廃止、②資本主義経済の発展(ブルジョア階級の台頭)、③農奴解放が行われました。 この革命は、世界の民主主義/自由主義の発展の礎だったと思います。

 その後・王制(または帝制)になり、→共和制になり、→・・・現在は第五共和制です。 現在は、国民議会(下院)と元老院(上院)の二院制です。 両院とも議員は選挙で選ばれます。議事堂は違う場所に有って、基本的には両院は独立して対等ですが、議決が一致しない場合は(憲法に関する事を除いて)国民議会の議決が優先されます。

(豆知識 :常任理事国) フランスは46年〜58年まで共産党が中心の左派政権で、国連の常任理事国でした。そして71年まで台湾政府が常任理事国でした。従って、当時はソビエト✙フランス⇔米英中の関係だったと思います。現在の常任理事国は、中国だけが共産主義国です。 「ソビエトが覇権主義を止めて西側諸国の様な国になれば、常任理事会は少しはまともに機能するのでは?」と期待しています。

【第二次世界大戦とフランス】
 第二次世界大戦が始まって直ぐ(40年6月)にフランスはドイツに敗れ、ヒットラーの思想に賛同したヴィシーが政権を握りました。ドイツはフランス国内の治安を維持する為に必要な最小限の軍隊を持つことを、ヴィシー政権に認めました。この軍隊は、フランスレジスタンスと共産党レジスタンスと戦いました。

 フランスが植民地に派遣していた軍隊(植民地支配軍)は、ヴィシー政権に従い、ヒットラーは削減を要求しませんでした。インドシナ(ベトナム)の植民地支配軍は、40年に日本の兵站基地の建設を認めました。 アフリカの植民地支配軍は、自由フランス軍と連合国軍と何回も交戦しました。

 「ダンケルクから脱出したフランス人達が自由フランス軍の中心になった」と誤解されている様に見えますが、自由フランス軍の多くは西アフリカ(≒65%)など、アフリカ人が主流でした。 そして、ドゴールが自由フランス軍のトップになったのは43年からです。自由フランス軍の装備は全て連合国から支給された物でした。

 44年6月にノルマンディー上陸作戦が敢行されましたが、自由フランス軍の海軍は参加しましたが、陸軍は参加しませんでした。自由フランス軍はフランスに上陸し後、規模を拡大し、終戦の頃には130万人になっていました。自由フランス軍はドイツにも侵攻しました。

 フランスの政府は、大戦中の大半の期間をヒットラー側に付いていたので、純粋な意味では戦勝国では有りません。 《イタリアは三つの軍が連合国と戦っていました。 ムッソリーニのイタリア社会共和国軍、王国軍、義勇軍の三つです。 43年7月に王国軍と義勇軍の一部がクーデターを起こして、ムッソリーニを拘束し、イタリア国内は内戦状態になりました。 それで、大戦後に王国軍は存続が認められて、準敗戦国の扱いを受けたのです。》

【フランスの少子化対策】
 大戦後にフランスでは、民主主義/自由主義思想が急激に広がり/進歩しました。その象徴的な成果は少子化対策に成功したことだと思います。

 少子化とは合計特殊出生率が『2.1』以下になる事です。殆どの先進国では少子化が進んでいます。 フランスには移民が多いいですが、移民は沢山子供を産むので、2020年の合計特殊出生率は『2.0』まで回復しています。

・・・ フランスと日本の合計特殊出生率の推移 ・・・
☆ フランス :1950年≒2.9、70年≒2.6、90年≒1.8、2000年≒1.8、 15年≒1.9、 20年≒2.0
☆ 日本   :1950年≒3.6、70年≒2.1、90年≒1.6、2000年≒1.3、 15年≒1.45、20年≒1.34

 少子化が進むと家族制度が変化して、我が国の右派の人達が理想とする家族制度が維持出来なくなります。少子化対策をすると、家族制度の変化を加速させます。 フランスの様に思い切った政策を進めると、20年程で合計特殊出生率は顕著に回復すると予想しますが、日本の家族制度は根本的に変わると思います。 対策をしなくても、何時かは家族制度は大幅に変わります。

 少子化対策について2020年9月に『令和維新のすゝめ(その3)と(その4)』で投稿しましたが、予想される問題点をより具体的に纏めて、後日投稿します。

【フランスの民主主義】
 女性に参政権が認められたのは1945年ですから、日本と殆ど同じ時期です。 何故か?未だに女性の大統領は登場していませんが、近年・下院の女性議員の割合は急激に増加して、2017年には40%近くになっています。 (日本の女性の衆議院議員は10%ほどです。)

・・・ フランスの下院と日本の衆議院の女性議員の推移 ・・・
フランス :1972年≒1.7、81年≒5.5、97年≒10.9、06年≒12.3、12年≒26.5、17年≒38.8
日本   :1972年≒1.4、81年≒1.8、97年≒ 4.6、06年≒ 9.0、 12年≒ 7.9、17年≒10.1

 年金や健康保険制度(国民皆保険制度)は日本と似ていますが、子供に関連する点ではフランスの方が格段に充実しています。 詳細を知りたい方には次の資料を推奨します。
● 海外で安心して暮らすために フランスと日本の社会福祉制度機関を詳しく知ろう
『 https://zaifutsunihonjinkai.fr/wp-content/uploads/2020/09/d1a263258f159974843e8814a3a099e3.pdf 』

 フランスの民主主義が日本よりも進んでいると思われる点を、以下に示します。(死刑の廃止が民主主義と関連するか?私には分かりません。)

★ 女性の社会進出
★ 死刑の廃止 :1981年
★ 同性婚法 :2013年
★ 選択的夫婦別姓 :法的規制が無い選択的夫婦別姓で、姓は何時でも変更できる。

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その4-1)

2021-09-18 13:34:20 | 民主主義
【はじめに】
 多くの方は、「イギリス、アメリカ、フランスの3か国が民主主義/自由主義が最も進んでいる」と思われている様ですが、私の見方は違います。 この3か国を含め欧米の列強は、自国内では民主化を進めながら、武力で弱小国を植民地化してきました。

 多くの植民地が独立を達成しましたが、宗主国が人道主義に目覚めて解放したのでは決して有りません。各植民地で発生した独立運動が激しくなって、抑えきれなくなり手放しただけの事です。

 今回は日本も関係したベトナムの独立運動の歴史と、イギリスの民主主義化について書きます。 ベトナムの学校では、「日本は悪い国」と教えています。その原因は、本書を読んだら御理解頂けると思います。

第6章 :植民地と民主主義
【植民地化政策は民主主義に反します!】

 覇権主義や植民地化政策は、民主主義に反すると思います。然し、イギリス、アメリカ及びフランスは、国内の民主主義化を進めながら、弱小国に侵攻して植民地化を罪の意識無しで行いました。 第二次世界大戦が始まる前には、多くの国が植民地にされていました。

 第二次世界大戦中に東南アジアで日本が解放した国では、日本軍が撤退した後、元の宗主国が軍隊を派遣して、再植民化を進めました。各国で独立運動が起こり、最終的には独立を達成しました。 その典型的な、ベトナムの歴史を次に書きます。

【ベトナムの歴史とベトナム戦争】
 1847年にフランスが、ベトナムの植民地化政策を始めました。1889年にカンボジア等を含めたベトナムの植民地化が完了しました。 独立運動の初期の組織として、1930年にホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党を設立し、 1939年に安南皇族のクォン・デらが上海で『越南復国同盟会』を結成しました。

 第二次世界大戦が始まるとフランスは短期間でドイツに降伏して、1939年にヒットラーの思想に近いヴィシーが政権を樹立しました。 ヴィシー政権は、ベトナムを含めて、植民地の経営を引き継ぎました。 日本とドイツは同盟国でしたので、日本とフランスは準同盟国の様な関係になりました。 日本はベトナムを南方作戦を行う為の兵站基地にしたいと考えていました。

 日本はフランスのベトナム統治機関と「ベトナムを植民地にしている事を認め、独立運動を支援しない代わりに、日本軍が駐留して兵站基地を設ける事を認めてくれ!」と交渉しました。交渉は成立して無血で進駐する事になりましたが、一部の軍が暴走して、少し小競り合いが発生しました。 (40年に、日本軍はベトナムに進駐しました。)

 越南復国同盟会は、「日本軍は戦闘をしてベトナムに侵攻するだろう!」と予測して、日本軍が進駐を開始する少し前に、ベトナムで独立闘争(戦闘)を始めました。 然し、日本の支援を得られ無かったので、フランス軍に敗北しました。 第二次世界大戦中に、幾つかの集団が小規模の独立闘争を起こしましたが、日本は原則として中立を維持しました。

 1944年にヴィシー政権が倒れて、ドゴールのフランス共和国臨時政府が発足しました。臨時政府がベトナムを含めたフランスの植民地の経営を継承しました。 この時点で、フランスは日本の敵対国になったのです。 然し、後術の明号作戦が開始されるまで、日本軍とフランス軍の衝突は有りませんでした。

知って欲しい事 :1945年のベトナムの飢餓 :1944年のベトナムでは、❶北部が大規模水害と低温に見舞われ米が不作だった、❷フランスと日本軍が多量に食糧を調達した、➌連合国が鉄道網を空爆して南部から北部への食糧輸送が難しくなった、➍44年の冬が非常に寒かった、等の原因でベトナム北部で40万人~200万人が餓死しました。 ホー・チ・ミンが、「飢餓の責任は日本に有る」と宣伝して、国民の支持を得ようと画策しました。 現在でも、ベトナムの教科書では日本は悪者扱いされている様です。

明号作戦 :1945年3月、日本軍が不意を突いてフランス軍を攻撃し、制圧しました。フランス軍の一部は中国に逃走しました。

 日本が降伏した後、ベトナム北部は中国(蒋介石)が、南部はイギリスが統治する事になりました。 然し、北部では直ぐにホー・チ・ミンが共産主義の北ベトナムを建国し、南部にはフランス軍が進駐しました。 1946年からフランスと北ベトナムが戦争を始めたのです。これを、『第一次インドシナ戦争』と呼びます。

 1949年、フランスは傀儡政権(ベトナム国)を設け、ベトナム人の軍隊を編成させて一緒に戦う体制を作りました。思うように事が進まなくなって、フランスは1954年に軍隊を引き揚げました。

 アメリカは1950年に軍事顧問団をサイゴンに派遣し、その後・ドンドン深みにはまって行きました。フランス撤退後は、アメリカが中心になって『南ベトナム(ベトナム共和国)』を支援しました。

南ベトナムで頻繁に発生した軍事クーデター :民主主義/自由主義の経験が無い国に、民主主義を伝える為の傀儡政権を作ったら、国民の多くが「民主主義/自由主義は素晴らしい」と感じる様になるまで、半世紀以上に渡って支援し続ける必要が有ると私は考えます。そして、傀儡政権の軍隊を完全に文民統制にする事が肝要です。

 南ベトナムでは、将官達が自分が掌握する部隊を使って軍事クーデターを起こし、国のトップになろうとしました。10回以上も軍事クーデターが発生しました。 傀儡政権は、首都サイゴンにクーデターを防止するために多数の兵を駐屯させました。 その部隊の中からクーデターを起こす輩が出たのです。傀儡政権のトップにとっては、ベトコンよりもクーデター対策の方が重要だったと想像します。

 1973年にアメリカ軍が撤退し、76年にベトナムは共産国家として再統一されました。私が機械を輸出した1998年頃のベトナムは、工業化が進まない貧しい国でした。21世紀になって西側諸国からの投資で、工業化が進んでいる様です。今のところは、中国よりも国民は自由に暮らしている様に見えます。

 ベトナムには選挙制度が有ります。政党は共産党しか認められていませんが、無所属でも立候補出来ます。但し、立候補者を共産党が審査しています。 

(余談 :私の懸念) 将来・豊かな国になると、共産党の幹部に賄賂を渡して便宜を図ってもらおうとする輩が必ず出てきます。一党独裁では自浄作用が期待出来ませんから、共産党が民心から離れて行って、「(中国の様に)軍隊や警察で国民を抑え込む国家になるのでは?」と私は危惧しています。

(余談 :共産主義) マルクスの共産主義の考え方は、「土地と生産設備を国有化して、労働者の為の国家に変える」でした。1919年に共産党がほぼ政権を掌握しようとしていたロシア(ソビエト)が中心になって、各国の共産党の闘争を助け合う『コミンテルン』が結成されました。然し、ホー・チ・ミンの考え方は、「他国の事より、ベトナムを独立させて、共産化する」でした。

★ フランスが侵攻開始 :1847年
★ フランスの植民地 :1889年~
★ ベトナム共産党 :1930年・・・ホー・チ・ミンが中国(香港)で設立。
★ 越南復国同盟会 :1939年・・・安南皇族のクォン・デらが中国(上海)で設立。
★ 日本軍の進駐 :40年~45年
★ ヴィシー政権の崩壊 :44年→→フランス共和国臨時政府(ドゴール首席)
★ 明号作戦 :45年3月9日
★ 日本の降伏 :45年8月
★ 八月革命 :45年8月・・・北ベトナム(ベトナム民主共和国)を建国。
★ フランス第四共和政 :46年~58年
★ 第一次インドシナ戦争 :46年~54年・・・フランスと北ベトナムの戦争
★ ベトナム国 :49年~55年・・・フランスの傀儡政権
★ アメリカの軍事顧問団 :50年・・・トルーマン大統領の時代でした。
★ フランスの撤退 :54年
★ 南ベトナム(ベトナム共和国) :55年~75年
★ ベトコンの結成 :60年・・・正式名は『南ベトナム解放民族戦線』です。
★ 第二次インドシナ戦争 :60年~75年・・・『ベトナム戦争』とも呼ばれる。
★ アメリカが介入 :61年・・・ケネディ大統領の時代でした。
★ アメリカ軍の撤退 :73年
★ 南北再統一 :76年

【現在の植民地】
 第二次世界大戦後に独立運動が激しくなって、欧米諸国は植民地を解放(放棄)しました。 民主主義や人道主義の考え方で解放した分けでは決して有りません。「大戦で国力が低下した欧米諸国が、激しくなる抵抗を抑えて、植民地を維持するのが難しくなったからだ」と私は思います。

 現在でも一部の植民地は解放していません。次で検索して見て下さい。(ビックリされる程、沢山残っています。)
 ウイキペディア 『海外領土・自治領の一覧』

 時々・問題になるのが、キューバに有る『グァンタナモ米軍基地』です。グァンタナモ米軍基地については、次回に書きます。

第7章 :イギリスの民主化
【イギリスの基礎データ】

 イギリスの正式な国名は、『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国( United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)』です。

 昔のイギリスの人口は、ビックリされるほど少ないです。ウイキペディアのデーターを書いておきます。
1200年≒350万人、1300年≒500万人、1400年≒350万人、1500年≒500万人、1600年≒625万人、1700年≒925万人、1800年≒1,600万人、1900年≒4,200万人、1950年≒5,400万人、

★ 人口 :6,645万人(2018年)  (日本≒12,536万人・・・2021年)
★ 面積 :24.5km2 (日本37.8≒万km2)
★ 民族 :イングランド人83%、スコットランド人8%、ウエールズ人5%、アイルランド人3%
★ 一人当たりのGDP :39,229ドル(2020年) (日本≒42,928ドル・・・2021年) ・・・MER

【イギリスの年表】
 民主主義の進歩と言う視点で、イギリスの年表を作成しました。

 日本の鎌倉時代の1215年にイギリスでは上院(貴族院)が出来て、民主主義化の一歩を歩み始めました。 国内であまり血を流すことなく、少しずつ民主化が進みました。1574年には農奴解放を完了しました。 然し、海外では16世紀頃から、(習近平政権の様に)覇権主義政策で弱小国を植民地化して、沢山の血を流す事になりました。

 植民地から得た富がイギリスに蓄えられ、手工業と商業が発展しました。その結果、イギリスで第一次産業革命が起こり、イギリスは更に発展し、世界の強国になりました。第一次産業革命で得た工業技術が、日本を含めた多くの欧米諸国に広がり、世界は豊かになっていきました。

 イギリスは二度の大戦の戦勝国だったので、古い伝統が今でも沢山残っています。 その中には良い点も有りますが、悪い点も多々有ります。

★ 大憲章(マグナ・カルタ) :1215年・・・イングランド国王の権限を制限する憲章(基本的なおきて)・・・当時は貴族や聖職者の議会しか無かった。
★ シモン・ド・モンフォールの議会  :1265年 :貴族、聖職者、騎士(中小地主)及び都市代表者を集めた会議でした。
★ 模範議会 :1295年 ;貴族、聖職者と庶民の議会
★ 庶民院(下院) :下院は14世紀に長い時間を掛けて成立しました。
★ ワット・タイラーの乱 :1381年・・・農民の反乱
★ 宗教改革 :1534年~59年
★ イギリス東インド会社 :1600年~1858年→→インドの植民地化
★ 清教徒革命 :1642年~1549年 ; 絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服
★ 王政復古 :1660年
★ ハドソン湾会社 :1670年・・・北米大陸との貿易を目的に設立されました。(現在はカナダに本社が有ります。)
★ 王立アフリカ会社 :1672年~98年・・・奴隷貿易
★ 名誉革命 :1688年~89年 ;クーデターです。
★ グレートブリテン :1707年 ;イングランドとスコットランドが合併
★ 産業革命 :1760年代~1830年代→→ブルジョア階級の成長、都市の発展
★ 連合王国  :1800年、グレートブリテンとアイルランドが合併
★ 第一回選挙法改正 :1832年、下院の選挙権を産業資本家など中間層に拡大した。(男性のみ)
★ 第二回選挙法改正 :1867年、下院の選挙権を都市労働者上層に拡大した。(男性のみ)
★ 第三回選挙法改正 :1884年、下院の選挙権を農村働者に拡大した。(男性のみ)
★ 議会法 :1911年
★ 第四回選挙法改正 :1918年、下院選挙で21歳以上の男性と30歳以上の女性に選挙権を与えた。

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ アイルランド自由国 :1922年 ;独立
★ 第五回選挙法改正 :1928年、下院選挙で21歳以上の男女に選挙権を与えた。(普通選挙
★ 議会法 :1949年・・・上院の権限を縮小して、下院が上位で有る事を明確にした。
★ 一代貴族法 :1958年、一代限りの貴族を定期的に創設し、貴族院議員にする制度。
★ サッチャー首相  :1979年~90年・・・サッチャーは貴族院(上院)議員でした。
★ 貴族院法 :1999年、世襲貴族が貴族院議員を世襲する制度を廃止した。
★ 憲法改革法 :2005年、貴族院(上院)の司法権を廃止した。
★ 最高裁判所を設立 :2009年、(それまでは、最高裁判所の役割を貴族院がしていた。)

【議会制度】
 イギリスで近代的な議会制度が始まったのは、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)の制定からですから、800年の歴史が有ります。。国王の権限を制限する方向になっていきました。上院(貴族院)/下院(庶民院)の二院制度は1330年からです。

 後で出来た下院は、初期には権限が殆ど有りませんでしたが、次第に力を付けて来ました。そして、下院が上院の権限を少しずつ剥奪する様になりました。

 上院には現在でも選挙は有りません。上院の議員は、貴族と英国国教会の聖職貴族で、議員になったら死ぬまで議員です。 上院は近年まで最高裁判所の役割をしていました。

 首相と大臣は、上院議員か下院議員の中から選ばれます。現在では、下院議員が多いいですが、サッチャー氏は上院議員でした。

(豆知識 :下院議員の辞職) 下院議員が辞職する事は出来ない事になっています。如何にもイギリス的な逃げ道を用意しています。 官職に就くと議員を辞職する制度が有るので、実態の無い官職に任命するのです。近年ではキャメロン首相は『ノースステッド荘園執事』に任命して貰って、議員を辞めました。

【農奴解放】
 イギリスも昔は農奴制でしたが、1381年の『ワット・タイラーの乱』から農奴制度は衰退し、1500年頃にはほぼ廃止され、1574年には完全に廃止されました。 (ヨーロッパ諸国では、早い方でした。)

(余談 :奴隷貿易) 15世紀~19世紀の前半に、アフリカの王国が奴隷狩りで集めた人間を→→ヨーロッパ諸国の商社が購入して→→アメリカ大陸に運んで→→奴隷として売りました。 イギリスは16世紀には、自国の農奴は解放しましたが、1672年に、奴隷貿易をする『王立アフリカ会社』を設立しました。 イギリスで奴隷貿易が禁止されたのは1807年です。 (1,200万人ほどの奴隷がアメリカ大陸に運ばれた様です。)

 奴隷貿易が次第に下火になった理由は、❶奴隷狩りの対象民族の人口減(取り過ぎ)→奴隷の現地価格が上昇した、❷南米の農産物価格が低下して奴隷を購入するのが難しくなってきた、➌奴隷が生んだ子供(=奴隷)が増加して→自給自足状態になった。 ヨーロッパ諸国で人道主義が芽生えて、奴隷貿易を止めた分けでは決して有りません。 当時は日本の方が、人道主義的だったと思います。

【植民地政策】
 日本では『関ヶ原の戦い』が有った1600年に、イギリスではインドに進出する目的で『イギリス東インド会社』を設立しました。 その後は、アジア以外にも、南北アメリカ、アフリカ、オセアニアに進出しました。

 イギリスが植民地化して、貿易収支が何時も黒字になった分けでは有りません。イギリスはインドに毛織物を輸出しようと目論見ましたが、暑いインドでは殆ど売れませんでした。インド産の綿花は、イギリス内で需要が有りました。(貿易収支が赤字になったのです。) 輸入した綿花を手工業で布(更紗)にして、インドに輸出しました。 これで、イギリスの手工業が発展する事になりました。

アヘン戦争 :1840年~42年 ;1757年に清国は広東港でヨーロッパ諸国との貿易を始めました。 イギリスから中国に輸出出来る製品は殆ど無かったのですが、中国産の『茶』の需要がイギリスで爆発的に高まりました。 困ったイギリスは、英領インドで阿片(アヘン)を作って中国に持ち込みました。当時の中国はアヘンを禁止していたので、イギリスと戦争になったのです。(欧米諸国で麻薬が禁止される様になったのは第二次世界大戦後だったと思います。当時は薬の一種と考えられていました。)

 イギリス軍✙インド軍≒1.9万人に対して、清国軍≒20万人が戦いましたが、イギリス側の圧倒的な勝利に終わりました。清国が多額の賠償金を支払い、香港を割譲して和睦しました。

★ 英領インド :インド✙パキスタン✙バングラデシュ✙ミャンマー✙スリランカ
★ 北アメリカ :アメリカ✙カナダ
★ 南アメリカ :島国を沢山領有しました。
★ アフリカ :南アフリカ✙エジプト✙・・・非常に多くの国がイギリスの植民地になりました。
★ オセアニア :オーストラリア✙ニュージーランド✙・・・他多数

(豆知識 :王室属領) 日本では話題になりませんが、イギリスの王を元首とする『王室属領』が今でも存在します。 ❶チャンネル諸島(人口≒16.4万人)、❷マン島(8.6万人)

【第一次産業革命】
 産業革命が起こる前のヨーロッパ諸国の物作りは手工業でした。布の主原料は羊毛で、綿花では有りませんでした。手工業は農村部で行われていました。 イギリスは、手工業の時代には大陸の国より少し劣っていました。 裕福な商人達が増えて来ていました。

 何故?イギリスで最初に産業革命が起こったのか? 私の考えた答えは、❶農奴解放が一早く(16世紀)に行われ、農民が工場労働者に転職出来た、❷植民地(インド)から得られる利益が大きく、資本の蓄積が出来る様になっていた、➌奴隷貿易による莫大な利益、➍植民地から綿花が多量に入手出来た。

 産業革命の原動力になった発明/開発を下に列記しました。 (★印はイギリスで、△印は他国での発明/開発を示します。)

 機械化によって量産出来る様になっただけで無く、品質も大幅に向上しました。 工場の建設に多額の金が必要になりましたが、超豊かなブルジョアを誕生させる事にもなったのです。

★ ワットの蒸気機関 :1769年に開発しました。
★ 紡績機 :1779年に発明・・・糸にする機械
★ 力織機 :1785年に発明・・・布を織る機械
△ 蒸気船 :1783年、フランスで実用化されました。
★ 実用的蒸気機関車 :1825年に開発しました。
★ 直流モーター :1832年に発明・・・電源は電池でした。(発電機は実用化されていませんでした。)
△ 発電機 :1852年~54年頃にハンガリー人が試作機を完成しました。







ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その3)

2021-09-11 06:31:17 | 民主主義
【はじめに】
 今回は、アフガニスタンについて書きます。このシリーズは、「各国で民主主義化がドンナニして進んだか?」がテーマですが、有史以来アフガニスタンは戦争に明け暮れていて、女性蔑視のイスラム教国ですから、民主化は殆ど進んでいません。 今世紀中に民主化するとも思えません。アフガニスタンの民主主義化がドンナニ難しいか!と言う話になってしまいました。

 グーグルアースで日本を見ると「緑豊かな国だ!」と実感しますが、アフガニスタンは真逆の国です。国土は日本の2倍ほど有りますが、禿山が大半です。夏は暑く、冬は氷点下20度にもなり、降水量は非常に少ない厳しい自然環境の国です。

 現在は世界の最貧国の一つですが、手付かずの地下資源が豊富にあることが分かってきました。アフガニスタン人が内戦をやめて、神の恵みの地下資源を活用したら、豊かな国になれる可能性は十分有ります。然し、タリバンがイスラム原理主義を固守する限りは、内戦は収まりそうに有りません。

 中国が、非人道的な手段を駆使して反タリバン勢力を徹底的に弾圧したら、数年以内に内戦は収まる可能性が有ります。 アフガニスタンがテロの温床で無くなるのなら、(口先では非難すると思われますが、)欧米諸国はタリバンと中国軍による虐殺を容認すると予想します。

第5章 :アフガニスタン
【アフガニスタンの基礎データ】
 アフガニスタンには10を超える民族が住んでいて、一番多いいのはパシュトゥーン人(42%)です。 アフガニスタン人が大切にするのは、❶親族→❷一族→➌部族だと言われています。 無数の部族があり、部族集団が有ります。

 現在の主都『カブール』はタジク人の拠点でした。1776年に、パシュトゥーン人が主流だったカンダハールから遷都したのです。平野部に住むタジク人は、時の政権に協力的でしたが、山岳地帯に住むタジク人は反王朝の活動(戦闘)をするのが常でした。

 貿易収支が大幅な赤字の国です。(他国からの支援無しでは国民を食べさせることが出来ない国です。)

★ 人口 :3,750万人(2021年)
★ 面積 :65.2km2 (日本の約2倍)
★ 1人当たりのGDP :499ドル・・・世界の最貧国の一つです。
★ 多民族国家 :パシュトゥーン人(42%)、タジク人(27%)、ウズベク人、トルクメン人、ハザーラ人・・・
★ 宗教 :イスラム教;スンナ派(85%)、シーア派(14%)
★ 公用語 :パシュトー語、ダリー語(タジク人の言語)・・・ほぼ各民族が異なる言語を話す。
★ 輸出 : 8.75億ドル(2018年)・・・麻薬を輸出した金は含まれていません。
★ 輸入 :74.06億ドル(2018年)・・・31%が食品です。
★ タリバンの兵力≒6万人、支援してきた軍閥≒10万人

【アフガニスタンの歴史】
 大昔のアフガニスタンの歴史を勉強するのは難しいです。隣国と陸続きですから、国境は安定していません。昔のアフガニスタンの中心都市は『ヘラート』でした。その周辺がどの国に支配されていたか?ドンナ戦いが有ったのか?・・・を調べてから、アフガニスタン全体の歴史を勉強されると分かり易く/面白くなります。

 アフガニスタンには、近隣諸国が何回も侵入しました。 強大な軍隊を持ったアレキサンダー大王、モンゴル帝国、チムール大王、大英帝国、ソ連などが侵攻しましたが、長期間支配する事は出来ませんでした。 それで、アフガニスタンを『帝国の墓場』と呼びます。

 アフガニスタンは、外敵が侵攻すると戦い、外敵が撤退すると部族間で戦う事を繰り返して来た国です。

 大英帝国とソ連は19世紀にアフガニスタンの国境を、両国にとって都合の良い様に勝手に決めました。その国境は現在もほぼ引き継がれています。(この問題は後で書きます。)

 1978年に左派で一党独裁のアフガニスタン民主共和国が誕生しましたが、反政府運動は収まりませんでした。1979年に左派政権を支援する為に、近代兵器を装備したソ連軍が侵攻しました。民間人の犠牲を殆ど考慮しないソ連軍が、10年間も駐留しましたが、反政府運動を抑えられず1989年に撤退しました。

 反政府運動の有力な軍閥集団だったタリバンが1996年に国土の3/4を支配して、タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)を発足させました。 承認する国は少なかった様ですが、国連に大使を派遣していた様です。 『北部同盟』が反政府運動(戦闘)を続けました。

 2001年に9.11テロ事件が発生し、アメリカからの「アルカイダの指導者・オサマ・ビンラディンの引き渡し要求」を拒絶したために、アメリカが侵攻したのです。北部同盟を主体にした傀儡政権を設け、20年間も支援し続けましたが、タリバンなどの反政府活動を収める事が出来ませんでした。

 アメリカはCIAと特殊部隊を投入して、10年後の2011年にオサマ・ビンラディンがパキスタンに潜伏している事を突き止めて、殺害しました。 この時点で、当初の目的は達成したのですから、撤退すべきだったと私は考えます。 「アフガニスタンを民主主義国に変えたい」と言う目標に変更して、泥沼にはまってしまった様に見えました。 そして、アメリカも『帝国の墓場』に葬られたのです。

★ アレキサンダー大王の侵攻 :紀元前4世紀
★ モンゴル帝国の侵攻 :13世紀
★ チムール大王の侵攻 :14世紀
★ 第一次アフガン戦争 :1839年~42年・・・イギリス東インド会社軍が侵攻したが、反乱軍に敗れて撤退した。
★ イランのカージャール朝の侵攻 :1856年
★ 第二次アフガン戦争 :1878年~80年・・・イギリス軍が侵攻し、イギリスの保護国になる事を条件に撤退した。
★ アフガニスタンとパキスタンの国境 :1893年・・・パシュトゥーン人の居住地域をイギリスが勝手に分割し、一部をパキスタンに含めた。
★ 第三次アフガン戦争 :1919年・・・イギリスに勝利して→→独立(アフガニスタン王国)
★ アフガニスタン王国 :1926年~73年
★ 第二次世界大戦 :  ・・・アフガニスタンは中立を貫いた。
★ 立憲君主国 :1964年
★ アフガニスタン共和国 :1973年~78年
★ アフガニスタン民主共和国 :1978年~92年
★ アフガニスタン紛争 :1979年にソ連軍が侵攻~89年にソ連軍が撤退した。
★ アフガニスタン紛争 :1989年~2001年・・・内戦
★ タリバン政権 :1996年~2001年;国土の3/4を支配した。
★ 9.11テロ事件 :2001年
★ アメリカと有志連合の侵攻 :2001年10月~2021年8月
★ 傀儡政権 :タリバン政権と戦っていた『北部同盟』が中心でした。
★ タリバン政権 :2021年~

【国境を接する国】
 日露戦争に敗れたロシア帝国は、中央アジアへの進出を図り、成功しました。(現在のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)

 イギリスは、インドの一部を植民地化し、さらにパキスタンに侵攻し英領インドの一部にしました。 イギリスとロシア帝国は、アフガニスタンを緩衝地帯にして、互いの植民地が直接接し無い様にしたのです。この時、両国に取って好ましい国境線を引きました。

 パキスタンとタジキスタンの間に、アフガニスタンの細長い領土が有り、それが中国の新疆ウイグル自治区にまで続いています。これは、緩衝地帯として設けたのです。

 イギリスが、第二次アフガン戦争の後でパシュトゥーン人が住んでいた地域を分割して一部をパキスタン領にして→英領インドにしてしまいました。それまでのアフガニスタンはパシュトゥーン人が多いい国だったと思いますが、現在は42%程です。この分割が無かったら、パシュトゥーン人の割合が60%以上になっており、アフガニスタンはもう少し平和だったと思います。

 国境を接している国は①~⑥の六か国で、国境の総長さは『5,532km』も有ります。国境の殆どが山岳地帯で監視兵がおらず、ヘンスも鉄条網も設けられていません。 道路の無い国境線を超える事は大変ですが、いざという時はほぼ自由に超えられます。

(余談 :パキスタンのパシュトゥーン人) 上記の分割でパシュトゥーン人は、パキスタンにも沢山住んでいます。現代、パキスタンの人口の13%~16%程がパシュトゥーン人の様です。経済的に成功して、豊かな暮らしをしている人が多いい様です。

① 中国 :新疆ウイグル自治区・・・国境長さ=76km
② パキスタン :1858年から1947年まで、英領インド帝国・・・国境長さ=2,430km
③ イラン・・・国境長さ=936km
④ トルクメニスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=747km
⑤ ウズベキスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=137km
⑥ タジキスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=1,206km

【アメリカの失敗】
 2001年から20年間、アメリカと有志連合国はアフガニスタンに侵攻/駐留して、傀儡政権を維持して来ました。アフガニスタンは世界の最貧国の一つで、初等教育さえ十分に行われていない国です。有史以来、外敵と戦うか!/内戦をするか!絶える事無く戦いが続いて来た国です。アメリカは民主主義で平和な国に変えようと考えていたと思われますが、金と力(軍隊)で目的を達成しようとしました。

 『民主主義とは何か?』根本に立ち返って、アメリカは統治方法を考えるべきだったと思います。 国民(民衆)の多くが「自分達が国家の主人だ」、「民主主義・自由主義は素晴らしい!」と思う様にならなければ、金を幾ら援助しても民主主義国家にはなりません。

 戦後、アメリカ(GHQ)は7年間ほど日本に駐留して、日本の民主主義化を進めました。 「何故?日本が短期間に覇権主義国家から脱却して、民主主義化を始めたのか?」・・・分析すべきだったと思います。 戦後、日本が平和で民主主義的な国に生まれ変わった要因は、以下の①~⑥だと私は考えます。

 給料がもらえる仕事が有る事は、社会不安を起こさない良薬です。戦後5年程して(1950年頃)、日本はベトナム特需等のお蔭で経済活動が再開して、仕事が増えました。私の故郷の男性達は出稼ぎを始めました。戦後の困窮状態が長く続いていたら、過激な思想を持つ人が増えて、社会は安定しなかったと思われます。

 ★★★ 戦後、日本が平和で民主主義思想が広がった要因 ★★★
① 治安の維持 :銃器保持を許可制にした。
② 初等中等教育の義務化 :戦前に尋常小学校までは義務教育であった。戦後直ぐに小学校と中学校が義務教育になった。
③ 仕事/就職先の確保 :特需で生産が再開して、その後・工業化が進み→仕事が増えた。
④ 人口爆発の防止 :1945年=7,200万人、67年=1億人、08年=1.28億人(ピーク)
⑤ 男女平等の考え方が少しずつ広がった。
⑥ 報道の自由

【日本人の殺害】
 アフガニスタンで日本人が二人殺害されています。 2008年に人道支援活動していた伊藤和也氏がタリバンに、2019年には住民の為に色々な活動をしていた中村哲医師が何者かに殺害されました。日本人の多くは、「貴国の為に働いていた人を何故殺すのか?」と憤(いきどお)ったと思われます。

 当時。アメリカの傀儡政権とタリバンなどの反政府軍が戦っていたのです。傀儡政権にとって都合の良い事は、反政府軍は潰す必要が有るのです。「支援活動だから何処でやっても素晴らしいことだ」と考えるの間違っています。民主主義的な行動を、他国で行う時は熟慮が必要です。

【地下資源と中国】
① アメリカは2010年に100兆円規模の地下資源が有ると公表しました。

② アフガニスタンを調査した中国が、2020年に「100兆円~300兆円ほどの地下資源が眠っている」と言う地図付きの報告書を発表しました。 「中国は地下資源の採掘事業に、既に450億円ほど投資している」と言う報道も有りました。

③ タリバン政権にとって緊急の課題は、政権を維持する為の『金』だと思われます。欧米諸国からの援助が期待出来ないので有れば、地下資源の採掘権を売る以外にはなさそうです。 買いそうな国は中国以外には有りません。タリバン政権は直ぐにでも金を入手したいはずですから、中国は買い叩いて先ずは採掘権を確保するでしょう。

④ 採掘現場はテロの絶好の対象ですから、投資を始める前に治安の維持が不可欠です。 然し、アフガニスタンには、アルカイダ、アメリカの傀儡政権(旧北部同盟)の残党、新疆ウイグルから入ってきている武装集団、反タリバン部族、イスラム国(IS)など、テロを起こす可能性が高い武装集団が多数存在します。

【中国が成功するためには】
 中国は、イランの協力を得てタリバン政権を支援する様です。 私は、習近平ならアフガニスタンを思いのままに操れる様に思います。 新疆ウイグル自治区、北朝鮮、香港で実績の有る手段を駆使すれば、百戦錬磨のアフガニスタン人でも抵抗は難しいでしょう!

 2014年にロシアがクリミヤ半島を併合しましたが、陸続きの中国がアフガニスタンを制圧する事は可能と予想しますが、反中国運動が続いて、結局は今回のアメリカの様に退却せざるを得なくなると思われます。

 習近平が、アフガニスタンを支配下に置く真っ黒いシナリオを考えて見ました。

❶ 地下資源の採掘権 :タリバン政権は、現在・『喉から手が出る』ほど外貨を必要としています。中国は足元を見て、安い値段で採掘権を買うでしょう。採掘で得た利益の一部を渡す契約にして、タリバン政権を(北朝鮮の様に)『生かさず殺さず』の状態にする。

❷ 賄賂をばら撒く :採掘権を中国以外に売らせない、中国の要求に従う様に、政府の高官に賄賂をばら撒き続ける。(賄賂漬けにする事は、多くの国で実施しており、ノウハウは十分蓄積しています。)

➌ 軍閥制のタリバン兵を文民統制の軍隊組織(国家の軍隊)に変える必要が有ります。軍閥の首領達が大反対すると想像されるので、中国は、先ず数万人規模の陸軍を投入して、反対派を徹底的に弾圧する。(何故?この改革が必要か?は巻末に書きます。)

➍ 徹底的な情報統制を敷く :新疆ウイグルでやっている様に、西側の記者やカメラマンを完全にシャットアウトする。

❺ 監視カメラ網を設け/広げ、情報技術(IT)を駆使して、国内の不穏な動きの有無をチェックする。 アフガニスタンの国土面積は新疆ウイグル自治区の40%程ですから、監視カメラ網を張り巡らす事は可能と思います。 中国は他国民の生命/財産/自由を尊重する国とは思えません。この点ではタリバンと意見が一致するでしょう! 中国の情報技術(IT)と非人道主義的な暴力(軍隊)を投入したら、アフガニスタンの治安は良くなると推察します。

❻ 武器の提出命令 :タリバン政権に、個人の武器所有を禁止する命令を出させる。(許可なく個人が武器を所有したら、処刑すると書き加える。)

❼ 平野部の武装解除 :平野部で徹底的な『刀狩り』を行う。徴収した武器は完全に住民の目の前で破壊する。反抗する人間がいたら、周辺に人がいても容赦無く射殺/爆殺する。女性や子供を誤って殺しても、兵士は処罰しない。(2019年に香港のデモ時に、活動家3名を警察官が射殺しましたが、実行した警察官は処罰しなかったと思います。)

❽ 山岳部の武装解除 :山岳部を10ブロック程度に分けて、ブロック毎に武器を提出する期限付きの命令を出す。 一番抵抗が激しそうなブロックから、『刀狩り』を始める。 武器の提出を拒む一族や部族には、ナパーム弾等を用いて、見せしめのために徹底的に全住民を殺害する。
 「中国は、協力する人間の生命・財産は保障するが、抵抗する人間は(北朝鮮がやっている様に)一族諸共抹殺する」とアフガニスタン人に認識させるのです。

(平野部と山岳部を区別する理由) 平野部では近代兵器が使用出来ますが、山岳部には道路網が殆ど無く歩兵や特殊部隊しか投入出来ません。中国軍の損害を抑える為には、軍事衛星やドローンを活用して、無慈悲な『モグラ叩き』作戦を行うだろうと予想します。

(中国の問題点) 中国が他国に投資を始めると、非常に短期間に多額の金を投入するのが問題です。 その国の経済が急激に変化して、不満を持つ人が多くなるのです。 この面では、中国の投資によって内戦が活発化する可能性が有ります。

(余談 :一帯一路計画) 中国は、治安の悪いアフガニスタンを避けて『一帯一路計画』を進めて来ましたが、治安が改善しそうになったら、アフガニスタンを『一帯』に含めると思います。 この点でも、中国にとってアフガニスタンの治安を改善する事は重要です。ソビエトとアメリカはアフガニスタンに駐留しても経済的なメリットは有りませんでしたが、中国には経済的利益を得る可能性が有ります。 アフガニスタンがテロの温床にならなければ、欧米諸国は中国の進出には反対しないと思われます。

【タリバンと女性の問題】
 タリバンはスンナ派の中のイスラム原理主義の集団です。パシュトゥーン人、タジク人など、複数の民族が参加しています。 タリバンが結成される前からイスラム原理主義の思想に近い考え方を持った部族が有った様ですが、女性の教育などを認めた(反イスラム原理主義的な)部族の方が多かったと私は見ています。

 傀儡政権が統治していた20年間、タリバンが支配していた地域では、(住民の支持を得る為に)イスラム原理主義を厳格には押し付け無かった様です。

 イスラム原理主義であるタリバンの最大の問題点は、「女性をどう扱うか?」だと思います。(イスラム教国の多くは、女性に対する差別を少しずつ無くして、女性を教育し、職に付く事を認めて来ました。) イスラム原理主義者は「女性の教育は不要だ!」と主張しています。更に、親族以外の男性が女性に触れることを禁じています。 女性は医者や看護婦になれなくなってしまいます。 女性が病気になっても、親族に医者がいなかったら診てもらえません。女性が入院出来る病院も無くなってしまいます。

 タリバン政権の課題の一つは、「イスラム原理主義を現実の世界に合う様に修正出来るか?」だと思います。彼らにとっては、苦渋の決断が必要なのです。

【麻薬ビジネス】
 アフガニスタンは農業国です。輸出出来る農産物は少なく、アヘンとヘロインの原料になるケシの栽培を続けてきました。(全世界の生産量の80%を、アフガニスタンで生産していると言われています。)

(余談 :貿易額) 2018年の輸出は8.8億ドル、輸入は74.1億ドルでした。大幅な赤字ですが、西側諸国の支援金で何とかやっていたのだと思われます。タリバンへの支援は無かった様ですから、タリバンは麻薬を密輸して活動資金にしていたと推測します。

【私から見たタリバン】
 日本が警察を廃止して、最大の暴力団の全組員に最新式の銃器を持たせたら『タリバン』になります。 弱小の暴力団は、銃器を隠し持って地下に潜らざるを得なくなります。

 ご承知の様に、暴力団には末端の『小組』が有り、複数の『小組』を配下に従える『中組』有ります。『中組』の連合体が全国に展開する大暴力団(『大組』)です。『中組』の中で金と構成員の多いいボスが『大組』のトップ(大ボス)になり、『我が世の春』を謳歌します。大ボスになれなかった中組のボス達は、隙あらば大ボスになろうと狙っています。

 暴力団には選挙制度は存在しません。話し合って、多数決で決める習慣も有りません。 警察が存在し無かったら、問題が発生したり、利害が衝突すると殺し合いで決着を付けようとするでしょう。 大組の内紛が激しくなったら、潜伏していた弱小の暴力団が活動を開始するでしょう!

 タリバンは、軍閥制を廃止して、文民統制の国軍に変える事が急務です。 この改革が進まなかった、中国による地下資源の開発には大きなリスクが有ります。 軍閥制のままで、地下資源の採掘を開始したら、中国は軍隊を多数投入して、採掘現場と搬送ルートの防衛を自ら行う必要が有ります。採算が合うでしょうか?

アフガニスタンからの退避/救出

2021-09-04 12:48:16 | 政治
【はじめに】
 今回は、アフガニスタンの民主主義化について書く予定でしたが、退避/救出活動についての報道が多くなったので、私の考えを書きます。

 退避/救出活動は必要だったと思いますが、今回は明らかに自衛隊法に違反しています。私は、自衛隊法を改正して今回と同様の状況下でも邦人の救出が合法下で行える様に自衛隊法を改正すべきだと考えます。

 アフガニスタン人の救出は、外務大臣が要請し、防衛大臣と協議して最終的には総理大臣が決定する事になっています。日本に到着した後の処遇に関する法律は有りません。「問題が発生してから適当に検討しよう!」と言うスタンスです。今回、外務大臣が要請した人数は500人ほどだった様ですから、何とか対応出来たでしょう。 将来、数千人規模の受け入れが必要なケースもあり得ます。 受け入れ後に発生する問題点を洗い出し、検討して法整備して置くべきです。

(余談) 昨日、この原稿を書いていたら、「菅首相は次の総裁選挙には立候補しない」と報じられました。判断力/決断力/行動力/指導力の有る優秀な方が、次の首相になられるのを期待します。

【将来のために】
 今回の各国のアフガニスタンからの退避/救出活動を分析して、「将来発生すると予想される緊急事態にどう対応するか?」議論する必要が有ると考えます。

 日本政府には、紛争が激しくなって生命が脅かされる事態になったら日本人を救出/退避させる義務が有ります。 自衛隊法第八十四条の3の規定で、外務大臣が要請した外国人を保護して良い事になっています。

 絶対に政府が救出しなければならない人達は以下の①~⑨です。 『結婚などで外国籍を取得した元日本人とその家族?』を含めるか?今から議論しておくべきです。

① 国連平和維持活動(PKO) :選挙の監視など
② 国際連合平和維持軍(PKF)
③ 国際協力機構(JICA)
④ 非営利団体(NPO) :海外で活躍しているNPOは沢山有ります。
⑤ 非政府組織(NGO) :海外で活躍しているNGOは沢山有ります。例えば、国境なき医師団(MSF)
⑥ 日本の諜報機関の現地派遣者とその協力者
⑦ 企業の社員 :ジャーナリストを含む。
⑧ 旅行者、滞在者
⑨ 大使館員、その他の政府派遣者

【日本の救出作戦】
 「韓国の救出作戦は成功したが、日本は大失態をしてしまった」と言う報道が有りますが、結果的には正しいです。然し、紙一重で結果が違っただけです。『目糞鼻糞を笑う』のたとえだと思います。 フランスなどは、今年の春頃から救出作戦を開始していました。国際情勢の認識が、日本も韓国も甘すぎます。

 今回の事態を検討する参考にして頂くために、8月15日以降の出来事を、列記しておきます。

大問題になる可能性! :日本が救出しようとしたアフガニスタン人500名の名簿を、空港入口を検問していたタリバンに渡した様です。残ったら殺害される恐れが有ると日本政府が判断した人達の名簿です! もし、この人達が殺害されたら日本政府は責任を問われる事になります。

★ 8月15日以前 :岡田隆駐アフガニスタン大使が退去した。
★ 15日 :アフガニスタン政府が降伏宣言・・・この日、ガニ大統領が国外逃亡した?
★ 15日 :空港周辺に救出希望者が集まり始めた。
  ◎ この時点では、空港の中はアメリカ軍が掌握しており、周辺ではタリバンが検問を開始していた。
★ 16日 :タリバンがカブールに入る。
★ 17日 :韓国人の大使館員が全員カタールに撤収した。
★ 17日 :日本人の大使館員12名がアラブ首長国連邦(UAE)に撤収した。
★ 20日 :韓国は現地スタッフに「24日に救出作戦を行う」と連絡した。
  ◎ 20日、日本政府が自衛隊の派遣を決定した。
★ 22日 :韓国の駐アフガニスタン大使館の4人がカブール空港に戻った。
★ 22日夜 :自衛隊の先遣隊が出発した。(外務省の役人が搭乗していた。)
★ 23日 :韓国から救出用の輸送機3機が出発した。
★ 23日夕方 :自衛隊機が出発した。→25日にカブール空港に到着した。
★ 24日 :韓国は、救出希望者が徒歩で、この日に空港に集まる計画だった。26名しか集まらなかった。
★ 25日 :韓国は急遽バス6台手配した。バスに、米軍兵を乗せて、彼らに空港入口で検問していたタリバンと交渉してもらった。
 ◎ 日本はバスで救出希望者を運ぶ事に急遽変更した。
★ 26日 :空港テロが発生
 ◎ 韓国が救出した人達はテロ発生前に空港に入っていた。
 ◎ 日本が救出しようとした人達はテロ後にバスで空港周辺に到着したので、空港内に入れなかった。
★ 26日~27日 :韓国は2便に分けて390名救出した。
 ◎ 日本はアメリカから依頼されたアフガニスタン人14名をパキスタンに搬送した。
★ 27日 :日本の救出活動終了・・・邦人1人だけ救出した。
 ◎ 救出出来た唯一の邦人である、共同通信社の安井浩美氏はカタール政府が手配したバスで空港に入った様です。
★ 28日 :アメリカ軍が空港からの撤退を開始した。
★ 31日 :アメリカ軍の撤退完了

【アフガニスタン人を退避させる義務が有るか?】
 「民主主義や自由主義に接したり、学んだアフガニスタン人はタリバンに殺害される恐れが有るから、本人が希望したら日本政府は救出する義務がある!」と主張する人達がいます。 大使館と国際協力機構(JICA)が雇っていたアフガニスタン人とその家族が該当します。日本の大学で学んでいる学生/卒業生と家族も含めるべきだと言う方もいます。

 欧米諸国と韓国は上記の考え方で退避させた様です。 然し、日本人の民主主義思想は、この考え方に賛同する程進んでいるとは考えられません。 退避させたアフガニスタン人が「日本に住みたい」と希望したら、最低限・就業ビザの発行、住居の支給、当面の生活保護、日本で暮らせる教育、そして就職先の斡旋が必要です。 仕事が無く、生活に困窮する様な事態になったら、テロ組織が出来る恐れが有ります。

 日本人と結婚したソマリア人の男性を知っています。 彼は日本に来て10年以上になり、イスラム人が経営する会社で働いています。彼は英語は堪能ですが、日本語を勉強しようとはしません。勿論、イスラム教徒ですから豚肉は食べませんが、ビールは大好きです。娘さんは公立の学校で勉強させています。イスラム原理主義者で無ければ、アフガニスタン人が日本で普通に生活する事は可能だと思います。

(余談 :韓国の対応) 韓国政府は、「今回入国したアフガニスタン人は短期滞在者である」と国民に説明しています。韓国に永住したいと希望したら、どうするのでしょうか? 韓国政府が受け入れ国を探すのでしょうか? 薄っぺらい人道主義で救済してはいけません! 「彼と彼女の、これからの人生を手助けする!」と言う覚悟を持って救出すべきです!

【自衛隊法】
 1954年に『自衛隊法』が出来ました。結構分量の有る法律ですが、自衛隊の外国での救出行動に関する規定はA4一枚程しか有りません。 ポイントと思われる個所を以下に示します。

 今回は、自衛隊を派遣して良い条件をクリアしているとは思えません。私は、「法律を改定して今回同様の事案が発生した時は、合法的に自衛隊を派遣出来る様にすべきだ」と考えています。 皆さんのご意見を、コメント欄に書いて下さい。

在外邦人等の保護措置 :第八十四条の三 ;防衛大臣は、外務大臣から外国における緊急事態に際して生命又は身体に危害が加えられるおそれがある邦人の警護、救出その他の当該邦人の生命又は身体の保護のための措置(輸送を含む。以下「保護措置」という。)を行うことの依頼があつた場合において、外務大臣と協議し、次の各号のいずれにも該当すると認めるときは、内閣総理大臣の承認を得て、部隊等に当該保護措置を行わせることができる。

 次の全ての条件を満たす場合のみ自衛隊の派遣/活動が出来る事になっています。

① その国が治安を維持しており、戦闘行為が行われていないこと。
② その国か、国が存在しない場合は国連が認める準政府が、日本の自衛隊の派遣/活動を認める場合に限定されています。
③ 派遣される部隊と、その国の当局との間で、連携及び協力が確保されると見込めること。

在外邦人等の輸送 :第八十四条の四 ;・・・当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる。この場合において、防衛大臣は、外務大臣から当該緊急事態に際して生命若しくは身体の保護を要する外国人として同乗させることを依頼された者、当該外国との連絡調整その他の当該輸送の実施に伴い必要となる措置をとらせるため当該輸送の職務に従事する自衛官に同行させる必要があると認められる者又は当該邦人若しくは当該外国人の家族その他の関係者で当該邦人若しくは当該外国人に早期に面会させ、若しくは同行させることが適当であると認められる者を同乗させることができる。

(余談) 今回、アメリカからの依頼で、アフガニスタン人14名を救出しました。自衛隊法には、第三国からの依頼で救出活動をしても良いと言う規定は有りません。今回は、菅首相が超法規的な判断をされたのだと推察します。然し、その手続きは、以下の様に非常に煩雑です。 この点からも、法律の見直しが必要です。

 ❶アメリカ政府が外務省に依頼→❷外務大臣が防衛省に救出を要請→➌防衛大臣と外務大臣が総理大臣に報告→➍総理大臣が決定→❺防衛省が現地部隊に命令→❻救出活動を行う。

【憲法九条と自衛隊の活動制限】
 自衛隊は軍隊では無いので、他国内での活動には厳しい制限が設けられています。 自衛隊法84条の規定により、他国の政府の承認が無ければ、自衛隊を派遣出来ない事になっています。今回の様に政府が崩壊した国に自衛隊が入るのは、違法行為です。

 治安が悪化した国から、日本人を救出する事は自衛隊法で認められていますが、(救出作戦を)「安全に実施することができると認めるとき」と規定されています。「安全かどうか?」は総理大臣が最終決定する事になります。然し、安全な国で無くなったので、救出作戦が必要になるのです。この点からも、今回の救出活動は違法の疑いが有ります。

 2003年にイランに自衛隊を派遣した時、小泉純一郎首相は「どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけがない」、「自衛隊が活動する所が『非戦闘地域』だ」との詭弁を言う以外に有りませんでした。この時、一人でも自衛隊員が亡くなっていたら、小泉首相は辞職に追い込まれていたと想像します。

 責任を取りたくない、気の小さい人が首相になったら、「安全だと言えないから、救出作戦は行わない!」と言っても、野党は追及出来ません。それで良いと思われますか?

【日本の諜報機関】
 憲法には諜報機関の設置を禁止する条項は有りません。 諜報機関では無く情報機関と称する組織が日本にも(以下に列記する様に)沢山有ります。全ての組織に共通する点は、❶組織が非常に小さい、❷検察庁の関係者が出向するなど検察庁との関係が深い、➌スパイ養成機関が無い。 国力に見合ったスパイ組織は存在していません。

 1985年に『スパイ防止法案』が上程されましたが審議未了で廃案になりました。2013年に『特定秘密の保護に関する法律(秘密保護法)』が成立しましたが、『秘密』と指定した情報を外部に漏らすのを禁止しただけです。スパイを死刑にする国が有りますが、日本には外国のスパイを罰する法律が有りません。それで、『スパイ天国』と外国から揶揄されているのです。

 以上の状況から外国の諜報機関が、友好国で有る日本を支援する目的で、「有益な情報を日本に渡したくても」出来ないのです。 

 英語を母国語とする5ヶ国(アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)の諜報機関が情報を共有するための組織『ファイブアイズ』から重要な情報を入手するのは難しいのです。

① 内閣情報調査室(内調) :最大の情報機関の様です。
② 警察庁警備局(公安警察)
③ 国際情報統括官組織
④ 外務省国際情報統括官組織
⑤ 防衛省情報本部
⑥ 法務省公安調査庁
⑦ 海上保安庁警備救難部

(何故、小さな組織が乱立しているのか?) 野党が反対するから小さな組織にして分散させている分けでは有りません。関係省庁の力関係で、一つの組織に集中投資出来ないのが原因の様です。 微力な小さな組織を作っても、成果が期待出来ませんから、金をドブに捨てている様なものです。

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余談 :アフガニスタンからのアメリカの撤退

 戦場から退却する時は、秘密裏に準備して行動しないと敵の攻撃を受けて甚大な被害を被る事は私でも知っています。 アメリカがアフガニスタンから撤退する事はトランプ氏が決定し、公表しました。バイデン大統領は、「撤退は、非常に難しい軍事行動だ」と言うことを忘れていた様です。日程を公表しておいて、計画通り粛々と進めたたのです。

 1570年に信長が朝倉義景を攻めていた時、浅井長政が寝返ったので信長軍は撤退しました。「わが軍は〇月✕日に撤退する、殿(しんがり)は兵4,500名の木下藤吉郎である」と信長が朝倉に情報を流していたら、藤吉郎軍は全滅したでしょう!