これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

ファーウェイの問題 (その3)

2019-01-26 14:41:54 | 中国
 今回は、中国(中華人民共和国)建国以来の、血生臭い事件を取り上げます。
 大虐殺と言うとヒットラーを思い浮かべますが、毛沢東が粛清したり、失政により餓死させた人数は、ヒットラーの数倍にもなる様です。 毛沢東が亡くなってからも、天安門事件や少数民族への圧政と虐殺は続いています。 中国の共産党は、人を殺したり、非人道的な圧政に麻痺してしまっている様に思えます。
 インターネットで、「中国 虐殺」などで検索すると、「ウイルスが含まれている可能性が有る」などと、時々表示されます。 老婆心かも知れませんが、この記事も読めなくなる恐れが有ります。

【毛沢東の権力掌握】  毛沢東:1893年12月26日 ~ 1976年9月9日
 毛沢東は裕福な地主の子で、1893年に生まれました。 14才の時に最初の結婚をして、17才の時に辛亥革命の革命軍に参加し、その後、学校に戻り、師範学校を卒業して(1919年に)教職に就きました。 教職中に、共産主義関係の本を読んで勉強した様です。 1921年の第1回中国共産党全国代表大会に出席しています。 1930年に、2番目の夫人(共産党員)が蒋介石の国民党軍に殺害されました。

 1934年(40才の時)、毛沢東は軍の最高指導者になりました。1942年から反毛沢東派を粛清し、1945年に共産党の最高職(中央委員会主席)に就任して確固たる地位を築きました。

 1945年の日本軍の撤退後、10月に毛沢東と蒋介石は内戦を止めて統一政権を樹立する協定(双十協定)を結びました。 しかし翌年の6月には内戦が再開されました。 この時のアメリカの大統領はトルーマンでした。 トルーマンは、蒋介石を非難して、軍事支援を削減しました。 当初は、蒋介石の方が優位でしたが、毛沢東側にソビエトが軍事支援する等で形勢は逆転し、蒋介石を台湾に追いやって1949年中国(中華人民共和国)を建国しました。

 革命軍は武器を持った暴力集団です。革命が成功して、『誰が権力を掌握するか?』と言う段階になったとします。 選挙制度はもちろん有りません。 親分達が、大人しく話し合いで首領を決めると思いますか? それまで劣勢だった革命軍(紅軍)が1年程で大逆転して、蒋介石を台湾に追い出したのです。 この時点で毛沢東が紅軍を完全に掌握していたら、話し合いで首領になったかも知れませんが。

 毛沢東は、自分の地位を脅かしそうな革命の同士や、反対派を大規模に粛清(虐殺)した様ですが、その数はもちろん公表されていません。 数十万人を粛清したと言う記事も有りました。

【大躍進政策の失敗】 1958年~61年
 派閥抗争で勝ち残った毛沢東は、1958年から農業と工業の増産計画(大躍進政策)を実施しました。

 この時、250万人を粛清したと言われています。 無理な農業政策と天災によって4,500万人から1億人が餓死した様です。 あまりにも無残な結果になり、毛沢東は国家主席を辞めざるを得なくなりました。

 劉少奇が国家主席になり、鄧小平と経済の再建に努力し、少し成果を上げる様になりました。

(奇天烈な農法) 毛沢東は地主の息子でしたから多少は農業の知識は有ったと思われますが、『密植したら沢山収穫出来る、深い穴に種を蒔いたら根が発達する』と主張して、実行させたのです。 農民は、「そんな事をしたら駄目だ」と知っていたはずですが、権力には逆らえ無かったのです。 それで、大飢饉になったのです。

(失敗の典型例 :土法炉) 昔の(鋳物製)赤い郵便ポストの様な形状の小さな溶鉱炉(土法炉)を全国に無数に造り、鉄鋼を量産しようとしました。 出来た鉄は粗悪品で大半は使用出来ませんでした。 炉を作るために、貴重な歴史的建造物を解体してレンガを調達しました。 木炭を得る為に、全国で山林を伐採し、果樹園の木さえ切ってしまいました。

(余談) 薩摩藩が反射炉を完成したのは、1857年です。 高炉を含む最初の近代的な製鉄所は、釜石に1880年に出来ました。 それから、70年ほど経っていたのに、毛沢東は土法炉に力を入れたのです。 習近平は権力欲が強い点は、毛沢東に似ていますが、科学技術の重要性は認識しています。 習近平はファーウェイの様な先端技術の会社を育てて、世界の覇者に成ろうと目論んでいると私は見ています。

【文化大革命】  1966年~76年
 権力欲の強い毛沢東は、1966年に劉少奇と鄧小平から権力を奪還するために、全国津々浦々で「文化大革命」を起こしました。 この時、毛沢東はすでに72歳のお爺さんだったのです! 82歳で死ぬまで、権力にしがみつきました。

 文化大革命中に、(勿論記録は有りませんが)数百万人から2,000万人が殺害されてと言われています。

 文化大革命中に、経済は大混乱になり、学生は”紅衛兵”になって農村に出掛け、知識人は迫害・殺戮され、大学では授業が出来なかったのではないかと思います。 当時の大学進学率は1%程度でしたから、労働者も多数紅衛兵になったのです。

 現在の中国の指導者達は、毛沢東の扱いには苦慮しているいる様に見られます。 今の経済政策は、文化大革命の思想とは全く異なっています。 毛沢東の考え方が復活すると、現在の政策を否定する事になります。 毛沢東が共産中国を建国したわけですから、毛沢東を否定すると共産党独裁支配の正当性が無くなってしまいます。 さらに、現在の共産党主流派は、毛沢東の粛清・殺害に加担した人達かその子分達です。

(毛沢東語録) 私が二十歳の頃(1966年)、日本でも赤い表紙の毛沢東語録が出版され、同級生が持ち歩いているのを見掛けた事があります。 当時は、毛沢東の粛清・虐殺、失政について殆ど報道されていなかった様に思います。 正しく報道されていたら、あんなに世界的ブームはならなかったでしょう!

【天安門事件】 1989年
 1989年に学生と市民が自然発生的に10万人も天安門広場に集まって、民主化を要求しました。 この時、学生や市民を数万人殺したと言われています。 国内の報道機関を厳しく統制して、天安門事件を闇に葬ってしまいました。

 中国共産党の中に、学生や市民に発砲して殺害した事を批判する人達もいましたが、その後から現在まで、共産党の主流は発砲を命じた側にいた人達です。 (当時は鄧小平の時代でした。)

 あれから30年が経過します。 中国は急激な発展を遂げましたが、その分、所得格差の拡大などの社会問題も増加していると思われますが、民主化運動は起こっていません。 大衆運動の発生を事前に抑える種々の対策を行っているのだと、私は考えています。

【市民運動?】
 近年の中国での市民運動(デモ)は、”官製”だと言われています。例えば、2005年に小泉首相の靖国参拝に対する反日運動が起こりましたが、「国民がこんなに怒っているのだから、我々の言う事を聞け!」と、中国政府が強い意志を示したのです。

 トランプ大統領は、中国に厳しい要求をしていますが、反米の市民運動は起こっていません。 この問題でデモしたら、中国政府は徹底的に弾圧すると私は見ています。 習近平は、「国民に交渉の邪魔はさせない」と考えているのでしょう。 政府にとって、都合の良い時だけデモさせるのです。

【市民の監視とICT】
 過去、共産独裁国家の末期には、市民に市民を監視させる体制が取られました。 中国では、少数民族に対して、既にこのシステムを用いているとの報道があります。 非効率的で膨大なコストが掛かり、国を”暗く”して、国民に”やる気”を無くさせてしまいます。

 近年、中国では監視カメラを全国にドンドン設置して、顔認証システムを大々的に活用し、キャッシュレス化を進めて国民の監視を行っています。 ICT(情報通信技術)を使って、専門部隊が赤の他人の市民をゲーム感覚で監視するのなら、(多分)罪の意識無しに行えると思います。

 中国人のA氏が中国国内で共産党にとって好ましくない書籍(B)を買ったとします。 キャッシュレス化が既に進んでいますから、Bの購入者リストにA氏のマンナンバーがインプットされ、顔認証システムを用いて、A氏は行動を監視されます。 A氏がよく会う人達のリストが、マンナンバー付きで作成される事になります。

 将来、中国の経済が停滞する様になっても、ICT監視システムによって大衆運動の芽を摘む事が出来ます。 さらに、状況が悪化しても、北朝鮮が採用している”恐怖政治”を行う事も出来ます。 北朝鮮は、恐怖政治で70年間も体制を維持しているのです。

 共産党員は裕福な特権階級だと思われるので、可能性は極めて低いですが、中国が民主化するとしたら、共産党の中に『国民の幸福を願う”志”のある党員』が増えて来た時でしょう! 今世紀末までに民主化が進むと思われますか?

★★予告★★
 次回は、鄧小平の改革について書くつもりです。

ファーウェイの問題 (その2)

2019-01-19 11:12:11 | 中国
 今回は、中華人民共和国(中国)が建国以来行ってきた、少数民族に対する圧政の歴史です。 中国共産党の本性を見抜く事が出来ます。
 中国は、「そんな非人道的な事はやらないだろう」と思う事を、堂々とやってしまいます。 何故、そんな事をするのか? 他国を植民地化する時代の考え方が、現在も残っているからだと私には思えます。

【清朝の崩壊とその後】
 どんどん弱体化していった清朝では、1911年に孫文達が辛亥革命を起こしました。 1912年の元旦に、孫文は南京に中華民国の建国を宣言し、初代臨時大総統に就任しました。 清朝の総理大臣であった袁世凱が、清朝から平和的に統治権を継承し、孫文達の了解も得て中華民国の大総統になりました。 これによって清朝は崩壊したのです。(孫文は1925年に亡くなりました。)

 その後、袁世凱は帝政の復活を企て中華帝国(1915年~16年)の皇帝になりました。 袁世凱の死(1916年)から、蒋介石達の中華民国、毛沢東達の紅軍、日本軍、三つ巴への戦争が続きました。 1945年に日本が敗戦した頃は、中華民国の方が優勢でしたが、紅軍に敗れて1949年に台湾に逃げました。

 中国は、清朝の領土であった台湾とモンゴール国以外の地を全て治める事に成功しました。台湾は、今でも中国の領土であると主張していますが、モンゴール国についたは現在は友好関係を維持しています。 1991年にソビエトが崩壊しました。 1992年に5万人以上駐留していたロシア軍がモンゴール国から撤退しており、モンゴール軍の兵力は僅かに1.5万人ほどで、装備は旧式で空軍を持っていません。 中国が、簡単に併合出来る状況になっています。

 モンゴール国で、将来多量の地下資源が確認される様な事になると、中国は国際世論など気にする事無く、併合してしまうと私は予想しています。

【内モンゴル自治区】
 モンゴール国の南東の地域が中国領の内モンゴールです。 面積は、日本の3倍以上も有りますが、人口は2,600万人(2017年)ほどしか有りません。

 モンゴール国も内モンゴールも清朝の領土でした。 1924年に、現在のモンゴール国はソビエトの支援を得て清国から独立していました。 当時も、モンゴール人の数は、内モンゴールの方が多かった様です。

 内モンゴールは、共産中国が建国される前年(1947年)に共産党の支配下に入りました。 1947年当時は、モンゴール人が放牧で暮らす豊かな地域だったのです。 その後、中国では天災と農業政策の失敗で、餓死者が多数出る事態になりましたが、内モンゴールはまだ豊だった様です。

 1955年頃から漢民族を移住させる政策が実行されました。 移住した漢民族は、モンゴール人の放牧地を開墾して畑にしましたが、耕作には適さない土地が多く、目標の収穫が得られませんでした。 その為、中国政府はモンゴール人の税を高くし、移住した漢民族の支援に使ったのです。 モンゴール人の生活は厳しくなりました。 開墾や開発によって砂漠化が進んでいます

 1960年頃から中ソは対立する様になっていました。 1966年に文化大革命を起こした時、中国政府は内モンゴールで、「ソビエトが支援して独立運動を起こすのでは?」と懸念して、モンゴール人の弾圧・虐殺を始めました。 文化大革命が終わる1976年までに、モンゴール人が数十万人殺害されたと言われています。

 現在、内モンゴールの人口の79%は漢民族で、モンゴール人は17%(約440万人)に過ぎません。 もはや、漢民族の土地になっています。 (御参考:モンゴール国の人口は約300万人です。)

 内モンゴールには膨大な鉱物資源が眠っていました。 銅(世界の9%)、アルミ(世界の23%) 石炭 レアメタル、亜鉛、鉛、ニッケル等々。 これらの資源の採掘、精錬は既に大規模に行われていますが、利益は政府に収奪されて、モンゴール人は殆ど恩恵を受けていません。

【チッベット自治区】
 チッベットは高原地帯で、産業は農業と放牧が主です。 面積は、日本の3倍以上あり、人口は20%程です。 漢民族の移住政策は、今の所取っていないようで、90%以上がチベット族です。 誰でも知っている”エベレスト”はチベット自治区とネパールの国境に有り、中国では”チョモランマ”と呼んでいます。 チベットは”パンダ”の生息地でもあります。

 毛沢東は、1949年から59年に軍隊を派遣して、弱小国のチッベットを併合しました。

 共産化される前のチベットの農民は、農奴でした。 農奴を所有していた貴族達の抵抗運動も有った様ですが、中国が、1949年~76年に、チベット人を(西側の報道では)120万人以上虐殺しました。 その後も、チベット族への極めて非人道的な圧政は続いています。 なお、ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命しました。

 不幸な事に、近年(1999年)チベットで大量の石油、天然ガスや鉱物資源の埋蔵が確認されたと中国政府が発表しています。 資源の採掘が進むにつれて、中国の圧政は更にエスカレートする恐れがあります。 中国共産党がチベットの独立を許すわけがありません。 「焼身自殺や反抗は辞めて、大人しく生きて下さい」と、貴方は言えますか? チベット人にとって平和に暮らす道は、中国共産党に従順になるしか無いと思われます。

(良からぬ余談) エベレストの雄大な姿にも興味がありますが、私は蜘蛛が風を利用してエベレストを超える等々の記事を追っかけていました。 チッベットの一部では、”一婦多夫制”だと言う記事を見付けました。 色々調べたら、江戸の長屋でも、一婦多夫制が有ったかも知れないそうです。 江戸は女性が少なかったうえに、高禄の武士や金持ちの旦那は二号さん、三号さんを囲っていましたから、貧しい男性は普通には結婚出来なかったかも!

【新疆ウイグル自治区】
 新疆ウイグル自治区と言うとピント来ませんが、シルクロード、トルファン、カシュガルと言ったら、どうですか? 面積は、日本の4倍以上も有りますが、人口は2,000万人ほどしか有りません。 グーグルアースで空の旅をして見て下さい。 畑が大規模に整備された幾何学模様や、鉄筋コンクリート造りの近代的な街並みが見られます。

 中央アジアの遊牧民族が、西の方に移動して唐の末期(900年より前)には現在の新疆ウイグル自治区に住むようになりました。 当時は、彼らはまだイスラム教では有りませんでした。 清朝になって、イスラム教の最大勢力である、スンニ派になった様です。

 中国に併合されたり、独立したり色々ありましたが、共産中国の建国後すぐに(1949年)、東トルキスタン共和国(ウイグル)を併合しました。 国民党に味方していた勢力を鎮圧するなどで、100万人以上のウイグル人を殺したと言われています。 1950年から漢民族を移住させる政策を始めました。 現在ではウイグル族と漢民族の人口は、ほとんど同じになっています。 移住して来た漢民族は、”虎の威を借りる狐”の様に、ウイグル族に酷いことをしていると言う報道も時々見られます。

 ウイグル族にとって最大の不幸は、油田とガス田が発見された事です。 その埋蔵量は、中国全体の約三分の一にもなり、政府直轄事業として開発されています。 ウイグル族は恩恵を受ける事が出来ません。

 ウイグル族の中には、独立運動をする人達も出て来ましたが、中国政府は”テロ”だと言って弾圧しています。 イスラム諸国は中国に石油を多量に買って貰ったりしており、ウイグル族に対する圧政には目をつぶっています。 習近平は、”再教育施設”と称する強制収容を多数建設して、共産党に従順になれと強制しています。

★★予告★★
 次回は、毛沢東の失政、粛清、夥しい餓死者の発生について書くつもりです。

ファーウェイの問題 (その1)

2019-01-12 11:01:30 | 中国
 最近、中国のファーウェイ(HUAWEI)を排除する動きが日本、欧米諸国に広まっています。 トランプ大統領が中国に種々の要求をしていますが、トランプが深夜に半鐘を”けたたましく”叩いて、「皆さん起きてくれ、大変な状況になっているぞ!」と叫んでいる様に、私には思えます。
 問題が複雑すぎて、私は頭の中の整理が出来ていませんので、説得力のある記事にはならないと思いますが、批判を覚悟で私見を公表します。

【ファーウェイ問題の本質】
 21世紀になって中国は、急激に経済が発展し、巨額の外貨を毎年獲得し、膨大な外貨を蓄積しています。 もはや発展途上国などでは、決して有りません。

 かっての中国では、需要を無視して製鉄所、セメント工場、高層住宅群等々を建設し過ぎ、銀行の不良債権問題になっていると言われています。 習近平政権は、国営企業の統合・整理を進めていますが、従来の国営企業をより成長させて、国際競争に勝とうとは考えてはないと私は見ています。 役人が企業を経営して成功した例は、欧米諸国に無いことを認識していると思うからです。

 近年は内外の需要予測と技術進歩予測を中央政府が行い、重点分野に進出した民間企業に金と人を集中投入して、大成功している様に見られます。 さらに、国家の機関が外国で合法的、非合法的に集めた技術情報や企業情報も民間企業に与えていると思われます。 習近平は、企業の経営は任せるが、国家が全面的にバックアップして国際競争力を持たせようとしていると私は見ています。 そんな企業を、私は”国家支援・統括株式会社”と呼ぶ事にしています。

 日本や欧米の会社は、中国の国家支援・統括株式会社と競合を強いられる様になって来ています。 トランプの要求で、中国はある程度譲歩するでしょうが、トランプはアメリカの企業の事しか考えていません。 共産党は無理でしょうが、野党も政府と一体になって、日本企業が中国企業と互角に競争出来る様に、国を挙げて支援する必要があると私は思います。

 ファーウェイはまさに国家支援・統括株式会社です。 事実、一企業の副社長を救出する為に、2018年12月にカナダ人二名を国家保安に違反したとして逮捕さえしたのです。

 経済学者や経済評論家は、「中国の経済成長はいづれ停滞し、共産党支配は崩壊する」と呑気な事を言っています。 私は、このまま放置したら、「その前に日本や欧米の企業が衰弱し、各国が貧しくなってしまうのでは?」と恐れています。

 共産主義と資本主義の”良いとこ取りした国家資本主義”の中国と、オーソドックスな”補正資本主義”の日本や欧米諸国が、今後十数年間、(中国があまり妥協しなかったら数十年間、)貿易戦争を続ける事になると私は見ています。

(注記) ”補正資本主義”は私の造語です。 高額所得者から税を取り立て低所得者に配分する等々の修正をした資本主義の意味です。 ”修正資本主義”が中国の”国家資本主義”と同義語として使用されるケースが多々有ります。 一方、先進国の現在の資本主義は、マルクスが考えていた”社会主義”に近い状態にまで修正されています。 その為、私は敢えて ”補正資本主義”と言う造語を使用しています。

【世界の力関係】
 国連の常任理事国は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五か国です。 中国が飛躍的に発展し、軍事及び経済で影響力を高めています。 ロシアは現在でも強大な軍事国ですが、経済的な影響力は大幅に低下しています。 (ロシアの名目GDPは、世界の第11位まで低下しています。)

 誇り高いイギリスは、EUを離脱した後に衰退する可能性が高いと私は見ています。 頼みの綱だった北海油田はもうすぐ枯渇しますので、”イギリス病”が再発するでしょう。 一方、改革が遅々として進まないフランスは、EU内でドイツと経済戦争を互角には戦えないと思われます。 ”フランス病”が発生する恐れが有ります。

 アメリカの相対的経済力は近年大幅に低下しています。 兵器は目覚ましく進歩していますが、兵器の価格は飛んでもなく高騰しています。 アメリカ一国で、世界の警察になれる軍隊を維持する金はもう調達出来なくなっているのです。

★ 2017年の主要国の名目GDP (日本を100として比較)  出典=IMF
①アメリカ(400)、②中国(247)、③日本(4兆8730億ドル=100)、④ドイツ(76)、⑤イギリス(54)、⑥インド(54)、⑦フランス(53)、⑧ブラジル(42)、⑨イタリア(40)、⑩カナダ(34)、⑪ロシア(32)、⑫韓国(32)

★ 2017年の主要国の外貨準備高 (日本を100として比較)  出典=IMF
①中国(256)、②日本(1兆2600億ドル=100)、③スイス(64)、④アメリカ(36)、⑤ロシア(34)、⑥インド(33)、⑦韓国(31)、⑧ブラジル(30)、⑪ドイツ(16)、⑬フランス(12)、⑭イタリア(12)、⑮イギリス(12)、㉔カナダ(7)

★ 2017年の主要国の人口 (日本を100として比較)  出典=IMF
  中国の人口は、日本、アメリカ、EU、韓国、カナダの合計よりも多いいのです。
①中国(1,097)、②インド(1,039)、③アメリカ(257)、⑤ブラジル(164)、⑨ロシア(114)、⑩日本(1億2675万人=100)、⑰ドイツ(65)、㉑イギリス(52)、㉒フランス(51)、㉓イタリア(49)、㉖韓国(41)、㊳カナダ(29)

【グローバルスタンダード】
 「中国にはグローバルスタンダードが適応出来ない」とか、中国を批判するのに”グローバルスタンダード”と言う言葉が用いられます。
 私は”技術屋の端くれ”ですので、あえて言いますが、技術の世界では世界標準(国際標準、国際規格)の英語は” international standard”です。 中国の知識人に、グローバルスタンダードと言う言葉が中国で通用するのか聞いて見たいです。

 ”グローバルスタンダード”を”国際的な常識”とか、”国際的なルール”の意味で使用しているのだと思いますが、そんなものが存在するのでしょうか? 幻想では有りませんか? 有ったとしても、ほんの一握りの先進国でしか通用しない”常識”や”ルール”では有りませんか?

【共産化した中国の初期】
 中国は毛沢東と共産主義者達の中国工農紅軍(紅軍)が、1949年に建国した国です。 まだ、70年しか経っていません。 当時の中国の人口は5.5億人程で、紅軍に参加したのは人口の0.7%(400万人)にすぎませんでした。

 第二次世界大戦後、世界の若者達は共産主義国家を理想的なものだと考える風潮が有りました。 紅軍の兵士の多くは、蒋介石軍を追い出して共産主義の国になれば、国が豊かになり,国民が共産党を支持してくれると考えていたでしょう。

 建国当時の中国の産業は農業が主でした。 地主や自作農から土地を国家が収奪しても、税金を課したら農民は豊にはなりません。集団農業を強いられ、農民は何も得る事が出来ませんでした。 戦後の我が国で行われた農地改革は、土地を小作人に与える政策でした。 日本の農民は、土地と言う(自分の意思で処分出来る)財産を得る事が出来ました。

 ソビエトも、レーニンが1922年に、農業が主な国で共産主義国家を建国したわけですが、帝政ロシアの農民は半奴隷(農奴)だったのです。 奴隷的な束縛から少しだけ解放されたので、レーニンを支持する農民もいたと思います。 さらに、革命に参加したのは帝政ロシアの兵士、農民、と労働者達で、大半は共産主義者では無かったと思われます。 中国のケースとは根本的な違いがあります。

 毛沢東の中国は共産化した後に、農業改革に注力して、工業の発展にはあまり努力しませんでした。 農業政策にも失敗して、多量の餓死者を出しました。毛沢東が死ぬ1976年まで権力闘争が続きました。 建国から鄧小平の改革開放が始まるまでの期間を、私は”中国の失われた30年”と呼んでいます。

(私見 1) マルクスが考えた共産主義は、工業の発展がもたらす富の集中や所得格差が拡大すると言う問題を解決する手段として、工場、農地等々を国有化(共有化)することでした。 マルクスは、工業化がほとんど進んでいない農業国を共産化する事は考えていなかったと私は思います。

(私見 2) 工業化が進んでいた国が、共産化したのは北朝鮮です。 朝鮮戦争が無かったら、どんな国になっていたか、非常に興味深いです。 ほとんどの国では、共産国になった後に工業化を始めました。

(余談) 高校2年の時、友人が岩波書店の資本論を三冊持って来て、「絶対に読め」と言いました。 ほったらかしにしていたら、会うたびに「読んだか?」と言うので、イヤイヤ読んだのですが、難解で結局2回読みました。 友人は、「共産主義社会では資源を効率的に分配し、計画的な生産等々によって、資本主義社会より発展し、豊かになる」と言います。 私の考えは、『「人より頑張って儲けてやろう!」と言う人間の欲望によって、技術が発展し、経済は成長する』、『やる気を無くす共産主義は、むしろ非効率になる』でした。

★★予告★★ 次回は、中国の虐殺の歴史と、今でも続いている少数民族への圧政について書く予定です。

田舎の昔の正月 (その2)

2019-01-05 00:40:44 | 昔の日本
 今回も、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 現在は、お金さえ出せば”餅”、”おせち料理”などなど何でも手に入りますが、昔は家族総出で正月の準備をしました。

【餅つき】
 きな粉も自家製で、12月の中旬に、炒った大豆を石臼で粉にしました。 学校から帰ったら、私も石臼を廻しました。

 餅つきの前日に、母が多量の”あんこ”を作りました。 母は砂糖嫌いの不思議な人で、”あんこ”にも砂糖はあまり入れませんでした。 その夜、杵を水に浸して置きました。
 どの家にも石臼か木臼があり、我が家のは少しひび割れた年季の入った木臼でした。 (1975年頃に、実家では餅つき機を購入して、木臼を処分してしまった様です。)

 八人家族でしたので、早朝から昼頃までかけて、30kg(20升)くらいの糯米を搗きました。 近所に、十人家族の家が有りましたが、一俵(60kg)搗くと自慢していました。 昔は、米を沢山食べたのです!

 私は、皿の上に餡を敷いて、(片栗粉を使用せずに)臼から少量の餅を直接皿に落としてもらい、熱々の餅を餡と一緒に頂くのが楽しみでした。

(余談) 姉の一人が高等学校で片栗粉の作り方を教わってきたので、私と二人で時々作りました。 石臼でジャガイモを磨り潰した物を晒しで包んで、水を入れた容器の中で何回も何回も揉みます。 容器の水は白く濁って来ます。 そのまま放置すると、容器の底に白い粉が溜まります。 水を捨てて、乾燥させると片栗粉になりました。

【年末に豆腐を作りました】
 田舎の店では豆腐を売っていませんでしたので、我が家では一年に何回か豆腐を作りましたが、年末には必ず作りました。

 大豆は貴重な畑ではなく、水田の”畔(あぜ)”で育てました。 近年に撮影された時代劇映画やテレビドラマの水田の周りには、大豆は植わっていませんが、私の田舎では1970年頃まで、ほぼ全ての畔に大豆が植えられていました。

 前日、水に漬けて置いた大豆を、水を加えながら石臼で磨り潰し、釜に入れて炊きます。(もの凄い泡が立ちました。) 木の型枠の上に布(フィルター)を置き、釜の液体を流し込んで、素早く”にがり”を加えると、豆腐が出来ました。

 ”布”の上に残ったのが”おから”です。 私は、”おから”も大好きです。 市販の”おから”より美味しかった様に思います。

 豆腐を作る時、一番大変なのが石臼の作業です。 1960年頃に、母がミキサーを買ったので豆腐作りは簡単になりましたが、この頃から我が家では豆腐は作らなくなりました。

【コンニャクも作りました】
 コンニャクは、皮が黒いコンニャク芋から作ります。 連作障害が無い様で、田舎では毎年同じ畑の隅に植えていました。 虫も病気も発生せず、ほったらかしで育てました。
 容器に竈の灰と水を入れ、コンニャクの凝固剤(灰汁)を作りました。 コンニャク芋と水を桶に入れて、二本の棒を交差させて縛った道具を捏ねて皮をむきました。

 釜で水を沸騰させ、そこに芋を入れて、結構長い時間煮た様に思います。 芋を臼に入れて、杵で叩いて”こねる”だけで、"合いの手“”は要りません。 30分ほど搗いたら、お湯を加えながら搗きました。 杵から解放された時、私は疲れてしまって、何時も隣の部屋で横になっていたので、その後の母と姉達の作業を見ていません。 私の役目は皮むき、杵搗き、竈の火の番でした。

 我が家のコンニャクはスーパーで売っているものより、色黒で硬くて美味しかったです。 田舎に帰ると、今でもコンニャクを植えた家があります。

【棒寿司】
 棒寿司は、11月上旬の秋祭りと、年末の二回作りました。 戦前は、秋に鮎の”なれずし”を作って、正月に頂いたと父は言っていました。

 秋祭りの時の棒寿司は、秋刀魚(サイラ)が主でしたが、正月には鯖、アジ、カマスでした。 鯖以外の魚は頭付きで棒寿司にするのです。 カマスが大好きな姉が、「頭を取って、寿司にして欲しい!」と言ったら、父が酷く怒った事を覚えています。 食べられない頭が嫌だったのでは無く、この姉は尖った物が嫌いだったのです。

 寿司を作る日の朝、私は一人で笹の葉を取に出掛けました。 隣の集落に続いた川沿いの細い昔の道があり、当時はもう殆ど使用されていませんでした。 草ぼうぼうの道で、怖い”マムシ”が時々いるのですが、寿司を作る時期には冬眠しているので安心です。 この小道の脇に、普通の二倍以上大きな葉を付ける笹が自生していました。

 棒寿司は笹の葉で巻いて、木の箱にぎっしり詰めて、蓋をして置きました。 笹の葉の香りが寿司に移って、美味しかったです。

(余談:秋刀魚) 田舎では秋刀魚の事を『サイラ』と呼んでいました。紀州の秋刀魚は脂が少なく、焼いてもボトボト脂が滴る事が無かった様に思います。 棒寿司には、脂の少ない方が適しています。 紀州出身の佐藤春夫の詩、『秋刀魚の歌』には紀州の秋刀魚の方がイメージぴったりだと思います。

【おせち料理】
 大晦日に、母と姉達が手分けして、おせち料理を作りました。 大所帯だったので、沢山作りましたが、特に変わったものは有りませんでした。
 紅白歌合戦が始まる頃までには、正月の準備は完了していました。 我が家にテレビが来たのは1970年過ぎで、まだラジオで聞いていました。 私は、歌謡曲が嫌いなので、大晦日には別室で読書をしました。

【国旗】
 集落の全ての家で、祝日には国旗を掲げました。もちろん正月にも掲げました。 集落には、父が中心になって再建した氏神さんが有りましたが、初詣の記憶は有りません。

(余談) 妻の嫁入り道具の中に国旗が入っていました。  我が家では、1985年頃まで祝日には国旗を玄関先に飾っていました。

【お屠蘇】
 我が家には、”塗り”のお屠蘇のセットが有りました。 結婚後に家内は、日本酒に「屠蘇散」を加えていましたが、田舎では単なる日本酒でした。 元旦の朝は、まず、家族全員でお屠蘇を頂きました。 物心付くころから、幼い私も一番小さい杯で頂きました。 勿論、そのあとでお年玉を頂きました。

 昨年、長男の娘が五歳になるので、「そろそろお屠蘇を飲ませても良いか」と思い、お嫁さんに伺ったのですが、「まだ早い」と言われました。 お屠蘇は何歳からなら、良いと思われますか?

【火鉢と栗】
 我が家は、幹の直径が50cm以上有る大きな栗の木を、山裾に十本程植えていました。 栗は豊作と不作の年が有りますが、不作の年でも食べきれない程の収穫がありました。

 正月には、朝から火鉢に炭を入れ、家族は銘々勝手に餅や栗を焼いて食べました。 私は、皆を驚かせようと、栗の皮に傷を付けずに火鉢に入れたのです。 栗が弾けて、灰が部屋中に舞い上がり、大変怒られた記憶があります。

【凧揚げ】
 12月に入ると、男の子達は奴凧と凧糸を買い、夏の障子の張替えの時に出来た”紙端”を適当に切って、凧の足にしました。 糊は店で買う”物”ですが、昔は御飯で凧に”足”を貼り付けました。

 お年玉をもらうと、タコ糸を数束買い増しして、凧を高く揚げる競争をしました。  そろそろ冬休みの終わりの頃になると、タコ糸を何本も継いで、山より高く凧を揚げたあと、何とかして地上に降ろそうと奮闘しました。  誰も凧を回収する事は出来ず、糸が切れて山の向こうに飛んで行きました。 それで、楽しい正月は終わりになったのです。