これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

朝鮮半島の歴史 (その1)

2018-08-25 11:19:10 | 朝鮮半島の歴史
 どこの国にも”暗い過去”はありますが、我が国にも勿論あります。 直視出来ない程の(恥ずべき)過去は、我が国には無いと私は思っています。
 朝鮮半島の二つの国には、他国にも国民にも知られたく無い”暗い歴史”があります。 今回は、李氏朝鮮(大朝鮮国)の歴史をまとめてみました。

【私が朝鮮半島に興味を持つ様になった訳】
 私の親が結婚した時、父は関東軍に所属して、馬山(マサン:現在は昌原市)に住んでいました。そのため、長女は馬山で生まれました。 母の弟がソールにあった京城帝国大学(朝鮮帝国大学)の医学生で、カメラ(写真撮影と現像)が趣味でした。カメラをぶら下げて、時々家に遊びに来ていた様です。そんな訳で、我が家の写真アルバムは馬山での写真から始まっています。
 母は時々馬山の話をしてくれました。 私は小学3年生頃から、新聞が少し読める様になって、朝鮮半島の記事は必ず読んでいました。
 本格的には朝鮮半島の歴史を勉強していませんが、普通の人より朝鮮半島についての知識があります。

【私の朝鮮半島史】
 私の朝鮮半島史の要約です。
① 儒教で国を統治した李氏朝鮮が500年以上も続き、経済が停滞してしまいました。 厳しく税人を取り立て、連座制による恐怖政治を行っていました。
② 中国と日本以外とは鎖国政策を続け、西洋の文明や技術を全く取り入れなかったのです。日本ではバブルが弾けたあと”失われた20年”がありましたが、朝鮮半島では”失われた500年”があり、自力では近代化が不可能な状況になっていました。

③ 朝鮮半島の発展・近代化は、日本による併合によって、20世紀になってやっと始まったのです。 日本による併合は、イギリスとアメリカの了解を得て、無血で行われました。
④ 日本による統治は、韓国や北朝鮮が言ってる様な”強権的”では無かったのです。 朝鮮人を虐殺した”三・一事件”(1919年)が起こりましたが、日本政府はこの事件を反省して、より民主的な統治を行いました。
⑤ 朝鮮半島を併合していた”35年間”に、各種工場の建設、鉄道や道路の敷設、学校や病院の建設、身分制度の廃止などの改革を行いました。

⑥  朝鮮半島の在外資産(46.8億ドル)は、実質的には終戦の1945年ですが、国際的には1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約よって放棄しました。韓国も北朝鮮も、「我々も戦勝国だ」と主張しましたが、戦勝国から「日本と一緒に戦ったではないか!」と言われ、サンフランシスコには招待されませんでした。この条約では、日本が放棄した在外資産を得る権利を両国に認めましたが、朝鮮戦争(1950~1952年)でその資産の大半は皮肉にも破壊されていました。
⑦ サンフランシスコ平和条約では日本に、韓国と北朝鮮に対する戦争の賠償を要求していません。

⑧ 戦後、委任統治が終了し、ソビエトは撤退する時、北朝鮮に多量の近代兵器を残しましたが、アメリカは政策を誤って、韓国には最新の兵器は残しませんでした。そのために、北朝鮮の「韓国を併合したい」と言う野心に火を付けたのです。そして、朝鮮戦争が起こりました。
⑨ 朝鮮戦争では韓国も北朝鮮も多くの人命と財産を失いました。北朝鮮は、朝鮮戦争後もソビエトから援助が得られ経済を維持する事が出来ました。然し、1991年にソビエトが崩壊して援助がストップしてからは、経済が低迷する事になったのです。

⑩ 併合時代には朝鮮半島の南側には、大きな工場は有りませんでした。南側は農業が主だったのです。 韓国は、朝鮮戦争後も外国の援助が得られず、経済は低迷したままでした。外貨を得るために、(アメリカにお願いして、)ベトナム戦争に参戦しました。
⑪ 韓国は、1963年からの西ドイツ特需、1964年からのベトナム特需、そして1965年からの日本の援助、これられで得た外貨を産業に集中的に投資して、”財閥”を育てました。この急激な経済成長は”漢江の奇跡”と呼ばれています。

⑫ 朝鮮戦争の前から、戦争中にかけて、韓国では凄まじい虐殺が行われました。 反日運動の原点は、この”黒い歴史”から国民の目を逸らすためでは無いでしょうか?
⑬ それらの虐殺事件の時に、韓国から多量の難民が日本に不法入国して、いまでも暮らしています。既に、70年程になります。まだ韓国籍の方も多いようですが、世代を重ねると、日本を好きになってくれると信じています。

⑭ 朝鮮戦争中から韓国軍は慰安所を運営していました。ベトナムに派兵した時も、韓国軍は慰安所を運営しました。ベトナムでは民間人の虐殺も行ったのです。 これらの”黒い歴史”を隠すために、日本軍の慰安婦問題を国内だけで無く、海外にまで吹聴しているのでは?!

⑮ 米朝交渉 :トランプ大統領も金正恩も、イデオロギーや”建前”では無く、商売人の様に”実利”を重視した交渉をしている様に見えます。大統領の任期(21年1月)が終わる前に、米朝の国交が樹立されるのではと期待しています。
⑯ 北朝鮮の強制収容所では、連座制で投獄された”何の罪も無い人達”が(私の予想では)毎日100人程命を落としています。

【李氏朝鮮】 1392年から1910年
 朝鮮半島は、1392年から1910年まで、520年間ほど李氏王国が統治しました。1392年は(金閣寺を建てた)室町幕府の足利義満の時代です。
 500年を超える李氏朝鮮(大朝鮮国)の時代、超大国・中国から攻められる恐れは殆ど無くなりましたが、党派対立と派閥闘争を繰り返し、不正腐敗が蔓延し、人民のための政治は疎かになっていました。 

【李氏朝鮮では貨幣経済が未発達でした】
 租税の取り立てが厳しく、物納が原則で、貨幣があまり流通しなかったため、商人や農民が蓄財する事が難しかったと言われています。国民は500年以上も貧しい生活を強いられていました、(私は、李氏朝鮮は儒教の国でしたから商業や手工業を蔑視していたと考えています。) 
 江戸時代に各藩でも行われた財政改革や殖産振興が、李氏朝鮮では殆ど行われませんでした。上杉治憲( 鷹山公)の様な人物は現れ無かったのです。

 韓国の時代劇がよく我が国のテレビで放映されている様ですが、登場人物は皆綺麗な真新しい服を着ています。貧しい国でしたから、少なくとも付き人は何回も洗った服を着ていたはずです。 韓国の時代劇に庶民は登場しますか? 少なくとも、農民はボロボロの服を着ていたはずです。 朝鮮半島の人達は、"昔は貧しかった"と言う事実を受け入れられないのだと私は考えています。

【李氏朝鮮は厳格な鎖国をしていました】
 江戸幕府も鎖国をしていましたが、長崎で中国とオランダ、対馬を経由して李氏朝鮮とも貿易していました。然し、裏では!(特に幕末には)薩摩が密貿易で得た莫大な資金によって討幕を行ったのです。
 李氏朝鮮の鎖国は厳格で、西欧との窓口を設けなかったために、西洋文化が一切入って来ませんでした。(この政策は、儒教と密接な関係があります。)
 この鎖国政策は日本の韓国併合によって改められました。

★★予告★★ 
次回は、大韓帝国の併合に至るまでの歴史です。是非、読んで下さい!

拉致問題についての考察

2018-08-17 18:12:04 | 拉致問題
 批判を覚悟して、拉致問題の解決方法についての私の考えを述べます。
 小泉訪朝によって5名とその家族4名が帰国しましたが、残りの拉致被害者(12名)の帰国交渉の前に、種々の点を検討しておく必要があります。
 首相が訪朝したら、短期間に拉致問題が解決すると期待しているようですが、誤りです。13年間にもわたる厳しい交渉の末に、”日韓基本条約”が調印されたことを思い出して下さい。

【北朝鮮の説明と主張】
 政府認定の拉致被害者17名の内、『5名は帰国、8名は死亡している、残りの4名は入国していない』と言うのが北朝鮮の説明です。
”横田めぐみ”さんの遺骨は小泉訪朝団が持ち帰った。日本では、(鑑定結果から) ”横田めぐみ”さんの遺骨では無いと主張しているが、疑うのなら返せ!

【金正恩の立場で考えて見ましょう】
 北朝鮮は”喉から手が出る”ほど外貨が欲しいはずです。それも、ひも付きで無く、返済の必要がない外貨が得られるのは美味しい話です。「日本から一回だけ、夢の様な外貨が得られそうだ!」と金正恩は考えていると想像されます。
 韓国には、「ソールを火の海にするぞ!」と言う脅しは効果が有りましたが、「東京に核ミサイルをぶち込むぞ!」と言う脅しはやりにくい。
 出来るだけ早く、出来るだけ沢山の金を日本から搾り取るにはどうするか?
 どの程度妥協したら、時の日本政府が国民を説得できそうか? 色々揺さぶりを掛け、日本の世論の動向を、(日本にいるスパイからの情報を見て、)作戦を練って来ると予想されます。

(揺さぶりの例) 2014年頃に青山繁晴氏がテレビで、北朝鮮が「拉致被害者リストにあとで追加した”松本京子さん”は返すが、残りの11名は死亡か未入国」と言って来ていると話していました。 被害者の家族や国民の反応を見るために、官邸が青山繁晴氏に(公表するように)お願いしたのだと私は思いました。 この種の事が、今後も行われると考えられます。

【米朝間の交渉が有る程度進むまで】
 北朝鮮は、アメリカとの交渉を最優先にしています。その交渉と並行して日本と交渉する事が、北朝鮮にとって得になると、判断しない限り日本には接触してこないでしょう。

 米朝間の交渉を成功させれば、韓国は①開城工業団地の再開、②金剛山観光事業の再開、③ロシアからの天然ガスパイプラインの建設、④鉄道や道路の連結、⑤石炭・鉄鉱石の輸入、⑥食糧援助等々の美味しい話をし始めると、金正恩は考えていると思われます。
 日本とはジックリ腰を据えて交渉し、出来るだけ多くの金を搾り取ってやろう!

 逆に、日本としては、アメリカが交渉している最中に「ちょっと‼‼ こっちも向いてよ!美味しい話をするから」と割り込めますか? 米朝間の交渉が有る程度進むまで、日本の出番は来ないと考えた方が良さそうです。

【拉致被害者を特定する必要があります】
 現在の政府認定拉致被害者は17名ですが、”特定失踪者”と呼ばれている方々の取り扱いについて、北朝鮮との交渉を再開する前に国民の合意を得て置く必要があります。
(注記) 小泉訪朝団が、最初に北朝鮮に提出した特定失踪者リストに記載されていた人数は15名だった様です。 訪朝後に二名追加したのです。これ以上増やすのは、私は賛成出来ません。
 拉致されたと言う確かな証拠の無い”特定失踪者”について,交渉の場でどの様に持ち出せばいいのでしょうか? 私は、特定失踪者は交渉から除外すべきだと考えます。

 2013年に警察庁 が「”361名”は拉致の可能性が排除できない」と発表しました。これは、とんでもない間違いです。公的機関が確たる証拠をつかめ無かったのに、「A国が、B事件を起こした可能性が排除できない」と無責任な発言をしたわけです。
 警察庁が証拠を提示でき無いのに、「男Cが、D事件を起こした可能性が排除できない」と公表したら、マスコミは一斉に警察庁を非難すると思われますが!

【被害者が死亡している可能性が有ります】
 国連人口基金が発表した北朝鮮の平均寿命は男性67歳、女性75歳です(2017年)。拉致されて40年経過していますので、既に亡くなっている方がおられると予想されます。
 拉致している途中に死亡した様な場合、犯人達が責任回避のために上層部に報告しなかったケースも考えられます。今となっては立証は不可能でしょう。

 死亡された方の、死亡原因、死亡年月日、埋葬場所などの記録が残っていないケースも想定して置かなければなりません。
 北朝鮮が{死亡した」と言う主張を、どのようにして検証するのか? 検証結果がどうだったら、彼らの主張を受け入れるのか検討しておく必要があります。

【遺骨の検証方法と検証体制】
 ”横田めぐみ”さんの遺骨として北朝鮮から渡されて、持ち帰り、三か所に鑑定を依頼しました。帝京大学の吉井講師だけが「横田めぐみさん以外のDNAを検出した」と、舌足らずな報告した様です。
 官邸はこの分野では素人集団ですから、「他人のDNAを検出したのなら、横田めぐみさんの遺骨では無い」と誤った判断をして、公表してしまいました。官邸は未だに、判断ミスだったと発表していません。帝京大学の分析方法では、完全に焼いた骨をDNA鑑定出来ないのは世界の常識です。もし、DNAが検出されたら、焼却後に付着したDNAです。

 もともと、”行き当たりばったり”の小泉訪朝団が火葬した骨を持ち帰った事が愚行だったのです。北朝鮮は、遺骨を現在の科学ではDNA鑑定が不可能な状態にして、出してきたわけです。多少でも科学的知識のある人間が小泉訪朝団に参加していたら、受け取りを保留にして、帰国後に専門家を集めてDNA鑑定が可能かヒヤリングしたと思われます。

 (もう既に実施済みと思いますが、)拉致被害者の家族のDNA分析データが必要です。 遺骨がどの様な状態ならDAN鑑定が可能か、複数の専門家の意見を聞いておきましょう!

 事前に、DNA鑑定が出来ない状態の”遺骨”を受け取るか、否か決めておく必要があります。 (私は、受け取るべきでないと考えています。)

【どの機関が北朝鮮の資料や主張を検証するのか?】
 北朝鮮が新たな拉致被害者に関する資料を提出したとします。我が国としての検証が必要ですが、官邸が検証を担当する部署・機関を決めている様には思えません。
 公安の外事課が適任だと言う人がいます。確かに、外事課には朝鮮半島防諜担当の係が有りますが、北朝鮮に出掛けていって十分な検証作業が行えるでしょうか?

【情報機関を至急設立すべきです!】
 我が国にも小規模の諜報機関が沢山あります。一番有名なのは”内閣情報調査室(内調)”ですが、外国の諜報機関(CIA、MI6、モサド、SVR)とは横綱と子供程の違いがあります。小規模の機関を沢山持っても、ほとんど活躍は期待出来ません。  ”安物買いの銭失い”の喩えの通りです。

 遅ればせながらではありますが、この際、諜報機関を統合して、我が国の国力に見合った規模の機関を持つべきだと考えます。 最初の仕事は、勿論、北朝鮮との対話のベースになる情報の収集と北朝鮮が提出するであろう資料の検証です。

 国際的なテロ集団に対する情報収集は不可欠です。2020年の東京オリンピックを控えています。さらに、外国人観光客が多数来られています。テロ集団の入国を阻止するためにも、本格的な諜報機関が必要です。

 我が国の諜報機関に詳しい方の話しでは、「我が国で諜報機関の統合が出来なかったのは、野党の反対が原因では無く、小さな諜報機関を管轄(所有)する省庁の縄張り争いが原因」だそうです。

(注記) 原爆や水爆を持とうとしたら、国際的に批判されるのは必定ですが、諜報機関を持つことは国際的な批判を受ける事はありません。

【韓国の拉致被害者】
 北朝鮮による、韓国政府認定の拉致被害者(拉北者)は、朝鮮戦争中=4,777人、戦争後=425件(?人)で、それぞれ別の法律で被害者家族に保証金が支払われた様です。 人数は日本と桁違いなのに、被害者家族の運動が抑えられているのは、保証金を受け取ったからでしょうか?

 2018年8月17日付の(日本語版)朝鮮日報によると、法律で用いられている「拉北者」を「失踪者」に変える法案が準備されている様です。 そこまでして、北朝鮮のご機嫌を取りたいのか!

★★予告★★ 朝鮮半島には、他国には知られたくない、貧しくて悲しい歴史があります。私は、朝鮮半島の国とお付き合いしていくためには、その歴史を理解しておく事が不可欠であると考えています。私の目で見た、”朝鮮半島の歴史”を数回に分けて公表します。 是非、読んで下さい!

南方熊楠は町の誇りでした!

2018-08-11 10:39:13 | 偉人
 高校2年のある授業の最初に、先生が開口一番「このクラスには南方熊楠の親戚のものがいる」と言われ、南方熊楠の話しをしてくれました。町の子供たちはほとんど南方熊楠を知っていたと思いますが、私は山奥の生まれで聞いた事のない名前でした。

【町の人から聞いた話】
 南方熊楠さんには収入が無かったので、旦那衆達がお金を用立てたらしい。尊敬する大先生にお金をあげる事は余りにも失礼なので、貸した事にしたらしいです。

 貸した方は、はなから返してもらおうと思っていなかったし、南方熊楠さんには返すあてなど無かった。「借金の返済をもう少し待ってほしい」という手紙を出し、貸した方は今でも”その手紙”を大事に持っている。

【家内の実家に南方熊楠からの手紙が有りました】
 結婚してまもなく、義母が「家には南方熊楠さんからの手紙がある」と言って、出してきました。「借りた金を返せなくて申し訳無い、もう少し待ってほしい」と言う様な手紙が複数ありました。
 町の人から聞いていた事は本当だったのです!

 家内の実家から南方邸までは、歩いて数分の距離です。義父は催促に行かなかったので、南方熊楠は手紙を書いたのだと私は推察しました。
 その手紙は、今でも義理の兄が大事に保管しています。

【南方熊楠と田辺市】
 南方熊楠は和歌山市の出身で、1904年(明治37年) からは田辺市の借家で研究を続けたようです。 この頃は、37歳くらいで、まだ独身でした。

 既に、有名な博物学者で、町の人達の”誇り”だったようです。一生、町の研究者でしたから、収入は殆ど無かったと思われます。

【南方熊楠の墓石】
 紀伊田辺駅から北西に約1km程の所の、”高山寺”に『南方熊楠墓』と彫られた一際目立つ墓石があります。 (駅からタクシーだとすぐです。)

 この墓石のすぐ近くに親戚の墓が有るので、私は何回か『南方熊楠墓』前まで行きました。

【ネイチャーと南方熊楠】
 自然科学の研究者は、英国の学術雑誌”ネイチャー”に論文がのる事が夢だと思いますが、南方熊楠の論文は51点も掲載されているそうです。(出典:ウィキペディア)

【エピローグ
 十年程前に親戚が集まった席で、「南方熊楠は借金を払わないで死んだ!」と言うのを聞いて、私は皆に聞こえるように”大きな声”で、ここに書いた話をしました。 年月を重ねると、話はとんでもない方向に歪められてしまうものですね! 当時の旦那衆達の”心意気”が曲解されない様に、このプログを書きました。

たわけ者(田分け者)

2018-08-04 11:10:44 | 子供の教育
 私の曽祖父は江戸時代生まれの山村の地主でした。山深い山村でも勉強出来た様で、漢文が得意な学者気取りの人だった様です。
 曽祖父には息子が四人いました。今回は、この息子達と”父の教え”の話しです。

【曽祖父は”田分け者”でした】
 明治の初め頃、山奥でも文明開化の波が伝わって来ていたと思われます。曽祖父は、「財産は均等に分けるべきである!」と考えた様です。
 本家を継ぐ息子以外の三人に、(曽祖父がまだ元気な内に)家、田畑、山林を与え独立させました。それぞれが一家を養うに十分な田畑と山林をもらった様です!

【山村の地主の生活】
 1947年から”農地改革”が実施されましたが、それ以前は、私の故郷では田畑と山林の大半は地主達が所有していました。農地改革では山林は除外されましたので、大地主の損害は少なかったようです。(田畑の面積は少なかったので。)

 小規模の地主は自分でも働いていたようですが、大地主は番頭さんに田畑と山林の管理を任せ、番頭さんの報告を聞くのが大地主の仕事です。私の曽祖父も番頭さん任せの方だった様です。

 私の故郷には急峻な山が多く、慣れた番頭さんなら容易に登り下り出来ても、大地主が山を見回るのは難しい。それに、大地主は半端でない数の(面積の)山を所有していました。毎日、見回りしても1年間では全ての山を回れない程です。

 一年間に大地主が必要な金を得るために”A”と言う山を伐採し、次の年に”B”、その次の年に”C” →→→100年以上経過→→→曾孫か玄孫の代には山”A”が十分成長して、山”A”が伐採される。

 私が子供の頃、村には大地主が二軒残っていました。一軒は白浜温泉の別宅で、優雅な生活をされていた様です。もう一軒は村に住んでおられました。村のために募金を募る時、旦那衆達が話し合って”奉加帳”を作り、父は、毎回二軒の大地主にお願いに行く役をやっていました。 先ず村に住んでらおれた大地主の所にお願いに行きました。毎回、気持ち良く、多額の寄付をされた様です。白浜温泉の大地主の方も、それなりの金額を出してくれた様です。

余談 : 紀州の山林王を誘拐する”大誘拐”と言う映画をご存知ですか?もちろん、フィクションですが、村に住んでおられた大地主がモデルだと私は勝手に思っています。
 ”大誘拐”の身代金は途方もない金額”100億円”です。戦後は木材が高かったので(その後は暴落していますが)、100億円準備出来る山林王は全国に何人もおられたと思われます。私の知るところでも、鹿児島(?)の山林王はサンフラワーの1号船~3号船を建造され、新宮市(?)の山林王は勝浦と東京・晴美ふ頭にホテル浦島を建てました。

 脇道にそれてしまいましたが、私は『中規模の地主や大地主は”汗水たらして働く”必要が無かった』と言いたかったのです。  曽祖父は四人の息子に”汗水たらして働く”事を教えるなど出来なかったと思います。

【私には祖父が二人いました】 
 曽祖父の四人の息子の一人が、私の祖父です。山奥の実家と町の中間の地点に、旅人相手の小さな茶店を開いて生活費を得ていた様です。 この祖父を”A祖父”と呼ぶ事にします。

 A祖父にも息子が四人いました。次男が私の父です。四男は若くして亡くなり、次男と三男は養子に出されました。親から相続した財産はかなり無くなっていた様ですが、それでも一家が食べていける財産をA祖父は長男に残して亡くなりました。

 A祖父も長男に”汗水たらして働く”事は教えなかった様で、長男は結婚してそれ程たたない内に、町に二号さんを囲って家には寄り付かなくなりました。

 私の父が養子に行ったのは、曽祖父の四人の息子の一人です。 つまり、父は伯父さんの家に養子に入ったのです。この”伯父さん”が私の第二の祖父に当たります。(”B祖父”と呼ぶ事にします。)

 B祖父は私が高校生になる頃までは健在でした。B祖父は私が遊びに行くと喜んだので、時々会いましたが、父はB祖父が大嫌いだったので、会っていることは父には一切話しませんでした。

 B祖父は趣味人で、”汗水たらして働く”事などは論外の人でした。趣味の釣り竿はよく作っていましたが、草引きや、畑仕事をしているのを見たことが有りませんでした。

【父は尋常小学校中退です!】
 B祖父は働き手が欲しかったので、父を養子にしたのです。父は尋常小学校を中退して10才頃に丁稚奉公に出た様です。

 丁稚奉公を続けていたら将来が無いと考えて、13才の頃に陸軍幼年学校に挑戦して合格しました。(小学校中退で幼年学校に入った例は少ないそうです) その後、陸軍士官学校を出て軍人になりました。

 B祖父の方は娘が出来て、娘に養子をとって、孫が3人生まれ、合計5人の家族になっていました。家と屋敷を除いて、曽祖父から頂いた田畑と山林は全て売ってしまっていたそうです。

 父は終戦まで仕送りを続け、5人の家族を支えました。

【戦後】
 終戦の翌年(1946年)の春に、私の家族(7人)はB祖父の家に帰りました。狭い家に12人が住む事になったわけで、大変だったと思われます。そのご直ぐ、私が生まれたので、13人になりました。

 父は木材と山林の売買を始め、かなりの収入を得る様になり、B祖父が手放した田畑の一部を買い戻し、その半分と、蔵・納屋付きの家を建ててB祖父一家に譲渡して離縁しました。(1950年頃)

 私の祖父はA祖父に戻ったわけです。父がA祖父と生活したのは短かったと思われますが、毎年一回は私だけ連れてA祖父の墓参りをしました。 (2016年に最後の墓参りをしようと思って、行きましたが、立派な墓石に変わっていてビックリしました。)

【父の兄】
 町で二号さんを囲っていた父の兄は(戦後)結核になり、二号さんに介病されていました。父は町に出た時は必ず兄を見舞っていた様です。生活費を渡していたのだと思いました。一年に1,2回、私を連れて行きました。床に伏した伯父への挨拶が終わると、私は部屋を出されたので玄関先でする事もなく父の出てくるのを待っていました。

 1955年頃、2,3日留守にしていた父から、「兄が亡くなったので、○○時頃前を通るからお別れをしなさい」と電話がありました。トラックの荷台に乗せられた棺に別れをした事を今でも思い出します。

 後で聞いた話では、父は二号さんに当面生活に困らない金を渡したそうです。明治生まれの男の”心意気”だったのでしょうか?
 この伯父はA祖父と同じ墓に眠っています。

【父と一緒に働きました】
 私がまだ小さいころから何か始める前に、父は「ここに一枚田んぼを造ろう」、「牛小屋を建てよう」、「明日から薪を取りに行こう」と半分相談の様に話してくれました。

 学校が終わったら、父と一緒に働きました。山での仕事の時は、いつも弁当を残してくれていて、美味しく頂いたあと手伝いました。(山に行く時、父は御飯が一升入った飯盒を持って行きました。)

 父と一緒に働く事は楽しく、嫌だと思った事は有りませんでした。

 余談ですが、当時私はカトリック協会の日曜学校に通っていましたので、父と働いたのはウイークデーです。 (日曜学校については後日書きます。)

【父の教え】
 長男が出来て、暫くした時、『汗水たらして働いている時でも、仕事が楽しい』と思うように父は、私を育てたのだと気付きました。

 息子二人と会社から預かった若い社員には、この父の教えを思い出しながら指導してきたつもりです。

【姉達は?】
 私には5人の姉がいますが、父は、姉達の教育は母に任せていたのです。三度の食事、洗濯や掃除は、ほとんど姉達が分担してやっていました。それで十分だと思たのでしょう。
 私に娘がいたら、息子と同じように育てたと思うのですが!