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2022-04-09 11:47:23 | 義母
【はじめに】
 今回は、私の妻の母(義母)とその姉(義伯母)の話です。 二人とも良くしてくれた、大正生まれの立派な方でした。

 第二次世界大戦の末期と戦後直ぐの頃は、結婚適齢期の男性が沢山亡くなったので、嫁入り先が少なかったのです。 義母は、ほとんど同じ年齢の娘が二人いる田辺市の商店に後妻に入りました。 義伯母は、男女4人の子持ちの姫路市の男性と結婚しました。

【義母】
 義母が結婚した時は、100人ほどの従業員で団扇(うちわ)を製造して、県外にも販売していました。(我が家に昭和天皇に献上した団扇と同じ物が残っています。) 相当儲かっていた様で、義父は友人達と芸者遊びをして、県外に複数の二号さんを囲っていました。

 私が結婚する前に、母が叔父に頼んで二号さん達がどうなっているのか?調査しました。 義父が亡くなった後で、義母が金を渡して後腐れが無い様に、円満に処理していたそうです。 普通、二号さんがいたら、奥さんが子供達に愚痴を言うものですが、義母は二人の子供には一切話さなかった様です。 結婚した後で、妻に「お父さんには二号さんの噂が有る」と聞いて見ましたが、笑い飛ばされました。 私は、この事でも義母を尊敬しています。

【義父の借金~娘の結婚】
 義母は、男女二人の子供をもうけました。 義父が、友人の借金の保証人になり、友人が逃げたために1億数千万円以上の債務が出来てしまいました。1955年頃の話なので、今の金では3億円以上だったと思います。金目の物は全て売り払い、幼い長男(私の義兄)は質屋通いをしたそうです。

 義父はまだ沢山借金を残して、1965年に亡くなりました。借金と店は義母と義姉が引き継ぎました。本業の団扇(うちわ)は少しずつ売れなくなり、タオルと冠婚葬祭の贈答品がメインになっていきました。

 借金の返済は大変だったと思われますが、娘(私の妻)には苦労をさせなかった様でした。娘が高校を出た後、お茶やお花の習い事をさせ、家で料理を教えた様です。そんな分けで、妻の料理は美味しいです。着物で習い事に通ったので、着物は自分で着られます。 結婚した時、高価な着物を沢山持って来ました。箪笥の中に、反物状の高級大島紬が入っていました。(今買うと100万円以上します。) 地味な色合いだったので、「妻が中年になった頃に仕立てなさい」と言う親心だと思いました。

 高校卒業して四、五年後に、義兄が「世の中を経験させた方が良い」とアドバイスしたので、娘を女中に出しました。その噂を聞いて、私が交際を申し込んで、義兄の協力も有って、結婚しました。

 私は、借金の話を義母には全く聞かなかったのですが、結婚して数年後に「借金を完済した!」と義母から言われました。25年間ほども頑張って、今の金で3億円以上の借金を返済したのです!

【義母の思い出】
 義母は『酸いも甘いも知る』、サッパリとした性格の方でした。遊びも好きで、義母に私は花札を教えてもらいました。1980年頃に任天堂の家庭用ゲーム機を買って楽しんでいました。 1983年・6歳になた長男に、発売開始直後の『ファミリーコンピュータ』を送ってくれました。

 義兄の医院に必要だったので、60歳を過ぎた義母がパソコン操作を練習して、データを打ち込んでいました。 私の好物を覚えてくれて、帰省したら「シロウオの踊り食い」、「鰹の刺身」、「トコブシの煮つけ」・・・を食べさせてくれました。 そして、時々・駿河屋の特上羊羹を送ってくれました。

【義伯母】
 義伯母は、姫路の男女4人の子持ちの男性と結婚したので、今でも『姫路の伯母さん』と呼んでいます。 夫は大企業に務める職人さんで、義伯母は働きながら子育てしました。私が結婚した頃、子育てはほぼ終わって、小さな借家で義伯父さんと二人暮らしでした。 義伯父さんは定年直前でした。

 私は、当時・高砂市の社宅暮らしだったので、何回かお邪魔しました。義伯父さんは無口な方で、話をした記憶が全く有りません。部屋の隅で、みんなの会話を聞いていたと記憶しています。

【義伯母と長男の兜】
 我が家に待望の長男が産まれた時、義伯母と義母が凄く喜んでくれました。義伯母は決して豊かな生活では無かったのに、「兜を買って下さい」と言って十数万円もくれました。 人形店を数軒回って、自分の金も足して、サラリーマンには買えない様な立派な兜を買いました。我が家の家宝にしようと考えたのです。

 長男は気に入ってくれ、結婚した時に「男の子が出来たら貰って良いか?」と言うので、勿論・了承しました。 残念ながら、長男にも次男にも男の子が出来ていないので、兜はまだ家に有ります。

 今でも、四月の末になると妻は兜を飾っています。私は、毎年・兜を見ると、素晴らしい方だった義伯母を思い出します。

【義伯母は郷里に帰りました!】
 夫が年金生活に入った後で、義伯母は郷里だった和歌山県田辺市に(二人で)帰りました。 我が家はゴールデンウイークとお盆に田辺に帰省していたので、義伯母の家にも寄りました。 小さな借家で、慎ましく暮らしていました。

 田辺には親戚が沢山住んでいて、知り合いも多かったためか、義伯母は活き活きとしていました。 結婚以来、子育てと、仕事などで苦しい生活だったと思いますが、田辺の3年間ほどは一番楽しい時だった様に見えました。

【義伯母の最後】
 夫が年老いたので、夫の生まれ故郷の姫路市に帰りました。古い長屋を借りて、義伯母はビルのトイレ掃除などの仕事をしていました。私は一度お邪魔しましたが、田辺の時の様な笑顔では有りませんでした。 暫くして、旦那さんは亡くなりましたが、仕事は続けていました。

 数年後に入院されて、義母と妻が時々見舞いに行っていましたが、私には会いたくないと言ったそうです。年老いた姿を見せたく無いのだろうと推察して、私は行きませんでした。

 危篤状態になった時、義母と妻が病院に行きましたが、育てた子供達は一人も来なかったそうです。義伯母は、「お世話になった!、お世話になった!」を繰り返し、最後には「ありがとう!、ありがとう!」と言い続けて、意識が無くなり、苦しまずに逝ったそうです。 私は、義伯母らしい、素晴らしい最後だったと思いました。

【義母は義兄と同居する様になりました!】
 義兄は工学部を卒業した後、医学部を受験し医者になりました。義母は、借金を返済しながら10年間ほども仕送りを続けた事になります。

 1982年頃に義兄は京都府で開業医になりました。義母は医院に住むようになり、開業前に妻は長男を連れて、一ヶ月ほど手伝いに行きました。最初の日は、患者さんが二、三名しか来られ無かったので、皆で先行きを心配したそうです。

 その後、義兄は結婚して、男の子を一人授かりました。義母は、孫と友達の様に接して、大層可愛がりました。晩年は幸せな暮らしでした。

【義母の最後】
 義母は癌が急激に悪化して、二、三ヶ月入院して亡くなってしまいました。入院中に妻は週に二、三回・片道2時間掛けて見舞いに行っていましたが、「私には会いたくない」と言ったそうで、私は見舞いませんでした。

 妻が見舞った土曜日の夜に急変し、妻が見守るなかで義母は亡くなりました。 葬儀は郷里の田辺市で行う事になり、日曜日の朝一の電車で、私は妻の喪服を持って電車に乗りました。義兄は患者を抱えた開業医ですから、急には休めません。それで、妻と私・二人で葬儀の手配をしました。

 葬儀場の宿泊施設を利用したのですが、『通夜ぶるまい』の後、深夜に私は一人で棺(ひつぎ)の横に小一時間座って、「ホントに色々ありがとうございました!」と何回も小さな声で言いました。恥ずかしながら、涙を流してしまいました。