これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

官僚について (その3)

2022-01-29 10:14:54 | 歴史
【はじめに】
 今回は、戦前と戦後の官僚制度/採用試験について書きます。

【戦前の官吏】
 明治初期には公務員試験は有りませんでした。内閣制度が始まったのは1885年(明治18)で、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任しました。それまでは、武士が官僚になっていましたが、優秀な人材を登用する必要が有ると考えて、87年から高等試験と普通試験を始めました。

 局長以上の『官』は、試験によらずに採用し、帝国大学卒業生は無試験で高級官僚に採用しました。(当時、帝国大学は東大だけでした。京大は97年の設立です。)その後、官吏の採用試験が始まりました。

 現在は『官僚』が一般的ですが、戦前は『官吏(かんり)』だった様です。官吏は下に示す①~④です。現在と違うのは大臣の多くが官吏だったことです。そして、陸軍大臣と海軍大臣は軍人か軍出身者だった様です。皇室は山林や株式などを所有する大富豪だったので経済的に独立していて、宮内官は官吏には含まれていませんでした。(皇室費を国家予算から出す事にすると、国会の議論/承認が必要になり、恐れ多いいと考えて、莫大な資産を(形式上)皇室の所有にしたのだと思われます。宮家の費用も皇室資産から出ていました。)

 奏任官の技術系の役人は『技師』、判任官の場合は『技手(ぎて)』と呼ばれていました。

・・・ 戦前の官吏 ・・・
① 親任官 :現在の大臣級
② 勅任官(ちょくにんかん) :高等官1等、2等、現在の次官や局長級
③ 奏任官(そうにんかん) :高等官3等、現在の課長級以下
④ 判任官(はんにんかん) :1等~4等
⑤ 雇員・傭人等

・・・ 戦前の官吏採用試験 ・・・
★ 1887年 :高等試験(奏任官の採用試験)と普通試験(判任官の採用試験)
★ 1893年 :文官高等試験
★ 1899年 :勅任官も高等文官試験の合格者が就任する事になりました。

(余談 :総理大臣の任命) 前述の様に1885年(明治18)に内閣制度が発足し、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に任命されました。 大臣達は天皇の臣下(天皇の補佐役)で、議会が選んだのでは無く、天皇が任命しました。天皇に任命責任が生じる場合が想定されるので、『元老』達が相談して総理大臣候補を一人に絞って天皇に推挙しました。天皇は推挙された人間を必ず総理大臣に任命しました。元老達が年老いて亡くなってしまったので、(天皇直属で官吏では無かった)内大臣と重臣達が内閣総理大臣を推薦する様になりました。

 この方式で選ばれた最後の総理大臣は、吉田茂です。吉田茂は土佐藩出身の政治家だった竹内綱の五男で、資産家の吉田家に幼い時に養子に入り、→→東大卒→→外交官で終戦を迎えました。終戦直後に貴族議員に任命され→→外務大臣→→総理大臣になりました。

 尚、新憲法下で選ばれた最初の総理大臣は、日本社会党の片山哲です。

【戦前の武官僚】
 戦前には陸軍省と海軍省が有りました。陸軍士官学校と海軍兵学校(修学期間3年ほど)が有り、その卒業生の一部が修学期間3年の陸軍大学校と海軍大学校で学びました。

 1872年(明治5年)に海軍病院学舎が設立され、→→82年に海軍医務局学舎/海軍医学校→→94年に海軍大学の中に軍医科→→97年に海軍軍医学校になりました。  1886年(明治19年)に陸軍軍医学校が設立されました。

(余談 :森鴎外) 森鴎外(林太郎)は東大の医学部を81年に卒業し、陸軍の軍医になりました。当時・まだ陸軍軍医学校は有りませんでした。鴎外は軍医としてドンドン出世して軍医の最高の地位『陸軍軍医総監(中将相当)』になりました。極めて多忙だったと想像しますが、時間を作って執筆活動を続けました。 文学だけでなく美術にも詳しく、(軍医退職後は)1917年に帝室博物館(現在の東京・京都・奈良の国立博物館)総長兼図書頭→→19年に帝国美術院(現在の日本芸術院)初代院長に就任しました。

(余談 :父) 1901年生まれの父は、貧しい家に養子に出され、尋常小学校を中退して商店に丁稚奉公に出ました。昔の丁稚は勉強する時間が与えられた様で、陸軍幼年学校に合格して→→陸軍士官学校に進みました。陸軍幼年学校は月謝が必要でした。養子先から出して貰っていないのは確かですが、金をドンナニして得たのか父は話しませんでした。英語の勉強もした様で、私が中学生だった時、中学校の英語の教科書が読めました。

・・・ 陸軍の学校 ・・・
★ 陸軍大学校 :陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚課程に相当する。
★ 陸軍士官学校・本科 :現在の陸上自衛隊幹部候補生学校に相当する。
★ 陸軍士官学校・予科 :現在の防衛大学に相当する。
★ 陸軍幼年学校 :原則としては旧制中学校卒業生を採用しましたが、学歴が不問だったので、父は入学出来たのです。(月謝が必要)

・・・ 海軍の学校 ・・・
★ 海軍大学校 :海上自衛隊幹部学校に相当する。
★ 海軍兵学校 :旧制中学校の卒業生を採用した。
(注記) 他に、海軍機関学校と海軍経理学校が有りました。

【戦後の国家公務員試験】
 戦後の大臣や官僚は公僕(国民に奉仕する役人)です。 日本国憲法の規定によって、内閣総理大臣は両院の選挙で選ばれる事になりました。その最初の内閣総理大臣が片山哲です。現在は、総理大臣の下に大臣、副大臣、大臣政務官がいて、原則として国会議員の中から選ばれる事になっています。(これらの役職には現役の官僚はなれないと思います。)

 下に列記する様に、種々の国家公務員(官僚)採用試験が行われています。総合職試験に合格すると超!エリート官僚(キャリア官僚)になれます。2021年の合格者数は1,834人でした。 大卒の一般職試験の合格者数は7,553人(採用予定数は4,654人)でした。

 地方公共団体では、(民間企業と同じ様に)大卒程度と高卒程度を対象とした採用試験を行っています。最初から超!エリートとして採用される事は無いようです。 就職した時から超!エリート扱いするのは民主的とは言えませんから、私は、「総合職試験を廃止すべきだ!」と考えます。

❶内閣総理大臣→→❷大臣→→➌副大臣→→➍大臣政務官・・・原則として国会議員が就任

〇事務次官→→〇外局長官→→〇官房長→→〇局長→→〇部長→→〇次長→→〇課長→→〇課長補佐→→〇室長→→〇企画官、専門官→→〇係長・主査→→〇主任→→〇係員

・・・ 現在の国家公務員採用試験の歴史 ・・・
① 1947年 :国家公務員法
② 1949年 :第1回の国家公務員試験(受験資格が大卒程度のみ)
③ 1950年 :4級職採用試験;(受験資格が高卒程度。現在の国家公務員採用一般職試験の高卒
程度に相当)
④ 2001年 :国家公務員採用Ⅰ種試験(現在は国家公務員採用総合職試験に統合)、外務書記生試験(現在の外務省専門職員採用試験)が開始されました。

・・・ 現在の国家公務員採用試験 ・・・
★ 総合職試験(院卒者) :キャリア官僚
★ 総合職試験(大卒程度) :キャリア官僚
★ 一般職試験(大卒程度)
★ 一般職試験(高卒者)
★ 専門職試験(大卒程度) :国税専門官試験・労働基準監督官試験・財務専門官試験、航空管制官採用試験
★ 専門職試験(高卒者) :刑務官試験、省庁大学校、海上保安学校の採用試験
★ 経験者採用試験 :民間企業の途中入社採用試験の様な制度
● 外務省専門職員採用試験 :試験は外務省が行っている。

(注記 :省庁大学校) 省庁が沢山の大学校を運営しています。下記の①~⑦の大学校を卒業すると、大学卒と同じ『学士』になれます。 ①~④、⑧の大学校に入学すると月給とボーナスが支給されます。貧しい家の子供でも、頑張ったら大学校に進学出来ます。

① 防衛大学校(防衛省)  :有給、学費無料
② 防衛医科大学校(防衛省) :有給、学費無料
③ 海上保安大学校(国土交通省)  :有給、学費無料
④ 気象大学校(国土交通省)    :有給、学費無料
⑤ 水産大学校(水産庁)    :学費必要
⑥ 職業能力開発総合大学校 :学費必要
⑦ 国立看護大学校       :学費必要
⑧ 航空保安大学校(国土交通省) :2年制(短大相当)、有給、学費無料
⑨ 警察大学校(警察庁) :幹部警察官の研修所(新規採用は無し)
⑩ 税務大学校(国税庁) :高卒で税務職員採用試験に合格した人の研修、有給
⑪ 航空大学校(国土交通省) :パイロット養成、学費必要
⑫ 職業能力開発大学校(厚生労働省) :職業訓練施設
⑬ 職業能力開発短期大学校(厚生労働省) :職業訓練施設
⑭ 自治大学校(総務省) :地方公務員に対する研修所(新規採用は無し)
⑮ 消防大学校(総務省消防庁) :消防上級幹部等の研修所(新規採用は無し)
⑯ 国土交通大学校(国土交通省) :研修所(新規採用は無し)

【戦後の武官】
 戦前は徴兵制でしたが、現在は応募制です。厳しい訓練を行っているのに応募者がいる事に感心します。私の家の近くに、息子と同級の男の子がいました。彼は小さい時から自衛隊に入ると言っていました。高校を卒業して入隊したのですが、10日もしない内に帰って来ました。「朝起きるのが辛かった!」、「訓練に耐えられなかった!」と言っていました。

 中学卒でも入隊出来ます。陸上自衛隊高等工科学校(横須賀市)で募集しています。優秀な成績を収めると防衛大学に進めます。学費は無料で、月給とボーナスが支給されます。

 韓国は徴兵制で服務期間は陸・海・空・海兵隊で異なり、18か月~21か月です。戦後の兵器の進歩は目覚ましく、兵器の操作/整備に訓練と知識が必要です。自衛隊には種々の学校が有って、種々の訓練/勉強をしています。韓国の様に服務期間が短いと、実戦で役に立たないのでは?と思います。

 私は1985年頃に複数の護衛艦を見学した事が有ります。全て退役した旧型艦の話ですが、艦砲は甲板に設置されたドームに収納されており、イタリア製でした。 遠隔操作するので、ドーム内は無人でした。 砲弾は船内の弾薬庫から機械で持ち上げられ、自動で艦砲に挿入され、1分間に数十発連射出来るとの説明でした。接近して来たミサイルの方向にドームを急速で回転させる必要があり、ドーム内に人間がいると”目が回る”との事でした。 護衛艦にも沢山の種類があり、それぞれ種々の兵器を搭載しています。

 陸海空の自衛隊が所有する兵器の種類は数え切れないほど沢山有ります。その為に、防衛省には幹部候補生を教育する学校だけでなく、種々の技術を習得する為の学校が沢山有るのです。 ウイキペディア『自衛隊の学校等一覧』で検索して見て下さい。

(余談 :消防車の点検・整備) 機械設備の新設では最寄りの消防署に書類の提出が必要な場合が有ります。 メーカーが作成した書類を顧客が提出し/説明するのが原則ですが、メーカーに同行を要求する顧客も有り、私は数回消防署に行った事があります。説明に署長が同席されて、雑談を小一時間するのが常でした。どこでも、「消防車は何故?何時も車体がピカピカに磨かれているのか?」と質問されました。「いざという時に故障しない様に、毎日消防車を点検/整備している。車体を磨く事は消火活動とは関係無いが、点検した証明に毎日車体を磨いている」と誇らしげに言われました。自衛隊でも、同じ様に毎日!毎日!点検/整備しているのだと思われます。

・・・ 自衛隊の歴史 ・・・
★ 1950年 :警察予備隊
★ 1951年 :警察予備隊・総隊普通科学校が設立された。(陸上自衛隊幹部候補生学校の前身/戦前の陸軍士官学校に相当する。)
★ 1952年 :保安庁
★ 1952年 :防衛大学校の前身が設立された。
★ 1954年 :防衛庁
★ 1954年 :海上自衛隊幹部学校(旧海軍の海軍大学に相当する)
★ 1955年 :陸上自衛隊少年工科学校→→2010年に陸上自衛隊高等工科学校・・・中卒、有給
★ 1964年 :自衛隊体育学校
★ 1973年 :防衛医科大学・・・学費無料、有給
★ 2007年 :防衛省

【現在の官僚の人数】
 国家公務員と地方公務員の合計は”333万人”ほどで、約18%が国家公務員で、その内約46%が自衛官です。 先進国の中では国家公務員の数は少ない方です。女性の割合が少ない(約40%)のが問題だと思います。公務員の給与は、先進国の中では高い様です。

 マイナンバーと住民票、厚生福祉関係の書類、預金貯金通帳、不動産登記等々を連結して、国家と地方公共団体をデジタル化し、インターネットで手続き出来る様にしたら、公務員の数を大幅に削減できると私は考えます。 (更に、金持ちは相続税を誤魔化す工夫を種々やっていますが、誤魔化しが難しくなります。)

・・・ 2019年の公務員数 ・・・
★ 国家公務員 :合計≒58.5万人
   ❶一般職≒28.7万人、❷特別職≒3万人、➌防衛省≒26.8万人
★ 地方公務員 :合計≒274.4万人

【アメリカの官僚】
 アメリカでは1789年にワシントンが初代大統領に就任しました。 政権が交代すると官僚(上級と下級役人)が入れ代わりました。『僚(下級役人)』まで交代すると、行政が混乱します。 百年後(1883年)に公務員法(ペンドルトン法)が出来て、(官に相当する)上級管理職と郵政庁などを除く国家公務員は競争試験の成績で採用される様になりました。

 上級管理職は今でも政権が交代すると入れ代わります。 日本では上級役人(官)は難しい筆記試験の点数で採否を決めますが、アメリカでは上級管理職の競争試験制度は有りません。

 日本は『終身雇用制度』が慣例化されており、官僚も原則として終身雇用です。従って、日本の公務員試験は新卒を想定した物になっています。 逆に、欧米諸国では、空いたポストに経験豊富な人材を得る事に注力している様に見えます。これは、日本で言う「途中入社」です。 日本でも途中入社を認める大企業が少しずつ増えて来ているようですが、官僚についての「途中入社」はまだ狭き門です。

 韓国の財閥系の大企業では殆ど途中入社を認めていない様ですが、公務員の一部は民間企業で働いていた人を採用しています。 但し、元働いていた企業に情報を流すなどの不正が時々問題になっています。

 アメリカの政策には一貫性が無い様に見えますが、上級管理職が政権交代時に入れ代わる制度が原因の様に私には思えます。 安倍晋三氏はトランプ氏と親密な関係を築いたと自慢げでしたが、「何時梯子を外されるか?」私は心配していました。 立憲民主党は政権を取る前に、アメリカの政治について独自に情報を収集し/勉強しておく必要が有ります。でないと、2010年の鳩山・オバマ会談の様に顰蹙(ひんしゅく)を買う事になってしまいます。 何故なら、野党の政治家には外務省や内閣情報局が機密情報を流す分けが有りません。

・・・ アメリカの公務員の数 ・・・ 出典=ウイキペディア
 アメリカの人口は33,000万人、日本は12,600万人です。アメリカは、国家公務員も地方公務員も非常に多いい国だと言えます。

★ 国家公務員≒275万人 (上級管理職≒0.8万人、行政≒269万人、立法≒3万人) (日本≒31.6万人)
★ 軍関係≒140万人 (日本≒26.9万人)
★ 地方公務員≒1,600万人 (州政府≒434万人、群や市≒1,185万人) (日本≒274.4万人)

森友問題の赤木氏の事件

2022-01-22 09:13:26 | 民主主義
【はじめに】
 故人を鞭打つ様で心苦しいのですが、批判を覚悟のうえで私の考えを書きます。

怒り心頭に発する :❶籠池夫妻と昭恵夫人に反省が無く、❷籠池淳子氏に至っては昨年の衆議院選挙に立候補し、11,458票も獲得しました。➌私は投票した人にも怒っています。そして、➍税金を使って『臭い物に蓋を』した岸田首相にも、少し怒っています。

【赤木氏の事件の経緯】
 森友問題は、2013年に籠池氏が国有地の払い下げを要請した事から始まりました。問題が表面化したのは、2017年に朝日新聞が「ベラボウに安い価格で売却しようとしている」と報じたためです。

 事件が表面化して5年ほど経ち、私の記憶がアヤフヤになっていたので、古い記事を調べて御参考までに時系列に並べて見ました。

(問題の土地) 問題の土地は『大阪府豊中市野田町10』で、阪急宝塚線の大阪梅田駅から4駅目の庄内駅から徒歩10分ほどの所に有ります。 当初の査定金額は『36万円/坪』でした。それを、1/7の『5万円/坪』で売却しようとしたのです。

★ 2012年12月 :第二次安倍内閣誕生
★ 2013年 :森友学園が近畿財務局に国有地(8,770平方メート≒2,650坪)の売却を要望した。→→昭恵夫人と籠池泰典氏が売却予定地で撮影した写真を近畿財務局に提示した。
★ 2014年3月 :森友学園が『安倍晋三記念小学校』の建設として、寄付を募っていた。
★ 2015年5月 :10年以内の売却を前提とする貸し付け契約を結んだ。
★ 2015年9月 :昭恵夫人が小学校の名誉校長に就任した。→→政府派遣の昭恵夫人の付き人が賃料の減額などを財務省に要望した。
★ 2015年11月 :政府から派遣されていた昭恵夫人の付き人(谷査恵子氏)が財務省に問い合わせた。
★ 2015年12月 :小学校の建設が始まった。
★ 2016年3月 :森友学園が「ゴミが見つかった」と財務局に連絡。→→「6月の昭恵夫人が棟上げ式に参列する予定である」、「(ゴミの撤去で)工期がずれ込めば損害賠償を求める。」と籠池氏が財務局に圧力を掛けた。
★ 2016年6月 :財務局が、(鑑定価格9億5600万円)から(ごみ撤去費8億1900万円)引いた、超!超!格安の『1億3400万円』で土地を売却した。・・・1坪≒5万円!
★ 2017年2月 :朝日新聞が「国有地を異常に安い値段で森友学園に売却した」と報道→→財務省の決済文書が14件改竄されていた。
★ 2017年2月 :国会で森友問題が取り上げられた。
★ 2017年2月26日 :近畿財務局の赤木俊夫氏の直属の上司が、休日(日曜日)だった赤木氏を呼び出し公文書の改竄(かいざん)を指示した。
★ 2018年3月7日 :赤木俊夫氏(54歳)が自殺された。
★ 2018年3月9日 :佐川宣寿氏が懲戒処分(減給20%✕3ヶ月)を受けた。→→辞任
★ 2018年5月 :大阪地方検察庁特別捜査部は佐川氏らを不起訴と決定した。
★ 2018年6月4日 :財務省が改竄問題に関する調査報告書を発表した。(当時の理財局長だった佐川宣寿氏が改竄や文書の破棄に関係していたと公表した。)
★ 2019年3月15日 :大阪第1検察審査会が「不起訴不当」と議決した。
★ 2019年8月9日 :大阪地方検察庁特別捜査部は不起訴と決定した。
★ 2020年 :赤木雅子氏が国と佐川宣寿元財務省理財局長を相手に裁判を起こした。
★ 2020年7月15日 :初弁論
★ 2020年9月1日 :菅内閣誕生
★ 2021年10月4日 :岸田内閣誕生
★ 2021年12月15日 :国が1億円支払うと申し出たので、国家賠償訴訟は結審した。(佐川宣寿氏に対する裁判は続いています。)

【赤木雅子氏の主張】
 私がこの裁判を起こした目的は三つあります。一つ目が、なぜ夫が自殺に追い込まれなければならなかったのか、その原因と経緯を明らかにすること、二つ目が、上司の軽率な指示や判断で追い詰められて自殺する職員が二度と出ないようにすること、三つ目が夫の遺志に基づき、誰の指示に基づいてどのような改ざんが行われたのか国民の皆さんに説明することです。

 夫が作成した赤木ファイルは、三つの目的のためにとても大切だと考えていましたので、この裁判の最初から提出を求めてきました。そして、1年3カ月経って、やっと昨日、赤木ファイルを手にしました。

【岸田首相の対応の問題点】
 2021年12月15日に国(岸田首相)が1億円支払うと申し出たので、国に対する訴訟は終了しました。国家が支払うと言う事は、「国家として改竄を指示した」、「国家が犯罪を犯した」と認めた事になってしまいます。絶対に有耶無耶に出来ない重大な問題です。「国家の誰が指示したのか?」、「ドン経路で赤木氏にまで指示が届いたのか?」明確にして/処罰すべきです。

問題点❶ :岸田総理は国家犯罪だったと認めたわけですが、「どの地位の政治家や官僚が事件に関与していたら国家犯罪とするのか?」裁判所に決めて貰うべきでした。総理大臣、担当の大臣、副大臣、大臣政務官の何れかが関与していたら、国家的犯罪だと、私も思います。 課長以下だけが関与した事件だったら、国家的犯罪とは言えない様に思います。

問題点❷ :悪い慣例を作ってしまったのでは? 官僚が犯罪を犯しても、「上司の指示だった」と言うメモを残して自殺したら、遺族が国家賠償訴訟を起こすと「1億円」貰える様になりそうに思います。

【私の想像】
 改竄した公文書には当時の総理大臣・安倍晋三氏の奥さん(昭恵夫人)の名前が記載されていたのでしょう! 森友問題が大きく報じられる様になったので、「政治家の誰か?」か「財務省の高官?」が、「これはヤバイ!」と考えて、改竄を指示したのだと思います。

 A氏が休日に突然、直属の上司に呼びつけられて、他に誰もいない部屋で「この文書を改竄しろ!」と命令されたとします。 既に、内部告発が時々報じられる時代になっていました。A氏は公文書の改竄が刑法に規定された重大な犯罪だと認識していました。 然し、A氏は53歳で、定年の60歳が近づいていました。 今後、大した出世は期待出来ませんが、定年後に有利な出向先を斡旋して貰える可能性は有ります。 「改竄を拒否しても首にはならないが、左遷され→→出向先を探して貰えない」とA氏は考えるでしょう。

 結局、A氏は改竄に同意してしまいました。森友問題が国会で取り上げられ、マスコミの報道合戦は収まりません。 「内部告発でバレてしまうのでは?」、「告訴されて有罪判決が出たら、懲戒免職になって→→退職金が貰えない→→再就職も難しい!」と一年間も悩み続けたと想像します。

 私の記憶では、A氏と直属の上司の名前は報道されていなかったと思います。従って、A氏が自殺しなかったら、問題は安倍政権の狙い通りに『闇から闇に葬る』事になっていたでしょう!

 内部告発で発覚したら、財務省は、A氏を海外に派遣する等して、省をあげて揉消したと思われます。 財務省には内部告発をする正義人/常識人はいませんでした。 A氏は悩みに耐えかねて、一年後に自殺しました。

 A氏が自殺せず、赤木ファイルが表に出なかったら、A氏は数年後に定年退職して、私よりもズット優雅な老後が遅れたと想像します。

【私の考えた問題の本質と対策】
 赤木雅子氏は、『改竄を指示した人間』を特定しようとして訴訟を起こしました。 公文書の改竄が無くても、国有財産を政治家の意向を忖度して、超!安値で売却するのは違法で、許されない行為だと思います。

対策案 :憲法か法律で『政治家の公私』を明確に規定して、『政治家の私』については、公務員は関わってはならない/関わったら重罪に処するとすべきです。 森友問題では政府が派遣していた昭恵夫人の付き人が、財務省に電話した様ですが、今後は禁固刑に処すべきです。

 政治家の浮気が時々報じられますが、私は目くじら立てる問題では無いと考えています。「英雄色を好む」と言います。 然し、公用車の運転手が、二号宅だと承知している場所の近くまで政治家を送るのは犯罪で、罰すべきです。

 官僚の多くは、「少しでも出世したい」、「条件の良い天下り先を紹介して欲しい」と考えているでしょう。❶小学校の名前を『安倍晋三記念小学校』にする、❷昭恵夫人が小学校の名誉校長に就任したと知ったら、官僚達は安倍氏から指示が無くても忖度して行動します。

 ❶も❷も安倍氏の『政治家の私』で有る事は明確です。 官僚は『政治家の私』に関わってはいけないと憲法か法律に規定しておけば、森友問題は起こらなかったでしょう! 政府から派遣されていた昭恵夫人の付き人が、財務省に電話しする事も防げたと思います。

【私の疑問】
 指示されて仕方なく行った行為が『犯罪』で有ったら、実行者と指示した人間は犯罪者です。 犯罪者の親族が犯罪を指示した人間に賠償請求をした例が有るのでしょうか? どなたか、このブログのコメント欄に書いて、教えて下さい。

 国家賠償訴訟は結審してしまいましたが、佐川宣寿氏に対する訴訟は続いていると思われます。仮に、佐川氏に賠償を命ずる判決が出たら、世の中は変わりそうに思います。 政治家のスキャンダルで秘書などが自殺するケースが多々有りますが、遺族は政治家に賠償訴訟を起こして懲らしめる事が出来ます。この手の訴訟こそ、陪審員裁判にすべきです。遺族側が勝つ可能性が高くなりそうに思います。

【関連する法律】
 公文書を偽造したり改竄した場合の罰則は『刑法第17章「文書偽造の罪」』に規定されています。 従って、公文書の改竄は刑事事件です。 改竄を実際に行った人と、指示した人は、155条の規定により「1年以上10年以下の懲役」刑に処せられます。

 2009年に公布された公文書管理法(公文書等の管理に関する法律)には罰則の規定は有りません。 公文書の保管や開示についての法律です。

・・・ 刑法第17章「文書偽造の罪」 ・・・
★ 154条 :詔書偽造等の罪 ;無期又は3年以上の懲役
★ 155条 :公文書偽造等の罪 ;1年以上10年以下の懲役
★ 156条 :虚偽公文書作成等の罪
★ 157条 :公正証書原本不実記載等の罪 ;5年以下の懲役又は50万円以下の罰金
★ 157条の2 :一般人が免状、観察、旅券に事実でない事を書くと;1年以下の懲役又は20万円以下の罰金
★ 158条 :偽造公文書行使等の罪
★ 159条 :私文書偽造等の罪
★ 160条 :虚偽診断書等作成罪・・・医者;3年以下の禁錮又は30万円以下の罰金
★ 161条 :偽造私文書等行使罪
★ 161条の2 :電磁的記録不正作出及び供用の罪

官僚について (その2)

2022-01-15 09:12:15 | 政治
【はじめに】
 今回は幕末から明治初期までの改革について書きます。

 先週、幕府の軍事改革について書きましたが、島津斉彬が薩摩藩で西洋技術を研究して富国強兵政策を進めました。明治になって、紀州藩では、たった3年間で藩政と兵制の大改革を断行しました。 やろうと思えば日本人も短時間に大改革が出来るのです! 「現在は選挙の有る民主主義国家だから、島津斉彬や紀州藩の津田出の様な事は出来ない!」と政治家や官僚は言ってはいけません。

【薩摩藩の改革】
 長州藩は尊王攘夷の急進派が主流になっていましたが、1863年に伊藤博文ら5人がイギリスに留学しました。イギリスの国力を見て「攘夷などはトンデモナイ」と気付き、伊藤博文と井上馨は急遽・64年に帰国しました。伊藤博文の奔走も空しく、連合艦隊を砲撃しました。・・・下関戦争→その後、長州は攘夷思想から脱却出来たのだと思います。

 1851年に島津斉彬(なりあきら)が薩摩藩主になり、西洋文明/技術を取り入れた富国強兵政策を始めました。斉彬は尊王攘夷とは真逆の考え方を持っていました。 幕府と協力して富国強兵を図ろうとしたのです。 そして、小禄の西郷隆盛を重用しました。

 58年に斉彬が急逝した為、斉彬の異母弟の久光(忠教)の長男・忠義(18歳ほど)が藩主になりました。父・久光が薩摩藩の実権を握りました。久光は斉彬が始めた改革を進めました。小禄の大久保利通等々を抜擢して、薩摩藩が幕末を主導する元を作ったのです。 1862年には、寺田屋に集結していた尊王攘夷派の薩摩武士を殺害しました。これが、第1回目の寺田屋事件です。

 当初の久光の考え方は「雄藩連合・公武合体」でしたが、幕府に見切りを付けて「鳥羽伏見の戦い」→「戊辰戦争」を断行しました。

 そして、明治新政府では薩摩藩出身者が沢山活躍する事になったのです。①西郷隆盛、②大久保利通、③小松帯刀(1870年歿)、④寺島宗則、⑤川路利良、⑥大山巌、⑦東郷平八郎、⑧黒田清隆、⑨松方正義、⑩五代友厚・・・

★ 藩主=斉彬 :1851年~58年
★ 国父=久光 :1858年~
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)

(注記 :寺田屋事件) 寺田屋事件は2回有りました。2回目が、1866年に幕府の伏見奉行が坂本龍馬を襲撃した事件です。67年に坂本龍馬が暗殺されたのは近江屋事件です。

(注記 :小松帯刀) 小松帯刀は、幕末から明治初期に活躍しましたが、高禄の武士でした。5,500石の肝付家の四男で、後に2,600石の小松家の養子になりました。

【戊辰戦争と銃】
 歴史が大転換する時には、戦争のやり方や武器の進歩が関係します。それで、私は若い頃から武器の進歩に興味が有りました。幕末から戊辰戦争までは、欧米で銃の目覚ましい進歩が有りました。日本にも種々の銃が入ってきました。戊辰戦争では新旧・様々な銃が使用されました。

 一方、新島八重にも興味があり、NHKの大河ドラマは殆ど見ないのですが、2013年の『八重の桜』は見ました。会津若松城籠城戦のシーンで八重が使用していた銃が、アメリカで1860年~69年に製造されたスペンサー騎兵銃です。射程距離は180m程しか有りませんが、7連発式で一分間に20発以上撃てる最新の銃だったのです。この銃は幕府軍の一部が採用しましたが、高価だったのと、銃弾の国産化が出来なかった等の理由で主流にはなりませんでした。

 戊辰戦争では、東北の藩では火縄銃も使用した様です。先込め銃/元込め銃、ライフル有り/無し、ほとんど単発銃でしたが連発銃も使用され、射程距離も様々な銃が使用されました。銃の見本市の様な戦いでした。

【明治新政府の問題点】
 新政府には2つの重大な問題が有りました。❶金が無かった、❷手前の(自分の)軍隊を持っていなかった。金は徳川家の領地の大半を没収して、豪商から支援を受けるなどの工夫をしましたが、十分とは言えませんでした。→→廃藩置県が必要だったのです。

 自前の軍隊を持つ事については、長州は『徴兵制の軍隊案』でしたが、薩摩は『武士を主体にした、各藩の藩兵を新政府に差し出す案』でした。両藩の話し合いは決着しませんでした。

 明治2年(1869年)から下に述べる紀州藩の改革が始まりました。西郷隆盛は、弟(後の西郷従道)に紀州藩の近代的な軍隊を視察させました。その後、薩摩藩は『徴兵制の軍隊案』に同意して、1873年に徴兵令を布告しました。

★ 1869年(明治2年) :版籍奉還
★ 1870年(明治3年) :各藩が持つべき軍隊の規模(常備定員)を指示した。
★ 1871年(明治4年) :薩摩・長州・土佐の兵(≒6,000名)を新政府の支配下に置いた。・・・新政府が軍隊を持ったのです。
★ 1871年(明治4年) :廃藩置県
★ 1872年(明治5年) :紀州藩の軍隊は新政府の命令で解散し、歩兵一大隊と砲兵一大隊が政府軍に入りました。
★ 1873年(明治6年) :徴兵令

【徴兵制は武士身分の廃止を意味しました】
 徴兵制の軍隊にする事は、世襲/家柄による武士の制度を根本的に破壊する事を意味します。(徴兵制で集められた兵隊は、世襲では無くて、任期が終わると”お役御免”になります。)

 江戸時代には戦争になると、(武士の)当主が石高によって決められた陪臣を伴って参戦する事になっていました。然し、幕末には、刀、槍、火縄銃を持って参戦する時代では無くなっていました。

 戊辰戦争で西洋式の軍隊の威力を実地で学んだのだと思われます。西洋式軍隊とは、同じ銃を持った兵隊達が沢山いて、その上に指揮官がいる軍隊です。幕府も各藩でも、武士の禄高と家格(かかく)が細かく分かれていて、身分差が有りました。 西洋式軍隊では、兵隊は同等でなければなりません。 兵隊達の間で、「俺は直参だが、お前は陪臣だ!」、「俺の禄高の方が10石多いい!」などと威張る事は許されません。

【紀州藩の改革】
 明治政府が統一国家を想像以上にスンナリと樹立出来たのは、❶廃藩置県を断行した、❷政府の政策を全国で実施する行政組織を作った、➌近代兵器を装備した軍隊を創設した・・・などを短期間に実行した事が要因だったと思います。

 最初に近代国家の有り方を考えて実行したのは、薩長土肥の武士達では有りません。紀州藩だったのです。 紀州藩は御三家の一つでしたから、徳川幕府が崩壊して難しい立場になってしまいました。新政府から三回多額の金(合計16万両ほど)を要求され、存亡の危機に有りました。 新政府に恭順を示すと同時に、1968年(明治元年)に津田出(いずる)に命じて藩政の改革案を検討させました。

 津田出は、紀州藩出身の勤王の志士だった陸奥宗光に❶郡県制度、❷徴兵制度などの改革案を伝えました。陸奥は1869年に新政府に「廃藩置県の意見書」を提出しましたが、受け入れられませんでした。 それで、陸奥は官職を辞して紀州に帰り、津田と藩政改革に着手したのです。

 武士の家禄を90%カットして金を捻出し、身分によらない徴兵制を採用し、プロイセン王国式の軍隊を創設しました。武士の特権の一つで有った『武力』を、徴兵制による近代的な軍隊に変えたのです。

 1869年(明治2年)から改革を始めました。初年度の徴兵は、職を失う武士の子弟を救済する為に実質的に応募兵制にし、翌年から身分を問わない(四民平等の)徴兵制が実施されました。

 1870年3月時点には、常備兵7,311人、馬260頭も有りました。(1873年の日本陸軍の常備兵は46,350人でした。) たった2年で、歩兵6連隊、騎兵大隊、工兵隊、輜重(しちょう)隊(輸送が任務)、兵学寮(兵隊の学校)、病院、火薬兵器司を設けた、本格的な軍隊を整備したのです。

 1871年(明治4年)に新政府の命令で軍隊を解散しました。翌年、歩兵一大隊(600名)と砲兵一大隊(300名ほど)が政府軍に入りました。

 津田出は、藩士に藩財政が逼迫している事実を明確に示しました。 家禄を1/10にカットされた藩士達には、登城する必要が無い、内職/アルバイトの自由、移転の自由、農民/商人/職人になる自由を与えました。(「家禄の10%の金を毎年支給するから、自分達で何とか仕事を見つけて、生きてくれ」と言ったのです。)

 江戸時代の各藩では、藩の支出は「藩主の生活費」と「武士達の給料、行政費」が区別されていませんでした。 紀州藩は、藩主に渡す分を明確に区別し、藩から月給を貰う様な形態にしたのです。そして、今で言う『役人』が藩の行政を行う様に変更しました。従来の世襲では無く、役人の人材登用にも力を入れました。

(教訓) 紀州藩の改革は、有能で信頼のおける官僚に全権を委任したら、大きな事が出来る事を証明しています。

(余談) 私の故郷は紀州です。平地は少ないですが、魚介類が豊富な海が有り、雨が沢山降るので開墾すれば畑が出来、植林に適した山林が多いいなど、食べるだけだと何とかなります。紀州藩の武士達は家禄を90%もカットされましたが、飢える事無く何とか耐えられたのではと想像します。

 国が大混乱に陥って、就職口が殆ど無くなったとします。 会社が貴方に、「会社が大変な状況になったので、明日から出社しなくて良いが、給料は90%カットする。その代わり、自由にアルバイトし良い。」と言ったとします。紀州藩の武士達は、反乱を起こすことなく、藩命に従ったのです。 私の父は職業軍人でした、終戦の翌年に家族7人で紀州の故郷に帰って、山林と木材の商売をし/山を開墾して何とか生き延びました。

(余談 :紀州藩) 御存じの様に紀州藩は御三家の一つです。石高は55万5千石で、紀伊一国37万石と伊勢の一部17万9千石を支配しました。その一部を付家老の安藤家(紀伊田辺藩)(3万8千石)と水野家(紀伊新宮藩)(3万5千石)が治めました。

【明治維新の富国強兵政策】
 明治維新では、何故?スンナリと封建体制から統一国家に移行出来たのでしょうか?! 幕府と各藩の武士達が『文官僚』と『武官僚』を兼ねていたからだと私は思います。

 幕末の志士達は「尊王攘夷」と言う思想で立ち上がった分けですが、戊辰戦争中に主だった志士達が、「攘夷」なんてトンデモナイ事だと気付いたのだと想像します。 武士には間違いを改める柔軟性が有った様に思います。

 戊辰戦争に勝利した薩長土肥の上級武士達は、(攘夷思想とは真逆に)金を工面して外国人の顧問、教育者、技術者を沢山雇入れて、種々の分野で強力に近代化を推進しました。

 維新後に活躍した為政者(大臣等)と官僚達は高等教育を受けていませんが、以下に示す様に、矢継ぎ早に改革/近代化を進めました。現在の為政者と官僚達はほぼ全員が高等教育を受けていますが❕❕

★ 戊辰戦争 :1868年(明治元年)
★ 廃藩置県 :1871年(明治4年)
★ 東京砲兵工廠 :1871年(明治4年)・・・小銃の製造
★ 貨幣を発行 :1871年(明治4年)
★ 紙幣を発行 :1872年(明治5年)・・・明治通宝(政府が発行した紙幣)
★ 富岡製糸場 :1872年(明治5年)
★ 新橋―横浜間の鉄道 :1872年(明治5年)
★ 横浜にガス会社 :1872年(明治5年)・・・日本初のガス灯が灯りました。
★ 国立銀行 :1873年(明治6年)・・・紙幣発行・・・民営の銀行
★ 大阪―神戸間の鉄道 :1874年(明治7年)
★ 有恒社 :1874年(明治7年)・・・日本で初めて洋紙の生産を行った。
★ 東京帝国大学 :1877年(明治10年)
★ 日本銀行 :1882年(明治15年)・・・紙幣発行
★ 釜石鉱山田中製鉄所 :1887年(明治20年)・・・民営企業
★ 琵琶湖疏水 :1890年(明治23年)・・・琵琶湖の水を京都へ
★ 蹴上(けあげ)発電所 :1891年(明治24年)・・・日本最初の水力発電所

(余談 :石炭) 石炭の採掘は江戸時代から行われて来ました。18世紀の初頭に瀬戸内地方の製塩業者が安価な石炭を使う様になって、石炭の採掘が盛んになったと言われています。長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーと佐賀藩が、1968年に高島炭坑の開発に着手しました。明治時代になって石炭産業は国家として重要になり→→花形産業になりました。

 三井、三菱、住友などの財閥系石炭会社には、東大、九大、北大などから優秀な技術者が集まりました。然し、戦後は斜陽産業になってしまいました。1980年頃・私は、東京の旧丸ビルに本社の有った三菱石炭鉱業(株)を数回訪問して高価な設備を買って頂きました。打ち合わせに数人出られましたが、皆さん旧帝大卒の定年間近の紳士でした。この時は「将来、私も紳士になろう!」と考えたのですが、粗雑な私には無理でした。

【旧態依然とした清朝】
 幕末から明治時代の清朝は、『反面教師』として参考になります。明治になって、日本は国を挙げて近代化/富国強兵政策を進めましたが、清国は旧態依然でした。

 先週・書いた様に、1840年~42年に発生したアヘン戦争では、イギリス軍は10倍以上の清国軍を相手に戦いました。旧式な武器しか持っていなかった清国軍は”こてんぱん”にやられました。 それでも清国は、日本ほどには近代化を行いませんでした。

 アヘン戦争から53年後の1895年(明治28年)に日本と清国が戦いました(日清戦争)。 兵員数では清国の方が約3倍も多かったのですが、海軍力が日本の方が優勢で、日本の陸軍は良く訓練されていた事と近代的な銃と重火器を整備していたので、日本が勝てたのだと私は思います。

・・・ アヘン戦争(1840年~42年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ イギリス軍≒1.9万人(イギリス陸軍≒0.5万人、インド陸軍≒0.7万人、イギリス海軍≒0.7万人)
★ 清国軍≒20万人
● イギリス軍の死傷者=520人(内戦死=69人)
● 清国軍の死傷者≒1.8万人~2万人

・・・ 日清戦争(1895年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ 日本軍≒24万人
★ 清国軍≒63万人
● 日本軍の戦傷病≒0.38万人(内戦死≒1,132人)・・・病死者≒1.2万人
● 清国軍の死傷者≒3.5万人

【アフガニスタンの教訓】
 昨年(2021年)アメリカ軍が撤退したあと、タリバンがアフガニスタンを統治する事になりました。然し、タリバンはゲリラ部隊で、高等教育を受けたメンバーが少なく、文官の経験者は非常に少ないと思われます。更に、タリバン兵には文字の読めない人もいる様です。 「こんな状態で、タリバンは何年掛けて国を運営出来る様になるのか?」私は注目しています。

 国を運営する為には『文官僚』と『武官僚』の両方が必要不可欠です。そして、軍隊は文民統制も不可欠です。旧民主党政権では、『文官僚』と『武官僚』の協力が十分得られ無かったと私は思いました。立憲民主党が国民の支持を拡大する為には、党員達が勉強して官僚と一緒にヤッテイケル事を国民に示す必要が有ります。

 立憲民主党の党首が泉健太氏に代わりましたが、現在の立憲民主党達ではハトポッポの様に詳細な検討もせず/根回もしないで、無責任に「せめて県外」などと発言しそうに私には見えます。

【ミャンマーの教訓】
 官僚を使った国家の統治について考える場合、現在のミャンマーは『反面教師』として貴重です。 国家に金がないから、軍隊に「食糧や金は自分達で何とか工面しろ」と命じたとします。町工場を作ったり、商店を経営して成功すると、大きな工場や大きな店を運営し、外国企業がミャンマーに進出したいと言って来たら「軍と合弁にしろ!」、「賄賂を出せ!」・・・と要求する様になります。

 国家から軍が金を貰わなくてもヤッテイケル様になると、軍が有利な様に憲法を改悪しました。 昨年になって、軍が国家権力を掌握すると、ミャンマーの市民は大変な事になっている事に気付き、反政府運動を始めました。 既に、軍の後ろには中国が付いています。

 いくら国に金が無くても、軍隊に金を稼がせては駄目です。 軍が憲法を改悪しようとした時に、反軍運動を起こすべきでした!  今になっては反軍運動をするのは、「別れる、切れるは芸者の時に言う言葉」の様なものです。 国民の多くが政治に無関心だったら、日本もミャンマーの様になってしまいます。

官僚について (その1)

2022-01-08 09:06:03 | 政治
【はじめに】
 為政者(大臣等)と官僚の役割分担を理解出来ていない政治家がいます。私の独断と偏見ですが、麻生太郎氏が典型的な例だと思います。 麻生氏が財務大臣だった時、主客転倒もはなはだしい『官僚の代弁者』の様に見えました。

 「日本を○○にしたい」、「その為には、××法を△△に変えたい」と言う様な考えを持った政治家が大臣になるべきです。 大臣になったら官僚に考え方を示して、官僚に問題点を抽出して貰い/細部を検討して貰って、法律の制定や改正に着手すべきです。

 大臣に就任したら、それまで考えていなかった問題点について決断が要求されるケースが多々有ると思われます。そんな場合は、その分野に詳しい方や、官僚の意見を聞いて自分なりの判断をしなければなりません。

 野党合同ヒヤリングを見ていると、野党議員が官僚を吊るし上げるシーンが多々有りました。政治家と官僚の関係を全く理解していない議員が多いいのですね! 国を運営する為には、官僚は重要です。現在の日本の官僚制度がどの様にして出来たのか?どんな問題が有るのか?等について、何回かに分けて投稿する事にしました。

【豆知識 :官僚】
 昔は『役人』と呼んでいました。 『官僚』と『官吏(かんり)』は同じ意味です。『官』は上級の役人のことで、『僚』と『吏』は下級役人です。

 小さな組織を運営するケースでは、ボス(A氏)がメンバー(社員)を直接指示して働かせる事が出来ます。 組織(国)が大きくなると、A氏は直属の部下(B1氏、B2氏、B3氏・・・)に基本的方針を伝えます。 B1氏は部下(B11氏、B12氏、B13氏・・・)に具体的な命令を出して、彼らを動かします。

 初期の国家は、ボスも直属の部下も世襲の貴族で、貴族が役人の上層部を独占しました。 国家が更に大きくなり、近隣の国と争う様になると、ボンクラの貴族の役人は役に立たなくなってきます。

 昔の中国では、役人を筆記試験『科挙(かきょ)』で選抜しました。日本では平安時代に科挙制度が導入されましたが、上級の役人は世襲の貴族が独占しました。 換言すると、日本の科挙制度は『僚』や『吏』に相当する役人(下級役人)を登用する制度だったのです。

 中国や朝鮮半島では、科挙を行政を担当する『文官』と軍事を担当する『武官』に分けて行う様になりました。 日本では、武官の採用試験は行われず、世襲の武士集団が誕生し、人数が増加し、力が増大してきましたした。→→鎌倉幕府が誕生し、→→封建制度の国になって行ったのです。

(補足 :封建制度) 王(将軍)の下に諸侯(藩主)がいて、国土を分割して諸侯に与え、与えられたそれぞれの土地を治めさせる制度を『封建制度』と呼びます。鎌倉時代から江戸時代まで、日本は封建制度の国でした。 昔の中国やヨーロッパにも有った制度です。 日本独自な点は、政治の実権を持たない『天皇』が、形式的に将軍の上にいた事です。

(私の造語 :文官僚と武官僚) 官僚のイメージは「省庁に勤める人」で、地方公共団体に務める人は「役人」だと思います。そんな役人の事を『文官僚』、自衛官を『武官僚』と呼んで区別する事にします。

【江戸時代の統治体制と武士】
 『将軍』は、天皇から軍(武士集団)の司令官に与えられた称号です。平安時代から(8世紀から)武士集団が徐々に力を付けて、朝廷の力は衰退してきました。 江戸時代には、朝廷は飾り物の様な存在になり、徳川家は「天皇から唯一認められた武士の統領であるから、諸侯は徳川家に従え」と言う形にして国を治めました。

 徳川幕府の老中は、各藩の家老に相当します。時々、老中の上に大老職を設けました。大老では井伊直弼が有名ですが、井伊家(6人)、酒井家(4人)、土井家(1人)、堀田家(1人)から12人が就任しています。

 将軍と大老や老中の取次役が『側用人』です。江戸時代初期には御近習出頭役と呼ばれ、1680年から側用人制度が始まった様です。複数いた事も有りますが、側用人を置かなかった時代も有ります。大きな権限を有する、重要な職でしたから、高禄の旗本の中から優秀な人材を登用した様です。田沼意次(1719年~88年)は旗本でしたが、側用人になり、大出世して老中・大名になりました。

 徳川幕府には(下に列記する様に)種々の役職が有りました。初期の頃は、役職に就いても給料は上がりませんでしたが、有能な人材を登用する為に、役職手当(役料、足高、役金)を支給する様になりました。 役職によって役高を決めました。勘定奉行の役高は3,000石でしたが、3,000石以上の旗本が就任した時は給料は上がりませんが、2,000石の旗本だと1,000石アップする制度でした。

 皆さん良くご存じの大岡忠相(1677年~1752年)は1,920石の旗本でした。1702年に書院番→→1708年に目付→→1712年に遠国奉行の一つ山田奉行→→1716年に普請奉行→→1717年に江戸町奉行(南町奉行)→→1725年に加増され3,920石→→1736年に寺社奉行(加増され5,920石)に就任しました。

 寺社奉行は譜代大名が就任する事になっていたので、足高分として4,080石加増されて一万石になりました。そして、1748年に一万石の大名(三河国西大平藩)になりました。そして、西大平藩は明治維新まで存続しました。

 徳川幕府には、旗本が5,200名、御家人が17,400名いて、さらに陪臣(旗本や御家人の家来)がいました。幕末の大名の数は、281藩でした。幕末の人口は3,200万人ほどで、武士は220万人ほどだった様です。

① 天皇と貴族
② 将軍
③ (大老)、老中・・・大藩の譜代大名が就任しました。
④ 若年寄 :旗本と御家人の支配・・・小藩の譜代大名が就任しました。
⑤ 側用人 :将軍と老中などの取次役・・・高禄の旗本から登用されました。
⑥ 郡方奉行の下に郡代(支配地 10万石以上)と代官(5~10万石)・・・直轄地の支配
⑦ 大目付 :大名や朝廷などの監視・・・高禄の旗本が就任した。
⑧ 目付+徒目付+小人目付 :旗本と御家人の監視、役人の監視/監督
⑨ 奉行
 ★ 寺社奉行 :寺と神社を支配するのが役目で、譜代大名が就任しました。
 ★ 勘定奉行 :幕府の財政と直轄地の支配が担当でしたが、幕末には外交にも関与しました。
 ★ 道中奉行 :五街道の整備/管理、宿場の取り締まりなどなど。
 ★ 町奉行 :単に町奉行と言うのは、江戸に有った北町奉行と南北町奉行を指します。 大阪と京都にも町奉行所がそれぞれ二カ所設けられていました。土地の名前を付けて大阪町奉行(東の御番所、西の御番所)、京都町奉行(東御役所、西御役所)と呼ばれていました。
 ★ 遠国奉行 :重要な直轄地に置かれた。 幕末の遠国奉行には京都町奉行、大阪町奉行、駿府町奉行、長崎奉行、伏見奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、新潟奉行、箱館奉行・神奈川奉行、兵庫奉行が有りました。
 ★ 作事奉行 :建築や修理が仕事。
 ★ 普請奉行 :上水の管理や土木工事が仕事。
 ★ 小普請奉行 :江戸城、寛永寺、増上寺などの建築/管理が仕事。
 ★ 吹上添奉行 :吹上御苑の管理
 ★ 寄場奉行 :石川島の人足寄場を支配するのが仕事。
 ★ 書物奉行 :江戸城内に有った御文庫(紅葉山文庫)の管理と図書の収集などが仕事。
 ★ 腰物奉行 :将軍家の刀などを管理するのが仕事で、罪人を切って試し切りもした。

【江戸時代の役人】
 勿論・武士は世襲で、何も問題を起こさなければ石高も相続出来ました。こんな体制で江戸幕府は約270年間程も存続出来ました。幕府も各藩も、❶ボンクラの武士を重職に任命しなかった、❷外敵の侵入が無かった、➌経済が発展した事で幕藩体制を長く続けられたのだと思います。

 江戸時代に例外的な採用試験が有りました。勘定奉行が支配した勘定所は財政と民政を担当し、重要な職務になって来て、定員を増やしました。勘定所ではボンクラは勤まりません。それで、『筆算吟味』と呼ばれる採用試験をするようになりました。

 「素読吟味」と「学問吟味」と言う試験も有りましたが、役職への登用試験では有りませんでした。江戸時代の官僚は家格(かかく)によって採用されましたが、例外は側用人と勘定方でした。

 幕末には新しい考え方を持った人材が必要になってきました。その典型が勝海舟です。勝家は旗本でしたが、禄高は41石しか有りませんでした。勝海舟の活躍と立身出世の話は、皆さん良くご存じだと思うので省略します。

(豆知識 :旗本と御家人) 一般に旗本の方が御家人よりも高禄ですが、勝家の様に僅か41石しか貰っていない貧乏な旗本もいました。旗本は将軍に拝謁する(会う)事が出来ましたが、旗本は出来ませんでした。

【幕末の幕府の軍事改革】
 イギリス軍(1.9万人)と清国軍(20万人)が戦って、イギリス軍が勝利したと言う情報が日本に伝わって来ました。・・・アヘン戦争

 幕府は海外の情報を入手していたので、欧米諸国の脅威に対処する為に、諸藩に先立って軍事改革に着手しました。1845年に海軍を創設して、49年に和洋折衷の小型の『蒼隼丸(そうしゅんまる)』を作りました。54年には洋式の大型軍艦『鳳凰丸(ほうおうまる)』が建造されました。そして、オランダから蒸気船の咸臨丸(かんりんまる)を購入しました。その後も多数の軍艦と輸送船を建造/購入しました。

 ライフル銃と鉄製の大砲を装備した陸軍を創設しました。大政奉還した年(1867年)の幕府陸軍の兵員数は27,000人ほども有ったので、薩長が連合軍を組織していても、幕府陸軍には勝てなかったと私は思います。

★ アヘン戦争 :1840年~42年・・・イギリスと清国の戦争
★ 幕府海軍 :1845年~69年
★ 黒船来航 :1854年
★ 長崎海軍伝習所 :1855年~59年・・・海軍士官養成機関
★ 咸臨丸(かんりんまる) :1857年・・・オランダ製
★ 関口製造所 :1862年・・・銃の製造(ライフル銃)、後に鉄製の大砲も製造した。
★ 幕府陸軍 :1862年~69年
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)
★ 下関戦争 :1863年、64年・・・長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカと戦った。
★ 滝野川反射炉 :1864年・・・大砲用の鉄を製造
★ 神戸海軍伝習所 :1864年~65年・・・海軍士官養成機関
★ 第一次長州征討 :1864年
★ 第二次長州征討 :1866年

【李氏朝鮮と江戸幕府の比較】
 李氏朝鮮は、文官も武官も筆記試験(科挙)で選びました。江戸時代の日本には科挙制度は無く、役人は世襲の武士でした。単純に考えると統一国家だった李氏朝鮮の方が国家が繁栄しそうに思われますが、現実は真逆でした。 頭脳明晰な人間を上級役人にするだけでは、国家は発展しません。官僚の上に立つ政治家の政策が、国家の繁栄に大きく寄与するのです。

 現在の日本にとって、李氏朝鮮は『反面教師』として重要だと考えます。優秀で志の有る人が大臣になって、不正を行わない官僚の協力を得て国を統治する事が肝要だと思います。

 李氏朝鮮は、1392年の建国以来500年以上に亘って朝鮮半島を支配しましたが、経済は発展せず、停滞してしまいました。徳川幕府は高額の貨幣を発行したりして、全国的に商売が出来る体制を構築したので、経済が発展しました。 巨額の蓄財をした商人が誕生して、明治維新を行う『金』が捻出出来たのです。 李氏朝鮮は銭貨さえ発行せず、物納/物々交換を続けたので経済は停滞してしまったのです。(李氏朝鮮の都市部では中国や日本の銭貨が流通していた様です。)

 李氏朝鮮は統一国家でしたが、江戸時代の日本は封建制度の国でした。江戸幕府が直接統治していたのは全国の僅かな地域でした。それでも、全国で流通する高額貨幣を発行した効果は非常に大きかったのです。 例えば、全国に宿場町が有りましたが、高額貨幣が無かったら旅行が出来ませんから、宿場町は発展出来なかったのです。銭貨だけだったら、ドンナ事になるか?想像して見て下さい。1両(≒13万円)は4,000文(=4貫文≒15kg)だったのです。 10両(≒130万円)持って旅に出る為には、銭貨だと150kgになりますから、二、三頭の馬を連れて行く必要が有ります。

(注記 :1両の質量) 江戸時代に小判は10種類発行されました。1両の質量は4.76匁(=17.85g)~0.88匁(3.3g)です。 10両でも懐(ふところ)に入れられたのです。

 加賀藩が1808年の参勤交代で必要だった費用は片道で5,500両だったと言う記録が有ります。当時流通していたのは『元文小判』で、5,500両は72kgほどですから、馬1~2頭で運べます。5,500両は銭貨だと83トンほどになるので、馬で運ぶ為には1,500頭ほど必要です。

(余談 :恐怖政治の威力) 李氏朝鮮時代、国民は貧しい生活を送り続けましたが、(現在の北朝鮮の様な)連座制による恐怖政治で、500年間も何とか国を統治したのです。 現在の北朝鮮は77年間も連座制による恐怖政治を続けています。北朝鮮の民衆は貧しい生活を余儀なくされていますが、李氏朝鮮時代と同じほど貧しいのだと私には思えます。

 髙英起(コウ・ヨンギ)氏は連日の様に北朝鮮の惨状を報じています。話半分だとしても、志の有る将軍がクーデターを起こすか、民衆が蜂起しそうに思いますが、中国共産党が崩壊して→→韓国が手を差し伸ばさない限り、金王朝は存続すると私は見ています。連座制による恐怖政治の威力を甘く見てはいけません!

(余談 :韓国の時代劇) 妻の友人に韓国の時代劇に填まってしまった方がいます。李氏朝鮮の時代は、庶民は非常に貧しい生活をしており、両班(支配階級)が庶民に略奪を繰り返し、連座制による恐怖政治をしていました。韓国の人達は、宮廷の外での悲惨な庶民の生活を受け入れる事が出来ない様です。その為に、庶民の生活を映像化する時は、現実とは掛離れた物語にする必要が有ります。 (国民の多くが『小中華思想』を持っている韓国では、李氏朝鮮時代の庶民の悲惨な状態を学校で学ぶ事が出来ません。)

★ 統治体制 :日本は封建制度でしたが、李氏朝鮮は統一国家でした。

★ 鎖国政策 :両国とも鎖国政策を取りましたが、日本はオランダ。中国とは限定的な貿易をしました。李氏朝鮮は中国と日本以外には厳格な鎖国政策を守りました。 江戸時代後半になると、薩摩藩などは密貿易をして、ある程度西洋文明(科学/技術)を知る事が出来ました。

★ 独立国家? :日本は独立国家でした。李氏朝鮮は明朝の支援を受けて建国し、清朝になっても属国の状態が続きました。

★ 貨幣経済 :徳川幕府は、重さを一々測らなくてよい高額の硬貨(小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金、一分銀、一朱銀)を発行しました。(銭貨も発行しました。) 高麗の時代には一時期・銭貨を発行しましたが、旨く流通しませんでした。李氏朝鮮の時代には銭貨も発行せず、物納/物々交換の経済を続けたのです。

★ 役人 :李氏朝鮮では科挙で文官と武官を採用しました。 実際の行政を行うには役に立たない儒学の知識を問う難問の試験だった様です。 江戸時代は幕府と各藩には(原則として)文官僚の登用試験は無く、世襲制の武士が行政を担当しました。

★ 治安の維持 :李氏朝鮮では『連座制による恐怖政治』で国民の不満を抑え付けました。両班が庶民を略奪する事件が度々発生した様です。両班の犯罪は『義禁府』が担当する事になっていましたが、両班が庶民から金や物を奪い取る行為は取り締まらなかった様です。貨幣経済が未発達のうえに、両班が略奪したので、豪商が育たなかったのです!

★ 身分制度 :大別すると、厳格な4つの身分があり、1894年まで維持されました。人口の大半は農民でした。 ❶両班(官僚になれる身分)、❷中人(下級役人になれる身分)、➌常人(農・工・商)、➍賎人(農・工・商=公賎と私賎) 賎人は一種の奴隷で、販売される事も有りました。 賎人の最下層を『白丁』と言って、人間として認められていませんでした。僧侶、巫俗(ふぞく=シャーマン)、芸人、娼婦も賎人に含まれていました。

生き甲斐と夢

2022-01-01 11:07:32 | 人生
【はじめに】
 新年おめでとうございます!

 人間には生き甲斐と夢が必要だと、最近・熟(つくづく)思います。 去年、大阪のクリニック放火で25人も亡くなられました。年末に犯人が亡くなったので、真相は分からなくなってしまいました。「犯人には話し相手も夢も希望も無かったのでは?」と私は想像します。 今回は、近所に住む私と同年配の男性と、私の生き甲斐と夢について投稿します。

【TM氏の生き甲斐と夢】
 「節税が生き甲斐だ!」と言ったTM氏の話です。 「TM氏の人生は悲しくて、可哀そうだ!」と思えますが、元気で頑張って生きています。

 私の家から私鉄の最寄駅まで徒歩で7分ほどです。 駅の近くに、子供が同級生だった私と同年配のTM氏の家が有ります。 戦後直ぐの頃は、駅の周辺には田圃が沢山残っていたそうです。多分・その多くはTM家が所有していたと思われますが、先代が大半を売ったのか?私が家を建てた時(1985年)は商店街になっていました。

 35年程前にTM氏と顔見知りになりましたが、その数年後に奥さんが『くも膜下出血』になり、TM氏は勤めを辞めて、二人の子供の世話と、奥さんの介護を始めました。 奥さんは介添え無しでは歩けなくなり、散歩させているTM氏と時々すれ違いました。 下のお子さんが小学年だったので、TM氏は料理・洗濯など家事一切されていた様です。 私は、当時「感心な男だ!」と思っていました。

 TM氏は、親の遺産だったと思われる広い駐車場、商店街に複数の貸家、10軒程の古い長屋を所有していました。お金が沢山有った様で、駐車場の隅に大きな賃貸マンションを建てて、一番日当たりの悪い1階をTM氏の住まいにしました。 現在は、医者になった息子と、45歳程になる独身の娘に、それぞれ部屋を与えています。 

 子供の弁当を作ったりした様ですが、何故か親子関係はうまくいかない様で、一緒に食事することは無い様です。十年ほど前に息子さんが台湾出身の女性と結婚されて、孫が出来た時、TM氏は喜んでいました。そろそろ小学校入学か?と思っていたら、コロナ感染が始まる直前に、奥さんが孫を連れて台湾に里帰りしたままだそうです。TM氏は、コロナが収まったら孫が帰ってくると思っているようですが、近所の奥さん達は「台湾に逃げたんだ!」と言っています。

 TM氏の奥さんは、その後・何回も『くも膜下出血』になりましたが、生きています。数年前から植物人間状態になって、入院しています。TM氏の話では、「植物人間になっても、同じ病院には3ヶ月しか置いてくれない」そうです。3ヶ月毎に病院を変わっています。「どんな手を使ったら、そんな事が出来るのか?」聞いても教えてくれません。

 TM氏の趣味の一つは花を育てる事です。少しでも顔見知りになると、花の苗をくれます。貰ったら最後で、数日に一度やってきて、「水やりが足りない」、「肥料をやれ!」・・・と煩く言います。TM氏のアドバイス通りにすると、見事な菊の鉢植えが出来ます。妻が一度貰ったのですが、こちらの都合を無視して頻繁に来るので、音を上げてしまいました。

 TM氏の幼馴染の女性が近所に住んでいます。(彼女は、妻の友達の友達です。) 彼女は若くして結婚され、子供にも恵まれましたが、旦那さんが若くして亡くなられ、以来一人で暮らしています。子供の頃からTM氏は彼女が好きだった様で、今でも花の苗を運んだり、口実を作っては彼女の家を訪ねています。 家に入れてもらった事は一度も無い様です。

 TM氏は、もう70年間ほど彼女に御節介焼を続けている事になります。彼女の家の方に歩いていくTM氏を見たら、少し可哀そうに思えます。 私は女性を口説く手練手管には疎いのですが、「花より団子」ですよね! 叶わぬ恋を追い求めるのが、TM氏の生き甲斐の一つになっているのかも知れません。

 二、三年ほど前から、妻が友達と立ち話しているとTM氏が寄って来て、節税の方法を話す様になりました。妻の友達は皆さん年金生活をしていますから、節税には興味が有りません。 去年「節税で貯めた金で空き地を買う」と言って、その後、ほんとに買いました。 「あの土地には5階建てのビルを建てて、1階の一部は息子の在宅医療の事務所にして、残りは賃貸マンションにする」と嬉しそうです。近々・着工するそうです。

 後期高齢者になっても節税で金を貯めて、何かに投資すると言うTM氏の生き方は、私には出来ませんが、立派だと思います。

【私の生き甲斐】
 私が元気でいるのは、生き甲斐が有るからだと思っています。

① 第一の生き甲斐 :私には女の子の孫が二人います。嫁さん達が時々写メールしてくれます。最近はマスクを付けているのが、残念ですが、それでも可愛いです。

② 頼りにされています :義理の兄の奥さん(義姉)は痴呆症で、今では5分前の記憶が有りません。 以前は義姉の話し相手をする為に、毎月一度は義兄の家に行っていたのですが、最近は義兄の話し相手が目的の様になっています。待っていてくれる人がいるのは、生き甲斐になります。

③ 花咲か爺さん :我が家の狭い庭に、牡丹、芍薬(しゃくやく)、金木犀、椿、木瓜(ぼけ)、蠟梅(ろうばい)など花の咲く植物を育てています。花が咲くと散歩している方が、足を止めて見てくれます。 褒めてくれる方には、切って差し上げています。 金木犀の剪定は一般に枝先を切り揃えますが、枝先に花が咲くので、私は木が大きくならない様に配慮しながら、花を咲かせる枝を残しています。そうしたら、見事に花が咲きます。

 南高梅と茗荷(みょうが)も育てています。近年、南高梅は40kgほど、茗荷は300個ほど収穫して、妻が隣近所に配っています。

④ 趣味 :現役時代、私は『仕事一筋人間』と誤解されて来ましたが、実は沢山趣味が有ります。 「芸は身を助く」と言いますが、「趣味も身を助く」だと思います。 趣味の一つが、SACDでクラシック音楽を聞く事です。大晦日には去年入手した「エルネスト・アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団」のアレクサンドル・ボロディンを楽しみました。「今日は、誰の指揮する、どの曲を聴くか?」と考えるのも楽しいです。

⑤ ブログ :ブログを始めて、もう直ぐ4年になります。面白い内容では無いので読んでくれる方は少ないですが、生き甲斐になっています。 妻は私より2.5歳ほど若いのですが、最近・めっきり記憶力が低下して来ました。 私の記憶力が衰えないのは、毎週・ブログの原稿を作成しているお陰だと思います。 (妻と子供達には、ブログをやっている事は話していません。何をやっているのか?不思議に思っている様です。)

【私の夢 :自動運転自動車】
 私は車の運転は出来ないのですが、妻は免許を持っているので、10年以上前にホンダのヒィットを買ってプレゼントしました。二、三年前に「2025年頃にレベル4の自動運転自動車が販売される」と報道されたので、「それまで今の車で我慢してくれ」と妻に言っています。

 私は、「レベル4の自動車を入手して年に一度は故郷に帰りたい!」と言う細やか(ささやか)な夢を持っています。レベル4の車は、発売開始の頃は高価で手が出なくても、レンタカーが借りられるかも知れないです。 とにかく、妻には免許証は返却しない様に言っています。

 レベル3の車は市販されていますが、同クラスのレベル2の車と比較すると価格が2倍以上もするので手が出ません。レベル4の車は既に公道で実証実験を開始しています。2025年にはレベル4の車は市販されると予想します。 (私にとっての問題は価格です。)

 昔は『鉄は国家なり!』でしたが、近年は『自動車は国家なり!』になっています。この状態を維持する為には、トヨタを始めとしたメーカーに頑張ってもらう必要が有りますが、車の自動化には道路交通法等々の改正が不可欠です。メーカーの開発に先行して法律の改正が必要です。 2020年の法律改正で、レベル3の車の走行はある程度出来る様になっています。

 日本政府の現在のスタンスは、「レベル3やレベル4の車の需要がどの程度有るか?」検討中の様です。 私が総理大臣だったら、(悠長な事を言わないで)日本をレベル4までの自動化の最先端国にします。❶今年(2022年)中にレベル3とレベル4の定義を明確にし、関連法規を改正します。❷高速道路だけで無く、一般道も、レベル4の車が走れる道路と、問題の有る道路を区別します。➌問題がある道路の改修計画を立てます。➍2023年度から改修工事を始めます。❺2025年から主要道路でレベル4(高度運転自動化)車の走行を可能にします。

 高齢化した過疎地では自家用車を廃車した家が増えて来ています。レベル4の車が実現したら、老人でも運転(?)出来ますから、過疎地でも老人が快適に生活出来る様になると思われます。

・・・ 米国自動車技術者協会(SAE)の定義 ・・・
レベル5 :完全運転自動化  (運転者=システム)
レベル4 :高度運転自動化  (運転者=システム);ブレインオフ
レベル3 :条件付運転自動化  (運転者=システム);アイズオフ
レベル2 :部分運転自動化  (運転者=人)  ;ハンズオフ
レベル1 :運転支援      (運転者=人)
レベル0 :運転自動化なし   (運転者=人)

(余談 :自動化とEV化) 自動車の世界では自動化だけで無く、電気自動車(EV)化への動きが有ります。欧米諸国は日本の自動車メーカーを蹴落とす為にEV化を大声で叫び始めました。中国は北京などの大都市のスモッグ対策などの為にEV化を進めたい考えの様です。 日本は、EV化にも自動化にも対応出来る技術を持っています。

 日本に必要なのは、政府が柔軟な考え方に立って、早急に法律を改正し、レベル4の車が走れる道路網を構築する事です。レベル4のEV車の時代になると、社会は大きく変化すると予想しています。 そんな社会について、私は考察中です。 もう少し考えが纏まったら、投稿します。