これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

イヌ(犬)の話し (その2)

2020-05-30 06:28:00 | 動物
 今回もイヌの話しです。「ストレスが溜まる人がペットのイヌやネコを飼うと、十年程長生きする」と言う記事を読んだ事が有ります。現在社会では、イヌの本来の役割は殆ど無くなってしまいましたが、「イヌは今でも、人間にとって重要な友達なんだ!」と私は思います。

【猟犬を育てる名人】
 通学路に面した家に猟犬を育てる50歳代の女性(Aさん)がいました。庭の囲いの中で、毎年・猟犬を一匹育てていました。息子さんが猟をしていて、その猟犬(一匹)は放し飼いにしていました。幾ら下手な猟師でも、毎年・猟犬を死なせる事は有りません。息子さんが必要で無い年は、育てたイヌを売っていました。 Aさんが育てた猟犬は「優秀だ」と評判で、町からわざわざ買いに来て、ビックリする程高い値段で買って行ったそうです。

 子イヌが生まれた後で大雨が降って川が濁流になると、Aさんが道路の見える縁側に座って子供達の帰るのを待っていました。男の子が通ると、「子イヌを川に捨ててくれ」と言うのです。私も頼まれた事があります。イヌは一度に数匹生みますが、猟犬に育てる雄イヌを一匹だけ残して、他は処分していました。Aさんは元気でしたから自分で、川に投げ込む事は出来ました。 多分・Aさんはイヌ好きだったので、忍びなかったのでしょう!

【S叔父のイヌ】
 母は男四人、女四人兄弟の一番上でした。長男の叔父を”S叔父”としておきます。S叔父は開業医で、広い庭の家に住んでいました。 顔の平たい 雌イヌ(短頭種)を庭で放し飼いにしていました。凄く可愛いイヌで、図鑑で調べたら『チベタンスパニエル』に一番近かった様に思います。

 毎年・二、三回、父か母に連れられて、一泊二日で遊びに行きました。行くと叔父も叔母も凄く喜んでくれましたが、イヌは大歓迎してくれました。 「イヌを飼いたい」と両親にお願いしていたのですが、何時も母が大反対しました。S叔父と母をイヌの所に連れていって、「子イヌが出来たら下さい」とお願いして見たのです。母は渋々認めてくれ、S叔父も約束してくれました。

 S叔父の犬は血統書付きで、毎年・血統書付きのイヌと掛け合わせていました。私は子イヌの誕生を待ちに待っていたのですが、 S叔父から「今年も、子イヌを全て食べてしまった!」と電話が有りました。次の年も、その次の年も「食べてしまった!」のです。

 敷地が四、五百坪有る庭で放し飼いにしいましたが、誰もイヌを散歩に連れて行かず、私以外は誰もイヌと遊んでやらず、食べ物は女中さんが義務で与えていた様でしたから、「イヌはストレスが溜まってしまい、自分の子供を食べてしまった?のではないか」と私は思いました。 (このイヌは多分、寂しい”犬生”だったのです!)

(余談) S叔父の一番末の娘は、私より一歳下でした。小学1年くらいまでは、私とよく遊んだのですが、段々・相手にしてくれなくなりました。彼女は家事の手伝いを一切しないで育ったので、「嫁に行けるか?」私は心配していました。 超裕福な旧家の跡取り息子が一目ぼれしてくれたので、若くして結婚しました。 「舅/姑に虐められているのでは?」と心配していたのですが、数年前に連絡したら、舅/姑を看取って、今は彼女の天下になっている様で、ホットしました。

【Y叔父のイヌ】
 母の一番下の弟(Y叔父)は、猪と鹿の狩猟では県下一二を争う名人でした。毎年20頭、多いい年には40頭ほども仕留めた事が有ります。私の実家から、Y叔父の家(母の実家)までは、山道で10kmほども有りましたが、Y叔父は年に二、三回・肉がタップリ付いた猪の足を一本持って来て、軒先にぶら下げてくれました。家の近くの畑で母は野良仕事していたと思いますが、Y叔父はシャイな性格だったので、何時も誰とも会わずに帰ってしまいました。

 Y叔父は子供の頃に右足を骨折して、藪医者が90度外向きに接合しました。左右の足を、『T字』を横にした様に接合したのです。『禍福は糾える縄の如し』で、その為にY叔父は徴兵検査が不合格になり、兵役を免れました。(上の兄は、戦死しました。)

 Y叔父の猟銃は凄くシンプル(旧式)で軽量でした。秋になると銃を分解して、入念に防錆油を拭っていました。「油の臭いに猪や鹿が敏感だから」と言っていました。 銃弾は前稿に書いたH氏と同様に、自分で作りました。(私は手伝った事が有ります。)

 母の弟(次男=M叔父)は高校の教頭で、私が高校時代に間借りしていた家の近くに住んでいました。月に一回は日曜日の早朝に大形のバイクで、「お祖母ちゃんが会いたがっている」と言って、迎えに来ました。 Y叔父が家を継いで祖母と同居していました。 私は小一時間ほど祖母の話し相手をすると、Y叔父の仕事の手伝いをしました。(M叔父は遺産分けで貰った畑で、梅の手入れや野菜を育てていました。)

 猟期になると、Y叔父は私を猟に連れて行きました。先ず、放し飼いにしている猟犬に紐を付けました。それで、猟犬は猟に出掛ける事を悟り、テンションが上がりました。紐を付けるのは熊対策なんです。猟犬は熊にも勇敢に立ち向かいますが、熊の手の一撃を受けると回復不可能な重症を負ってしまいます。 近くに猪か鹿がいる事を確認し、熊がいないと判断した時だけ、猟犬の紐を外すのです。

 熊の痕跡を探しながら、風下から音を出来るだけ立てない様に気を配りながら山に入りました。 熊は所々に糞を残し、地面を掘って、木の幹に大きな爪痕を付けます。一日以内に熊がいた痕跡を見付けたら、別の山に移動しました。

 紀州は急峻(きゅうしゅん)な山が多いいです。当時・私は高校生で元気溌剌でしたが、山に入るとY叔父の速さに付いて行くのがヤットでした。急な山を登り降りするのには、足が90度外向きに付いていた方が良いのです。 スキーをやる方なら分かると思いますが、急な斜面を登る時、スキー板を横にするでしょう! Y叔父が県下一二の狩猟名人になれた一因は、藪医者のお蔭だったと思います。

 Y叔父の猟犬達は、時々・野兎を咥えて帰りました。Y叔父が解体して、与えるまで決して食べませんでした。 オオカミだった頃からの本能なんですね。

 ある時期、Y叔父は飛びぬけて大きな猟犬を大事に・大事に飼っていました。私が遊びに行くと、その犬に包帯を巻いているのです。「熊にやられた」と言いました。包帯を外すと、深い傷を負っていて、「助からないだろう!」と私は思いました。次に行った時、元気になっており、「臆することなく、猪に向かう」とY叔父は自慢そうに言いました。

【六甲山の野良犬】
 私が入社して入った寮には広い駐車場があり、その横は六甲山の雑木林でした。時々、野良犬が20匹ほど集まり、駐車場に行った人間に吠え立てるのです。寮は二人部屋で、私の同居人が車を買ったのですが、野良犬が集まった時は、「車まで一緒にいってくれ」と頼むのです。20匹ほどの野良犬が、低い唸り声を上げながら近づいてきました。

 寮長は、「今まで噛まれた人はいない」とノンビリした事をいっていましたが、狂犬病の注射をしていない野良犬の集団に囲まれると、私も怖かったです。3年ほど寮にいましたが、誰も噛まれませんでした。野良犬になっても、「人間は仲間だ!」と言う本能が少しだけ残っているのかも知れません。

【ドーベルマン :①】
 東京の姉の家の隣に、「私達は金持ちよ!」と言う感じの近所で嫌われ者の夫婦が住んでいました。 ある日、庭の一角にポールを立てて金網で囲いました。次の日に、ドーベルマンの子イヌを入れたのです。 ドッグショー(品評会)に出すといって、時々訓練所に預けていました。

 ドッグショーに出すドーベルマンには、跡が付くので首輪をしては駄目だそうです。その為、散歩に連れ出す事は有りませんでした。 ドンドン成長して、ある日・金網のフェンスを飛び超えて公道を彷徨うしました。 その日は、夫婦は不在だったので大騒ぎになってしまいました。(その日、私はたまたま姉の家にいました、)

 ドーベルマンは「怖いイヌ」のイメージが定着していますが、この時・人に噛みつく事は有りませんでした。(訓練所に預けていたからかも知れません。) 金網をさらに高くしたのですが、また飛び出てしまいました。ドーベルマンの運動能力には関心しました。

【ドーベルマン :②】
 神戸に家を建てた時、近くに嫌われ者の夫婦(E氏)が住んでいて、「私達は宝石商なんです」と奥さんが自慢げに言うのです。小さな庭しかない一戸建てでした。家の下に地下室の様な窓の無いガレージが有り、そこでドーベルマンの成犬を飼い始めたのです。 私はデズモンド・モリスとコンラート・ローレンツの本を読んでいたので、「虐待だ!」と怒鳴り込みたくなりました。

 餌を遣るにはシャッターを開ける必要が有りましたが、紐を付けないドーベルマンが時々公道に飛び出して来ました。私の息子達も通る通学路だったので、町内では心配していましたが、人を襲う事は有りませんでした。 映画では悪人のお屋敷にドーベルマンが飼われていて、侵入者に跳び掛かります。 それで多分、ペットには出来ない”凶暴なイヌ”と見なされている様ですが、訓練を受けたドーベルマンは普通のイヌと変わらない様に私は思いました。

 飼い始めて二年程した有る夜中に大形のトラックが来て、E氏夫妻は文字通りの『夜逃げ』をしました。次の朝・出勤する時、その家の前に近所の奥さん達が数人集まって、夜逃げの話をしていました。皆さん、夜中に起きて、隠れて見ていた様でした。ドーベルマンも連れて行ったので、ホットしました。

【狂犬病の注射をしているから!】
 現役の頃に直帰で夕方早く帰って来た時、家の直ぐ近くで、イヌを散歩させている老婆とすれ違いました。急にイヌが私の足に噛みついたのです。スーツのズボンが裂けて、足から血が流れているのに、「狂犬病の注射をしているから大丈夫!」と言って老婆は立ち去りました。 気に入っていたスーツだったので、私にとっては痛手でした。

 次の休日に若い優しそうなお嫁さんが、菓子折りを持って謝りに来ました。「多分、あの婆さんに日頃虐められているのだろう!」と思ったので、何も文句を言わずにお菓子を受け取りました。

【室内で大形犬を飼った借家人】
 2000年頃に、親戚から、「大阪駅(梅田)から1kmほどの住宅街に有る一戸建ての家を買う」相談を受けました。交通の便は抜群で、南向きで、前が広い道で、その前は広い公園でした。 築後10年程の木造二階建てで、豪邸とは言えませんが瀟洒(しょうしゃ)な洋館で、申し分の無い物件でした。

 購入して募集を出したら、直ぐに希望者が有り、入居しました。「これで、私の役割は終わった」と思ったのですが、数年後にまた相談を受けました。入居者が地元の暴力団の幹部で、二か月分だけ家賃を払っただけだったそうです。 弁護士を立てて「立ち退きを要求」をしていたのですが、二、三年して弁護士が、『「200万円くれたら出る」と言っている、相手が暴力団だから訴訟を起こしたら何をするか?分からない』と和解を勧めたそうです。結局、200万円出したのです。

 「庭に草が生えて、近所からクレームが来ているので、草引きをしてくれ」と依頼されました。妻と二人で出掛けて見ると、近所の住人が十人程集まって来て、小一時間・皆さんの苦情を聞きました。「二階の窓から大形犬が夜中も吠えた」と言うので、二階に上がって見ると無残な事になっていました!

 高級建材を使った8畳の素晴らしい部屋が有ったのですが、床やドアをイヌが爪で引っ掻き、ボロボロの状態でした。イヌの糞尿の悪臭で、部屋に入れませんでした。大形犬を室内で飼ってはいけません!

【姉とイヌの思い出】
 姉が家を建てた頃、庭に犬小屋を置いて柴犬を飼い始めました。姉が動物好きだとは夢にも思っていなかったので、ビックリしました。愛情を注いで、飼っていました。

 犬小屋の傍で姉と話していると、近所の小屋に真っ白い紀州犬が数匹いるのが見えました。紀州犬保存会の方で、ブリーダーでも有った様です。 見せて貰いにいったら留守で、勝手に庭に入りました。全て白いイヌでした。

 紀州の猟師が飼っていたイヌが紀州犬ですから、H氏やY叔父のイヌも紀州犬だったかも知れません。猟師が誤ってイヌを撃たない様に、山の中では目立つ白いイヌが好まれたそうです。現在は、紀州犬と言えば白いですが、柴犬の様な紀州犬もいたのです。

 紀州犬は猟犬ですから、獰猛です。ペットとして飼われる場合は、ドーベルマンと同様に訓練所に預ける等の配慮が必要です。

【H氏の孫の子イヌ】
 家を建てた時に、両親と同居したのですが、父は3年程して亡くなりました。 母はまだ元気で、毎年・夏2か月ほど紀州の家に避暑で帰っていました。 私の勤務していた会社では、勤続20年で5日間の特別休暇をもらえたので、8月に小学2年生の次男を連れて二人で帰りました。

 私は子供の頃、よくクワガタ採取をしたので、息子に沢山取ってやろうと思って大きめの虫篭を持って帰省しました。一日に十匹以上取れたので、籠を二つ買い足しましたが全て一杯になってしまいました。帰る時には百匹程になっていました。 私の薬指の爪ほどの大きさしか無いのに、ちゃんとした『顎』の有るクワガタを取った時、息子は特に喜びました。

 前稿に書いたH氏のお孫さんが、可愛い子イヌを一匹連れて遊びにきました。犬小屋を見に来てくれと誘うので行くと、母親と同じ模様の子イヌが数匹いました。お金を出して純血種と掛け合わせたのです。 他では見掛けたことの無い優しそうな綺麗なイヌだったので、子イヌが出来たら”引く手あまた”になると、思ったのでしょう! 然し、当時も今も、私の故郷ではイヌをペットにする家は殆ど有りません。このお孫さんは誰も貰ってくれないので、途方に暮れていたのです。

 私達の帰る日が近づくと、お孫さんは必死になって「一匹貰ってくれ」と言い、ペットキャリーまで持って来ました。私はイヌ好きですから、息子が欲しいと言ったら貰って行こうと思っていたのですが、息子はクワガタに夢中で、子イヌには全く興味を示しませんでした。 そんなこんなで、残念ながら私はイヌを飼ったことが有りません!

イヌ(犬)の話し (その1)

2020-05-23 11:15:41 | 動物
 今回と次回はイヌの話を書きます。今回は子供の頃の猟犬の思い出話しです。

【イヌ好きの方に読んで頂きたい本】
 イヌ好きの動物行動学者が書いた次の二冊の本を推奨します。 イヌ好きの方は、イヌの動作を擬人化して勝手に判断していますが、これらの本を読まれたらイヌと正しく接する事が出来る様になると思います。是非とも読んで下さい! 貴方のイヌ好きの友人にも推奨して下さい!

① ドッグ・ウォッチング :デズモンド・モリス :竹内和世訳 :平凡社 (現在は絶版ですが、amazon等から古本が入手出来ます。)・・・私は、この本の方が面白かったです。

② 人イヌにあう :コンラート・ローレンツ ;小原秀雄訳 至誠堂 (現在はハヤカワ・ノンフィクション文庫で入手出来ます。)

★ イヌの祖先はオオカミです。コンラート・ローレンツは②の本ではジャッカルが祖先だと書いていますが、その後ローレンツも「オオカミ説」になりました。
★ デズモンド・モリスは1923年生まれのイギリス人です。私は、一時期・日本で出版されたモリスの翻訳本を買い集めて夢中になって読みました。
★ コンラート・ローレンツは1903年生まれのオーストラリア人です。1973年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。ローレンツも沢山・素晴らしい本を残してくれました。その多くは翻訳されています。

【私の子供の頃】
 私は、1946年に紀州の山奥の村で生まれ、1962年に中学を卒業するまで住んでいました。動物園に行ったのは中学3年生の修学旅行の時が初めてです。それまでは、像、キリンやライオンは写真でしか見た事が有りませんでした。

 私は子供の頃から動物が好きでした。種類は少なかったですが、身近に結構沢山・自然の動物がいました。動物園では観察するのが難しい、彼等の生活を観察しました。

 イヌは特に好きだったのですが、私の身近にいたイヌは、次回に書きますS叔父のイヌを除いて全て猟犬でした。猟犬は全て柴犬でした。 村に獣医がいましたが、猟犬を見て貰う習慣は無かったと思います。猟で負傷して役に立たなくなった猟犬は処分されたのでしょう。

 ”猟”は猟犬にとっては”命がけの戦争”です。長生きする猟犬は非常に少なかったです。 ハンターが猟犬を連れないで帰ってくる事が時々有りました。多分、怪我をしたので処分(銃殺)したのだと、子供心に思いました。非常に稀なことでしたが、年老いて猟には連れて行けない(死期が近い)猟犬がいました。彼等は、ある日突然・どこかへ行ってしまい、二度と帰って来ませんでした。猟犬が、飼い主の家で死ぬ事は有りませんでした。

【近所の猟師】
 近所に、寡黙で優しい30歳代の男性(H氏)が住んでいました。H氏の本業は農業と山林/木材の売買でしたが、夏は鮎釣り、冬は猪と鹿のハンティングに殆どの時間を割いていました。鮎釣りは村で一二を争う名人で、釣った鮎は旅館に売っていた様でした。猟の成果は年に二、三度しか有りませんでしたが、肉を持って帰って格安の値段で近所の家に売っていました。我が家も、毎回買いました。

 H氏は猟犬を一、二匹、放し飼いしていました。猟犬はペットでは無いので、普通は子供と遊ぶのは許してくれませんでしたが、H氏は私が愛犬と遊ぶのは許してくれました。どのイヌにも黒いマダニが噛みついていましたが、「マダニは取ってはいけない」とだけ言いました。 (マダニを素人が取ると、イヌが感染症になる恐れが有ります。)

(余談) 現在は日本各地で、猪、鹿、熊、日本カモシカ、サルが増えて農家を困らせています。私の故郷では猟師は殆どいなくなりましたが、獲物の数は多くなっています。 昔は村人が薪を取ったり、炭焼きをしたり、山の手入れなどの為に山に入ったので歩ける道が結構有りました。現在・猟をする為には”道なき道”を歩く必要が有り、”体力”が必要になっています。

【猟銃の玉を作りました】
 H氏は、毎年・稲の収穫が終わると鉛を溶かして”銃弾(玉)”を作りまし。当時は雷管(点火薬)が装着された薬莢(やっきょう)、火薬、鉛を別々に買って来てきました。(薬莢の円筒部は紙製でした。) 玉は鉛を溶かして、猟師が自分で作りました。板を雨樋状に組立て、斜めに立てかけ、溶かした鉛を上の方にポタポタと垂らすと、下まで転がると球形になっていました。

 毎年・そろそろ玉造りをしそうな時期になると、私はH氏の家に行きました。猪や鹿用は単弾で薬莢には(筒一杯の大きさの)鉛玉を一個入れましたが、鳥やウサギ用は散弾で薬莢に小さな玉を沢山入れました。大きな玉を作るには技術が必要ですが、散弾用は適当に作って、薬莢に入れる時に適当に選んでいました。 H氏は私に、毎年・散弾用の玉を作らせてくれました。

 銃弾が出来ると、H氏は田圃に板を立てて30m程離れた所から試射しました。集落の男性の殆どは戦争の経験が有るので、銃の扱いには慣れていました。H氏は射撃が旨かったです。

【H氏に弟子が出来ました】
 H氏の隣家の主人(Y氏)が猟銃を買って、H氏の弟子になりました。H氏の指導でY氏が射撃練習をしたのですが、的には当たりませんでした。 それでも、二人で猟に出掛け、年に六、七頭は射止めました。H氏だけの時は肉だけ持ち帰りましたが、二人になると、棒に獲物を”ぶら下げて”帰って来ました。庭で解体したのです。

 H氏は寡黙な方でしたが、Y氏は解体しながら色々話してくれました。猪や鹿を仕留めると、その場で腹を割いて内臓を取り出し、イヌに食べさせ、”血”を手で掬って飲むのだそうです。「美味いし、栄養が有るんだ!」と言っていました。

 年に一度くらいは肉だけ持ち帰り、集落の全所帯にタダで配ってくれました。この肉は特に美味でした。何の肉か?分かりますか? 日本カモシカの肉です。日本カモシカは特別天然記念物に指定されているので、狩猟は出来ません。要するに美味しい!美味しい!”口止め料”だったのです。

【猟犬とニワトリ】
 殆どの家でニワトリを飼っていましたが、昼間は庭で放し飼いにしていました。猟犬も庭で放し飼いでしたので、非常に稀でしたが、猟犬がニワトリを襲う事が有りました。私が小学1年くらいの頃、H氏の猟犬がニワトリを食べてしまいました。

 柿木に猟犬を繋いで、ニワトリの首に紐を巻いて、その先を近くに立てた棒に結びました。 イヌがニワトリを襲う動作をすると、H氏が棒でイヌを叩くのです。何回も何回も、二、三時間叩き続けるとイヌはニワトリを襲わなくなりました。 皆さんは「残酷だ!」と思われるでしょうが、田舎では一度ニワトリを食べた猟犬は始末していました。H氏は何とかして、彼の猟犬を生かしてやりたかったのです。 その後、このイヌは二度とニワトリを襲いませんでした。

 何年かして、下校するとH氏が別のイヌを叩いていました。既に大分長い時間叩き続けていた様子でした。 顔を見ると涙を流していました。「大人の涙を見てはいけない」と思ったのか、この時は直ぐに家に帰りました。このイヌも怪我をする事無く、ニワトリを襲わなくなりました。

 ペットを買う前に、「死ぬまで面倒みてやれるか?」と考えると思います。猟師がイヌを飼う時は、「このイヌが猟で大怪我をしたら、楽にしてやる」と腹を括る必要が有るのです。猟師と猟犬の関係は、浅薄な『動物愛護』の考え方が通用しない、厳粛なものです。

【H氏の犬が迷子になりました】
 私が中学2年の頃に、H氏が愛犬を連れて和歌山市に出掛けました。車にイヌを残して用を足し、車に帰るとイヌがいなくなっていたそうです。普通は猟犬を連れて町には出掛けませんでしたが、H氏はそのイヌを特に大切にしていたので、何処かに出掛ける時は殆ど、そのイヌを連れて行っていました。

 私はガラス窓の有る三畳の勉強部屋を独占出来る様になっていました。迷子になって一年ほど経ったある日、窓から外を見ていると、あのイヌがH氏の家の方に上がって来ていました。H氏の家に飛んでいくと、イヌは私を覚えていました。

 私の実家から和歌山市までは、新しい道やトンネルが沢山出来たので、今では車で一時間ほどで行けますが、当時は車でも三、四時間ほど掛かったと思います。イヌは、自分の”巣”に帰る素晴らしい能力を持っているんですね! モリスとローレンツの本には、この能力の事は書かれていません。

【雉(きじ)とポインター】
 田舎の猟師は「玉代がもったいない」と言って、雉猟はしませんでした。私の集落にも数羽の雉が住み着いていたので、毎年・二、三人町から雉を射ちにやって来ました。 どのハンターも格好は一人前で、狩猟用のベスト、ブーツ、銃身が二つの散弾銃、そして必ずポインターを連れていました。

 ポインターを見掛けると、(私も含め)子供達が付いて行きました。雉は綺麗な鳥で、山に入ると時々驚かされますが、害鳥では有りません。子供達は「自分達の雉を殺すな、邪魔してやろう‼」と考えて付いて行ったのだと思います。

 雉の巣は大抵・シダの茂みに有ります。人間が近づくと巣から出て、人が通る道の近くまで”わざわざ”やって来て、人間の足元から飛び出す習性が有ります。巣が近くに有ると勘違いさせる為です。猪や鹿の猟では、目立たない服を着て風下から音を立てずに近づく必要がありますが、雉猟では目立つ色の服でもOKで、物音もOKです。悲しいかな、雉の方からハンターに近づくのです。

 雉は必ず飛び立つのですが、ハンターが「ズドン、ズドン」と撃っても、殆ど外れでした。私は10回以上見に行きましたが、2回だけ仕留められました。ポインターの役割は、地上に落ちて来た雉の所に走って、咥える事でした。ハンターの所に運んで来るのは見た事が有りません。雉猟には猟犬は必要無い様に思いました。

(余談) 『雉も鳴かずば撃たれまい』と言いますが、雉ハンターは鳴いてる雉を撃つのでは有りません。 『雉も鳴かずば撃たれまい』の由来は悲しい話しです! 調べて見て下さい。

【猟犬を持たない猟師】
 村に一軒だけ本屋が有りました。学校の教科書の販売で生きていて、本は殆ど置いていませんでした。欲しい本を注文すると取り寄せてくれるのです。私は、小遣で小学館の小学〇年生と講談社の漫画雑誌を毎月・買っていました。

 本屋の主人(N氏)は猟犬を飼っていませんでしたが、”日本サル”と”熊”専門の猟師でした。これらの猟では、猟犬は必要無いのです。 肉を食べたか?どうか?は分かりませんでしたが、熊の『胆のう』と思われる物を、軒下にぶら下げていました。日本サルは頭を取ってきて黒焼き『猿頭霜(えんとうそう)』にしたのだと思います。 村の人達は、「漢方薬として高く売れる}と言っていました。 (今でも”熊の胆のう”と”猿頭霜”は高値で取引されています。)

 N氏は弟子を取らない主義で、何時も一人で猟をしていたのですが、ある青年が 辛抱強く何回も何回もお願いして、「弟子にしてもらった」と言う噂を聞きました。彼が初めて猟に連れていって貰った日に、私は本を受け取りに行っていました。帰って来た弟子が、「サルが死ぬ顔を見てしまった。とても耐えられ無い。もう止める!」と言う様な事をいって、帰ってしまいました。

(余談) 現在、日本サルの猟は原則禁止ですが、農作物への被害が大きいので狩猟団体に狩猟依頼が出る様です。 父に連れられて人家から離れた山に時々行きましたが、雑木林の木の上で遊ぶサルを必ず見ました。当時もサルは沢山生息していましたが、現在はもっと多くなって、人家の近くにも出没する様です。

(余談) クヌギや樫木を伐採して丸太にし、穴を穿って椎茸の菌を植え付けた物を故郷では”ボタ”と呼んでいました。 我が家では、杉林に沢山椎茸ボタを並べて、貴重な現金を得ていました。有る年・椎茸の生える時期に様子を見に行くと、小さな椎茸が沢山・沢山もぎ取られて地面に落ちていました。 サルが椎茸を食べるのか?は分かりませんが、もぎ取るのが楽しかったのでしょうか? サルは賢い動物ですから、一度来ると必ず次の年にも来るのです。 ボタの一部を家まで運んで、裏庭に並べて、家で食べる分は確保しました。 (我が家は、急に現金収入が無くなって、さらに貧乏になってしまいました!)