これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

木材として利用される樹木 (その1)

2021-07-24 11:51:56 | 山林の問題
【はじめに】
 今回と次回は、樹木の種類と、その木材の特性について書きます。

 『(一般財団法人)日本木材総合情報センター』が木材に関する種々の情報を発信しています。 「木材の種類と特性」は素人向けの解説ですが、他に研究者向けのデータなども収集し公表しています。 政治家や官僚が、これらの情報を勉強して政策を立案してくれたら、日本は素晴らしい国になると思います。残念ながら、農林族議員達は政治資金集めには熱心ですが、日本木材総合情報センターの情報を読んだ事が無いのではと思います。

 野党の議員も同様のレベルだと私は推察します。蓮舫参議院議員に「日本木材総合情報センターの情報を読んだ事が有るか?」と聞いて見て下さい。「それ何?」と答える様に思います。 結局、このセンターは何の為に/誰の為に存在しているのでしょうか?!

【関連記事】
 森林や木材に関して、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 植林から製材まで (その2) :2021年7月10日投稿
★ 植林から製材まで (その1) :2021年7月3日投稿
★ 森林破壊と再生        :2021年6月12日
★ 木材価格が高騰している様です! :2021年5月29日
★ 過疎地の新しい産業は!  :2018年6月23日

【私の考え方】
 比較的成長が早い杉でも植林から伐採まで、最短で50~60年は掛かります。 檜の正目の板や、二面が正目の柱を得るためには150年以上掛かると思います。 今から50年前は木材価格は高く、国からの補助金無しでも山林経営はなりたっていました。 150年前は明治が始まったばかりの頃で、その時代に令和3年の木材需要を予想するのは、占い師でもギブアップしたと思います。

 「国土の2/3を占める森林をどうすべきか?」と言う問題は極めて重要です。「短期的な視点の小賢しい知恵では無く、森林についての経験と知識の有る、色々な人達が知恵を出しあって、試行錯誤して答えを探す様な難しい問題だ!」と私は思います。

〈1〉 緑豊かな森林と清流を後世に残す事を最優先課題にする。
〈2〉 杉や檜の植林を重視した森林政策は止めて、経済性に乏しい植林地は雑木林に戻す。
〈3〉 日本で育てられる樹木の特性を研究して、植林する木にも『適材適所』の考え方を導入する。 木材を加工する技術は既に十分進んでいます。 例えば、集成材の柱は、強度も見た目も無垢の柱より優れています。 現在は商品価値の低い樹種でも、まとまって生産したら活用される様になると思います。
〈4〉 木材の流通をより効率的にするシステムの創造とインフラ整備に国の予算を配分すべきです。 ヨーロッパ諸国では参考になりそうな政策が行われています。

【杉】
 杉は戦後・全国各地で多量に植林されて来ました。 正目の板や、二面が正目の柱は今後も高級木材として珍重されると思いますが、普通の杉材は米松や米杉などの安価な輸入材と価格競争が強いられます。 杉や檜の植林に偏重した政策を続けるのは国費の浪費だと思われます。

 日本は工業製品を輸出して外貨を稼ぎ、その金で地下資源を輸入する国です。農林水産省が所轄する分野の関税を高くして、国内産業を保護する事は難しいのです。 農民は美味しくて安全な農作物を作って、(細々ですが)輸出しています。 林業も工夫/努力して、国の補助金に頼らなくてもやって行ける様にすべきです。

【檜(ひのき)】
 昔から檜は最高級木材として扱われてきました。今でも神社・仏閣・城などは、殆ど檜が使用されています。神社・仏閣等に使用される木材は、百年とか二百年育てた太い木からしか得られません。

 檜材は不足していると言われていますが、神社・仏閣以外の用途では、檜の正目板を剥いだ(ピーラーした)厚紙状の物を、集成材や突板の表面に貼り付けた材で我慢すべきです。 逆に言えば、檜は太くなるまで育てるべきだと思います。 現在の国の補助金は杉も檜も植林後・40年間しか出ません。『 十把一絡げ』の政策は止めるべきです。

(余談 :檜皮葺) 古い神社仏閣に行くと、日本独特の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が見られます。 太い檜の立ち木の皮を、薄皮を傷を付けない様に慎重に剝ぎ取ったものです。皮を剝がされた立ち木が枯れる事は有りません。

(余談 :檜の花粉) 檜の花粉も花粉症の原因です。 檜は雌雄異株ですから、雌株だけ植林したら、少しは檜花粉症の方は楽になるのでは?と思います。

【翌檜(あすなろ)】
 翌檜(あすなろ)はヒノキ科の日本固有種で、葉の形は檜に似ていますが檜より幅広です。桧葉(ひば)とも呼ばれます。 能登半島では植林されています。変種の檜翌檜(ひのきあすなろ)は青森県で植林されており、木材は青森ヒバと呼ばれて、高級木材として取引されています。

 私の故郷・紀州では、翌檜は殆ど植林されていませんでした。 集落の裏山に5集落で建てた神社があり、境内に幹の直径が50cm以上ある太い翌檜が数本植えられていました。その内の一本を伐採した時、幹の端面を見た事が有ります。色白で綺麗でしたが、年輪の幅が広かったです。父は「翌檜は植えてはいけない!」と言っていました。「温暖で雨の多いい紀州では成長が早過ぎて、良質の木材が得られないのだ」と思いました。 真否不明です!

【松】
 松は海辺の岩山から山奥の頂上付近にまで、生育する貴重な樹木です。

松の長所 :松は一般に、杉や檜が育たない土地でもユックリですが成長します。 火力が強い。
松の短所 :日本の松は、一般に幹が真っすぐに育つケースは非常に稀です。その為に、余程の大木で無いと板や柱にするのは難しいです。 昔の木造建築では、梁(はり)や垂木(たるき)等に使用していました。 製材後・松ヤニを出し続けます。(私の実家の松の梁は、50年以上経っても『松ヤニ』を出しました。)

① 赤松 :一般に海から離れた山林に植林される。 赤松林では、松茸や本占地(ほんしめじ)が採れます。
② 黒松 :海岸の防風林、防雪林など。
③ 唐松(からまつ) :寒冷地に植林されている。古木は高値で取引されている様です。
④ 五葉松(ごようまつ=姫子松) :日本固有種、盆栽・・・植林は殆どされていません。
⑤ 蝦夷松(えぞまつ) :北海道

(余談 :燃料としての松) 松ヤニを多量に含むためだと思いますが、松の火力は非常に強く、松明(たいまつ)として使用してきました。 京都の『五山の送り火』は松の幹を割って、松ヤニの多いい部分を約20kgを一束にして、『大』の字などに並べて燃やしています。 ウイキペディアに束の数が出ていました。 五山の合計は481束ですから、毎年10トン程の松明が必要です。

 阪神淡路大震災(1995年)の頃、私より数歳年上で残業拒否で/目一杯有給を消化する社員(KS氏)の面倒を見ていました。KS氏は陶芸家の弟子になって、修行していた様です。 その後・自分で登り窯を造り、年に二回窯焚きしていました。 震災後・直ぐに「陶芸家になる」と言って、早期退職しました。 松の薪代が、一窯で二十数万円掛かると言うのです。「僕が退職したら、一回だけ薪代を出し、窯焚きも手伝うから、僕が一番気に入った作品を1個だけくれ」と堅い約束をしました。 KS氏の展示会に行ったりしていていました。2010年にリタイアしたので、KS氏に電話したら、「最近、1個・50万円ほどで売れた、もっと良い物が出来るかも? 約束は無かった事にしてくれ!」と言い出し、以来音信不通です。

(余談 :米松) 私は北米産の米松(べいまつ)の木目が綺麗だと聞いていたので、1985年に家を建てた時、一部屋の和室の天井板として、突板(ベニヤ)の表面に米松を薄く『かつらむき(ピーラー)』した物を貼り付けた板を選びました。 「これは松だよ」と言っても誰も信じてくれませんが、私は気に入っています。

 2002年頃に某社が工場の建物の中に、高温(60℃ほど)に保つ特殊なハイグレードのクリーンルームを建設しました。 クリーンルームには無垢のぶ厚い米松の板と角材が使用されていました。 断熱性とホコリの発生を抑える為に、高価な米松を採用した様でした。

(余談 :ローマの松) レスピーギが私の好きな「ローマの松」と言う曲を残してくれました。 この曲は日本の松のイメージを払拭して聴く必要があります。 ローマの松は下の方が真っすぐで、葉の付いた部分は『傘』の様な形をしています。

(余談 :唐松) 松は常緑樹が殆どですが、唐松は落葉樹です。 それで、『落葉松』とも書きます。 私の故郷・紀州では見たことが有りませんでした。 北原白秋の『落葉松』を読んで、是非見てみたいと長年思っていたのですが、信州に冬出張した時に念願がかないました。車を停めてもらって、暫く眺めました。

【樅ノ木(もみのき)】
 山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、NHKの大河ドラマを始め、映画やテレビドラマが沢山作成されました。 私の故郷では樅ノ木は植林していませんでしたが、所どころに大木が有りました。

 椴松(とどまつ)は松ではなく、樅ノ木の一種です。 北海道の森林面積の30%近くには椴松が生えているか、植林されています。 その一部は、建築材として使用されています。 然し、椴松には、幹に何故か多量に水を含む物が有り、それを『水食い材』と呼ぶそうです。 『水食い材』は結構な割合で存在し、紙の原料等にしか利用出来ません。

(余談 :クリスマスツリー) クリスマスに樅ノ木のツリーを飾るのは、ヨーロッパの風習が世界に広がったための様です。 日本ではプラスチック製が主流になっていますが、アメリカでは畑で育てた生木が年間・数千万本も販売されているそうです。

 杉を植林した林で、間伐と枝打ちをチャントすると、樅ノ木が生えて来ます。 子供の頃・クリスマスの前になると、町からトラックでやって来た業者が勝手に樅ノ木を多量に切って、持ち帰っていました。 日本では仏教徒や無神論者の家でもクリスマスツリーを飾りますが、現在はプラスチック製のクリスマスツリーが多いいので、樅ノ木の商売は無くなっているのでは?と思います。

【桐(きり)】
 桐は成長が早く、20年もすると箪笥に使用出来る太さに成長します。 私の故郷(紀州)でも桐の木が植えられていましたが、雑木林の中に自生した桐を見た記憶が無いので、多分・人間が全て植えたのだと思います。

 桐には、①木目が綺麗、②軽い、③割れや狂いが少ない、④湿気を通さない、⑤燃え難い等々、優れた特徴が有ります。 本格的な金庫の中には桐が使われていますが、燃え難いためだと思います。

 桐箪笥は今でも時々見掛けます。 桐箪笥にもピンからキリまで有ります。 1920年代に金持ちの旧家から嫁に来た女性が持参した最高級の桐箪笥を、1965年頃に見せて頂きました。かなり表面が黒ずんでいました。 後で聞いた話ですが、「再生修理業者に依頼すると、表面を薄く鉋で削って・新品同様に生まれ変わる。桐箪笥は曾孫や夜叉孫の代まで使える」と言っていました。然し、和服を着る方が少なくなっているので、「デザインを工夫してモダンで、洋服も収納出来る箪笥にしないと、販売数を伸ばすのは難しい」と思います。

 現在、棺(ひつぎ)の多くは桐製ですが、殆どが、中国から輸入されている様です。日本の一年の死亡数は140万人程ですから、棺として消費される桐の量は膨大です。 昔・土葬の頃は、杉板を桶(棺桶)にして亡骸を入れました。

【欅(けやき)】
 欅(けやき)は本州、四国、九州の山地から平地まで、幅広く分布しています。 樹齢1,600年の巨木も存在します。 街路樹として植えられており、東京近辺の公園にも植えられています。 早稲田大学と学習院女子大学の近くに、戸山多目的運動広場が有ります。 私は、10年程前から何回か欅を見に行きました。

欅材の長所 :木目が綺麗で、堅くて摩耗に強いので家具材や建材として、高級品です。(私は欅の木目が好きです。)

欅材の短所 :伐採すると、丸太の状態で長期間乾燥させる必要が有ります。乾燥中に丸太は大きく曲がります。 曲がりが収まった後で、製材します。

 欅の大木は非常に少なくなっており、欅材は庶民が手が出せない程の価格になっている様です。 和太鼓の胴は欅が最高だそうで、超大型くり抜き欅太鼓の価格は3,000万円もするそうです。

(余談 :欅林) 私は1965年頃に1.5年間ほど、西武池袋線の練馬駅から徒歩7~8分程の所に住んでいました。 少し歩くと昔ながらの松並木の街道が残っていて、更に十数分歩くと時代劇に出て来そうな小さな『茶店』が有りました。 赤いカバーを掛けた縁台に座って、ラムネを飲むか、アイスキャンディーを頂きました。

 この街道の周辺に広い欅林が結構沢山残っていたので、欅林の中も散歩しました。当時は枯れ葉が厚く積もっていました。 既に農家は化学肥料を使っていたのですが、昔は・欅林の枯れ葉を集めて畑に敷き込んで肥料にしていたそうです。 関東平野の農家出身の友人の話では、三、四町歩(3ha~4ha)の農家だと、その内・一町歩は枯れ葉を取る為の欅林だったそうです。

 雨の後でゴム長靴を履いて散歩した時、畑の畝の間を歩いてみました。新雪を歩く時の様に深い足跡が残りました。 私の故郷では雨が降り終わると直ぐに農作業を再開しましたが、「関東平野では雨の後は暫く休む必要が有るのだ」と気付きました。

【栗】
 栗は大昔から全国各地で、実(栗)を得るために栽培されて来ました。私の故郷でも小規模な栗林が数カ所有りましたが、現在は全て無くなっています。多分、全国的に栗林は減少していると思います。

 栗は成長が早く、栗材は「非常に堅くて重く、腐りにくい、狂いが少ない・・・」と言う長所があります。 これらの長所から、昔は鉄道の枕木に使用されていました。(現在の枕木はプレストレスコンクリート製です。)

(余談 :栗の花) 栗は5月中旬~6月に、奇妙奇天烈な白い花を咲かせます。 尻尾の様な部分は雄花で、その付け根に雌花が一つだけ付いています。雄花は花粉を出した後、落ちてしまいます。

夫婦別姓についての考察

2021-07-17 07:18:32 | 民主主義
【はじめに】
 読売テレビが毎週日曜日に『そこまで言って委員会NP』と言う、半分お笑いの番組を放送しています。7月4日に夫婦別姓を取り上げていました。女性の権利を主張されている島田陽子先生が参加されていなかったのは、残念でした。 (読売テレビですから、東京では見えない様です。)

 私は、若い頃から朝鮮半島の歴史に興味が有りました。朝鮮半島では夫婦別姓制度でした。 それで、「世界はどうなのか?」時々調べて来ました。 女性の権利をより広く認める様になって、その運動に関連して選択的夫婦別姓制度を多くの国が採用する様になって来ています。

そこまで言って委員会で笑えたこと】
 7月4日に参加したコメンテータと司会者は、日ごろ夫婦別姓について考えて無かった様に見えました。 世界の多くの国が、夫婦同姓を強制しなくなっており、国連が日本に、夫婦同姓制度の見直しを求めている事は話題になりませんでした。

 「夫婦別姓にしたら、円満な家庭を築いて/維持するのが難しくなる」などと主張する人がいました。 トンデモナイ意見です。家庭が崩壊する原因は、家庭内暴力(DV)が酷かったり、収入が激減したり、何方かが浮気したりするためです。夫婦別姓にしたら、日本人は浮気を平気でする様になるのでしょうか? DVは、夫婦別姓にしたら増加するのでしょうか? そんなにも、日本人は特殊な民族なんでしょうか?!

【世耕弘成参議院議員】
 経済産業大臣だった世耕弘成参議院議員は、2013年に野党の参議院議員だった林 久美子氏と結婚されました。 お二人は法律婚をされましたので、世耕久美子になられましたが、林 久美子で活躍されています。 政治家は姓を変えて選挙するのは難しいですよね!

【平民と苗字の歴史】
 江戸時代まで平民が苗字を名乗ることは禁じられていました。 明治になって(1870年に)平民も苗字を名乗っても良い事になりましたが、苗字無しで支障なく暮らしていた平民の多くは、一向に苗字を持ちませんでした。 1875年(明治8年)に、明治政府は「平民も苗字を名乗れ!」と言う命令を出しました。

 この時から、平民も武士と同じように結婚したら夫婦同姓になったのです。 それまでは、苗字が無い分けですから、夫婦別姓も夫婦同姓も無かったのです。

 私の故郷では、この時・一族は同じ苗字にした様です。

 政府が国を統治する為に、国民に『苗字と名前』を持たせて個人を特定する必要が有ったのです。人口が増加して社会が複雑化し、同姓同名も問題になり、『氏名と生年月日』で個人を特定する様になりました。

 社会は益々複雑になり、国民を把握する為には『マイナンバー制度』が必要になりました。マイナンバー制度が普及したら、『姓名』はどうでも良くなります。 夫婦の姓をどうするのか?二人で自由に決めさせても問題が無い時代になっていると私は思います。

(注記) 脱税の防止/取り締まり、公平な住民サービスを行う為に、国や地方公共団体は国民を把握する手段が必要です。 これだけ複雑な社会になると、マンナンバー制度が不可欠なのです。

屋号】
 私の故郷・和歌山県龍神村では、同じ苗字の家が多く、1970年頃まで屋号で呼び合っていました。 我が家の屋号は『うら』でしたから、父は『うらのおじさん』と呼ばれていました。 子供は、「○○ちゃん」と名前で呼んでいました。

 私が育った20軒程の集落に山本家が4軒あり、隣の集落は半分以上が小川でした。『山本のおじさん』では、誰の事か区別出来なかったのです。

【本家の墓碑】
 父方の本家の墓には墓碑が有ります。 高祖父から名前が刻まれています。 1875年以前に亡くなったので、高祖父には姓が有りませんでした。 曾祖父から姓が『寒川(そうがわ)』になり、祖父は日露戦争の戦役を逃れるために名目だけの養子に入り、苗字が『松本』に変わりました。

 そんな分けで、私は松本にも寒川にも全く拘りが有りません。江戸時代に苗字帯刀を許されていた家系の方は別にして、多くの国民の姓は四代か五代前の祖先が適当に付けたに過ぎません。

【日本での特殊例】
 戦中/戦後に朝鮮半島から来た人達には、朝鮮の姓と日本の姓で戸籍と住民票が作成されています。 従って、両方の姓が正式なものです。 韓国では今でも夫婦別姓ですが、日本在住の韓国籍の男女が、日本で結婚したら夫婦同姓を強制するのでしょうか?

 私が管理している大阪の賃貸マンションには朝鮮籍と思われる女性が住んでいます。 彼女の朝鮮姓は『K』で、日本姓は『T』です。 賃貸借契約書は『K』となっていますが、日常は『T』と名乗っています。 周りでは『K』と言う姓を知っている人はいません。 年金の支給、医療、介護の申請などで何の支障もない様です。 要するに、夫婦同姓でも夫婦別姓でも行政は対応出来る時代になっているのです。

【夫婦別姓の国】
 朝鮮半島の様に、結婚しても女性の姓が変わらない『夫婦別姓の国』が存在しました。 韓国はいまでも夫婦別姓です。 民主主義が進んだからでは有りません。

【世界では多くの国が夫婦別姓を認めています】
 夫婦同姓制度に拘っているのは、世界では日本だけになって来ています。 (日本のガラパゴス文化の一つです。) 2016年3月に国連は日本に、夫婦同姓制度の見直しを求めてきました。 それでも最近、最高裁は「夫婦同姓制度は合憲で有る」との判決を出しました。

 世界の多くの国は、「夫婦同姓制度」に拘らなくなっています。 国によって・まちまちですが、次の❶❷❸の全てを認めている国や、その内の二つを認めている国が有ります。

❶ 同氏  :夫婦同姓と同じ
❷ 別氏  :夫婦別姓と同じ
❸ 結合氏 :夫の姓と妻の姓を併記

【日本の現状】
 日本ではまだ法律婚(同性婚)で無いと相続税等で不利です。 然し、少しずつですが、地方自治体が条例で事実婚や同性パートナーに対して福利厚生制度を適用する等の処置が設けられる様になって来ています。

 国も、以下に示すように旧姓の併記を認める様になっています。

★ マイナンバーカード :旧姓の併記が可能
★ 銀行口座 :旧姓を併記したマイナンバーカードが有れば、旧姓のままの口座が使える(?)
★ パスポート :旧姓の併記が可能
★ 住民票 :旧姓の併記が可能
★ 商業登記 :旧姓の併記が可能(重役・氏名の登記)

【日本の将来予想】
 日本の与野党の政治家達は、選択的夫婦別姓制度に関して保守的なのか?勉強不足なのか?票にならないと考えている為か?真面目に議論しようとはしていません。従って、最高裁が「選択的夫婦別姓制度にすべきである!」と判決を出すまでは、現状のままだと私は予想します。

 最高裁判事達も世界の情勢を無視し続ける事は出来ないでしょうから、2030年頃には日本も選択的夫婦別姓制度になると思います。

★★★★★★★★
【民主主義について考え始めました!】
 戦地から生きて帰って来た人達は、自分の家族を養うだけでも大変だったと思いますが、跡継ぎが戦死した家や、子供のいる未亡人の家の田植え/収穫を手伝ったりしていました。

 私の故郷には、戦前、尋常小学校しか無かったのですが、戦後、日陰で畑にもならない谷の脇の狭い土地に、小さな仮設の中学校を建てました。(勿論、運動場も講堂も有りませんでした。) 父は中学校のPTAの会長だったのだと思います。 商売で忙しかったと想像しますが、本格的な中学校を建設する為に走り回っていました。 1951年頃で、私はまだ5歳でした。 ある日、父は警察署に呼ばれて、留置場に入れられて・数日間帰ってきませんでした。 私も含めた家族全員、非常にショックな出来事だったので、今でも記憶しています。

 1947年~52年の間・公職追放令が存在し、父は職業軍人でしたから、公職追放者に該当し、PTAの会長にはなれなかったのです。 後で聞いた話では、村の誰かが警察に通報したため、警察は形ばかりに留置場に入れたそうです。 帰宅した父に、母は「PTA会長を辞めて欲しい」と懇願しましたが、「何も悪いことはしていないから、続ける!」と言う様な会話をしていた様に記憶しています。 そして、結構立派な運動場付きの中学校が完成しました。 (私は、その中学校を卒業しました。)

 「良い事をしても、警察に捕まるんだ!」、「法律って何なのか?」・・・「民主主義って何なのか?」・・・考える様になりました。

【私は早熟の方だったと思います!】
 三歳頃から父が、私を色々な所に連れていったので、大人との接触が多かったのです。 私が五歳頃、二人で店に買い物に行くと、父は50円札か100円札を渡して「何々と、自分の欲しいお菓子を買え」と言うのです。 お釣りを貰うと、何時も少し少ないのです。暗算で計算して、「12円足りない」と言うと、主人は笑いながら・12円渡してくれました。 どの店でも同様でした。 褒美のお菓子をゲットした事も有りました。

 小学校に入る前に、カトリック教会の日曜学校に通って文語体の聖書を教えて貰っていました。少しずつ漢字が分かる様になって、小学3年生の頃には朝日新聞を読んでいました。

 父は早川崇衆議院議員と世耕弘一衆議院議員の選挙運動を熱心にやっていたので、お二人は年に一回は我が家に来られました。 私は小さい頃から両先生に遊んで頂きました。気心の知れた友と子供と三人で楽しく雑談して、「先生たちは骨休みされていたのでは?」と思います。 それで、政治にも興味が湧いて来ましたが、政治家になりたいと考えた事は有りません。

 時々、父と政治の話をしました。 小学校と中学校に日教組に入った先生が複数おられましたが、「僕より息子さんの方が左寄りだ!」と言われたと、父は嘆いていました。

【私の考え方】
 「国家の主人は民衆(国民)である!」と言う考え方が民主主義の原点です。 『民主主義』は、フランスなどで、民衆が血を流して王や貴族から獲得した貴重な権利です。 『民主主義』の考え方は変質/拡大して来ました。 「男女は平等である!」も、現在では民主主義思想の重要な項目の一つになっています。

 2008年に長男が彼女を連れて帰省しました。 少し話をしたら、「天真爛漫・臆する事もない素晴らしい女性だ!」と感服しました。 彼女は東大の修士卒で民間企業の研究所に勤務していました。 「結婚しても、仕事を続けたい」と言いました。

 その後、暫くして彼女の御両親と六人で食事をしました。 研究者にとって論文は大切です。 氏名が変わると、それ迄の論文との繋がりが切れてしまいそうに思いました。 食事の席で、私が「夫婦別姓にしますか?」と聞いたら、「松本にします」と言いました。 2009年に結婚して、娘を一人生んで、今でも研究者を続けています。

 日本では少子化がドンドン進んでいます。一人息子と一人娘が結婚するケースが増えて来ると想像します。 「内孫とか外孫だ」と言っている場合では無いのです。結合氏(夫の姓と妻の姓を併記)を希望する親達が増えてくるのでは?と予想しています。

 女性が活躍出来る世の中にしようと言う運動が続いていますが、選択的夫婦別姓制度に変える事は無関係では有りません。 この点からも、夫婦同姓を国が強制するのは出来るだけ早く止めるべきだと考えています。

★★★★★★★★
【関連記事】
 広義の民主主義について、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 森・川渕ドタバタ喜劇 :2021年2月14日投稿
★ 企業の民主化 (その1~9) :2019年10月26日~12月21日投稿
★ 民主主義とは!? (その1~3) :2019年10月5日~18日投稿
★ 昔の田舎の集会と現在の町内会 :2019年8月3日投稿
★ 皆で声を挙げましょう! :2018年7月7日投稿
★ 韓国GMとJR東日本の労働組合 :2021年4月12日投稿
★ ブラック企業 (その1~4) :2018年3月10日~5月8日投稿


植林から製材まで (その2)

2021-07-10 10:32:47 | 山林の問題
【はじめに】
 今回も木を育てる仕事について書きます。 日本の国土の2/3は森林ですから、森林の有効活用と維持は非常に大切な課題です。 政治家や官僚に『任せきり』には出来ない問題です。 出来るだけ多くの国民に、森林や林業について勉強して頂きたいと私は考えています。

 車で山間部を走る時、山の話を時々しましたが、興味を示してくれた方は一人もいませんでした。 ブログに森林の記事を投稿しましたが、読んでくれる方は残念ながら少なかったです。 然し、敢えて書きました。

【関連記事】
 森林や木材に関して、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 植林から製材まで (その1) :2021年7月3日投稿
★ 森林破壊と再生        :2021年6月12日
★ 木材価格が高騰している様です! :2021年5月29日
★ 過疎地の新しい産業は!  :2018年6月23日

【④間伐】
 杉や檜を植林した山では、成長の遅い木や、幹が曲がった木を間引いて伐採します。 これが間伐です。 地面に『木漏れ日』がさす様に、木と木の間隔を空けてやります。 そうすると、雑草や羊歯(しだ)が生えて来ます。雑草と羊歯のお蔭で、大雨が降っても・貴重な土の流失が最小限に抑えられるのです。

 理想的な植林した山の管理は、適宜に枝打ちと間伐を行って雑草や羊歯が生えるようにし、年輪の幅が均一になる様に育てる事です。

 「どの木を間引くか?」は、所有者や山番が幹に紐を結んだり、ペンキを塗って作業者が分かる様にします。 大山林地主の場合は番頭さんが間引く木を指示していました。

 残す木を傷を付けない様に、倒す方向を決めて、斜めに切ります。 多くの場合、枝と枝が絡まっているので、狙い通りの方向に倒れてくれません。間伐作業の近くに立つのは非常に危険です。

 民家に近い山の場合は、間伐材は薪や稲干し竿に利用しました。 間伐材は一般に細く、曲がった木が多い等の為に、人手を掛けて持ち出しても利益が出ないケースが多かったです。 その為に山に放置しました。 現在は間伐材の有効活用に種々取り組んでいる様です。

(余談) 私が小学生のころ、近所のご主人(HM氏)が持ち山の間伐をしていました。 私達・子供は20~30m離れた安全な所で何か(?)していました。HM氏が大声で、「倒れるぞ!」と叫びました。 木が予想外の方向に倒れて、HM氏の母親の真上に倒れ、母親は即死でした。HM氏は好人物だったので、「監獄に入るのでは?」と心配していましたが、起訴猶予か?執行猶予か?で収監は免れました。

【⑤ 伐採(ばっさい)】
 木を鋸で切り倒すと、何種類かの長さ(3m、3.64m、4m)に切断します。 そして、一本一本の端面に所有者の刻印に墨を付けて打刻しました。 大雨で流された時、海の近くでキャッチして、刻印で所有者を判別して引き渡すシステムが有った様です。

 倒す時に他の木を傷を付けない様に、山の裾の方から伐採します。間伐の時と同様に、倒す方向を決めて斜めに切ります。 チェーンソーを使用しますから、比較的短時間に出来ます。

 二十歳代の方(A氏)が、今年・杉や檜を植林したとします。A氏が80歳まで生きたとすると、”まあまあ”の木に成長すると思われます。 良質の正目の柱を得るためには、孫かひ孫の代に伐採する事になります。 後述の『1枚板の木の襖』に使用できる様な巨木を得るためには、玄孫(やしゃご)、来孫(らいそん)の時代まで育てる必要が有るのです。

(余談 :白蝋病) 私が高校に入学した頃(1962年頃)から、故郷でもチェーンソーが使用される様になりました。(それまでは鋸でした。) チェーンソーを使用すると、作業時間が大幅に短縮されるので、短期間に普及しました。 そして、少しずつ白蝋病(はくろうびょう)に罹る方が増えて来ました。 重症の白蝋病患者は、チェーンソーが使用出来なくなってしまい→林業従事者として生活出来なくなります。

 日本の政府は何をやるのも遅いですね! 白蝋病が労災対象になったのは1977年です。 コンクリートを破壊するのを『斫り(はつり)』と呼びますが、振動の激しい鑿岩機(さくがんき)が使用されます。斫り作業者も白蝋病の恐れが有るので、決められた作業時間しか働きません。(余程の事が無い限り、残業はしません。) 林業従事者も厳格に作業時間を守るべきだと考えます。

(余談 :流木の権利) 大雨で川に流された流木を取る事を黙認する慣習が有りました。 山林を所有しない村民が沢山いましたので、家や小屋を新築したり、修繕する為に必要な木材は、濁流を流れる木材を命がけでキャッチするか?川原に残された木材を拾うか?したのです。私が小学性だった頃、川下で一人流木に引っ張られて亡くなりました。

 集落にコンクリート造りの長さ数十メートルの堤防が有りました。 あと数十センチ増水すると堤防が水没しそうな状況の中で、近所のK氏が鳶口(とびぐち)で流木を取っていました。友人と二人で見に行きました。 K氏は、見事な技で流木の後部に鳶口を打ち込んで、堤防の方に引き寄せていました。 打ち込む位置を誤ると、人間が濁流に引っ張り込まれてしまうのです。

 紀州には欅(けやき)は殆ど生えていないので、貴重品です。 太い欅(けやき)が流れて来ました。 K氏は素晴らしい身のこなしで、直径数十センチも有る欅の丸太をゲットしました。 今でも、その時の状況を覚えています。 私は、この時からK氏を尊敬する様になりました。

 K氏は、その後すぐに私の家の隣に新築して、素晴らしい女性と結婚されました。 欅の丸太は大黒柱になっていました。 無口だったK氏が奥さんの影響(?)で多弁になり、愉快な人になりました。 私は帰省したら、K氏宅にお邪魔する様になり、大黒柱を眺めています。

【⑥ 乾燥】
 生木は多量に水を含んでいますから、急激に乾燥させると割れてしまいます。 割れが入ったら商品価値は、ガクンと低下してしまいます。 昔は、伐採したら道路の近くまで運んで、山に野積して数か月~一年間・乾燥させて出荷しました。

 竿(さお)として使う細い木材は皮をむいて乾燥させたと記憶していますが、太い木は皮付きで乾燥させていました。

【⑦ 木挽(こびき)】
 現在、屋久島以外では巨木は殆ど見られなくなっていますが、私が小学生だった頃(1955年前後)、大洪水の時、2回・巨木が川原に流れ着きました。直径が1.5m以上✕長さが4m近く有ったと記憶しています。 川原に流れ着いた木材は、所有者の刻印が有っても、欲しい人が貰って良い事になっていました。

 大鋸(おおが)と言う鋸で、木材から板や柱を切り出す職人を『木挽(こびき)』と呼びます。葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「遠江山中」に描かれています。 近所の木挽が使用していた大鋸はもっと幅が広かった様に記憶しています。

 昔は巨木の搬送が難しかったので、伐採現場の近くで木挽が板や柱にしました。 私の育った集落に木挽が一人住んでいて、川原に流れ着いた巨木は彼の物になったのです。 下校時に必ず彼の仕事を見物しました。「今日は、どこまで進んだか?」楽しみにしていました。  木挽職人は、大分前に絶滅してしまったのでは?と思います。 鋸・一挺で巨木から板や柱を切り出すには技術が必要ですが、根気も必要です。

(余談 :1枚板の木の襖) 昔の旧家では、部屋の仕切りや、押し入れに『1枚板の木の襖』が使用されていました。 襖の幅は半間(≒0.9m)ですから、巨木から木挽が切り出したのだと想像します。 母の実家の襖は全てピカピカに磨かれた『1枚板の木の襖』でした。

【⑧ 輸送】
 トラック輸送が毎年増えてきていましたが、私が小学校を卒業する(1960年)頃まで、筏(いかだ)で海まで搬送していました。 筏は、数本の丸太を大きな鎹(かすがい)で繋ぎ、貨物列車の様に紐で連結して、竿を操って川を下って行きました。

 小学生の頃、県道の大掛かりな改修工事をしました。日本丸か海王丸のマストにする丸太を運ぶ為だと言っていました。 長さが40m~50mほど有りそうな丸太を運ぶのを見学した記憶が有ります。

(余談 :筏からトラック輸送) 1958年頃から、難所の峠を通ら無くて良い様に、手掘り/発破のトンネル工事が始まりました。 トンネルは1960年頃に完成して、筏乗りは廃業してしまった様に記憶しています。 このトンネルは、今でも現役です。

【⑨ 製材】
 1960年代の前半に、私の集落に製材所が出来ました。 これが、村の最初の製材所だったと思います。 規模が小さかったので、大半の木材は田辺市の文里(もり)湾に有った製材所にトラックで運んでいました。 文里湾には貯木場が有り、その周辺に製材所が数軒有ったと記憶しています。

 文里湾の貯木場には、ソビエトから輸入した太い丸太が沢山浮かんでいて、一時期・活気がありました。 製材された木材(板、合板など)が輸入される様になって、現在は貯木場は無くなり、製材所が三カ所残っているだけの様です。 (製材所は山間部に数か所出来ています。)

 日本には大規模な製材所は少ないです。 日本一は、呉市に有る『中国木材』です。従業員が2,300名ほど、売り上げが1,200億円ほど有る様です。

(余談 バーク堆肥) コーナンなどのホームセンターでは『バーク堆肥』を売っています。バーク(Bark)とは樹皮の事です。 一般に針葉樹(杉、檜、松など)の樹液は作物の成長に害を及ぼす様です。針葉樹の樹皮にも樹液が含まれています。製材所で発生する樹皮は邪魔者だったのです。 私が子供の頃は、製材所で樹皮を燃やしていました。

 確か東京農大の先生(植村誠次氏?)だったと記憶するのですが、1960年代に、針葉樹の樹皮を堆肥にする方法(バーク堆肥の製造方法)を考案した様です。

 公共事業で使用する資材の単価を纏めた『土木工事積算標準単価』と言う本が毎年発行されます。バーク堆肥は発売される様になって直ぐに、この本に記載される様になりました。 街路樹を植える時等に、バーク堆肥を多量に使用します。 「国がバーク堆肥にお墨付きを与えた形になって、バーク堆肥が急激に普及したのだ」と私は思いました。

(余談 :私とバーク堆肥) バーク堆肥や腐葉土には種々の物が販売されています。シンプルな物は、20リットル入り袋で、バーク堆肥は700円程、腐葉土は1,000円程で入手出来ます。 私は鉢植えや花壇にバーク堆肥を入れています。 何でも程々が良い! 無闇矢鱈にバーク堆肥を入れると、肥料過多になってしまいます。

(余談 :私と有機肥料) 私は昔、古紙を水を使わないで『紙綿』にする機械を開発しました。 水分の多いい『魚のはらわた』や雑草に、『紙綿』を混ぜて有機肥料の原料を作る機械も開発しました。『植繊機』と命名して、商標登録しました。 現在、植繊機は(株)アーステクニカが製造販売しています。

 「有機肥料の作り方や業界の状況を勉強をする必要が有る」と考えて、(株)兵庫バークセンターを3回訪問して、苦労話を聞いたり、親切に色々教えて頂きました。

 葦(よし)、セイタカアワダチソウ、ツタ植物等を植繊機で粉砕して堆肥にする実験をしました。 私が有機農業を教えて頂いていた先生(HM氏)が、モンゴール人のテント『ゲル』に似た(プラスチック・シート製の)発酵槽を販売していたので、数セット購入しました。 一台の容量が4立方メートル程有りました。 HM氏の工場の空き地で、堆肥を作ったのです。 殆ど無臭で、一か月程で堆肥になりました。

 数軒の農家が、堆肥が出来たら使ってくれる約束をしてくれました。 HM氏の工場に様子を見に行くと、堆肥が全て無くなっていました。北島三郎氏の馬を預かっていた厩舎が軽トラで来て、「少し堆肥を分けてくれ」と言い、次に大型のトラックで来て、「馬が良く食べるから」と言って残り全部持っていったのだそうです! 私は大損害!で、約束して農家と社内に、言い訳するのが大変でした。

【結論 :私の主張】
 「杉や檜を育てる為には種々の手入れ(仕事)が必要だ!」と言う事が分かって頂けたと思います。 然し、日本には・林業従事者は45,000人しかおらず、一人が平均550ha(1km✕5.56km)もの広大な面積を管理する必要が有るのです。 高騰前の木材価格では、国からの補助金無しでは45,000人の林業従事者すら満足に食べていけ無かったのです。

 植林した山は、枝打ちや間伐を繰り返さないと良質の木が得られないだけでは無く、下草や羊歯が生えないと・大雨が降ると『土』が多量に流失してしまいます。 流出した『土』は川底に堆積するので、鮎が食べる苔が育たなくなってしまいます。 何らかの対策をしないと、清流が減ってしまいます。

 戦中と戦後に木材の需要が急激に増加し、全国で雑木林を伐採して杉や檜を植林しました。 その後、外国から安価な丸太や製材した板や木材チップが多量に輸入される様になって、国産の木材価格が少しずつ低下して来ました。 手入れをしないで放置する山が増加してきたので、植林から40年間の費用を国が全額援助する様になりました。 良質の木材を得る為には、40年は短すぎると思います。 国の出費を減らす事も重要ですから、『十把一絡げ』の考え方は止めて、植林に向かない山を選別をして、植林面積を減らす事が肝要だと思います。

 戦後、国は林道網の整備に莫大な金を投入してきました。 全国の森林を綿密に調査して、(ハザードマップの様な、)①雑木林が適切、②杉や檜の植林に適している・・・を示す地図を作成し、不要な林道は廃止すべきです。

 森林の維持/管理には、常識的な自由経済理論を適用しては駄目です! ①美しい自然を維持し、子孫に残す。②過疎地の崩壊を防ぐ!③上質の木材を育てる。・・・の様な、縦割り行政では無い・総合的な視点で政策を立案すべきです。

★★★★★★★★
【余談の余談 :ロシアの宝石】
 もう時効なので書きます。田辺市の文里湾にソビエト船が来ていた頃、船員達が宝石を隠し持って上陸していた様です。 宝石店の上得意で口の堅い人に限って、格安で売っていた様です。 義理の母から大きな宝石の付いたネクタイピンを四、五本頂きました。 そのうちの一本は、プラチナの台にエメラルドと思われる綺麗な大きな石が付いていました。 義理の母は、値段は言いませんでしたが、非常に高価だったとだけ言いました。 そのネクタイピンを着けて、迂闊にも銀座線の超!超!満員電車に乗ってしまったのです。 ドンドンと体がぶつかった瞬間、ネクタイピンは無くなっていました。


植林から製材まで (その1)

2021-07-03 11:46:47 | 山林の問題
【はじめに】
 今回と次回は木を育てる仕事について書きます。 農作業や漁作業は時々テレビで放映されますが、林業作業を見た方は少ないと想像するので、私の子供の頃を思い出して書きました。

 北米などで大型の機械を使って、大規模な伐採をしている映像を、何回か映画やテレビで見た事が有りますが、日本では今でも林業作業は手作業が基本の様です。

 私の故郷の龍神村森林組合は、近年赤字が続いていましたが、木材価格が高騰しているお蔭で、前期は少しだけ黒字になったそうです。

【関連記事】
 森林や木材に関して、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 森林破壊と再生   :2021年6月12日投稿
★ 木材価格が高騰している様です! :2021年5月29日
★ 過疎地の新しい産業は!  :2018年6月23日

【私の経験】
 父は軍人で、戦後(1946年の始め頃に)母と5人の娘達を連れて紀州の故郷に帰りました。戦友や部下が沢山戦死していたので、やりきれない日々を送っていたと想像します。 父は既に45歳になっていたのですが、帰省して直ぐに待ち望んでいた男の子(私)が生まれました。 どれだけ嬉しかったか想像に難く有りません。

 父は一家を養うために木材と山林の商売を始めて、成功しました。 小学校に入るずっと前(三歳頃)から、父が雇った人達の山仕事の状況を見て回るのに私を連れて行くようになりました。 小学3年生の頃に商売は辞めてしまいましたが、都会に住む方の山の管理(山番)は続けたので、中学を卒業する頃まで、二人で山に行きました。 杉を植えるべき場所は?、檜はどんな所に植えるのが良いか!、赤松は高く売れないが山の頂上でも育つ、等々・・・色々教えてくれました。

 1953年頃に、父は家の近くの雑木が生えた3町歩(3ha)程の山を買って、裾野部分・1町歩を文筆して集落の人達に売りました。近所の家は、畑にして、サツマイモやジャガイモを作りました。 我が家も1反部(10a)ほど畑を造りました。 そこで、杉や檜の苗を育てたのです。 戦争で都市部の住宅が破壊されていたので、木材の需要が多く、私の村でも盛んに伐採され、植林しました。 それで、杉や檜の苗の需要も多かったのです。

 苗は根が大切です。 栄養分が多いい土で苗を育ててはいけません。 開墾してすぐの赤土の多い畑で育てる苗が良いのです。 私の独断と偏見かも知れませんが、人間も何の不自由も無い裕福な家で育つとグータラ息子になるか、チョットした事で引きこもりになる恐れが有ります。貧乏人の子供は、逞しく生きる術を自然に学びます。

 我が家の杉と檜の苗は『挿し木』でしたが、種から育てる事(実生苗)も出来ます。 父は、「実生苗の方が、植林後の成長が早い」と言っていました。真否は分かりません。 成長が早すぎると、年輪の幅が広くなってしまうので、良質の木材にはなりません。 同じ理屈で、南向きの山は成長が早く、北向きは逆になります。 父は、「南向きの山は買うな!」と言っていました。

 前述の山の雑木が生えた2町歩は、父・母・私の3人で、少しずつ雑木を伐採して、植林しました。 雑木は薪と『椎茸ほだ木』に利用しました。 二、三年間ほど、父は炭窯を自分で造って炭を焼きました。

 私は、小学生になる頃から中学を卒業するまで、10年間ほど、雑木の伐採、植林、下刈り、枝打ちを手伝いました。

 1953年頃から、父は、現在の原木栽培のやり方で椎茸栽培を始めました。 この栽培方法は1943年に森喜作と言う方が開発したそうです。 当時はまだ龍神村では殆どやっていなかったと思います。 家の中に乾燥室を作って、本格的に椎茸栽培に取り組みました。始めた頃は結構儲かった様でした。

【① 植林】
 1年~2年間畑で育てた杉や檜の苗を、春と秋に山に穴を掘って、1本ずつ植えます。

 平坦な土地に杉や檜を植えるのだったら、田んぼに稲を植える様に等間隔で植えれば良いのでは?と思います。 イタリアの平地の林を見たら、等間隔に整然と木が並んでいました。 私の故郷では、結構いい加減な間隔で、苗を密集して植えます。

 村に鍛冶屋が有ったので、父は子供でも扱える小ぶりの鍬を作ってくれました。 その鍬で、私は小学校に入る前から植林を手伝いました。 そんなに大きな穴を掘る必要は無いので、子供でも出来ます。 ただし、足場の悪い急な斜面に植える時は、子供では難しかったです。

【② 下刈り】
 杉や檜の苗の高さは20cmほどしか有りません。 植えた後、直ぐにススキ等の背丈の高い草が生えて来ます。 雑木を伐採した後に植林すると、雑木の株から芽が出て、1年もすると1m以上に成長してしまいます。 日陰では杉や檜は成長しないので、植林後・数年間は毎年、草や雑木を切り払う必要が有るのです。これが『下刈り』です。

 下刈りと同時に、幹が曲がったり、成長の遅い杉や檜を切り捨てます。下刈りは間伐の初期段階でもあるのです。 柄の長さが1m以上有る鎌『下刈り鎌』を振り回して、草や雑木を切り払います。結構・体力が必要な作業です。 急峻な山の、足場の悪い所でするので、危険な作業です。

 現在は、エンジン付きの草刈り機を用いて下刈りをしている様です。

(余談) 鍛冶屋で小学生の私の体格に合わせた、特注の下刈り鎌を父が買ってくれました。 自分用の下刈り鎌を持っている子供はいなかったので、誇らしく/嬉しかったです。

【③ 枝打ち】
 樹木には枝の出る芽(側芽/腋芽)が有り、上の方の枝を切ったり、枯れたりすると、側芽が動き出して枝が出来ます。 日本で植林される杉や檜の側芽(腋芽)は非常に特殊です。 植林して何年か後に枝が十枝になっていたとします。 下から5枝を切り落とすと、その高さまで新しい枝は出来ません。 木が成長するにつれて、下から枝を切っていきます。 これが『枝打ち』です。

 木が若い頃は子供でも枝打ちが出来ますが、木が成長してくると木に登って作業する必要があり、子供では無理です。 更に成長すると、ターザンの様に、木から木に飛び移って仕事を続けます。 木の上でタバコを吸って休憩していました。地上には滅多に降りて来ませんでした。 最後の枝打ちの時は、20m~30mの高さまで登るのです!

(余談 :木登り器) 和コーポレーション社が木登り用の道具『与作』を発売しています。 ホームページで、与作を使って木に登っている動画が見られます。 ターザンの真似をしないで、安全に枝打ちが出来そうです。

 幹に傷を付けない様に、慎重に鋸で枝を切り落とします。 枝打ちは、切り口が傷みやすい初夏から紅葉が始まる迄の時期を外して行います。 数年間隔で、枝打ち→間伐→枝打ち・・・を繰り返します。枝打ちと間伐を調整して、木目の幅が均一になる様に育てます。

 木が成長して幹が太くなると、切り落とされた枝の付け根は木部に取り込まれて、何処に枝が有ったのか分からなくなります。 安価な板や柱には『節(ふし)』が有りますが、節は枝の痕跡です。 芯の近くには節が有りますが、枝打ちを繰り返して100年とか200年間育てると、節の無い高級な板や柱が得られます。

(余談) 『枝打ち』と言う言葉から、鉈(なた)やえび鉈で枝を切り落とす様に考えられると思いますが、傷を付けない為に鋸を使います。 現在は小型のチェーンソーを使用しているかも?

(余談 :北山杉) 川端康成の『古都』を読んで、京都の中川に北山杉を見に行った事が有ります。 杉にとっては、非常に残酷な育て方をしていました。 枝を天辺にチョットだけ残し、幹が太くならない育て方(栄養失調すれすれの育て方)をしているのです。 それで、「苦しい/助けてと言い続けて、幹に縦の皺が沢山出来るのか?」と勝手に思いました。

(余談 :JR京橋駅の針葉樹) JR京橋駅近くの環状線の土手の下に、檜科の結構太い木が十数本植わっています。下の方の枝は邪魔になるので、時々切り落としている様ですが、広葉樹の様に側芽から新しい枝が毎年生えて来ています。 これらの木は、枝打ちしても節の無い木材は得られません。 この木の名前を知っている方がおられたら、(コメント欄に記入して、)教えて下さい。翌檜(あすなろ)でしょうか?

(余談 :節穴から覗く) 大学の夏休みに帰省した時、友人と、地元では扇ヶ浜と呼ばれている所に海水浴に行きました。 節だらけの板と柱で出来た仮設の脱衣小屋が有り、板で男女の部屋を仕切っていました。 高校の男の同級生が数人来ていて、蒸し風呂の様な脱衣小屋の内で、汗ダラダラになって仕切り板の節目に錐で穴を開けようとしていました。

 節は固いので錐でも、穴を開けるのは難しいです。私は品行方正では有りませんが、彼らを手助けしませんでした。 暫くして、「穴が開いた!」と言うので覗いて見ました。 女性は、スカート等を着けたたままで下着を脱いで、水着を着て、それからスカート等を脱ぐことを知りました。期待はずれだったのです! 節穴から除くと視野が狭いので、「お前の目は節穴か!」と言うのでしょうか?