これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

企業の民主化 (その6)

2019-11-30 14:45:49 | 民主主義
 今回は、私にとって思い出したくない、会社での『不条理』な経験を書きます。 私の可愛い孫達が社会に出る前に、政治家やジャーナリストが頑張って、企業の民主化度を改善する事を願っています。

【直立不動を要求した重役】
 私の経験では、重役に昇格すると三人に一人は”人格異常”になりました。 その典型例がM氏です。 M氏は大きな工場駐在の平取になり、ガラス張りの広い重役室に入りました。M氏は、重役室ではメモを取る事を禁止して、直立不動を要求するのです。 そして、長時間掛けて細かな指示をするのです。

 その時の体調によると思いますが、人間は30分ほど直立不動で立っていると、意識が朦朧となって倒れるそうです。ガラス張りの部屋ですから、「今日は、○○さんが倒れた!」と言う話が、直ぐに広まりました。 私はM氏の部下では無かったので、「○○さんでは無く、M重役が悪いのだ」と女性社員達に言いましたが、「ふーん、そうかしら?」と言う様な反応でした。

【無茶苦茶な工場長】
 私が所属していた工場(K工場)の工場長にT氏が着任しました。 着任した時の挨拶で、「私の座右の銘は”朝令暮改”です」と話しました。 「自分の言動が間違っていたと気付いたら、直ぐに訂正す勇気を持て」と言うのです。 一見、正論の様に見えますが、T氏は思い付きで指示を出し、頻繁に180度違う指示を出すのです。

 当時、私は東京本社勤務でしたが、設計部員全員に訓話をする時はK工場まで出張させられました。 金正恩が指示を出している映像が報じられますが、まさに同じ様な光景でした。私ともう一人(G氏)以外は、全員、頷きながら聞く異様な光景だったのです。 T氏は、G氏と私を睨み付けながら話していました。 数か月後にG氏はアメリカの子会社に飛ばされ、私は研究所に貸し出されて難しい開発を担当させられました。

 T氏は設計部長兼務でした。設計部は課制度が廃止され、4つの室になっていました。一番古手の管理職が”室長”になっていましたが、T氏は若手を室長に抜擢して、古手は殆ど出向させました。抜擢された室長達は、長くて半年、最短は1週間ほどで交代させられ、その後は営業に飛ばされたり、出向させられたりしました。 1年ほどすると、私より年長の社員だけで無く、数年後に入社した社員達も殆どいなくなってしまいました。”人減らしの嵐”が吹いていたので、T氏の無茶苦茶な人事は会社の方針に合致していたのです。

(余談) 『禍福は糾える縄の如し』とはよく言ったものです。T工場長が移動になった後、G氏は帰国しました。K工場には、殆ど人材が残っていなかったので、G氏はトントン拍子に出世して、最後は専務になられました。 私は、難しい開発を次から次に担当する事が出来、技術者として悔いの無い、素晴らしい人生を送る事が出来ました。

【東大で銀時計を貰った社員】
 私は、ノルウェーの兵器廠から技術導入してガスタービンを国産化している課に勤務していました。 私より十歳ほど年上で、東大で銀時計を貰ったというエリート?(S氏)が配属されました。S氏は着任早々、「僕は社長になるために、この会社に入った」と公言して、殆ど仕事をせずに、東洋経済やダイヤモンドなどの経済の雑誌を読んでいました。

 課長が時々仕事を言いつけるのですが、報告書の作成、工学の計算、計画図の作成など、何をやらせても出来ないのです。S氏は社内の英語のリスニングテストは抜群の成績でしたので、ノルウェーからのお客さんの応対を任されました。お客さんから、「せめて、大学卒の方に代えて頂きたい」と言われたそうです。「幾ら英語の成績が良くても、日本語の出来ない人間ではだめだ!」と言って、お偉方達は笑っていました。 S氏は暫くして配置替えになりましたが、60歳の定年まで給料を貰いました。

 たいていの大企業には、仕事をしない社員はいます。私はS氏以外にも、①出社して10分程したら、何処かに出掛けて、定時の10分程前に帰社する社員、②目が悪くなって文字が読めなくなった社員、③工場の隅で空き缶を叩きながら、一日お経を唱える社員、④電話の無い席で、一日新聞を読む社員(彼には話しかけるなと言われていました。)等々・・・十人ほど知っています。終身雇用ですから、辞めさせられないのです。

(余談) 私はS氏と数年間同じ課の所属でしたが、その後、十年以上会っていませんでした。私が小さな会社に出向して、近くの顧客を訪問する途中で、バッタリ・S氏に会ってしまいました。 S氏は私の出向先を調べて、居室に入って来る様になってしまいました。 S氏は県営住宅の管理人になっていて、暇を持て余していたのです。 「忙しいので帰ってくれ、忙しいのでもう会えない」と言っても駄目でした。

【弱視になった社員】
 私が入社した時、歯車の設計をしていた社員が二人いました。一人は定年まじかで、30歳代の若手(H氏)を育てていました。 私はスイスのマーグ社が設計した減速機の国産化を担当する事になり、二人に親切に色々教えて頂きました。  その後、何回も歯車の設計が必要になり、この時・教えて貰った事が役立ちました。  (当時の定年は55歳でした。)

 それから15年ほど経って、私が転勤になった部にH氏がいました。 H氏の席は、広い部屋の隅にポツンと置かれていました。 直ぐに挨拶をしましたが、彼は殆ど目が見えなくなっていました。 それで、新聞も読まずに一日座っているだけだったのです。時々、私がH氏に話し掛けるのを見て、女性社員達は「なんで?」と不思議がりました。彼女達は、”不要物/ゴミ”の様に接していました。

 既に、出向の嵐が吹いていましたが、引き取って貰える会社が無くて、H氏はまだ会社にいたのです。 元気な頃に、多くの社員がH氏のお世話になったので、辞職を迫る人はいなかったのだと思いました。 多分、いたたまれ無い心境だたのでしょう! 彼は数か月後に(自ら)辞表を出し、送別会も辞退して辞めた様でした。 私は、彼の様に働け無くなった人は、労災の様な制度で国が面倒を見るべきだと思います。

【現場社員の虐め】
 私が最初に出向したのは、機械の設計/製造をする小さな会社でした。 仕上げ・組立・現地据付をする現場社員(仕上げ工)が五六名いました。リーダーの30歳代前半の社員(A氏)が、常に部下の一人をターゲットにして、チクリチクリと虐め、一人が辞めると別の人がターゲットになるのです。 年に一人か二人辞めました。

 それから、10年ほどして定年になり、私はその会社に再就職しました。 仕上げ工は全員新しいメンバーになっており、A氏は癌で亡くなっていました。 やはり30歳代前半の社員(B氏)がリーダーでしたが、B氏は取り巻きの二人を除いて、徹底的に虐めるので、年に二三人辞めていました。 その都度、製造部長がハローワークに求人を出していましたが、部長はギブアップしてしまいました。

 社長、部長、私の三人で対策を話し合い、私は「B氏を辞めさせる」案を推奨しましたが、二人は反対されました。 結論は、「B氏に面接させて、彼が納得した人を採用する」でした。 B氏、部長、私の三人で数人面接して、B氏が最も適任で無い、従順そうな二人を選びました。

 居酒屋で店員をしていた20歳代の男性(C氏)と、大手電機会社に出向して家庭電気製品の組立ラインで働いていた40歳ほどの男性(D氏)です。 早速、C氏を虐め始め、C氏は2か月目の給料を貰って辞めました。それからは、D氏の番でした。D氏は、妻子がいたので、半年ほど頑張りましたが、結局辞めました。 部長はハローワークに行こうとしませんでしたし、取り巻きの一人を虐め始めたので、私が辞める時には、仕上げ工は二人になっていました。

【沢山、部下を辞めさせた社員】
 私はブルーカラー社員の世界は良く知りませんが、ホワイトカラーでは数十人の中に一人は、『虐める事が出来る地位(管理職)になると、虐め始める』人が出て来る様に思います。 そういう人は、年とともに苛めがエスカレートしてくる様でした。

 自分の失敗を入社二三年目の社員に押し付けたり、些細な事で部下を怒鳴って辞めさせた管理職を十人程知っています。部下を十人以上辞めさせた失格管理職を二人知っていますが、(なぜか?)会社は、部下が辞めると、若い部下を新たに付けるのです。 「貴方の子供か孫が、そんな失格管理職の部下になる」と想像して下さい。 法律では罰する事は出来ませんが、失格管理職と人事部の担当者は一種の犯罪者です。

【オームの村井秀夫氏】
 1995年に阪神淡路大震災が有りましたが、その年の暮れに、1985年頃に同じ部署で働いていた仲間・三人で飲みました。 私が「○○部長から毎日怒鳴り付けられていた二人はどうしているか?」と聞いたら、「○○部長の席から数メートル離れた所に、殺されたオームの村井氏の席が有った、覚えているか?」と言うのです。村井氏は、数メートル離れて私と向かい合って座っていたらしいのでですが、私には全く記憶が有りませんでした。 (村井氏がオームに入信したのは、その後の1987年だそうです。)

 日本の1社とヨーロッパの2社でしか製造していない機械が、国立の研究所や大学で使用されていました。 入札が出来ないので、私の会社に、文部省から期限4年で開発を依頼していました。流体機械を研究していた管理職(P氏)の下に、精密加工を研究していたF氏、図面工のJ氏と実験工2人の合計5名のチームで開発していました。 開発は暗礁に乗り上げ、P氏は逃げてしまい、F氏が毎日の様に責められて、ノイローゼになって1984年の1月頃に退職してしまい、開発は中断してしまいました。

 約束した開発期限まで1年を切った時に、私はK工場から貸し出されて、その開発を担当させられたのです。悪賢い人達が考えた妙案でした。『私が失敗しても、幽霊社員ですから私を首にしたら、偉い人達は誰も責任を取らなくても良い』と言うグッドアイデアです。 私は、子供が小さかったので会社を辞める分けにはいかず、一か八かで必死になって頑張りました。 (もともと髪の毛が少なかったのですが、酷い円形脱毛症になって、以来、ほぼ坊主頭になりました。)

 辞めたF氏と村井氏は、二人とも加工の研究者で、席が10メートルも離れたいなかったので、多分面識が有ったと思います。F氏が辞めた経緯、私に無茶苦茶な責任を負わせる状況、○○部長が連日部下を大声で虐めるのを見て、更に”人減らしの嵐が吹き出した”のを見て、村井氏は会社と人生に失望したのでは?と私は思いました。 (村井氏を擁護するつもりは有りませんが、)当時、村井氏は二十歳代でしたから、こんな環境には耐えられ無かったでしょう!

(余談) 奇蹟が起こって、私は開発に成功しました。研究開発を担当していた重役から表彰状を頂ける事になったのですが、式の冒頭に重役が、「チョット協力したからと言って、他部署の人間を表彰する当社の体質は問題である、辞退すべきだ!」と言い出しました。私が席を立って退出しようとしていると、実験工の一人が「それはあんまりだ、僕も辞退する」と言って立ちました。 残りの実験工達も立ち上がり、お偉方が制止するので、私も席に戻りました。 開発の手柄は、最後まで逃げ回ったP氏が受け、私は紙切れ一枚もらっただけです。 (会社を辞めずに済んだので、私は満足すべきでした!?)

【最悪のケース :1】
 大昔(1970年代)の話しです。 ある機械の拡販を狙って、重役主催の大パーティーを開きました。 コンパニオンを沢山雇って、大いに盛り上がっていたのですが、客の一人が重役に、「招待状の名前が誤っているのでは?」と言ったのです。 招待状を確認した重役が、沢山の客の前にも拘わらず、烈火の如く怒り出したのです。 (これは、私の目の前で起こりました。)

 担当部長と課長が、部下の新入社員(U君)を呼び付けて、重役の前でU君を、”こっぴどく”怒鳴り付けました。 U君は会場から出て行って、そのまま退職してしまいました。

 パーティーの後、真面な連中と打ち上げ会をしたのですが、「U君が作った原稿を、部長と課長がチェックしたはずだから、U君だけの責任では無い」と言いながら、飲みました!

【最悪のケース :2】
 三人の重役が連名で顧客に出した文章の話しです。 出した後に、重役の一人が担当部署に来て、「序列が間違っている!」と部長と課長を怒鳴ったのです。 →部長と課長は、その場にいた担当の新入社員を怒鳴り付け→彼は数日後に辞表を提出しました。

 会社務めの経験の無い方には分からないかも知れませんが、重役には序列が有ります。 同じ平取(専務や常務でない取締役)でも序列が有ります。 重役の名前を列記する時は、会社が決めた序列に従う事が重要なのです。 「あいうえお」順は以ての外です。 私は若い時から重役絡みの仕事をしたので、重役の序列が大事な事だと教えられていました。 然し、一般には、そんな教育はされていませんでした。

(余談) 日本の法律には会長、社長、専務、平取の規定は有りません。株主総会で選ばれた取締り役達が、会社の規定で序列を決めているのです。 大企業では「会長」は代表権を持つ権力者ですが、中小企業では「御隠居さん」の意味で、代表権の無い会長も結構います。

【困った顧客】
 私は種々の機械の設計や開発を担当したので、種々の顧客に売り込みました。顧客の中には悪質な人が結構いました。その代表例を書きます。

 女性を要求する顧客は時々いましたが、営業がソープランドに連れて行ったりして、旨く対応していました。 某社の30歳代後半の独身の担当者に、私の作成した図書を、営業の庶務担当の20歳代の女性に持って行ってもらいました。 彼は彼女が好みだった様で、デートのアレンジを要求するのです。彼女に話すと、”けんもほろろ”に断りました。この案件はほぼ受注出来る状態まで進んでいたのですが、彼が「彼女とデート出来無いのなら・・・」と言って、他社に発注してしまいました。

 某大手の設計事務所から呼ばれて行くと、40歳代の男性が「昨日、某社から40万円渡すから仕事をくれと言われた。僕は賄賂は受け取らない・・・」と言い、賄賂の話しばかりして、「今日は、忙しいので、仕事の話は次回に」と言って、打合せ室からサッサと出て行きました。数日後、また呼ばれて行くと、「賄賂は受け取らない・・・」と話すだけでした。三回、訪問しましたが、仕事の話にはなりませんでした。

 某大手の超ベテラン営業マンに相談すると、氏名も要求金額も知っていました。40万円は、特に”吹っ掛けた”金額では無かったのです。この件は、営業が丁重にお断りした様でした。

企業の民主化 (その5)

2019-11-23 13:06:50 | 民主主義
 今回と次回は、私の職場にいた、とんでも無い社員達について書きます。 日本の企業に問題の有る社員が多いい原因は終身雇用制度だと思います。 その対策には、人事部を改革して、もっと権限を与える必要が有ると考えます。

(お断り) 法律では「社員」は株主の事ですが、私は「従業員」の意味で「社員」を用いています。 保険会社などでは、契約者の事を「社員」と呼びます。

【アクティブ人事学の提案】
 近年、マスコミで職場でのセクハラやパワハラが報じられますが、人間の持っている本質的な欠陥が原因ですから、皆が努力したら減少するでしょうが、無くなる事は無いと思われます。

 会社の課題を「利益アップ」にするのは間違いで、「会社の活性化」を課題にすべきだと思います。 会社を活性化して、生産性を向上させ、社員に優れたアイディアや特許を提案させる事が会社の最重要課題だと思います。 福利厚生施設を充実させても、同業他社より高給を出しても課題は解決しないと考えます。 私は現役時代に、どんな方法/制度が良いか?考えていました。

(私の提案 ①) 問題の有る社員を分類して、それぞれに対策を立てる必要が有ります。 社内健診の項目を増やして、精神疾患も含めるのです。 例えば、目が見え無くなってしまった人は、障害者ですから、会社では無く国が面倒を見るべきです。 躁鬱病が見つかったら、薬を飲む事を義務付けるべきです。 部下を虐めたり、辞めさせたりする社員は解雇すべきです。 単に仕事を任せられない社員は、大幅に給料を下げて、定年までアルバイト可の有給休暇を取らせるべきです。

 終身雇用の会社で、昔から採用していた”問題社員対策”は『窓際族制度』ですが、これは最悪の対策です。 皆が見える席で、朝から新聞や雑誌を読んでいるのを見たら、やる気が失せてしまいます。 大抵の窓際族は管理職待遇で高給を貰っていたので、なお更です。

(私の提案 ②) 公平な人事が重要ですから、『人事部を社内派閥に支配されない体制』にする。 対策案=人事担当役員の一人に、必ず社外取締役を含める。 人事部の権限を拡大する。

 私が勤務していた会社では、1990年頃に法律に詳しい社員を集めた部署(法務部)が出来ました。 他社との契約書を、サイン前にチェックするのが主な業務でした。 秘密保持契約書や共同開発契約書では、法律や公序良俗に反する内容が一項でも有ると、契約書全体が無効になるのです。 海千山千の中小企業の社長には、不当な要求が入った契約書は大歓迎なんです。 金になりそうなアイディアが出たら、単独で特許を出せます。 以前、裁判で何回か負けて、会社が損害を受けたので、法務部が出来たのです。

 法務部が出来た時に、部長職全員に一週間程の法律に関する研修を行い、「不当な契約書を部下に要求しない」と言う誓約書を書かせたそうです。 私は研究開発に従事していましたので、種々の契約書の案を多数作成しました。 小さな企業との契約書に、不当な要求を入れろと言う上司がいました。 困惑していると、法務部から出張して来た方が、「私には、人事部に、貴方を解雇する様に言う権限が有りいます」とキッパリと言いました。 ・・・→どんな会社でも、やる気が有れば「人事部の改革」は出来ます。

(私の提案 ③) 会社を活性化させる事を目指す、AIの活用、心理学、医学、法学、経済学を応用した『アクティブ人事学』の創設が必要と思います。

 50年程前に、『日本労務学会』が設立されましたが、我が国の企業は活性化されていません。 多分、この学会は学研的な取り組みが主で、個々の企業の体質や問題を余り深く研究していない為では無いかと思います。

【自己評価と他者観察】
 私が入社した会社では、一部の部署で自己評価と他者監察の制度が試験的に始まりました。 色々な質問に対し5段階の評価をするのです。例えば、「部下を旨く指導しているか?」、「他の社員と協調して仕事をしているか?」・・・会社が理想とする社員の指針を提示していたのです。

 不思議と、本稿と次稿に書く人達の問題についての質問は有りませんでした。 例えば、「毎日、喧嘩していませんか?」、「部下を虐めていませんか?」・・・問題の有る社員を焙り出すのが目的では無かったのです。

 他者監察では、所属の部から(出来るだけ)被観察者を選びなさいと記載されていました。知り合いの人事部の人に聞いたら、「難しい仕事の部署には優秀な人材を回す、逆の部署も有るから」と話されました。 自己評価と他者観察はマンネリ化して、30年ほどして廃止されたと記憶しています。

【私と職場】
 私は、約20か所の職場で働きました。 どこの職場にも、社員の”やる気”を無くさせる問題の社員がいました。その典型的な例を、書いておきます。

【毎日、イビキをかく社員】
 最初は皆さんに信じて貰えそうに無い、「事実は小説より奇なり」と言う話しです。 ある会社の開発部に出向していた時の事です。私の後ろに50歳代の男性の席が有ったのですが、彼は毎日3時間~6時間も、大きな鼾をかいて爆睡するのです。 週に二三回、部員の誰かが彼を起こして注意するのですが、彼は絶対に寝ていた事を認めず、何時も喧嘩になってしまいました。 イビキも問題でしたが、私の横での喧嘩はもっと嫌になりました。 (多分、彼は精神的な病気なのだと思いました。)

 古手の社員の話では、彼は先代の社長のお気に入りで、かなり前から勤務中に寝てしまう様になったのですが、辞めさせる分けにはいかないとの事でした。 貴方の席の横で、毎日部屋に響き渡るイビキをかく人がいると想像して見て下さい。 民主化度、以前の問題です!

【気が狂った社員】
 これも、信じて貰えそうに無い話しです。 私が担当していた機械に、大阪駐在の50歳代の営業マンが出来ました。 私と二人で顧客回りをする事になったのですが、初対面の時に、目付きが尋常で無い様に思いました。 客先での言動も可笑しく、上司に「彼は気が狂っているから、今後は私一人で営業活動をしたい」と何回も言いました。 私がくどいので、上司はそれなりに動いてくれた様でした。 「自分で精神科に行って、精神異常の診断書を会社に提出しない限り、終身雇用の会社だから首には出来ない」と言われました。

 貴方の会社に、目付きが異常な人が機械を売りに来たとします。 多分、貴方は二度と会おうとされないと思います。 何か所も顧客回りをしましたが、次のアポイントは取れませんでした。

 2か月間ほど我慢しました。 彼はカラオケが上手で、カラオケを希望される重要な顧客の接待によく駆り出されていた様でした。 当時、大阪にカラオケの出来る高級なクラブかキャバレーが2軒有って、その1軒で顧客とマイクの取り合いになり、殴り合いになったと言う情報が入って来ました。 次の週に別の高級店でも、顧客と殴り合いをしたそうです。 それで、課長と部長が精神科に彼を連れて行ったのですが、即入院が必要と言われたそうです。

【躁病の社員】
 私は、躁病の人を二人知っています。一人は同じ社宅に住んでいました。彼は、出向の嵐が吹いて会社が混乱している時に、ドンドン出世して重役になってしまいました。 彼の子供と私の子供が同い年だったので、家内が奥さんと親しくなり、彼がDVを繰り返している事を知っていました。 噂では、彼は会社でも手が付けられない状態だった様です。

 時々、会ったら話をしていた人事部のベテランに、「躁鬱病の主任(≒課長)はいますが、それ以上に出世したのは○○重役だけですね、何か対策されているのですか?」と聞いてみました。 「主任になった人を観察して、躁鬱病の人はそれ以上昇格させない事になっている」と言われました。

 もう一人は出向先の会社で、同じ部に所属する営業マンでした。 日の半分以上は外回りをしていたのですが、帰社すると誰かを捕まえて怒鳴り散らすのです。 私は、「家で会話が出来ますか?」と聞いてみました。彼は奥さんと息子さんの三人で暮らしていましたが、彼は「もう数年、家では一言も話した事が無い。3台のパソコンに光ケーブルを接続して、必要な事は伝え合っている」、「僕が光ケーブルを施工した」と得意げに話しました。 「御飯が出来ています」とか「風呂がわいています」とかもパソコンで伝えるのだと言いました。 彼は薬は飲んでいませんでしたが、自分が躁病だと自覚している様子でした。

【午前8時~午後8時まで】
 1975年頃の話しですが、当時、私は社員200名程の小さな工場の設計部に勤務していました。 そこに、S氏が工場長として着任されました。 着任早々に管理職を集めて、「ホワイトカラーは午前8時から午後8時を勤務時間とする。午後8時以前に課員が帰る課は、暇な職場と見なして、人員を削減する」と言ったそうです。 管理職達は、この話を課員には話しませんでした。

 当時、管理職は実務はしていませんでしたので、殆ど残業しないで退社していました。S氏が指示した勤務時間は管理職には適用されなかった様で、S氏の着任後も定時過ぎに皆さん帰っていました。S氏は、午後8時過ぎまでいて、ホワイトカラーの退社時間をチェックしていました。

 設計部では、幾ら残業しても月に3時間しか残業代は出ていませんでした。 然し、多くの設計部員は午後10時頃まで働いていましたので、余り実害は無かったのです。 遠方から通勤していた社員が二三人いたのですが、彼等は一二時間残業したら帰っていました。 S氏の着任後、暫くして彼らは全員転勤になりましたから、彼らにとってはS氏は神様の様な存在だったと思います。

【S氏と私】
 当時、私は近くの社宅からバイクで通勤していました。 通勤途中に有る設計事務所・2社に図面を描いて貰っていました。 朝か夕方の通勤途中に寄って、図面を描く人に直接指示したり、出来た図面をチェックして、問題が有れば直ぐに修正して貰いました。 このやり方だと、私の時間が大幅に節約出来、設計事務所にも大きなメリットが有りました。

 S氏は、私が午後8時前に退社する事を問題にし始めました。上司は、私が設計会社に寄ってから帰宅している事を知っていたのですが、S氏には理解出来無かったので、上司は連日の様に責められるのです。 私は、振動/騒音の研究者になりたくて、入社以来・家で勉強していました。振動/騒音の研究室の長と、時々会って勉強のアドバイスをして貰っていました。 (研究室から「何時でも受け入れる」と上司に言ってくれていました。)

 「私は今のやり方が合理的だと思うので、止めません。それでも駄目と言うのなら、課から出して下さい」と言いました。 上司は、その諭旨をS氏に報告した様で、その後、S氏は私の事は言わなくなりました。

【S氏が英語の図面を要求】
 S氏が着任して二三か月後に、「図面には一切日本語を使用してはならない」と言い出しました。 その工場は、製品の1/3を輸出していましたので、英文の図面は描けたのですが、役所向け(役所のビル、上下水道、病院など)も有りました。 私は下水処理場向けの設備を担当していたのですが、「英文の図面は受け取って貰えない」と上司に言いましたが、「前例が無いので、駄目とは言えない」・・・で、仕方なく英文の図面を提出しました。 市の担当者が烈火の如く怒って、追い返されました。

 結局、S氏に内緒で和文の図面を作成しました。 然し、S氏は製作図も英文にしろと要求したので、コピーした図面に手書きで和文の留意点を書き込む必要がありました。 各図面を数枚コピーして、それぞれのコピーに手書きしたのです。 その作業は、S氏が絶対に来ない場所でやりました。 「あと1年もしたら、S氏はどっかに行かれるだろう!」とか言いながら、皆で作業しました。

(余談) それから30年程して、大手の企業に出向して東南アジア向けのプラントの仕事をしました。 その時は、図面、計算書、購入仕様書等の図書は全て英文で作成しました。規格もISOとアメリカの規格でした。 従って、日本で調達する場合でも、英文の図書を業者に渡したのです。



企業の民主化 (その4)

2019-11-16 11:06:49 | 民主主義
 前稿に続いて、プラザ合意後の会社の話しです。 会社の民主化度はドンドン低下して、私の友人関係はズタズタになってしまいました。 早期退職を強いられた社員には、離婚した人もいました。 そして、会社と社員達の多くに、『止めの禍』の阪神淡路大震災が襲ったのです!

【資産の売却】
 前々回『企業の民主化(その2)』に書いた様に、プラザ合意の後、会社の経営が傾くまでは、社宅、独身寮、大きな体育館、運動場、保養所などなど、福利厚生施設が充実していました。

 K氏が、1987年に社長に就任され、→会長→1998年に辞められるまでの約10年間で、十か所程の工場を閉鎖して、跡地を売却しました。さらに、殆どの福利厚生施設も売却しました。 震災で壊滅的な被害を受けた神戸本社の跡地さえ売却したのです。

(余談 ①) 私は転勤が多かったので、独身寮と社宅(4か所)に住みましたが、出向した時(1996年)には5か所とも全て売却されていました。

(余談 ②) 1995年の阪神淡路大震災の後に、東京から某平取(ひらの取締役)が私の所属していた部署に来られて、社員の前で訓話を始めました。「地震の時、○○ホテルの××階に宿泊していた・・・」と話し出した時、ドヨメキが起こりました。 超高級ホテルのスイートルームの様な部屋だと社員達は知っていたのです。 私達は、東京へ一泊二日の出張する時は夜行バスを利用して宿泊代を節約していました。 震災前に、沖縄から引き合いが入り、技術説明の為、飛行機での主張を申請したら、往復・フェリーを乗り継ぐ案しか許可され無かったのです。(余りにも時間が掛かるので、断念しました!)

【ブルーカラーの残業代】
 ブルーカラーの社員は残業代が100%出て、ホワイトカラーは基本的には0%でした。(部署によっては少し出ました。) 経営が苦しくなってきて、ブルーカラーが(例えば100時間)残業すると、80時間分の残業代は支払うが、残りの20時間分は積み立てて、後日長期有給休暇を取得させる制度になりました。 そして、支払う残業時間は、80時間→70時間→60時間→段々少なくなって来ました。

 社員規定で、アルバイトは禁止されていたのですが、残業代を支払う時間が少なくなったので、1か月とか2か月の長期休暇を取る社員が出てきました。 それで、社員規定からアルバイト禁止条項が削除され、器用な社員達はアルバイトで結構儲けた様でした。

 私が入社した頃は、英語の読・書・会話の出来る、ブルーカラーは結構沢山いました。 彼らは海外に出張して、大掛かりな機械を据付/試運転/引渡をしていたのです。  出向が始まると、古手社員から出されたので、英語の出来る社員はドンドン減ってきていました。 一度出かけると数か月間帰らないケースも多々あり、海外での据付工事は殆ど休日が取れなかった様で、残業も多かった様です。 一度の海外出張で、残業が数百時間・溜まるケースは珍しい事では有りませんでした。

 その中に愉快な社員がいて、時々会社で見掛けたら、夜呑みに行っていました。 残業時間の積み立て制度が始まると、海外出張から帰ると二三日は出社するのですが、その後、二三か月の長期休暇を取り、二三週間出社して、また海外出張に出掛けていました。 それで、彼との飲み会は出来なくなり、私が出向する時、彼は海外に出ていたので挨拶も出来ませんでした。

(余談) 昔から、時々雑談をしていた、気の良い電気工事担当の社員が、部下2人の班長になっていました。 ある日、友人と居酒屋の座卓で飲んでいたら、彼が隣の席に部下2人を連れて来ました。 「残業代は出ないけど、残業してくれ」と頼みだしたのです。 残業時間の積み立ては、”ポイント”の様に期限があり、期限が過ぎると無効になりました。 部下2人では長期の休暇は取れません! 「班長は給料が良いから、僕らは・・・」と言い出すと、班長は鞄から給与明細とボーナス明細等を出して見せていました。 その班長は自分の残業代を減らして、その分を部下に廻していたのです。 ただ働きしたブルーカラーも沢山いたのです。

【出向の嵐が吹き始めました】
 1985年に昇給を停止するのと、ほぼ同時に出向や遠隔地の工場への配置転換が始まりました。 段々出向で去っていく社員が増加して来ました。 設計担当者は、設計の子会社に出向させられ、給与が大幅にダウンしました。 出向しても仕事は同じでしたが、出向した日から作業服が変わり、社員食堂を利用出来無くなりました。

 直ぐに、殆どの設計のベテラン社員は子会社に出てしまい、本体には若手社員が大半を占める様になってしまいました。 子会社の社員が、親会社の若手社員を教えながら仕事をする、異常な状態になたのです。

 大きな工場を閉鎖する時には、早期退職を少し募集した様でしたが、基本的には国の方針で、社員を出向させたのです。 (退職させると失業率が高くなります。) 早期退職制度では、退職金の水増しが必要になります。 時の政府の意図では無かったと思いますが、60歳で定年になった時の退職金を大幅に下げて、会社はリストラ費用を削減出来ました。(退職金は勤務年数で決まる月数に、定年時の月給を掛けた値でしたから、給与を毎年下げれば退職金は削減出来ます。)

 出向が始まる前の正社員数は2.5万人ほどでしたが、10年程で1.3万人ほどになっていました。  出向を進めながら、新入社員を採用したので、50%以上の社員が出向したり、退職した事になります。 出向が始まった頃は、グループ単位で送別会をしていましたが、余りにも頻繁に行われる様になり、二三人で一人を送るケースも出てきました。 それで、部単位で、二三か月分纏めて送別会をする様になったにのです。)

 本社に評判の悪い社員を集めて、50人程の出向先を探す部隊が出来ました。 非常に汚い手段まで使って、出向や退職をさせたのです。

【親友の出向】
 同期でグルメの親友が、出向が始まった頃、たまたま同じ職場にいました。 片道切符の出向(会社に戻れない出向)と、往復切符の出向が有りました。 部長から、「往復切符の出向だから、某子会社で2年間我慢してくれ」と言われたのです。 私は、部長と長い付き合いで、東大卒だけど仕事が出来ず、でも性格は良い人だと思っていました。 私は、人事部の情報に詳しい知り合いがいたので、片道切符の出向だと言う事を知っていました。 でも、出向リストに載ってしまうと、本人の希望は通らない事も知っていたので、彼には何も言わずに、二人で別れの酒を飲みにいきました。 (彼の出向先は、彼の家から200kmほど有りましたので、単身赴任した様でした。)

 私の想像でですが、部長は『2年後には自分は転勤になっているだろうから」と噓を言ったのです。 2年近く経った頃、彼から部長に電話が掛かって来る様になりました。 部長は、「君が帰れる様に種々頑張っている」様な話をしていました。 彼から余りにも頻繫に掛かって来るので、私は電話で”片道切符の出向”だと教えたのです。 彼は、私に烈火の如く怒りました。 それ以来、彼からの連絡は途絶えて、彼のグルメの誘いは無くなってしまいました!

【自分で辞めさせる出向】
 社員30名程の機械加工の協力会社が有り、出向者を受け入れてくれるので、優先的に仕事を出す様に言われました。 仕事の知識が全く無い女性の社長でした。 製品の運搬・納入と営業をする担当者がいましたが、彼も機械加工の知識が殆ど有りませんでした。 少し複雑な加工が必要な場合は、職人に直接説明する必要が有り、私は何回も出向きました。 私の会社からの出向者が何時も一人いましたが、半年も経たない内に新しい出向者に変わっていました。

 不思議に思って情報通の人に聞くと、気の弱い社員を選んで出向させ、その会社で「仕事が遅い、ミスが多い」等と徹底的に虐めて、自分で辞める様にするのだそうです。 私の会社が、社長に指示していたのです。

 時々会ったら雑談していた、気の良い職人さんがいたのですが、ある日、その会社に出向する事になったと挨拶に来ました。私は、言葉を失ってしまいました。彼は、2か月程で退職しました。 この手で、10年間に30人~40人辞めさせて、会社は億単位の金を節約出来たのです。(社長達の豪遊は続いていましたので、本当に腹が立ちました!)

【御用組合の暗躍】
 ブルーカラーの社員を出向させる場合、会社が出向者のリストを作り→組合に渡す→出向予定者の職場の常議員(組合の会議の議員)が、『脅したり、すかしたり』して説得するのです。 万一、説得に失敗すると常議員は責任を取らされる仕組みでした。 常議員は自分が地獄に落ちない様に必死になって頑張る分けです。

 組合は職場の人事権の一部を握って、誰が見ても適任で無い社員を職長や班長に昇格させました。 力を誇示したかったのです。 こんな事をしてたら、会社の将来に如何に大きな傷を残す事になるか?誰にでも分かると思いますが!

【私の出向】
 私は出向の嵐が吹いていた時、暗礁に乗り上げた開発を何件も引き継いでやりました。 阪神・淡路大震災で更に会社の経営状態が悪化して、開発費を大幅に縮小する事になり、1996年に私も出向する事になりました。

 私の同期は450名ほどいましたが、出向する時には10%程しか残っていなかったと思います。 私の後輩達も沢山退職したり出向していました。 私は、無理を言って、技術屋として武者修行に出してもらう事にしました。

 出向者をフォローする担当者がいて、私の係は真面目な方でした。出向先に、年に2回様子を見にきてくれました。 ある日、会社で悪評の高かった男が来て、「私が貴方の担当になった、今夜飲みましょう!」と言うのです。 彼は、出向先の社長が「本心では君が嫌いだ!・・・君を返したいと言った」などと言うのです。 それから、数日おきに来社して、社長には「私が社長から酷い扱いを受けていると言った」と言い、私には”社長の悪口を”言い続けました。 社長と私は根負けして、彼の要求を呑む事にしました。 既に、私の新しい出向先は決まっていました。

 新しい出向先は私の会社と取引が全く無いのに、出向者を数人受け入れ、OBも数人雇っていました。 (出向後に知ったのですが、)その会社の開発部長が脳血栓になり、私の会社に「開発部長を派遣して欲しい、出来なければ出向者を全員返す」と強く要求していたのです。

企業の民主化 (その3)

2019-11-09 13:40:24 | 民主主義
 今回と次回は、1985年のプラザ合意によって円が『急激に高騰』したために経営が悪化した、私の勤めていた会社の話しです。 会社は生き延びるために”禁断の手”を使いました。 民主化度は悲惨な状態になり、福利厚生施設の殆どは売却されてしまいました。

【日本にとって、今後も工業は大切です】
 近年の日本の経済について、極めて大雑把な話をします。 日本に有る富を100とします。その内90は国内で生産した富で、10は外国から輸入された富です。 国内生産の90の内、10は外国に輸出されます。 従って、国内では90が消費されます。(国内消費90の内、80が国産と言う事になります。) これは、現在の世界では、非常に健全な経済の国だと言えます。

 日本には地下資源(原油、鉄鉱石・・・)が殆ど有りませんから、工業製品を輸出して得た金でそれらの資源を輸入し続けなければなりません。 国際競争力の有る工業分野の企業が、頑張って資源を買う金を稼がなければなりません。

 優れた工業製品でも、製造方法を工夫して『安価』に製造しないと、国際競争には勝てません。 例えば、プレス加工の加工費は安いですが、一回に200個~400個以上製造したら少し安くなります。 開発費用は、予想販売台数で割った値が製品単価に加算されます。 日本は、(キーエンス社が代表例ですが、)計測器/分析器/センサー等の分野が強いですが、新製品を上市するまでに膨大な開発費が必要になります。 ある機種を開発するのに10億円掛かったとします、1万台で回収する計画の場合は、製品に10万円上乗せする必要があります。

 工業製品が国際競争力を維持する為には、国内だけで無く海外に沢山輸出して、生産台数を増やす事が不可欠なのです。 日本には、生産台数の30%以上を輸出している企業が沢山有ります。 (若者よ!英語をマスターして、将来そんな企業で活躍して下さい!)

 為替の変動は、輸出割合の大きな企業にとっては重大な問題です。プラザ合意で1ドル=240円台が→120円台に、円が急激に上昇しましたが、将来同様の事が起こった時は、政治家と官僚は「安易な対策を二度としてはならない!」と私は思います。

(補足説明) 上に、「国内消費90の内、10が輸入」と書きましたが、皆さんが買う品物の多くは輸入品ですから、皆さんは奇異に思われるかも知れません。中国が10円で輸出した製品でも、商社や問屋の取り分、輸送費、販売店の取り分、保険料等々が加算されて、皆さんは30円とか40円で買う事になります。 その差額の20円~30円は国内生産した富とカウントされます。 そんな理屈で、意外と日本の輸入依存率は低いのです。

【日本を襲った経済ショック】
 私が務めた会社は、売り上げの50%以上を鉄鋼部門が担っていました。 入社した頃はまだ、『鉄は国家なり』と言う言葉は死語にはなっていませんでした。 1985年のプラザ合意で、急激な円高になり、鉄鋼会社が犠牲になる事を政治家や官僚は理解していたと思われます。 鉄鋼産業は今でも日本にとっては重要です。 政府は、鉄鋼産業を存続させたいと種々動いたと思いますが、小手先の対策を取ったために、鉄鋼業界を駄目にしたのです。

 当時、我が国には世界に誇れる超大形の高炉が沢山建設されていました。 超大形高炉の操業には高度な操業技術が必要なのです。 (単に、大きな高炉を建設しても、操業出来ません。) 円高が少しずつ進んでいたら、日本の鉄鋼業界は世界を制していたと私は考えています。  韓国のホコウ製鉄所(現・ポスコ)と、中国の宝山鋼鉄を建設したのは日本です。 

(稲山嘉寛氏) ホコウ製鉄所と宝山鋼鉄の契約時、新日鉄の会長の稲山氏がサインしました。 (多くの先人達の努力の結晶である、) 製作図を含む図面一式、操業マニュアル等の貴重な資料を渡し、運転員のトレーニングまでしてしまいました。 それによって日本の鉄鋼業界が被った損失は計り知れません。 国賊だと言っても過言では無いと私は思います。 なんと、稲山氏は責任を問われる事無く、その後、経団連の会長になったのです!

(余談) 戦前は、鉄鋼と同様に石炭は、重要な産業だった様で、優秀な人材が集まっていたのです。 私が社会人になった頃は、石炭産業は”青息吐息"の状態でした。 三菱石炭鉱業から引合/注文を頂いて、旧丸ビルに有った本社に何回もお邪魔しました。 担当の方達は40歳台~50歳台の旧帝大卒で、技術屋として非常に優れていました。 斜陽産業に固守されないで、他社に移られたら大活躍されそうな方達でした。

★★ 私が務めた会社の経営状態が悪化し、民主化度が低下したのは、日本の政治家、官僚、稲山氏の安易な指示を受けて、悪知恵の働く社員達が活躍したためです。★★

★ 1973年 :第一次オイルショック /変動相場制に移行(1ドル=360円台→↓↓↓)
★ 1979年 :第二次オイルショック 
★ 1985年 :プラザ合意 ;急激な円高ドル安  1ドル=240円台→120円台へ
★ 1986年 :円高不況 →→産業の空洞化
★ 1986年~90年 :平成好景気
★ 1993年 :バブル崩壊
★ 1995年 :阪神・淡路大震災
★ 2008年 :リーマンショック

【経費節減運動】
 最初の経費節減運動は、1973年の第一次オイルショックの後に始まりました。 ある日、部長が社員を集めて「経費を節減」する様に訓話しただけでしたが、その部長は”至って”真面目な方で、率先して実行されました。 当時、既に夜間の高速バスが走っていましたが、現在の様に快適な座席では有りませんでした。 高齢の部長が利用されるので、私も仕方なく乗りました。 最初に乗った時、隣席のイビキが凄くて寝れ無かったので、次からは酒を買ってきて、私は早く寝る様に努力しました。(多分、イビキをかいたと思います。) 東京に着く時間が早すぎて、難儀した記憶が有ります。

 二回目の経費節減運動は、1985年のプラザ合意の後に始まりました。 実に”くだらない”、恥かしい内容でした。 各自が所有して良い事務用品を、鉛筆赤と黒各1本、黒と赤のボールペン各1本、シャープペン1本、消しゴム1個とし、その他はグループで一組と決め、余分(?)な事務用品は廃棄したのです。

(余談) その前の4年間、私は東京本社勤務でした。社長が、社長の派閥の重役数人を引き連れて、週に二三回超高級クラブで、豪遊されているのを知っていました。 一人一時間遊ぶと100万円もしたのです。 (この話は、社員の士気に関わると思ったので、会社では誰にも話しませんでした。)

 三回目の経費節減運動は1988年です。 当時、私の所属していた部の運動の責任者は、”酸いも甘いも知る”方でした。 運動の内容は3年前と同じでしたが、彼は”余分?”な分を廃棄しないで、紙の箱に入れて、誰でも手の届く所に置いたのです。 (この時、社長は別の方になっていましたが、友人の話しでは、超高級クラブでの豪遊はもっと盛んだった様です。)

【昇給ストップ→ダウン】
 1985年のプラザ合意によって、輸出が難しくなり、日本経済は一時停滞する事になってしまいました。 一年程で、日本の経済は回復しましたが、私の会社の経営状態はドンドン悪化して、昇給が完全にストップしました。 誰が考えたのか? 巧妙な手を使って少しずつ給与を下げ始めました。

 1986年から日本は『平成好景気』に入り、他の業界の会社では少しずつ給料が上がりましたが、私の会社は逆に下がり続けたのです。 先ず、ボーナスを下げ、定期昇給をストップしました。  (私は、人事上の職場で働く事が少なく、他部署に貸し出されて難しい開発の仕事をしましたので、ボーナスは下がりませんでした。それでも、1995年に出向する迄の10年間で、年収は20%近くダウンしました。)

【係長制度の廃止】
 私が入社した頃は、課長の下に係長がいました。 係長の重要な仕事の一つは、(新入社員を含め)経験の浅い社員の教育でした。 然し、1975年までに、係長制度は廃止されました。 職場での教育は”不要”、"する必要は無い”としたのです そして、新入社員等の社内教育を始めました。 大きな工場では、立派な研修所を建てて、大学の復習の様な教育を始めたのです。

 この制度は一見良さそうに思えますが、設計などの職場のレベルを低下させただけで無く、雰囲気も悪くしたと、私は思いました。 日本の理科系の大学教育は、学問の基礎を教えているだけです。 (文科省の考え方は、「仕事は、会社で適当に教えなさい」です。) 医学部の様に、卒業して国家試験に合格したら一人前(?)に働ける様に学生を教育していないのです。

 私より数年後に入社した社員の中には、飛んでもなく技術レベルの低いままで管理職になったのがいました。 私は、そんな管理職の部下を何人も教育する事になってしまいました。

【課長を廃止しました】
 課長を廃止て”主任”を設けました。主任は一応は管理職で、組合員では無くなるのです。 主任の部下はドンドン減って来ました。 私が働いていた開発部署では、部下のいない主任も沢山いました。 管理職の会議は、(昔の習慣を引きずって)主任も参加するので、管理職の会議が始まると部屋はガランガランになりました。

 主任制度になって少し後に、主任の給与は評価で大幅に上下する事になりました。 主任に昇格すると必ず昇給するのですが、私の周りの主任達は次の年も、その次の年もダウンして、3年もすると昇格前か、それ以下の給与になっていました。 人事部の知り合いの主任に、「給料がアップした主任はいるのですか?」と聞いてみました。「全社で数人いるから、評価していないとは言え無い、僕もダウンした!」と言いました。

 主任は組合員では有りませんから、春闘の対象にはなりません。 悪賢い人間が考え出した”妙案(?)”だったのです!

【平社員にも評価制度を導入しました】
 私が出向する少し前には、平社員のベテランと主任の給与の差が殆ど無くなっていました。 逆転している主任も出てきました。 多分、その問題を解消するのが目的だったと思うのですが、平社員の給与にも評価制度を導入する事になりました。

 社員を集めて、「頑張った人の給与はアップする」と説明しましたが、多分誰も信用しなかったと思います。 私は、幸いにも、直ぐに出向したので被害は受け無かったのです。

企業の民主化 (その2)

2019-11-02 11:06:35 | 民主主義
今回は、「昔は素晴らしい会社だったのに!」と言う話しです。

【企業の民主化度】
 私は、企業の民主主義の程度を表すのに、『民主化度』と言う言葉を勝手に作りました。 民主化度の調査は、非常に重要だと思うのですが、調査して公表すると、企業の求人活動を妨害する事になってしまいそうです。 然し、民間の寄付を集めて”民主化度調査団体”を作ったら、日本の企業は活性化して、経済の低迷から脱出できるのでは?と私は考えています。

 民主化度を高める為には、企業にとって”金”が掛かります。 然し、社員が”生き生きとして”仕事をする様になり、職場に活気が戻ると思います。→→会社の生産性が向上します。  内部留保に走らないで、”金”の一部を民主化度向上に使って欲しい!

【自分の会社の民主化度は?】
 自分が勤めている会社は、往々にして悪く思える様です。 私は、出向や共同研究などで、十社以上の会社に入って仕事をしましたが、自分の会社を褒める社員は殆どいませんでした。 どんな会社にも、どんな職場にも不満は有ります。 そして、殆どの社員は、他社の状況が分からないのですから、自分の会社に不満を持つ事になるのでしょう。

【企業の民主化度は前進/後退します】
 大企業の場合は、上司のパーソナリティで民主化度が前進したり、後退したりします。 同じ会社でも民主化度が高い風土が、伝統的に維持されている部署も有りました。 大体、利益率の高い部署は民主化度が高く、他社との競争が激しく、儲かっていない部署の民主化度は「同じ会社か?」と思えるほど悪かったです。

 1985年頃から、私の勤めていた会社は経営状態が悪化し始めました。 今回は、「1985年頃まで、どんなに素晴らしい会社だったか」について、次回は、「その後、どんな風に民主化度が悪化して行ったか」について書きます。

【私の会社の良かった点】
 私が入社した頃(1970年頃)、会社の民主化度は最高だった様に思います。今、振り返ると「入社した頃の会社は、当時の日本では民主化度の高い会社だった」と思います。 今から考えると、良い会社だったと思われる点を、以下に洗い出して見ました。

【① 月給が高かった】
 私は給料の高低で会社を選んだのでは無かったのですが、入社した会社は、大学の友人達よりも月給は20%以上多かったです。 1970年代には日本の会社は成長しましたから、(今では信じて頂けないかも知れませんが、)毎年、20%近く昇給しました。 私は仕事が忙しかったので、使い切れない程でした。

 1985年頃から、会社の経営に暗雲が立ち込め出して、私の給与は40歳頃がピークになってしまいました。 その後の10年間で、平均給与は20%~30%低下したと思います。

【② ボーナスも沢山出ました】
 当時は月給もボーナスも現金で頂きました。 ボーナスは2袋有りました。 課長以上の方のボーナスは、想像を絶する額でした。 課長になると、(名目だけ)子会社の管理職を兼務して、その会社からもボーナスを貰っていた様です。(この制度は、私が入社して数年後には廃止された様でした。)

(余談) 大卒の初任給が数万円の頃、古手の課長のボーナスは一回100万円以上有りました。 課長が会議で席を外されていた時、新入社員が課長のボーナスを預かったのですが、課長が帰られると、彼は「手帳を預かっていますと」と言って渡しました。(課員全員で大笑いした事を覚えています。)

【③ 社員が増加しました】
 私が入社した後、会社の経営はほぼ順調で、毎年沢山新入社員が入ってきました。 特に、大卒は多かったです。 入社して10年後には社員は2倍以上になっていました。 その後は、次第に会社の経営は厳しくなり、バブル期の前に人員削減を始めていました。 人員削減と同時に、給料がダウンして、職場の雰囲気が悪化して行きました!

【④ 独身寮】
 私の同期は450名ほどいましたが、その大半が独身寮に入りました。各地に独身寮が有り、暖房付きの6畳の二人部屋でした。 入社した年に、大阪で大学の友達が数人集まった事が有りましたが、(昔の大店の丁稚部屋の様な)一部屋に十人以上と言う会社も有りました。(その会社は、現在は超一流企業になっています。)

【⑤ 社宅も充実していました】
 全国、各地に社宅が有って、市価の半額以下の賃料で入居出来ました。 私は転勤で、4か所、10年ほど社宅を利用出来、非常に助かりました。 (一か所は3DKでした!)

【⑥ 最初の職場は冷暖房完備でした】
 私は1971年に入社したのですが、最初の職場は冷暖房完備だったのでビックリしました。 当時、暖房するビルは有りましたが、冷房は極めて少なかったのです。 夏・暑い日は、女性社員達が帰ってしまうと、皆さん、上着とズボンを脱いで、下着姿で仕事をするのは珍しい事では有りませんでした。

(余談) 1950年代に、ビルの冷暖房設備を開発し、デモンストレーションの為に、私の部署が有ったビルに試作機を設置していたのです。 当時の日本は、まだ貧しかったですから、需要が無くて、私が入社した時は冷暖房の分野から撤退していました。 (ダイキン工業さんより、10年程早かったのです。)

【⑦ 会社の病院】
 本社の近くに(結構大規模な)会社の総合病院が有り、勤務時間中でも診察を受ける事が出来ました。 腕の良い先生がおられて、市民の方も沢山来られていました。 この病院は、立て直し、更に大きくなって今でも存在しています。

【⑧ 会社の保養所】
 会社の保養所が全国に十か所近く有り、契約旅館やホテルも沢山有って、格安で家族旅行が出来ました。我が家は、箱根と軽井沢の保養所を何回も利用させて頂きました。

【⑨ スポーツ設備】
 本社には、大きな体育館が有り、ボーリング、トランポリン、バスケットなどの設備があり、昼休みや定時後に楽しむ社員が沢山いました。 大きな工場には、体育館、柔道場、運動場、テニスコートなどが有り、本社の近くにはGHQが作った洒落たプールも有りました。 このプールは暫くして閉鎖されましたが、1985年頃には一般にも開放する温水プールが出来ました。

(余談) 尼崎市だったと記憶するのですが、社員用の野球場が有り、取引先から「借りて欲しい」と時々頼まれました。 手続きが面倒だったのですが、何時も期待に沿える様に頑張りました。 そんな会社には、無理な仕事の依頼が出来たので、私は大いに助かりました。 (情けは人の為ならず。)

【⑩ 実業団スポーツ・クラブ】
 社会人野球部、バレイ部、陸上部とラグビー部が有り、野球部は強かったので応援に行きました。現在は、ラグビー部だけ残っています。

(余談) 私は、学生の頃からラグビーの観戦が趣味の一つです。(新日鉄釜石のファンだったのです。) 入社した頃は、会社のラグビー部は弱かったのですが、急に強くなって、応援する様になりました。それから40年ほど応援しています。 今でも、年に2~3回は観戦に行きます。 故・平尾誠二氏と同じビルに勤務した事が有り、時々廊下ですれ違いました。 ワールドカップでの日本の活躍は、感無量でした!

【⑪ クラブと設備】
 ヨット部、サッカー部、剣道部、弓道部、絵画部、勤労者演劇協議会(労演)、勤労者音楽協議会(労音)などなど、沢山のクラブが有りました。

(思い出 :1) 小形船舶2級免許を持った同期の友人が、会社のヨット部に入っていました。 「一人の出航は禁止、朝の9時まで待って、他に誰も来ない日は諦める」と言う規則が有りました。 結構遠方の港に係留し、最寄の駅から遠かったで、二人以上集まる事が少なかった様です。 休日の朝早く、友人が私を叩き起こして、ヨットに誘うのです。 操船担当を条件に、20回近く乗りました。 ヨーロッパ製の、木製でエンジン、キッチンユニット、トイレ、ベット付きの格好の良い本格的なヨットでした。

(思い出 :2) 私は、演劇鑑賞とクラシック音楽が大好きです。 労演には会社単位や職場単位で申し込むのが原則でしたが、駄目元で一人で申し込みに行って見ました。 最初は断られましたが、「如何に演劇が好きか!」粘り強く話したら、特別に許可して頂けました。 それ以来、殆ど欠かさずに見に行きました。 結婚して、妻も会員にしたので、二人で鑑賞しました。 十年程して遠方に転勤になり、以来労演から遠ざかってしまいました。

【⑫ 女性社員の教養講座】
 女性社員達の為に、お茶、生け花教室などが有りました。 生け花教室の日は、立派な花を持って出社するのです。 男性社員は怒鳴られたりしましたが、私が出向した1995年頃まで、女性社員を怒鳴ったり、虐めたりするのを見た事が有りません。 (会社も、男性社員も女性には気を使っていたのでしょう。)

 定時になると、女性達は一斉に帰ってしまいました。 1990年頃から、女性も専門職として採用する様になりましたが、それまでは事務職としての採用でした。女性は、30歳前に辞めるのがルールの様になっていました。