マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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鹿背山・先祖迎えの砂盛り花飾り

2017年03月27日 08時18分52秒 | もっと遠くへ(京都編)
共に松尾のサシサバ行事を取材していた写真家のKさんが云った。

今朝、松尾に行くまでに立ち寄った地域集落の各戸口に砂盛りがあったという。

砂盛りにはそれぞれの家が祭ったと思える花も添えていたらしい。

Kさんが伺ったのはその地域と関係する知人の情報だった。

その場におられた婦人から話しを聞いた状況は聞き取った話によれば、その村のお盆の在り方だった。

初盆は8月12日。

お昼にお墓に出かけてお参りする。

先祖さんの迎え日は8月13日。

あまりに遅くに迎えたら可哀そうだから午後4時にはしているという。

オムカエダンゴがある。

お茶を先祖さんに飲んでもらう。

8月14日の朝5時。

お寺さんが地区を廻って参ってくれる。

そのときにはボタモチを供える。

8月15日は朝から長野の善光寺参りをされるので弁当をお膳のうちと考えてオモチを持たせて参らせる。

参らせるのは先祖さんのことである。

13日にお家に来られた先祖さんは13日の晩、14日の二晩泊まって翌朝に長野の善光寺に参るというわけだ。

先祖さんは昼過ぎの午後2時には戻らっしゃる。

冷たいソーメンに家で作った山菜料理を食べらはる。

その晩はササゲ豆をはたく準備をしておく。

晩も山菜料理。

家で作った料理を供える。

翌朝の8月16日の朝はササゲ豆を入れたオカイサンを炊いて食べる。

先祖さんを送るので門口に砂を盛る。

花を飾って迎えたときと同じように線香を焚いて送るというわけだ。

奈良県内事例とほぼ同様の先祖さんの迎えと送りであるが、花を添えた砂盛りは初めて知る在り方である。

興味をもった私を現地まで案内してくださった。

到着した地域は京都府木津川市の鹿背山(かせやま)である。

JR木津駅より東に向いて、直線距離で1.5kmの地にある旧村。

集落入口に勧請縄が架かっていた。

集落に疫病が入ってこないように願って架ける勧請縄架けはいつされているのだろうか。

架ける支柱は両端に立てている金属ポール。

なんとなく導線があるように見える。

房の残欠と思われる処にはなんらかの樹木の枝木を挟んでいる。

中央は竹串の幣のようだ。

辺りに川はあるのか。

暗渠になったのか、詳しく見ている間もないが、なければ道切りの勧請縄である。

集落入口から歩いていく。

視線を落とす処は一軒、一軒を巡る戸口の様相。

大きな母屋を構える門屋口にあった。

あったにはあったが砂盛りだけだ。花が見当たらない。

写真を撮ってはみたが実にシンプルな砂盛りに一本のローソクを立てていた。

花は見られない。

そこより数歩も歩けば隣家になる。

家であっても戸口にはない。

先祖さんを迎えた印しがない家もある。

戸口というよりも辻にあった砂盛り。



乾いた山土か、畑土のような砂盛りにお花がある。

そこにはコウヤマキも挿してあった。

中央にはオガラ片を並べた階段がある。

天から先祖さんが降りてくる階段ではないだろうか。



そこより何歩も歩いていない辻にもあった砂盛り。

黄色に紫色や青色のお花で囲った中央に先祖さんを迎えた線香痕がある。

祭った家はどこなのかわからない。

これより坂道に何軒かあるうちの一軒であろうか。

次の場はどこにある。

気にもかけなきゃ見逃してしまう処にもあった。



そこは暗渠の道。

足の下は空洞の水路のところにもあった。

暗渠の道はやや砂まみれ。

溶け込んでいるから見落とす可能性がある砂盛りに花で飾った輪。

中央に燃え尽きた線香痕がある。

すこし歩けばまた一つ。



日に焼けたコウヤマキやお花は萎れているがれっきとした砂盛りである。

ここはどこである。

町内を案内してくれる大きな鹿背山マップがある。



現在地の赤印。

入ってきた入口に架けてあった勧請縄の地は「カンジョウ縄」と書いてあった。

集落内外を流れる川の名前もわかるし地域に散在する地蔵尊の名前もわかる。

地図をみているだけでワクワクする鹿背山の道案内にありがとうだ。

そこより少し歩いた処に石碑がある。

刻印に左鹿背山城址とある。



その向こう側の石灯籠には八王子・恵美須神社の名がある。

鹿背山マップをもう一度みればもっと奥に鎮座する神社が書いてあった。



石碑の下にもあった砂盛りは平たい植木鉢。

植木鉢というよりも水鉢のようだ。



鉢いっぱいに砂を盛って花を輪のように飾る。

上部から見ればよくわかる先祖さんを迎えた線香痕である。

どこまで歩いただろうか。

距離にしてはそれほどでもないが夏の盛りの照りに汗が止まらない。

ここも坂道にあがる辻の処にあった。

アスファルト舗装でなければ盛り砂の色がわかりやすかったかも知れない。



坂を表現するにはローアングル。

これが心臓に悪い。

ある程度まで我慢して屈むが短時間に抑えないと呼吸も困難に陥る。

実はフアインダーは見ることのできないカメラ位置。

適当に置いてシャッターをきる。

出現した画像をビューで確認して撮る。

上手く撮れていなければ何度も何度もトライする。

これは電柱の裾にあった砂盛り。



どこでもそうだったがどこの家の人が先祖さんを迎えたのかわからない位置にある。

花はいろんな花。

コウヤマキもあればない家も。

オガラの梯子もあればない家も。

それぞれの家の在り方であろう。

少し歩けば辻に出る。

辻から見えた地蔵尊。

6体あるから六体地蔵である。

これもまた鹿背山マップに書いていた。

ところがここには砂盛りは見られない。

先祖さんを迎えるのは各家である。

花は立ててはいるものの、地蔵尊には砂を盛ることはない。



その辻から足を伸ばしてみた。

奥のほうにも家が建つ。



入口、門屋辺りの何カ所かで砂盛りがあった。

ここの砂盛りは梯子が二つもある。

二つの意味はわからないが、他家と同じように先祖さんを迎えた線香痕がある。

もう一軒も同じようだが梯子は一つだ。



向こう側に車があるから駐車場。

話しを聞かせていただきたく呼び鈴を押した。

玄関から出てこられたのは東京から帰郷された息子さん。

詳しいことならと母親を呼んでくださった。

先祖さんのお迎えは火を点けた線香。

前日の13日の夕方に火を点ける。

午後6時ぐらいにしていると話すMさんの出里は南山城村。

村では鹿背山のような花飾りの砂盛りはない。

形式といえば松明の火で迎えるという。

藁束に火を点けて先祖さんを迎える形式は奈良県内の山添村(松尾・的野・北野)、旧都祁村(馬場)、桜井市(萱森・白木)で拝見した。

話しの様子から同じ形式のようだと思った。

聞取りしていたときにクワを担いで戻ってきた男性はもっと詳しいと云って紹介された。

線香を立ててお迎えはするが墓までは行かない。

アラタナ(新仏)がある場合は8月12日に西念寺墓地で墓参り。

砂盛りは家を出たところの辻に行く。

家によっては距離に違いがある。

梯子段の数は決まっていない。

14日は早い家では朝5時からボタモチ御供した各戸を浄土宗西念寺の住職が巡って先祖供養をしてもらう。

お盆に迎えた先祖さんは8月16日の朝、朝ごはんを供えてから同じ迎えた場所で送る。

迎えたときに飾った花はそのままで差し替えることはないという。

鹿背山の在り方を聞いて奥へ行く。



急な坂道を登ったところ旧家の佇まいをみせるお家があった。

門屋を出た処にあった砂盛りも梯子がある。

母屋らしき旧家を拝見して坂道を下る。

一本筋違いに道がある。



水路もある処の砂盛りは二つ並び。

付近で拝見した花とはまた違う。



正面上部から見下ろして撮らせてもらった先祖さん迎えの場は美しさを感じる。

もっと歩けば稲作地もある。



そこにもあった先祖さん迎えの姿になぜか感動してしまった。

もう少し、もう少しと思って歩く。

どこまで続いているやらわからない先祖さん迎えの数は・・・。

鹿背山集落は100戸のようだから全戸を拝見するには体力仕事。

無理をできない身体が悲鳴を上げる。



門屋の前にあった砂盛りはコウヤマキがある。

ここまできたら撮るのも抑えよう。



ところが田園が広がる地に出ればコンクリート橋の端っこにもある。

あっちの家の辻にもある。



最後に拝見した砂盛りはホオズキがあった。

ここで時間切れ。



というよりも体力が保てないので終わりにしたが、疑問が一つ。

盛り砂は土もあればそこらから集めたような乾いた土もある。

美しいのは綺麗な砂である。

その砂はどこから持ってきたのだろうか。

大晦日、年神さんを迎える砂の道がある。

奈良県の大和郡山しない各地で見られた砂の道の採取先は集落近くを流れる綺麗な砂であった。

鹿背山の綺麗な砂も同じ在り方ではないだろうか。



再訪して砂の民俗を調べてみたいと思った。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)