マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

我が家のホトトギス

2014年02月18日 09時18分15秒 | 我が家の花
毎朝開ける窓から下を眺めている北側の我が家の庭。

すっかり花が消えている。

雑草の庭かと見間違えるほどの様相である。

なにげに見た草むらの中に産毛がある蕾。

その姿は紛れもないホトトギスである。

最後に観たのは平成18年の10月18日だった。

それから7年目に再会した我が家のホトトギスだ。

すっかり忘れていたホトトギスの花は一輪。

申し訳なさそうに咲いてくれた。

ホトトギスの文様が特徴だ。

一節によれば野鳥のホトトギスの柄に似ているからだと云われている。

で、あるとすれば野の花は後追いして名付けられたのでは、と思った。

先に名があった野鳥のホトトギスである。

そういえば野鳥にヒヨドリがいる。

頭の毛が似ている野の花のサワヒヨドリである。

色合い、柄よりも花がぱっと開いたその様相、一節によればサワヒヨドリはヒヨドリが鳴く頃に咲くと云われているが、私の感触ではほぼ一年中。

特に夏場から冬場にかけての頃。

山から下りてきたヒヨドリの鳴き声が喧しいぐらいに聞こえる秋の季節に咲くサワヒヨドリという説もある。

説はどうであれ、ホトトギスと同様に、野鳥の名が先にあることに違いないのである。

一輪咲いたホトトギスはその後種をつけた。

来年は零れ種が広がると思っていたが12月5日には根こそぎ消えた。

雑草と思って下草刈りで消えたのである。

(H25.10.11 EOS40D撮影)

トライアルのニコマルソースメンチカツ弁当

2014年02月17日 07時53分14秒 | あれこれテイクアウト
はらぺこ食堂では「ミンチカツ弁当」の呼び名であるが、トライアルでは「メンチカツ弁当」である。

「ミンチ」と「メンチ」は何が違うのか。

素材はミンチ肉だから「ミンチ」が正しいと思うのだが、なぜに「メンチ」なのか。

そんなことを考えていても味は店の味。

とにかく蓋を開けて食べてみた。

たしかにミンチ肉である。

フライで揚げたミンチカツは特に上等でもなく、フツーである。

はらぺこ食堂の「ミンチカツ弁当」はソースがたっぷりかかっていて揚げものが大なしだったが、トライアルは僅かのソース。

薄味でもあるから刺激もないソース。

そのほうが私にとっての味であるが、揚げたては時間も過ぎてレンジでチンしたことからサクサク感はなかった。

メンチカツには下味があるのだろうか。

そう思ったぐらいに味は薄い。

イモが入っていればコロッケのように感じたが、ミンチはミンチ。

肉の触感もない。

揚げたてカツを食べるなら「かつや」だろぅ、と思う。

もトライアルの弁当の添えものはいずれも同じ。

湿っぽいポテトサラダに香物。ケチャップスパゲッティに赤い色のウインナー。

そこには玉子焼きもある。

この日の玉子焼きは何故か美味しい。

味があるのだ。

赤いウインナーもだ。

(H25.10.10 SB932SH撮影)

蔵堂村屋坐弥冨都比売神社宵宮祭

2014年02月16日 09時14分40秒 | 田原本町へ
田原本町千代(ちしろ)の明神講の痕跡や伝聞を調べてやってきた村屋坐弥冨都比売神社。

夕刻になる直前のことだ。

幾度となく訪れる神社では禰宜さんが竹の灯りを点けていた。

在所の蔵堂では氏子もおられるのだが、神社行事に関心が薄れたようで禰宜さん一人が支度をしている。

かつての神社宵宮は境内一面に夜店が並んで、それぞれの郷中からやってきた参拝者で賑わったと云いう。

村屋の郷中は蔵堂、大木、為川南方、為川北方、遠田(天理市)、金澤、平田、東井上、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字。

数多くの参拝者で賑わったのであろう。

「夜6時からお神楽が行われます」とマイク放送を聞きつけた参拝者がやってきた。



隣村の伊与戸でお世話になった尼講のM導師は一番のりだ。

次々と訪れる参拝者。



里の巫女さんが舞うお神楽の後は鈴でシャンコシャンコの祓い。

それを受ける郷中の氏子たち。



「ご縁があって娘が舞っているのです」と話す母親も祓いを受ける。



参拝者の多くは隣村の伊与戸の人であった。

見慣れた人やMさんも家族連れで参拝する。



竹の灯りが彩る舞いの拝殿。

まさに宵宮の様相を醸しだす。

舞いに太鼓を打つのは守屋宮司。

音色に合わせて舞う神楽は平神楽だ。

他地で拝見した神楽舞いとは多少違うようだ。

前半は3人の小学六年生の巫女さんで、うち一人は郷村の東井上須佐之男神社の秋嘗祭で舞っていた女児。



流れるような作法で舞う姿が美しい。

後半は2人の高校生の巫女さんも登場して扇の二人舞い。

拝殿下で遠慮するように撮らせてもらっていたら、守屋宮司からカメラマンは拝殿に登って撮っても構わないと云うありがたいお言葉に甘えて、もう一人の報道記録カメラマンとともに拝殿で撮らせていただく。



翌日のマツリでは矛の舞、一本剣の舞、薙刀の舞、扇の舞などの太々(だいだい)神楽を舞うが、家の事情で断念せざるを得ない。

かつてのマツリには御湯もあった。

拝殿で行われる御湯は水を用いない空御湯(からみゆ)だったようだ。

いずれは復活したいと宮司が話していたことを覚えている。



宵宮のお神楽は参拝者も来なくなった19時半ころにはお開き。

誰もいなくなった境内にしとしと降りだした雨。

村人たちの心構えが良かったのか雨にもあたらずであった宵宮祭のシャンコシャンコはこうして幕を閉じた。

(H25.10. 9 EOS40D撮影)

千代の明神講を訪ねて

2014年02月15日 09時51分56秒 | 楽しみにしておこうっと
台風24号崩れによって大雨をもたらした午前中は土砂降りだった。

宵宮の灯りは心配されていたが、午後からはピーカン照り。

暑さも倍増になったこの日。

村屋坐弥冨都比売神社に関係する郷村の明神講は今でも存在しているのか、下見がてらに訪問した田原本町千代(ちしろ)の阿部田。

市杵島姫神社では幕を張って鏡餅を供えていたが、この夜の宵宮は氏神さんに参拝するわけでもなく村屋坐弥冨都比売神社へ出かけていたようだ。

村人の話しによれば10月1日は弁天さんのマツリ。

村屋坐弥冨都比売神社の宮司さんが来られて執り行われる神事は宮迎えのようだ。

かつては3組もあった明神講の営みにはアンツケモチを供えたようである。

F家婦人が話すには阿部田の市杵島姫神社では8月28日に風鎮祭を営んでいると云う。

場は神社であるが、村の十念寺の僧侶が営む祭事。

拝殿になんらかの掛軸を掲げていると云う。

神社の行事であれば北側に掲げるが、風鎮祭では東に向かってである。

何故にそうなのか判らない行事には神官が登場せず、僧侶の法要。

神仏混合の行事に興味をもったのである。

神社付近に住む村人二人の話しによれば、阿部田の明神講は平成に入った頃に解散したようである。

千代(ちしろ)には阿部田の他、もう一つの垣内があると云うことを聞いて散策してみた。

そこは八条(はっちょう)と呼ばれる垣内。

春日神社(千代神社とも)の宵宮に提灯をぶら下げていた。



村人に話を伺う時間もなかったが、八条には綱切り講が5軒であったようだと話す阿部田の住民。

戦争中に解散して綱切り祭が途絶えたようである。

千代の様相を確かめて向かう先は蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

守屋宮司の話しでは戦中に男性がかりだされ、かつて行われていた道開きの行事とする千代の綱切り祭は明神講の解散をもって中断したと云う。

神社禰宜さんが記憶する高校生の頃。

綱切りの作法をしていたことを覚えているというから平成元年の頃まではあったようだ。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に書かれてあった千代の綱切り祭。

村屋坐弥冨都比売神社からの七度半の呼び遣いを受けて青白紙と日の丸扇の幣を持つ前頭家を先頭に千代から出発したお渡りは蔵堂に向かった。

前頭家は現・後頭家とともに白浄衣を着用していた。

領角廻りと呼ぶ田に幣を挿して、馬場先にある一の鳥居の注連縄を腰に挿した短刀で切った。

二の鳥居の注連縄も切ることで村屋坐弥冨都比売神社の秋祭りが始まるしきたりであった。

千代の綱切り講は享保年間(1716~)から明治維新のころまで行われていたようだ。

その後は中断していたが天保年間(1830~)に作成された『森屋内宮御渡式之覚』、『御渡式之節之買物覚』が発見されて大正元年に復活したとある。

阿部田の明神講の刻印がある燈籠は村屋坐弥冨都比売神社の二の鳥居下にある。



天保十三壬寅年(1842)に建之された大明神燈籠である。

現在の行事に関わることもなくなった燈籠は近年に置いて新しく建之したようだ。

(H25.10. 9 SB932SH撮影)

都島裕寿司の海鮮丼

2014年02月14日 08時56分16秒 | 食事が主な周辺をお散歩
前日に歩いた都島本通。

国道沿いどころか商店街もある。

ここより東にある野江にもあるが、軒にずらりと並んでいる。

いずれも夜向きの飲み屋が多いようだ。

近くにあったコインパーキングに車を停めて入店した寿司屋さん。

食べてみたかったのが海鮮丼。

店前にあった商品メニュー看板のなかにあった。

美味しそうに見えた海鮮丼の値段はなんと500円。

ワンコインで味わえる海鮮丼には赤出汁も付いている。

昼前に県庁の用事を済ませて一路。

この日は地道を行く。

いつもなら第二阪奈道路と阪神高速を利用する。

軽自動車の利用料金は合計で1550円。

大阪都島への通いは多くなって負担も大きい。

いつもなら時間を急ぐ高速道路を利用するが、特に急ぐこともないこの日は地道とした。

1時間超もかかった大阪市の都島。

関目経由で宇回すれば若干短縮した。

昨日に利用したコインパーキングは満車だった。

たった4台しか使えないパーキングだから仕方がない。

諦めて付近のコインパーキングを探してみた。

30分で100円のパーキングは一日停めても最大が800円。

病院の駐車場よりもはるかに安くつく。

ここら辺りはコインパーキングがそこらじゅうにある。

どれも同じではない。

それぞれに異なる価格体系。

安くつくところを探してみるのも良い。

そんなことをも考えて病院に近いパーキングに停めた。

ここからすぐ近くにある「裕寿司」。



「ひろすし」と呼ぶ寿司屋は豊中、茨木、庄内、高槻など大阪北部にもあるグループ店。

案内されたテーブルについて注文した海鮮丼。

かーさんも同じであるが、注文する前に確かめたいメニューがあった。

いずれも同価格の500円である海鮮丼と猟師丼。

どのような違いがあるのか、尋ねた結果は、いずれも同じ内容の具盛り。

味にも違いはないという。

それなら一般的な名称である海鮮丼、と云って注文したのである。



海鮮ネタはタコ、イカ、マグロ、ハマチ、カツオにボタンエビであろうか。

どれもこれも美味しいが玉子焼きの味は格別だ。

ワサビを醤油で溶かして丼にぶっかける。

がっつりがつがつ。

小さめに切ったネタであるが、実に美味しい。

椀は浅目であるからご飯が少ないかなと思っていたがそうではなかった。

意外と思われるかもしれないがケッコーな量であった。

付いてきた赤だしにはハマチの切り身が入っている。

これがなければ赤だしではないと思っている。

大きな汁椀に注がれた赤だしも美味しい。

これで500円とは驚きだ。

そういえば、先日に入店した「串かつうおてる都島店」にも猟師丼があった。

価格は480円だ。

20円の味噌汁を追加オーダーしても500円。

裕寿司の海鮮丼と同じである。

「串かつうおてる」の海鮮丼は780円。

裕寿司の海鮮丼よりもこちらが味に勝つと云うかーさん。

そうとなれば「串かつうおてる」店の猟師丼も食べてみなければ・・・。

(H25.10. 8 SB932SH撮影)

人生初の手術に耐える超後期高齢者

2014年02月13日 07時51分19秒 | むびょうそくさい(おかん編)
4日に入院したおふくろは87歳。

75歳以上は自動的に後期高齢者となり、国保・健保から脱退させられて後期高齢者だけの独立した医療制度(都道府県単位の後期高齢者医療広域連合)に組み入れられる。

おふくろは資格を十分に満たしている87歳である。

これまで内科、外科で入院したことはあるが、手術となるのは初めてだ。

体験したこともない怖さは心のなかに湧いてくる。

病名を知ってからの日々は落ち着かないのは当然だ。

手術が無事にいけますようにと祈ってきた各地取材先の神さんや仏さん。

手を合わすのは私だ。

おふくろが信じたのは執刀する医師。

神さんや仏さんではなく、現実に目をそむけることなく医師に望みを託した。

この日の朝は目覚めが良かった。

悶々とすることなく気持ちの良い朝だ。

8時半には手術室に向かうので、「それより前の時間に着いておふくろを安心させてください」と医師から伝えられていた。

清々しい顔を見て安堵する。

手術室に入る直前、手を握るおくふくろの顔が最後であってくれるなと心から念じた。

手術室にはもちろん立ちあうことはできない。

談話ルームで待つしかないのである。

手術が始まる9時直前の8時58分のことだ。

携帯電話に着信メッセージ。

着信音は鳴らないように設定していた。

大阪06の電話番号は存知しないが、受話器を上げた。

メールの送受信は院内でも可能だが、会話はできない。

指定の場まで駆けだす。

発信元は大阪市立総合医療センターだった。

同意した家族宛ての電話は今から手術を始める知らせだ。

天に祈りを、医師に身を任せた手術が始まった。

待つ場は眺望見晴らしが良い食堂横の談話ルーム。

清々しい青空が広がっている。

澄みきった大阪の空である。

手術室のおふくろ同様に私たち夫婦もこの部屋でじっと待つ。

手術は早ければ3時間。

出血、或いは医師も予想だにしなかった状況になれば5時間もかかると入院時に聞いていた。

昼どきはこの部屋で待つことになるだろうと昼食を買いにでかけた。

そこは関西スーパーマーケット。

住之江にもかってあったスーパーマーケットだ。

かれこれ何十年も前に出店したスーパーへはよく行った。

生前、大ばあさんは着物姿で買い物籠を下げて歩いていった安立(あんりゅう)商店街は住吉大社の社領であった。

紀州街道に沿って商店が並ぶ商店道に神輿の渡御が通り抜ける。

都島にある関西ス-パー内代店で買ったのは198円の田舎ちらし寿司。

それだけではお腹を満たせないと思って追加の一品。

ジャンボ五目いなりは105円だ。

この日はスーパーの値引きセール。

ありがたい値引きは10%だったが助かる。

交替して昼食をとる場は院内の1階。

談話ルームに戻った13時前に手術が終わったと連絡が入った。

手術室から出てきたおふくろに声をかけた。

弱々しい声であったが、反応があったことにほっとする。

それから数分後、医師が取り出した摘出部位は左卵巣が15cmで右卵巣は1cmだった。

無用な右卵巣も取り出したのである。

お腹を開けたのはおよそ3cm。

出血は30mlぐらいであったから輸血はしなかったと話す。

癒着もなく摘出手術を無事に終えて病室に戻ったおふくろは目を閉じている。

痛み止めの麻酔をかけているから眠り続ける。



空は青く広がり清々しい。

伊丹空港に下りていくジェット機のようにソフト・ランディングした。

麻酔止めから覚めたのはそれから3時間後。

話す言葉もはっきりしてきた。

甘い唾液も出るようになったと話す。

一週間後には献体結果が判ると医師が云う。

(H25.10. 7 SB932SH撮影)

新庄町のゴクツキ・御幣切り

2014年02月12日 07時21分36秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の新庄町は50戸。

本村の旧村集落を西・東地区に分けてそれぞれが25戸ぐらいになるというからトーヤの廻りは25年に一度。

トーヤがお渡りをしていた素盞嗚神社のマツリを取材したことがある。

平成22年のことだ。

孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いで、後方に就くトーヤ衆のお渡りをしていた。

素盞嗚神社には数々の燈籠が建之されている。

一つに「寛永元年(1624) 和州山邉 牛頭天王寶前夜燈」の刻印がみられた。

江戸時代初期には牛頭天王と呼ばれていた証しである。

祭礼の際にも聞いていたゴクツキはこの年も行われると知らせていただいたAさんは大和郡山市の観光ボランティアガイドを勤めている。

新庄町のマツリは10月12日。

前日の11日はヨイミヤである。

それに先だって行われるのがゴクツキである。

かつては前々日の10日であったが集まりやすい直前の日曜日になった。

ゴクツキを始めるまでは西・東(西は1組から3組・東が4組から5組で鉾立は6組になる)地区の氏子らが集まる体育館で村のヨバレのカラオケ大会。

賑やかに楽しそうな唄声が聞こえてくる。

かつてのヨバレの場はトーヤの家だったが、今では体育館。

「昔はお酒をたくさん飲む人も多かった。量も多くて終わるのは夕方近かった。今では酒量も減って、14時半頃には終わってしまう」と話す総代。

かつては西・東地区それぞれのトーヤ家で行われていたゴクツキ。

それはたいへんだったとこの年の東地区のHトーヤ婦人が話す。

いつしか負担も大きくなったことで両地区合同の在り方にしたそうだ。

ヨバレの最中には御輿が出発する。

子供会が曳く御輿は出屋敷と呼ばれる鉾立地区まで巡っていく。

鉾立地区においてもマツリが行われる。

ヨイミヤが12日でマツリが13日とあるから、新庄町の本村と重なる日もある。

唄声が静かになってヨバレの時間を終えた氏子たち。

会場である体育館から出てきた姿は和装に下駄履きだ。

次から次へと会場をあとにする氏子たち。

一旦は家に帰って普段着で再びやってくる。

マツリのゴクツキをするには和装は不都合となるので普段着になるのだ。

かつては和装のままでゴクツキをしていたそうだが、ゴクツキのトリコが服に飛び散るのを避けたいと云って普段着になったと話す。



ヨバレの時間帯に出発した子供会が曳く御輿が戻ってきた。

夏が戻ったような暑さに大人も子供も汗びっしょりのぐしょぐしょだ。

晴々とした笑顔はマツリの様相だが、ヨイミヤ、マツリには出仕せず、ゴクツキの日に巡行する。

御輿に乗って太鼓を打つ子供たち。

元気に打つ太鼓の音はマツリの囃し。

法被姿が頼もしい。

ようやく始まったゴクツキは石臼に杵で搗く。

一升の洗い米を準備していたのは両地区のトーヤ家。

普段着のホントーヤとアトトーヤが世話人を勤める。

蒸した米を石臼に入れてモチを搗く。



勢いがつくだろうと手拍子をしながらモチ搗き唄を歌うのは氏子総代のUさん。

「そこつきゃー へーそーだー ・・・ おもしろや」の音頭に合わせてモチを搗く。

モチは糊状になるぐらいの柔らかめが良いのだと云う氏子総代。

搗き手が何度か入れ替ってモチを搗く。

両地区それぞれのトーヤ家でゴクツキをしていた。

飲み過ぎてこってこてに杵につくぐらいモチはトロトロになった。

それが柔らかいモチであったのだ。



宵宮の白御幣とマツリの紺・白混ざりの御幣を作っていく御幣切り。

まずは三枚の扇を丸い状態になるように端と端を括りつける。



氏子総代が小学生のころは扇三枚の日の丸御幣であったが、今では一枚に赤ペンを5本入れた扇である。

「戦争に負けたからそうなったんや」と云うが、真説を知っていた長老が亡くなり、今となっては事実関係が判らないと云う。

マツリを終えたトーヤは扇を残しておき、行事の度に家にある扇を和装帯に挿してやってくる。

扇を持っているのは継いできたトーヤの証しであると見せてくれた。



御幣切りをしている最中である。



搗いたモチを皿に盛っていくホントーヤとアトトーヤは忙しい。



作業中であってもよばれるトーヤ振る舞いのモチはキナコモチ。

砂糖を包むようにして食べる人もおれば、塗して食べる人もいる。



稀には塩を入れているモチもあるそうだ。

さっぱりしてその方が美味しいと云う人もあれば、辛いという人も。



塩入りのモチ話で安堵や香芝下田のシオアンモチを思い起こした。

なかには五円玉も入れているモチもある。

そのモチは長寿の祝いにこの場に居る長老に当たるようにしていると話す。

3年前に聞いていたキナコモチは「テーバイ」と呼んでいた。



「テーバイ」は「手祝いモチ」。

トーヤ振る舞いの祝いモチである。

30人以上も集まった体育館会議室は御幣切りの作業をする氏子たちでごったがえす。



東・西両地区が分かれて作業をしてきた御幣切り。

御幣の形式に特徴がある。

紺、色の幣も特徴であるが、幣の心棒に取り付けた日の丸御幣の左右に一本に竹が目立つ。

そこに左右、4枚ずつ垂らした格好は、まるで一本足の案山子の姿に見える。



御幣に半合の洗い米を包んだ半紙を取り付けてできあがった。

本来なら今夕に提灯を掲げるのだが、台風24号がやってくる可能性があることから4日後の10日にすると伝えられてゴクツキを終えた。

(H25.10. 6 EOS40D撮影)

Nexus7でFacebookを試す

2014年02月11日 06時43分34秒 | つうしん
パソコンの速度があまりにも遅いので、タブレット型端末のNexus7でFacebookを試してみた。

Nexus7にはFacebookが入っていない。

なにをしたのか判らないがFacebookをインストールしてくださいと出力した。

インストールは短時間、アップされたFacebookにメルアドとパスワードを投入する。

ど、ど、ど、とアップされる画像は断然早くて、指でスライドするのも心地いいが、クリックするボタンの位置が違うので面食らう。

「お知らせ」表示すべてが出現するまで待つが、待てど、待てど、20分経過しても反応は返ってこない。

「すべてを見る」をクリックすれば表示したが、それまでの形式とは異なる。

「おしらせ」を受け取るには”SMS”若しくは”RSS”とあるが、なんのことか。

わずか数秒で表示されるNexus7は実に快適である。

これまで感じていたイライラ感が吹っ飛んだ。

タブレット型端末は電源を入れてすぐさま利用できるありがたい器械である。

パソコンから我がFacebookに撮った画面をアップしてみた。

(H25.10. 5 SB932SH撮影)

12回目のテーマは大和郡山の二ノ正月とんど

2014年02月10日 09時29分31秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
平成14年から始まった展示は今年で12回目。

場所は奈良市杏町153のカメラのキタムラ奈良・南店

今回のテーマは「大和郡山の二ノ正月とんど」(1月末まで展示→好評につき2月10まで延長)である。

1月小正月のとんどは全国的であるが、2月に行われる二ノ正月のとんどはあまり知られていない。

それが奈良県大和郡山市内に数多く存在する。

私が知る範囲内では矢田町、小南町、丹後庄町、額田部北町、柏木町、筒井町、新庄町、番条町、井戸野町、稗田町、豊浦町、天井町、美濃庄町などだ。



とんどの形だけでなく、服忌の小とんど、習字焼き、モチ喰い、火移し、アズキガユなど、とんどに纏わる要素も紹介した。

今回も8点の展示。1.城町・主水山の大とんど、2.矢田町・南矢田垣内の火点け、3.八条町のふるまいぜんざい、4.豊浦町の習字焼き、5.番条町の小とんど、6.矢田町の服忌の小とんど、7.矢田町・清水垣内のとんど火、8.柏木町の小豆粥である。

要望があった数年前からはお持ち帰り用の解説シートも添えた。

写真に裏張りをしていないから室内灯が乱反射し見にくい、しかも地味な内容だけに関心をよせる人はそれほど多くない。

と、思っていたがそうではなかった。

始めに準備した解説シートは15枚。

前回は余ったぐらいの枚数が少なくなっていた1月半ば。

10枚を補充した。それから1週間後にはわずかに数枚が残っているだけだ。

またもや補充した枚数は10枚・・・。

それも不足となって2月3日にはまたもや10枚補充した。

展示が終わって残枚数は9枚。

どなたかお持ち帰りになられたか存知しないが35枚にもなる。

副店長の話しによれば展示写真を撮られていた人も居たそうだ。

目立たない二ノ正月のとんどに関心を寄せてくださった方々、厚く御礼を申し上げる。

テーマに揚げた写真はいずれ「ならグルグル散歩」で公開したいと考えております。

(H26. 1. 3 SB932SH撮影)

串かつうおてる都島店

2014年02月09日 08時25分09秒 | 食事が主な周辺をお散歩
串かつうおてる都島店は大阪市都島本通にある。

平成23年8月に開店したそうだ。

うおてるの串かつ店は新大阪、桃谷や長原にもあるらしい。

おふくろが大阪市立総合医療センターに入院した。

手続きを終えて病室に入った時間は昼どき。

院内にはファミマのコンビニもあるが高いしクレジットカードの支払いもできない。

一階にはドトールコーヒー店やお値段が高い食堂「お食事処 一休」もあるが、蕎麦が不味かったと云ってたおふくろ。

値段は500円だったと思う。

ここで食べるまでもなく都島本通に出れば食事処はいっぱいあることを通過中に見ていた通り。

センターから少し歩けば見つかった串かつの看板。

豊富なメニューが表示されていた「串かつうおてる都島店」。

ここで良かろうと思って入店した。

かーさんは780円の海鮮丼。

半熟卵が真ん中に盛ってあるのは480円の猟師丼。

それは細かく刻んだような姿だったので海鮮丼したと云う。



タレは掛けていない。

どれにするかはお客さんの好のみ。

テーブルに供えつけてあった丼タレか醤油、もしくはたまり醤油である。

ワサビに溶いてぶっかけた丼は実に美味しいと云いはる。

ご飯は、なぜか温かい。

へぇーそうなのと云いながら食べた海鮮丼に舌が唸ったようだ。

串かつうおてるの経営は魚照水産。

さすがに魚が美味しいと云うのである。

私は串かつの手はじめと思って480円の串かつ定食を頼んだ。

店内で揚げる串カツの香りは漂ってこなかった。



盛られた串かつは七本。

できたてほやほやの串かつはタレに浸けて食べる。

これが美味いのである。

二度漬けは禁止と表示されているタレは醤油味のようだが、甘くもなく、だだカラくもない適度な味だ。

添えつけのキャベツにはほんの少し垂らしてみた。

シャキシャキ感が美味しいキャベツである。

いただいた串かつはレンコン、玉ねぎ、牛肉カツ、豚カツもあればエビ、タコもあるがナンキンはない。

なにか判らなかった白身魚もカツ揚げだ。

どれもすっきりした味にご飯は進むのである。

香物はツボ漬け。

これも美味い。

何が嬉しいかと言えば味噌汁だ。

麩とワカメ入りの味噌汁は丼には付いていないが、別途頼んでもわずか20円。

驚き価格のサイドメニューである。

(H25.10. 4 SB932SH撮影)