マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

窪田阿土墓・大寶寺六斎講のナナトコ参り

2017年03月21日 09時04分49秒 | 安堵町へ
平成19年8月13日に取材した安堵町大寶寺六斎講のナナトコ参り。

9年ぶりに拝見いたしたく再訪した。

参られるのは六斎念仏を伝承、唱えている大寶寺六斎講である。

月に一度は大寶寺本堂で念仏の練習をされている。

一度、伺いたく夜に集まって練習されている状況を取材させてもらったことがある。

今でもそうされていると思うが確認はとっていない。

9年前に取材したときと同じ時間帯に居た。

ここで待っておれば六斎講の人たちが自転車に跨ってやってくると思われ佇んでいた。

この場は墓地。

阿土(あど)墓地は郷墓である。

在地は窪田であるが、窪田の他に東安堵や西安堵、岡崎に隣村の大和郡山市額田部南方、椎木町、さらに大和川対岸の南にある川西町の吐田、下永の共同墓地。

地域は融通念仏宗派も多いが浄土宗もある。

待っている時間が惜しい。

それならと思ったのは墓地に供える在り方だ。

阿土(あど)墓地入口に石の鳥居がある。

このような形式の墓地は珍しいが他所にもある。

私が知る範囲内では大和郡山市に2カ所。

一つは野垣内町に。

もう一つは九条墓地である。

調べてみればもっとあるかもしれない。

右手に並ぶ石仏は迎えの六地蔵。

墓地には少なからずある光景である。

夏の日差しはきつい。

燦々と浴びる日差しに汗が止まらない。



墓石前にあったお供え。

シールが見え隠れするからスーパーで買ったものだろう。

昨今はどこの店でも売っているお盆のお供え。



アサガラやコウヤマキまで売るようになった。

習俗文化まで変容していく時代になったものだと感心する。

ナスビにキュウリ、サツマイモ、サトイモ盛りにプラスチック製の花びらが一つ。



もうひとつの赤い色はホオズキだ。

さすがにホウズキは生ものだ。

いずれはこれもプラスチック製になっていくのかもしれないが、それはそれで困ったことになるが予想される。

隣にあった墓石に仏花。

菊花にコウヤマキ。

そこにもホウズキの赤い実がある。

これらのお供えはいつ供えられたのだろうか。

カラカラに乾燥したお供えに短めの箸もある。

家人の優しさを感じる先祖さん参りの御供である。

それにしてもだ。

いつまで待つのか、である。

もしかとすれば、と頭がよぎった。

以前に取材したときに云われた台詞。

夏は暑い、である。

暑さを避けて時間帯を遅くしてのでは、と思った。

念のために急行した極楽寺。

ナナトコ参りは極楽寺本堂でお念仏をしてから阿土(あど)墓地に行く。

平成19年に取材したときはいつもこうしていると話していた。

で、あれば極楽寺におられる可能性が高い。

そう思って車を走らせた。

駐車場に停めて寺に向かう。



門の前に数台の自転車がある。

自転車籠には麦わら帽子がある。

これがあることでわかった六斎講の居場所。

お寺の奥さんと話し込んでいたら長くなってしまったという。



大急ぎで自転車にまたがる講中を車で追っかける。

車よりも早い講中の自転車に追いつくのも難儀する墓地近くの民家道。

狭いので安全に留意しながらノロノロ運転。

慌てることはない。

到着した場は窪田の小字六道に位置する阿土墓である。

かつての阿土墓は地域の火葬場として利用されていた。

火屋と斎場があったが、近年に撤去された。



講中ははじめに入り口にある六斎念仏始祖長治郎の墓の前で「シンバンドー」を唱える。

鉦を叩きながらナムマイダー ユーズーネンブツ ナムマイダーと繰り返す「シンバンドー」である。

「シンバンドー」を充てる漢字は新坂東である。

次は向きを替えて北向き。



鳥居手前横にある六地蔵の前に並んで唱える。

一曲が約三分半の「シンバンドー」の鉦の音。

安土墓一帯に聞こえるように響き渡る。



鳥居を潜って北側に建つお迎え地蔵立像においても一曲。

次は墓地内を少し歩いて山積みしたような処に向かう。

そこは無縁仏。



東に向かって念仏を唱える。

そして墓地のほぼ中央に位置する六斎講墓に向かう。

その場は枯木がある処だ。



ここも同じように東に向かって唱える。

いずれも唱える念仏は「シンバンドー」。

六斎念仏始祖長治郎の墓の前から始まってここまでの一曲は四番である。

「シンバンドー」は一番から九番まである。

そのうちの四番を唱えていると講元が話す。

最後の〆は歴代の大寶寺住職を納める集合墓。



ここでは一番から九番まで、すべてを唱えあげる。

数えてみればナナトコでもない六箇所である。

かつては入り口付近にもあった無縁仏をここより移して纏められたことによって一場が減ったということである。

その場数は七つ。

それぞれに参ることからナナトコ参り。

もっと以前は、この阿土墓以外に大和郡山市椎木町、額田部町、今国府町、小林町などの周辺近隣の共同墓地の七カ所を巡っていたそうだ。

私も調査・報告を担当した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』(奈良教育委員会2011~2013調査・報告)に七墓参りの報告がある。

講中が所持する大正11年から昭和44にかけて記帳された「算用覚書」によれば、かつて巡っていた近隣村共同墓地参りのことが記されているそうだ。

昭和恐慌や太平洋戦争の影響に若者が少なくなったことにより現在の参り方に落ち着いたとある。

こうしてナナトコ参りを終えた講中はまたもや自転車に跨って帰路につく。

戻りのコースは行きと同じだ。

先に車を走らせて田園で待つ。



疾走してくる状態をこうして撮らせてもらった。

講中がいうには10日に講中家の墓参りを済ませていたそうだ。

墓地は浄土宗派もある。

先に拝見していた干からびた先祖さんのお供えが残っているのはその名残であるようだ。

また、昔はお店が出ていたという。

タコ焼きにみたらし団子、綿菓子、飴屋もあったというぐらいに賑わいをみせていたようだ。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

岡崎のカンピョウ干し

2017年03月20日 08時09分51秒 | 民俗あれこれ(干す編)
明日香村から安堵町にやってきた。

取材先は大字窪田の阿土墓。

ここで大寶寺六斎講がナナトコ参りをされる。

時間はまだまだ早い。

しばらくはここら辺りで先祖さん迎えがあるやもしれないと思って岡崎川辺りを散策する。

北の地蔵尊辺りは青々に育った稲田が広がる。

川堤から東を見ていた稲田の向こうに白いモノが見える。

風はなかったがヒラヒラ感がある白いモノはまちがいなくカンピョウ干しである。

民家のカド庭に2本の物干し竿がある。

一本は赤いテープを巻き付けている。

もう一本は竹竿のようだ。

近づいてはみるが稲田の向こう。

通じる道はない。

畦道を歩くわけにはいかない。



水をいっぱい張ってあった稲田が稔るのはまだまだ先のようだ。

断念して集落内を散策するが訪ねてみたい家が見つからない。

北の地蔵さんにオヒカリをあげていた婦人の話しによれば昔はしていたという。

今では作ることもなくなったが、ご近所で道の駅で販売するのに作っているらしいと聞いた。

たぶんにこの家のカンピョウ干しはこのことであろう。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

下平田のカンピョウ干し

2017年03月19日 09時08分33秒 | 民俗あれこれ(干す編)
前月の7月23日に訪れた明日香村の下平田。

下平田は大字平田にある。

桜井市から明日香村に向かって国道を走っていた。

上(かむら)が目的地であるが、ふと目に入った白いモノに思わず車を停めた。

あそこにある白いモノは間違いなくカンピョウ干し。

白さが目立つぐらいだから今朝早くにユウガオの実を収穫して皮を剥いた。

木の竿にぶら下げて滑車で揚げた。

晴れ間が続くときはそうしているとSさんが話していた。

この日は13日。

先祖さんを迎えるお盆の日でもある。

まさかお盆にはしないだろうと勝手に思っていた。

サラリーマンであればお盆はたいがいの会社が休みにする。

たいがいと云っても特に工場関係の仕事に従事している人たちだ。

私がかつて務めていた情報処理会社。

金融関係会社の情報処理を担っていた。

金融関係にお盆はない。

お盆や正月の電車、バスは日曜ダイヤ。

それに乗車するのに勘違いして乗り遅れることもあった。

お盆のニュースは里帰りの大渋滞に超満員の新幹線。

それを見て日本全国どこでも休みだと思い込んでいた。

そうでもないことに再認識した。

そんなことを思いながら撮影できる場所を探した。



当主から予め聞いていた場に行く。

そこは宮内庁が管轄の吉備姫王墓。

平成25年の11月15日に宮内庁の承諾をいただいて撮影に臨んだサンノンサン

下平田の住民が吉備姫王墓に参る庚申講行事である。

手を合わせていた背中にあたるのが当主の家。

王墓下にある民家に立てた滑車揚げの竿がある。

その位置は前月の7月23日に当主の了解を得てカド庭に立てているのを確認している。

ここより下りてカド庭から撮るには門屋からお伺いしなければならない。

お盆は忙しいと思って声はかけず、この場から撮ることにした。



その時間帯はやや曇り。

もう少しの晴れ間が欲しいと思っても次の取材地が待っている。

ゆったり落ち着いて撮る時間はあまり確保できない。

その辺りをウロウロしながら撮り位置を探して何枚かを撮った。

振り返り見れば「みかん蔵」がある。



屋根の上に突き出た構造物は風の吸入口。

煙出しと同じような構造であるが、風を蔵内に送る装置。

これを知ったのは7月23日

カンピョウ畑や皮剥き道具などを拝見した当主に教えてもらった。

そのときにもう一カ所あると聞いていた。

場はここにあったのだ。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

上の先祖迎え法要

2017年03月18日 09時24分19秒 | 明日香村へ
家さなぶり村さなぶり行事がある明日香村の大字上(かむら)に住むFさんに聞いた当家の先祖迎え。

祖母は朝早くに大字に流れる冬野川に出かけて線香に火を点けて先祖さんを迎えると話していた。

83歳の祖母は杖をついてはいるもののいたってお元気だ。

この日のことやお送りなども話してくださる。

先祖さんをお迎えした時間帯は朝の6時半だったようだ。

線香を持って冬野川で先祖さんを迎えた。

茶碗10杯にお茶を入れた。

カボチャ、ナスビ、キュウリ、サツマイモにソーメンを仏壇前に並べた。



スイカにキマッカはいずれも家の畑でできたもの。

網を潜ったアライグマによってスイカが被害にあったという。

その他にブドウ、イチジク、モモ、トマト、ハウスミカン、トウモロコシ、メロン、ナシなどは買ってきたもの。

盛りが多くて毀れそうになっている御供棚に水鉢がある。



その上に乗せている草花はミソハギ。

これはもうすぐ来られる僧侶がサンパラする道具だという。

同家はこれにキキョウの花も添えた。

他家ではシキビになるらしいが同家に欠かせないサンパラの花である。

野菜や果物を乗せた大きな葉はハスの葉。

今年は貰いもんだという。

厨子に納めてある花立にさした花は菊の花に蓮の花。

蕾だった蓮は今朝になって開いたそうだ。

隣のお厨子は毘沙門天。

お大師さんもそこに納めさせてもらっていますという。

先祖さん迎えした同家は仏壇だけでなくカドにある外の神さんやダイジングサンと呼ぶ大神宮、七福神、お稲荷さん、熊鷹大神を並べた神棚にも灯す。

その棚には癌封じのお札もある。

炊事調理場の棚に大和大峰蛇之倉七尾山の摩王大権現大護摩供養御法砂。

台所の神さんの三宝荒神さん(笠の荒神さんでもなく、三輪山か、それとも立里荒神か)に水の神さんまである。

それぞれの神さんすべてにサカキを祭っている。

他の神さんはお供えがみられないが、水の神さんだけはキュウリ、ナスビ、サツマイモ、トマトを供えていた。

そこには菊の花にコウヤマキも立てていた。

水の神さんにヤカタはない。

こうして祭ってきたが、理由はわからないそうだ。

そうこうしているうちに僧侶がやってきた。

僧侶は大字上(かむら)も兼務している浄土宗派。

島庄にある唯称寺が本寺のようだ。

唯称寺は大字細川にある蓮花寺も兼務しているという僧侶は副住職。

目元が優しい副住職のお勤めが始まった。

ローソク、線香に火を点けてお念仏。



祖母は同部屋に座るが、息子さんは後方。

遠慮しながら座られた。

念仏が始まってからしばらく。

副住職がおもむろに動いた。

水鉢に置いてあったミソハギとキキョウの花を手にした。



オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては前方に飛ばす。

リンを鳴らして手を合わす。

お念仏は餓鬼さんのために施す。

餓鬼さんに水むけ(手向け)する「さんぱら」の作法は水供養の在り方である。

副住職が云うには家によってはコウヤマキでもシキビでも構わないという。

要は水を飛ばしやすければそれで良いらしい。

木魚を叩いてなむあみだぶ、なみあみだぶを連呼しながら唱えられる。

F家の先祖代々を供養する。

念仏が終われば静寂の部屋。

外ではセミセミセミと鳴きやまない夏の声が聞こえてきた。

上(かむら)の隣村は大字尾曽。

そこには真言宗派のお寺があるそうだ。

寺の境内にある八十八体の地蔵石仏がある。

調べてみれば四国八十八カ所の写し霊場。

一日で八十八寺を参ることができるお砂踏みがあるおうだ。

8月21日がお勤めだというお寺は真言宗豊山派の威徳寺。

江戸時代に毘沙門天を祀って建立した。

本堂前に弘法大師の像がある。

昔は流し灯籠があったという。

また、大字上には百人講があった。

10年に一度は伊勢参り。

2台の大型バスに振り分け乗って伊勢参拝というだけに伊勢講もあった。

伊勢講は一年に一回の伊勢詣り。

予算がなくなって解散したそうだ。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

佐味・七日盆のヤマモリ

2017年03月17日 10時23分32秒 | 田原本町へ
数日前までは毎日が夕立。

3日、4日、5日連続の夕立は県内の至る処、というか局所的にどこかで降っていた夕立の雨。

この日はどうかと心配していたが青空が広がったままだった。

夕立であっても境内で行われるヤマモリには食事を伴う村の行事。

境内がびしょびしょ状態になれば中断せざるを得ない。

2年前は夕立ではなかったものの雨が降り続けたことによってやむなく中止された田原本町佐味の七日盆のヤマモリ。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に佐味の七日盆のヤマモリの記事があった。

「七日盆にあらんたな(新棚)を祭る。過去一年の間に亡くなった方の御霊は仏壇でなく、部の場に棚を設けて祭る。仏壇、仏具に墓掃除をして墓参りをする。この日には八尾の安養寺のように夜の8時に墓会式をする。七日盆はササギのご飯にズイキのおひたし。コイモやアゲを供えてササギご飯を食べる。盆行事は七日盆から始まっており、井戸替えをする処もある。佐味では8月7日にヤマモリがあって村中が組(垣内)ごとにご馳走を作って夕方からお宮さんに庭に家の提灯を吊って会食をする・・・」とあった。

その記事が気になって訪れたのが平成25年の9月15日だった。

先月、佐味に住む男性から電話があった。

夕方のヤマモリに境内でよばれるハンゴロシオニギリを作ると教えてもらって、この日の午前中に取材させてもらった。

「8月7日の七日盆に、それぞれの垣内の当番は垣内の家からモチ米5合を集めて、それに村から出る米を合わせて、七日の日に握り飯とおかずを作り、お宮さんの境内にむしろを敷いて村中の者が集まって会食する」という記述から佐味のヤマモリは七日盆が絡んでいたと思われたが、墓掃除、墓参りといった動きは聞き及ばない。

ただ、長老たちや一部の人達からも佐味のヤマモリは七日盆のヤマモリと呼ぶのが正しいだろうと話していた。

萱森で行われたラントバさん塔参りの取材を終えて再び現地入りした田原本町の佐味。

着いた時間は夕方の午後6時過ぎ。

境内は賑わっていた。



そうとう広い境内は組の人がそれぞれ座る位置にブルーシートを敷いていた。

オレンジ色のシートもあるが筵やゴザは見られない。

古き時代の敷物は見られないのはどこともである。

旧村佐味は100戸の集落。

大きな村に組分けは6組。

以前は垣内分けであったが、今の呼称は組であるが垣内名を教えてもらった。

1組は北垣内、2組も北垣内。3組、4組とも中垣内。5組、6組とも南垣内である。

つまり、北地区から中地区、そして南地区へと下った垣内名は、終戦後に北から南へ。

1組から6組の組制に名称を替えたのである。

それぞれの組が境内に分かれてシートを敷くが、毎年同じ場でなく一年交代で場を替えていくそうだ。

ハンゴロシオニギリが出来あがったのは昼を越した午後1時半にもなったという。

夕方のヤマモリが始まるまでの午後の部。

スーパーボールにジャンケン大会。

お菓子のつかみ取りに金魚すくいも。

過去は花火もしていたが、危険がともなうということで中断したが午後7時からは境内でビンゴゲームもしているヤマモリ行事は込みこみの村のイベント行事でもある。

佐味はかつてこの位置にあった集落ではなかったと住民が云った。

いつの時代かわからないが、曽我川が大雨で氾濫した。

それを治めるために東から西に移ったという。

村の端に小字西ノ辻がある。

それが端っこにあたる。

東に残った集落がある。

そこも佐味の地。

満田のほうがそれであって佐味の出垣内になるという。

曽我川が氾濫した話は前年の平成27年の9月13日に取材した八王子講行事のときにも聞いた。

八王子講の話しはそのときに流れ着いたハッタサンのヤカタを祭ったことである。

地図で見ればわかる現在の曽我川の流れを佐味と西隣村の百済との境界地。

現在の境界線を辿ってみればその一部に大きく蛇行している処がわかる。

それが元々あったと思える曽我川の流れ。

大和郡山市の額田部町と南に大和川を境にある川西町の吐田である。

現在地図の境界線も蛇行している。

それが元々あった大和川の流れである。

さて、杵で突くように搗いて作ったハンゴロシオニギリは5個入りパックに詰めて配られた。

かつてのおかずのご馳走はクジラのベーコンもあった。

串にさしたコロ肉もあった。

コンニャクにアゲも入れて炊いたカントダキをしていたという。

懐かしい話しをされるのは高齢者。

昭和29年のころだったという。

カントダキは見られないが6組はその場で焼き肉をしていた。


生イカも焼く豪華な馳走に食べてやと云われてよばれた。

これは炭火焼。

当番の人たちがつぎから次へと焼いていた。



もうもうと立ち込める煙は天に昇っていくが、焼き肉の香りは境内いっぱいに広がった。

他の組に人たちはそういうことはしていないが、それぞれの組の場には朝から作っていたハンゴロシオニギリが盛られている



6組は黒ゴマのオニギリもあるが、独自に作った色があるオニギリに焼きイカ、焼き肉でビールもお酒もぐいぐい。

そのうちに日が暮れだした。

天を指さす住民たち。



ジェット機が飛んでいるわけでなくお月さんが昇ってきたのだ。

天から微笑んでいるように見える白く輝くお月さんは下弦の月。



その下ではビンゴゲームに行列ができた。

子どもたちが楽しみにしていたビンゴゲームに群がる。



それとは関係なく組の飲食に時が過ぎていく。

解散は夜の8時ごろ。

会場に残っていた子供たちはボール蹴りをして夏休みを楽しんでいた。

今夜の籠りに嫌な蚊は飛んでいない。

そうなった理由は下支えしている役員の人たちのおかげだ。

この日の清掃前に処置をしていたのは雑草に住み着いている夏の虫退治。

村人の身体に影響のないように抑え気味の殺虫剤を撒いていたと云う。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)

萱森下垣内のラントバさん塔参り

2017年03月16日 09時20分40秒 | 桜井市へ
昭和28年に建替えた家で娘たちが育った。

それ以前は茅葺の家だったという。

門屋から入るカド庭に干してあった梅干し。

8月1日も拝見した土用干しの梅。

染めたシソの葉ものせている箕がなんともいえない。

梅干しは5kgずつ箕に置いて干す。

今年、2回目の土用干しにまたもや遭遇できるなんて奇遇としか言いようがない。

昔は養蚕もしていた。

特別な部屋を設けて蚕さんを飼っていた。

その時代は小学校のころだというからずいぶん前のことだ。

例年であれば午前11時に墓参りをするN家の家族。

昔は親戚兄弟たちも一緒に参っていたが、今は娘家族と参っている。

母親は家の料理作りがあるから参られない。

ラントバは崖の上にあった。

本家筋の墓石のすべてを下ろして参りやすいようにした墓地は下垣内に住む人たちが参る墓。

宮垣内、中垣内、口之倉などの垣内の人たちはその垣内にあるラントバに参る。

口之倉垣内を除く宮、中、下垣内の戸数は24戸。

いずれも小さく纏まった戸数である。

そろそろ出かけようかと車に乗って山の道を行く。

急な坂に急なカーブ道。

山間部特有の車路に難なく軽トラを運転するご主人。

娘家族もそれについていく。

私もその車についていく。

で、なければ迷ってしまう山間の道である。

着いたら直ちに墓参りの設営に入る。

墓石の前に並べるお供え。

大きな葉はハスの葉。

かつては柿の葉を一枚ごとに乗せる御供皿であった。

今ではハスの葉が一枚。



キュウリやナスビにモモ、マッカ、ブドウ、バナナなどの果物にお菓子にプルトップを引いて開けた缶ビールも並べていたら、隣家の人たちもお参りにきた。



手桶を手にして通り抜ける隣家の人は奥に行く。

娘や孫たちは先祖さんの墓すべてにお花を立てる。



家で栽培したお花はダリアにヒャクニチソウ、グラジオラス。

二日前の5日に揃えて束ねていたそうだ。

花を立てるのはこの日のために用意した新竹の青竹。

30本もあるから先祖さんの墓が多いということだ。

桶に汲んだ水墓石にかける。



孫は指示を受けることなく自然体で花も立てるし水もあげる。

線香を立てて持参した家の小鉦を打つ。



皆は墓石に向かって手を合わせる。

先祖代々相法界。

文化、文政から始まる天保、弘化、嘉永、安政、元治、慶応・・・先祖さんに亡くなった兄弟や両親などの供養に戒名を唱える。

それから般若心経を一巻。

最後にやーて、やーてを三回唱えて〆る。

当主曰く、先祖は江戸中期に文化時代より位牌があるという。

ところが、だ。



この日に拝見した墓石の中には天保(1830~)に混じって宝暦(1751~)に寛文(1661~)年代の刻印が見つかった。

墓石年も鮮明に判読できた。



正確にいえば宝暦四年(1754)に寛文十三年(1673)である。

目についたのはそれぐらいだが一面しか見ていないので他にも刻印があるかもしれないが、そのことを伝えたらご主人は驚いておられた。

N家の墓年代は古い。

実は我が家の本家の墓も古い。

場所は三重県の伊賀上野になるが、明確に確認できた年号刻印は宝暦五年亥(1755)、天明年間(1789~)、寛政六年(1794)、文化元年(1804)、文政年間(1818~)、天保二年辛卯(1831)だった。

宝暦五年の墓石が先祖代々の最古。

今から262年も前だったから、N家とは一年違い。

ほぼ同じ時期であったことに驚きである。

その時間帯の墓参りは隣家も揃って念仏を唱えていた。



取材させていただくお家は先祖さんだけでなく親類や無縁仏の墓も参られる。

その場はラントバのまだ上の崖の上にある。

その場にある墓石。

同じように花を立てて水をかける。



線香をくゆらせて鉦叩き。

同じように般若心経一巻を唱える。

もう1カ所はここより先にある。

草むらに覆われた地はラントバが元々あった地である。



無縁さんの墓にも丁寧にお参りをされるご家族に感心するばかりだ。

昼ご飯を食べてヒンネ(昼寝)をしてから参るとも話していたご家族の墓参りは「塔参り」。

ラントバに参ることから「ラントバさんの塔参り」と呼んでいる。

塔参りを終えたご家族は自宅に戻ってきた。



戻れば仏壇にお供えをする。

炊いた白米に一個の梅干しである。

「できあい」の家料理を味わってほしいといわれて座敷でよばれる。

昔は茶粥もあったそうだが、ご馳走じゃないけどと云いながら次から次へと食卓に並べられる料理は盛りだくさん。



ナスビのたいたんに伏見アマナガの煮びたし。

カボチャにナスビの煮びたし。

キュウリのキューちゃんに生姜のきざみもみ。

ニヌキタマゴにコンニャク、イカ、アゲサン、ジャガイモ、キュウリのハンゲツなどは味醂に酒と出汁醤油で煮る。

タラとサワラはフライパン揚げ。

甘い味のトラマメはキビ砂糖で味を調整。

どれをいただいてもとても美味しい家の料理に舌鼓を打つ。

奥さんが生まれ育った地は天理市の藤井町。

実家は存じている。

そこでのお盆は柿の葉の皿を並べてナスビやキュウリ、半切りスイカなどを供えていた。

墓石は30塔。

萱森と同じように花立てをしていたが近年はプラスチック製になったようだが、いずれも県内事例に拝見するお供えの在り方である。

奥さんがいうには同市の福住小野味は8月4日であったそうだ。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)

佐味・ヤマモリの復活ハンゴロシオニギリ

2017年03月15日 06時47分20秒 | 田原本町へ
「今年のヤマモリは8月7日の夕方。

午前中は朝から皆が集まってヤマモリ行事に食べるオニギリを作る。

35年ぶりに復活することになったシロゴハンのオニギリが・・」と、7月21日に架けてきた電話の主は田原本町佐味住民のFさんだった。

Fさんは平成27年9月13日に取材した八王子講の講中。

そう思っていたが違っていた。

今夕にお会いした電話主のFさんは天神社前に住む男性だった。

講中でもなかったのだ。

Fさんにお会いしたのはそれ以前の平成26年の8月3日のことである。

天神社境内に村の人たちがそれぞれゴザを敷いて手造りの弁当を広げて食べる行事を調べに来ていた。

行事名称は「ヤマモリ」である。

訪れた3日は日曜日だった。

「ヤマモリ」行事を尋ねて訪れたのはこの日が始めてではなかった。

平成25年の9月15日も訪れている。調べていた佐味の「八王子講」の調査である。

どなたが関係しているのかさっぱり掴めなかったので翌日の16日も訪れた。

何軒かのお家を訪ねてわかったのはヤマモリの日だった。

本来は8月1日だったが、今は第一日曜日になったということである。

訪れた3日は日曜日であったが、「ヤマモリ」は前日から降り出した雨の影響で中止となったのだ。

中止となれば村が頼んでいたパック詰め料理やビールが不要になる。

不要になった飲食料は村の各戸に配る。

それをしていたのは二人の婦人だった。

残念やねと云われたがいつかは拝見したい「ヤマモリ」行事。

そのことを覚えていたFさんが電話をしてくださったのだ。

その日にお会いした方々には名刺を渡していた。

そのことも覚えておられて電話を架けた。

ありがたいことである。

なお、Fさんとお会いしたが、当時はお名前も聞いていなくて・・。

だが、八王子講中の手がかりを教えてもらった。

それによってようやく取材することができたのが佐味の八王子講であった。

Fさんが電話で伝えてくださったこの年の「ヤマモリ」は8月7日の日曜日。

夕方の午後6時ころから村の人たちが神社にやってくる。

朝の9時には長寿会、子供会がヤマモリのオニギリを作る。

オニギリはモチゴメとウルチ米を半々の分量で作る。

ずいぶん前の時代はしていたオニギリであるが、復活するのだという。

また、夜は境内でカントダキも作って食べるという。

ありがたい情報である。

Fさんが電話で云ったモチゴメとウルチ米を半々の量で作るというのはハンゴロシ。

県内事例によく聞くご飯、若しくは餅の名前である。

半分、半分だから「半」ゴロシである。

80歳のFYさんが云うには35年ぶり。

久方ぶりに復活するハンゴロシオニギリ作りの作業場は神社前の一角にある。



着いたときは子どもたちの賑やかな声が青空にこだましていた。

何人いるのか数えられないぐらいに多い。

眩しい真夏の光を浴びてキラキラしている。



子どもたちが一所懸命に洗っているのはパックである。

村総代や副総代が云うにはできるだけ子供たちに参加してもらって大人は声をかけるだけ。

つまりは体験重視。

今後の担い手は子どもが引き継いでいく。

そのことによって佐味の文化を継承していくということだ。

復活のきっかけになったのは田原本町の青少年健全育成推薦地区になったことが起因である。

青少年健全育成推薦地区は毎年替わるそうだが、「町民の人の温かさや優しさ、人と人との繋がりの大切さ、集団や社会のルールを守ることの大切さなどを子どもたちに育み地域ぐるみで取り組むために毎年選定している生涯学習課の制度」のようである。

子どもたちにとっても村にとってもいい機会に乗っかる。

そう思って見た子供たちの表情が光っていたのである。

子どもたちは佐味の子供会。

大人もいるがおにぎりを握ることのすべては子どもがしていた。

一方、お年寄りたちは張り切った。

かつてあったハンゴロシオニギリを知る人たちは後継者に伝授する。

体験していた年齢層は80歳前後の高齢者。

63歳の村総代は見ているだけだったという年代はいつごろか。

30年前、もっと前だったかもしれない。

そのずいぶん前の時代のハンゴロシオニギリのレシピはない。

作るというのはどこの行事もレシピは作っていない。

経験によって代を継ぐのである。

高齢者は体験者。

その記憶を頼りにハンゴロシオニギリを作る。

この日の取材は中途半端になりそうだ。

佐味を離れる時間はぎりぎりの10時過ぎ。

ここより東方の山間部の萱森で行われるラントバさん塔参りの取材がある。



なんとか間に合うように・・かってな願いに村総代も長老ら老人会、ご婦人たちの婦人会はそれなら一臼だけでもと作り始めてくださった。

着いたときにはすでに一臼の米は蒸していた。

それさえ間に合えばと云って動いてくれた。

蒸し上がりの飯はひっくり返して石臼に落とす。

この日のハンゴロシオニギリの材料は60kgのお米。

13臼も石臼で搗く。



搗くといっても餅つきのようなぺったん、ぺったんではない。

杵をご飯に突っ込んで押すように搗く。

コネコネとこねるように重しをかけながら搗く。

押し搗きのような感じで搗くことを「コヅキ」と呼ぶ。

餅搗きのような餅のひっくり返しはない。

それはないがシャモジで少しずつ掘り返すような感じで混ぜ込む。

これをハンゴロシの搗き方だという。



ちょっと摘まんで搗き具合を確かめる長老。

もうちょっとやなの声に再び搗く。

そこまでいくには事前の作業がある。

まずは米洗い。

水に浸けて米をしめらす。

まずは粳米を蒸す。

そこに糯米を混ぜて水をかける。

30分待って再び蒸す。

つまりは粳米、糯米半分ずつを時間差つけて蒸すのである。

手間のかかるハンゴロシオニギリ作り方はここんところが味噌である。

搗き終わったハンゴロシ状態のご飯。

材が半々なので餅と云えばよいのか・・。



搗いたハンゴロシはシャモジで掬って半切りに移していく。

餅ならひょいと持ち上げて移せるが、これもまた手間のかかる作業である。

こうしてできあがったハンゴロシは手で握る。



教わったとおりに作業する子供たちは真剣だ。

村の人に食べてもらうオニギリは堅くは握らない。

シオを軽く手につけて握る。

握ったら黒ゴマを振りかける。

毎年交替する組によって味に差があった。



この日は予め、コウジブタにシオも黒ゴマも撒いていた。

ふっくら感に握ったオニギリはコウジブタで転がす。

お母さんが握っていたように手で握る子どももいる。

みんなで作るハンゴロシオニギリは1800個も作ったと聞いたのは夕方に再びやってきたときのことだ。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)

なら歳時記・夏~奈良写真家9人展~inクロネコならTabiセンター

2017年03月14日 09時42分53秒 | しゃしん
奈良の行事を主にシャッターをきっている人たちの写真展を拝見した。

9人のうち5人は県立民俗博物館で開催されている「私がとらえた大和の民俗」写真展でも馴染みのある方だ。

他の4人もそれなりの活動はしているそうだが、出展はFBやブログなどだ。

大きな写真で作品を展示する。

「夏」をテーマにどういう風に写真で奈良の夏を伝えていくのか興味をもつ。

それが楽しみでやってきた。

会場に入る前の三条通り。

出展者の一人であるTさんが若い女性を連れて歩いていた。



展示しているクロネコならTabiセンターに入る・・・ことはなく手を振りながら遠ざかっていった。

今日から15日までは奈良の夏の風物詩となった燈花会に行くのだろう。

会場に入れば出展者のNさんがいた。

当番の在廊である。

展示されていた作品をざっとひと通り拝見する。

感想を挙げれば・・であるが・・。

ベテランの人たちの作品と差異があまりにもありすぎるのが特徴だと思った。

ピンが甘いのもあるが、なにを訴えたいのか判らないものもある。

むしろ、テーマの「夏」外れになるものもある。

尤も初夏ということも考えているのであれば・・・。

燈花会に出かける途中に立ち寄って見てもらえれば・・というコメントもあったと思う。

それならば盛夏に絞り込んだほうがよかったのでは・・・と思った。

これは感想である。

作品に対する悪気はない。

悪気はないが、観光客が作品を観て行きたくなるのだろうか。

もちろん行きたくなる、見たくなる作品も多い。

要は独りよがりになっていないか、である。

正直申し上げて、大きくすれば生身の写真のアラが再現される。

そういう写真が何枚もある。

そうなることを知っていて出典したのなら・・・。

一般の人が見ればそうは思わないが、写真家と銘打っている写真家が見て、これは学ばねば・・と思うような作品に期待していた。

ベテランでなくとも学ぶ写真はいくらでもある。

さまざまなクラブ団体の写真展を拝見してきたが、同じような感覚になった。

これが賞取り作品展示会、県展とか市展とか。

苦言を申すのは大きく成長してもらいたいという願望。

私の作品などを蹴散らすぐらいに成長してもらいたい。

次回はどうぞ入選できるぐらいのレベル作品で奈良を飾ってほしい。

(H28. 8. 5 SB932SH撮影)

中白木・萱森のお礼参り

2017年03月13日 09時03分44秒 | 桜井市へ
一昨年の平成27年、中白木で行われた秋のマツリの3行事を取材させてもらった。

中白木は本日巡ってきた桜井市の山間部。

瀧倉から三谷。

そして中白木に着いた。

この日に訪れた目的は撮影させてもらったお礼である。

10月17日の神明祭に11月9日の宵宮頭屋祭、翌日10日の高龗神社の頭屋祭だ。

頭屋を務めたお家は二老家。

同年の3月1日のオシメ入り座において神さんを迎えた家である。

一連の写真は記念のお礼にもってきたが自宅は不在だった。

仕方なく戻ろうとしたときである。

向かいの家でなにやら作業をしている男性がおられた。

庭の造作に手を休めた男性は一老の息子さん。

マツリのときにもお会いしている。

二老は大怪我をされて入院中。

奥さんがつきっきりで世話をしているようだ。

そういえばマツリのときには一老のお顔も拝見しない日があった。

あれから身体の調子も悪く施設通い。

長老二人がこういう状態になっているという。

そういう事情であれば息子さんに預かってもらうことにした。

そんな話をしている時間帯。

にわかに曇ってきた。

そのうちに鳴り出した雷。

突然のごとく雨が降り出した。

乗ってきた車に戻ろうにも戻れない土砂降りである。

しばらくは一老家の軒先で雨宿りさせてもらった。

中白木の用事を済ませて次に向かう大字は萱森だ。

どちらもそれほど遠くない距離にある。

萱森も昨年の平成27年に撮らせてもらった秋のマツリ。

10月23日の遷しまし頭屋祭の翌日24日の頭屋祭だ。

頭屋祭が始まる午前中は頭屋家で行われた祭り道具の調製。

午後が私祭の頭屋祭である。

なかでもとっておきの写真は神社の鳥居の処で撮った娘さん親子の写真だ。

カメラの前でいろんな恰好をしてくれた孫さんの姿が可愛く撮れた。

久しぶりに顔を合わす。

その後の病状は・・と心配してくださる。

ピンポン押して門屋に入る。

そこに干してあった梅干しは土用干しの梅。

三日三晩に亘って漬けた梅は壺ごと消毒する。

もう少し日が経てば美味しくなると云う。

時間があるならゆっくりしていけと云われて屋内にあがる。

こんな豆を食べてみるかいと持ってきた。

皿に盛った豆はマンズナルいんげん豆。



岩手県のタネを入手して栽培したそうだ。

甘くて美味しい。

さらに見せてくださるヤッコマメ。

コーヒーの汁に砂糖を塗してコトコト炊く。

そうすればもっと柔らかくなるという。

旦那さんも奥さんもいろんな食物に挑戦される。

これまで何度か貰って帰ったこともあるが、いずれも美味しいのである。

奥からもう一品をもってきてくれた奥さん。

パックに入れたヌカヅケキュウリである。



毎日、かき回して作ったキュウリは浅漬けのような感じだ。

始めに塩でもんで洗い。

昆布を乗せて皿に重しを置いた。

それでできたヌカヅケキュウリも口の中で踊る。

美味しい手造り料理をよばれて元気出そ、である。

この月はお盆がある。

N家を訪れたのは数年前に聞いていた家のお盆の在り方である。

8月14日はイショウライサン迎え。

2本の藁松明を門口に立てて火を点ける。

藁火を焚いて鉦を打ちながら「かえなはれ かえなはれ」と云って先祖さんを迎える。

翌日の15日も藁松明を焚く。

鉦も打つが詞は「いにやれ いにやれ」になる。

14日は先祖さんを迎える詞。

15日は送る詞であって時間帯も多少違う。

迎えは早い時間帯に迎えて、送りは晩。

時間帯も遅くにしているという。

先祖さんを迎える日は、朝はアサハンのシロメシ、昼にヒルハン、晩はソーメン。

ハギの葉を箸代わりに添えている。

翌日の送りは川に供えたものを流すらしい。

そこは危険な場所。

取材は無理なようなところのようだ。

かつては8月15日に小学校で盆踊りをしていた。

ここら辺りの上ノ郷は廃校となった跡地で花火を揚げているようだ。

オショウライサンの前にしておかなければならないのが、墓参りである。

萱森の墓はそれぞれの垣内によって異なるが、墓参りは同じ日の8月7日である。

それぞれの家がそれぞれの時間帯で参る。

我が家では昼ご飯を食べてヒンネ(昼寝)をしてから参るという行事名は「塔参り」。

ラントバに参ることから「ラントバさんの塔参り」と呼んでいる。

ラントバは石塔がある墓地。

逆に3月9日の春の彼岸前ではツチバカ参り。

他の町ではミバカに行くようだと云う。

N家では昼前の時間帯に出かけるようだ。

以前はカキの葉に家の料理のナスの田楽、イカのキュウリモミ、キズシにマクワウリなどを供えていた。

今は大きなハスの葉になったようだ。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)

三谷菅原神社の花つみ参拝

2017年03月12日 09時02分01秒 | 桜井市へ
人は登場しなくとも「花つみ」の状態を見たいと云った写真家がいる。

一般的にはそういうことを云う写真家は少ないように思う。

そこに人がいなくとも撮った写真で「民俗」を伝える。

それができると思っている写真家の希望を叶えてあげたいと思っていたが・・・三谷には夏休みに入った子供たちが遊んでいただけだ。

参拝することもなく鬼ごっこでもしているような感じだった。

桜井市の三谷で行われている「花つみ」を知ったのは平成25年の7月28日の日曜日だった。

この日の行事名は「お庭造り」。

氏神さんを祭る菅原神社の清掃である。

境内などや地蔵院を綺麗にしてお盆を迎える。

三谷のお盆は8月1日より始まる。

1日から毎日に当番の人が菅原神社の拝殿前に設えた木製の台にシキビを供える。

木製の台は大工さんが作ったと話したのは何年か前にトウヤを務めたKさんだ。

かつては毎年作り替える竹製の台だった。

手間を省くために既製品を作った。

それが木製の台であるが、上部は青竹で囲っている。

四隅に丸青竹。

台になる部分は割った竹を並べる。

四隅にそれぞれ互い違いに端っこを乗せる。

本台となる部分は数本の割竹を並べる。

平成26年に訪れたときは7本ほどだった。

びっしり隙間もなく簾のように並べてプラスチック製の紐で固定する。

四方に立てた丸竹に水を入れる。

そこに何枚かの葉があるシキビがある。

形は花立と同じようなものだ。

水平の台に乗せるシキビに決まりがあると聞いている。

軸から外した葉を九枚並べる。

縦であれば今度は横に九枚並べる。

九×九は八十一。

そういうことから八十一枚の葉を並べる。

そうすると聞いていたが、どうしても枚数が合致しない。



この日も数えてみるが60数枚。

風で飛んだのか、それともなんらかの理由で落下したのであろうか。

三谷の行事取材にお世話になったNさんがいる。

FBにあったお名前は間違いないだろうと判断してリクエストした。

それ以来は私が投稿アップする県内行事にいつも「いいね!」をしてくださる。

この日も忙しくボランティア活動をされている。

初めてお会いしたときは天理市のボランティア活動だった。

最近は三重県名張市の活動もされるようになった。

状況を電話で伝えて青い籠にあるシキビの存在を教えてもらう。

籠に入れてあるのは前日の7月31日にしたものであるかもしれないという。

もしかとすれば朝、夕の2回ではなく、朝、昼、夕の一日3回ではないだろうか。

Nさんが云うには当番は一枚のシキビの葉を入れた箱を廻しているようだ。

家から家へと巡る当番箱が玄関口などに置いてあれば廻りが来たという印しになるそうだ。

その家はM家かU家にあるかも知れないという。

あればそのお家に実状を聞けば正確なことが判る。

そう思って探してみるが見当たらない。

他家を廻っているようだ。

電話口で伝えてくれたNさんは名張でボランティア活動をしながら「三谷」のことを調べているそうだ。

桜井市の三谷には古文書が残されていない。

昔のことを知るにも証しが残っていないのである。

それを補完するには同じ地名をもつ他府県にゆだねなければならない。

Nさんが調べている地は三重県の名張市にあった。

大字は「上三谷」に「下三谷」。

江戸時代は桜井市の三谷と同様に藤堂藩だっただけに何がしかの手がかりがあればと思って活動しているという。

当番の箱を探して長老宅に向かう。

その道中に見つけたヤマユリの花。



萱森のNさんが云っていたタメトモユリではないだろうか。

花が大きく重さで垂れさがる。

葉のつき方からたぶんにそう思うのだが、断定はできない。

仕事から帰ってきたばかりの長老はもうすぐ90歳。

元気な姿で迎えてくれたKさんが云うには、昔は朝、昼、夕にしていたというのだ。

そういえば平成26年の8月1日に訪れたときも下の籠に供えたシキビと思われるのがあった。

青い籠に納められていたのは朝に参ったシキビであった。

朝、昼、夕の参拝は聞き間違いでもなく実際にその通りにされていたのだ。

手水鉢に置いてあるのはたぶんにこの日三度目の夕参りのシキビだと話してくれた。

Kさんがいう通りにあった夕参りのシキビは写真に撮っていたが、いつ来るか判らないこの日の当番者を待ち続けるにはいかず、三谷の地を離れた。

ちなみに三谷の「花つみ」については昭和56年に発刊された『桜井市史 民俗編』に掲載されている。

大字三谷に鎮座する菅原神社の年中行事の項に「葛つみ(花つみ)講」がある。

葛つみ講は「毎年八月一日から八月十四日まで各戸から神社に来て、一日に三回樒を供えている。3回目は夕方ゆえ燈明をもあげて拝んで帰る。この講には“花つみ札”といって大字民の名前を書いた札を入れる箱がある。この箱を、十四日の参拝が終わるとその人の家で保管しておき、次の年に隣家へ回して葛つみ(花つみ)の行事をはじめていくことになっている」と記されていた。

三谷の年中行事それぞれに変化があったと聞いている。

この花つみもそうなのであろう。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)