マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大阪・住之江安立の紀州街道は懐かしの散歩道

2019年08月21日 07時33分44秒 | もっと遠くへ(大阪編)
おふくろの診察時間を利用して車を走らせる。

畠中医院から西へ少し。

信号の向こう側にある線路はチンチン電車。

子どものころはその呼び名でも、あるいは駅名が我孫子道駅だから我孫子電車とも呼んでいた。

子どものころの風景とはまったく違うから、何十年も離れて戻ってきたら、すごく違和感をもつだろう。

信号がある左右の道は南北を往来する古道である。

北へ向かう道は安立商店街。



アーケードに「一休法師ゆかりの安立町」とある。

安立町は大阪市住之江区の安立(あんりゅう)町。

今の今まで、そんなことを知らずに育ってきた。

ネットをぐぐってみれば「一寸法師は安立の地で生まれた。針の刀をもって、京を目指した。かつて安立に多くの針屋があった。そのようなことで生まれたお伽噺」と書いてあるブログがあったが・・・。

へぇー、そうなんだというのが実感だが、安立は万葉集にも登場する地。

時代的には合致しそうだが、直接的なもののない由来は後付けどころか宣伝だった。

近世の安立に三栖屋(みすや)新右衛門など針商人が多くの店を構えていた。

そこでちょいと利用したお伽噺一寸法師の鬼退治伝説であった。

安立本通商店街振興組合が伝える由来である。

組合でなくとも誰しも知っているお伽噺。

「子宝に恵まれない夫婦が住吉大社に願をかけたら一寸法師が生まれた。お椀の舟に乗って川を上り京の都に向かった。なぜかそこにお姫さんがいた。姫を襲っていた鬼は針の刀で退治した。そして打ち出の小槌を振ったら大人になったで、姫と結ばれた」である。

組合が云う由来の原文は次の通りである。

「江戸時代、針の製造販売は安立の地場産業だった。針を扱う行商人たちが、一寸法師の物語を販売促進に引用しながら、安立の針を全国に広めたと考える」であるが、これもまた・・。

江戸時代に針の地場産業だったことを示す史料はどのようなものであったのか。

行商人はどこから来ていたのか。

行商人が運んでいたなら、製造元は安立ではない。

販売だけの商人の町。

かつて紀州街道を往来する人たちにもうけさせてもらった「市」であろう。

紀州街道は大坂と和歌山を結ぶ紀州徳川家の参勤交代路として整備された街道。

その街道に宿場町や市が発達したに違いない。

ところで伝承はどのように形成されて物語化したのか。

実証を知りたいものだが、そこはロマンである。

看板は「一休法師ゆかりの安立町」。

所縁は“針”でしかならない。

さて、そこより反対側の南に向かって歩けば京都知恩院派の浄土宗・正音山阿弥陀寺がある。

文禄三年(1594)、旭蓮社播譽空智大和尚によって中興された寺院。

豊臣秀吉の五奉行の一人。

浅野長政ゆかりの寺である。

お寺の門扉前に石標が建っていた。



古い形式でもない石標に「十三まいり」とある。

「十三まいり」に関連する仏さんは虚空蔵菩薩。

阿弥陀寺のご本尊は阿弥陀如来仏。

どういう関係にあるのだろうか。

その「十三まいり」石標右横にある小堂。

椅子に座る弘法大師像もあれば観音菩薩立像に地蔵石仏、修験像なども。

正面に据えた仏像は赤ら顔の坐像。



どこやらのお寺の回廊で見た像と同じような表情をもつ特徴のある真っ赤なお顔の仏像は赤い涎掛けをしている。

思い出した坐像はびんずる尊者坐像だった。

びんずる(賓頭盧)尊者はお釈迦さんの弟子。

特に優れた代表的な16人は十六羅漢さんのうちのお一人。

酒が大好きなびんずる尊者はお釈迦さんから見えないところに隠れて酒浸り。

見つかった尊者はたしなめられて禁酒を決意するが・・・誘惑に負けた。

そういうことで許さないお釈迦さんは遠くへ放りだされた。

反省の上、修行に励んだと伝えられる尊者であるが、酒飲み。

そういうわけでの赤ら顔、ということだ。

ちなみに小堂奥の仏画はたぶんに地蔵菩薩の来迎降臨図であろう。

ここよりさらに南下すれば堺市との境界になる大和川が流れる。

奈良大和盆地から流れてきた水は大河となって大阪湾に流れ着く。

かつての大和川は当地を流れていなかった。

古くは奈良・飛鳥時代から洪水の記録がある大和川。

延暦七年(788)、和気清麻呂が河内川(おそらく現在の平野川)を今の天王寺公園北側より大阪湾へと普請するはずだったが、技術的或いは資金繰りで和えなく断念した経緯があるそうだ。

飛鳥時代の河内平野を流れる川は奈良から流れてきた大和川と大阪・柏原で合流する石川の水は北へ流れていた。

恩智川、玉櫛川、久宝寺川に平野川に分かれて上町台地北を迂回、西に折れて茅渟の海へ、であった。

大雨、決壊、土砂による天井川、そして護岸工事。

さまざまな工事を経てきたが、抜本的な対策ではなかったようだ。

状況を克服しようと、万治二年(1659)のころから大阪・河内地域の住民たちが出した改革案は「大和川を西に向けて、直接に大阪・住吉/堺の海に流れこむように」した大規模改革案であった。

やがて今米村(現在の東大阪市)に住む中甚兵衛らが中心となって付け替え運動を展開してからのことである。

付け替えに際して検分が行われた時期は万治三年(1660)から元禄十六年(1703)に至るまでの44年間である。

新・大和川の大規模付け替え工事が決定された元禄十六年十月。

翌年の元禄十七年二月に工事が始まって、完成したのは宝永元年(1704)十月十三日。

なんと、たったの8ケ月間足らずの期間に完成したというから凄いとしか言いようがない。

大和川の壮大なる記録は、大阪・柏原市が纏めたものがあるので、参考にしていただきたい。

なにが云いたいかといえば、住吉大社の一大行事である。

堺市・宿院の頓宮(※お旅所)まで向かう神輿の道に紀州街道を行く。

大和川に架かる大橋を渡るのではなく、大和川の水に浸かって渡る川渡御神輿巡行路である。

7月31日は堺渡御がある住吉祭。

明治14年7月31日に奉納された大神輿。

新調奉納のきっかけになったのは明治11年から明治12年にかけて行われた式年遷宮である。

その奉祝に新調された大神輿は明治、大正、昭和16年、戦争勃発まで続けていた。

戦後、復活の願いもあったが、昭和36年以降は渡御そのものが車両による形に移り替わったのである。

長年に亘って途絶えていた人足担ぎの大神輿が修繕・復活したのは平成17年のことである。

安立・紀州街道の文化財を伝えるリーフレットがある。

PDF版で公開している大阪あそ歩-岸の辺の道・安立を越えて-である。

住吉大神を大神輿に遷しまして渡御するようになったのは、明治14年からである。

それより以前はどういう形式でされていたのだろうか。

平成28年に行われた第43回の堺まつりの特別史料にあった400年前の渡御の情景である。

大和川の付け替え工事が終わったのは今から315年前のこと。

その時代の紀州街道には大和川はない。

たぶんに細い川であった狭間川に架かる橋を渡っていたのである。

そのことを示す史料は堺市博物館所蔵の「住吉祭礼図屏風」の左半分に住吉大社から出発した神輿など、神事の行列を描いているそうだ。

堺渡御はいつの時代から始まったのだろうか。

定かでないが、和泉国南庄の氏神である開口神社付近にあった海会寺住職が書き記した『蔗軒日録(しゃけんんもくろく)』の文明十六年(1484)6月29日の条に「住吉大明神・・・、午後馬騎百人ばかり、神輿を送り、宿井の松原(※河内松原であろうか)に至る」がある。

永禄五年(1562)、イエズス会宣教師フロイスによる記事に「住吉社は堺の郊外約半里のところで、市の人々の行楽地となっている広野にあり、堺のまちに神輿が来ていた」とある。

興味を惹かれた「住吉祭礼図屏風」にはその当時の安立集落が描かれている。

拝見する機会があれば、是非見ておきたい屏風図である。

ちなみにこの日に昼飯させてもらった食事処の外壁に一枚のお願いが貼ってあった。



お願い文は、住吉大社の「神輿担ぎ手募集」である。

お願いしているのは安立神興会。

担ぎ手の申し込みは各町会長まで、ということだから、街道沿いの町内会に貼りだしているように思える。

なお、現在の大神輿渡御は8月1日の午後2時より。

住吉大社を出発して安立を通って大和川までの行程を担う。

渡御が境に入れば宿院頓宮堺神興会・若松神社の若衆会の手に移るそうだ。

(H30. 4.16 SB932SH撮影)

民俗探訪・明日香村川原・小山田の弁天社参り

2019年08月20日 08時42分32秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和62年3月、飛鳥民俗調査会が編集・発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』のⅢ章「ムラのしくみとまつり―宮座の祭礼―」に小山田の座行事が記されていた。

詳細はここでは省くが、その項に書いてあった小山田の頭屋の年間行事である。

4月15日、山登りと称して各自は手造りの弁当を持参して弁天社に参ったとある。

今では折詰(の料理)になり、神社の神饌とともに、この行事の世話に頭屋が担っていたとある。

また、毛付日待といって、田植えが済んだときに村中が弁当持参で弁天社に参る。

このときは村から酒が出る。

7月16日は大神宮さんを祭る日。

このときも弁当を持って大神宮さんに参る。

9月16日は風日待。

この日は重箱に詰めた赤飯を作って大神宮さんに参る。

これらすべてを世話するのが頭屋とある。

明日香村の橘寺に立ち寄って、すぐ近くになる大字川原にある小山田(おやまだ)を目指す。

小山田をセットしたカーナビゲーション。

設定した番地は376-1。

そこは弁天社があると推定して出かけた。

設定した地は、山の中。

集落からどの道を辿ればいいのかわからないので車から下りて歩いてみる。

歩き始めたときに屋内から女性が出てこられた。

これ幸いと声をかけて尋ねた弁天社。

その神社は存知しないが、こちらにある道を道なりに行けば神社があるという。

その神社名は宗像神社。

あの海の正倉院としても知られる九州福岡県宗像市田島に宗像大社・沖津宮とどのような関係があるのか・・。

それはともかく帰宅してから知った小山田の宗像神社。

弁財天は神仏習合によって女神・宗像神と考えられたそうだ。

桜井市外山に鎮座する宗像神社は、その説を考えに安政六年(1859)に九州の宗像大社より神霊を迎えて万延元年(1860)に社殿を築造したとあるが、小山田との関連性は不明である。

小山田に鎮座する神社は、村の人曰く宗像神社であるが、『第3次大字川原の景観計画―川原大字の年中行事―』によれば弁天社とも称していた。

明治42年(1909)7月27日に板蓋神社に併合され、現在は旧社に復している。

祭神が市杵島比売命で社殿が春日造りとある。

伺った女性が、当地に嫁入りしたころの子宝願いである。

弁天さんは女の神さんだから、出里の吉野町寄りの大淀町に鎮座する男の神さんに願をかけた。

そうすれば女の子が生まれると云われて参ったが、男の子2人が生まれたという。

女性が嫁入りしたころの弁天さん参り。

弁当を持ち込んで参拝していたが、話しの様相では中断したもようである。

小山田垣内はかつて一つの村で、大字川原の出垣内だった。

その当時は旧村の7軒であったが、ここより下った地に民家が建ったことによって現在は20軒になったそうだ。

さらに話してくれる女性の習俗の在り方。

苗代を作ったらイロバナを立てているが、松苗は見たことも聞いたこともないという。

田植えした苗さんは、家に持ち帰って、苗さんの上にご飯を少し盛って神棚に供えている。

出里の大淀町(※吉野川寄りの集落が考えられる)では苗さんの泥を落として綺麗に洗って乾燥させた。

それを仏壇の仏具(杯とか)を乾拭きする。

磨いたらピカピカになるという。

畑で育てたユウガオを収穫して皮剥きをする。

作業は庭内。

竿干しのカンピョウ作りをしている。

量は家族が食べる分量だから多くはない。

門を出て下ったところに畑がある。

柑橘類や勝手に成長したビワの実は小さいけど甘いという。

その下に蔓延っているのは自生の三つ葉。

三つ葉はかってに拡がったヒトリバエ(※タネが毀れて広がった一人生え)。

畑一面に拡がった三つ葉は、あまりにも多くなったので、鎌で刈って道の駅(※夢の市であろうか)に出してで売っているという。

そのヒトリバエ三つ葉に感動したらいっぱい刈ってくれて、私にくれる。

ありがたく受け取った三つ葉は車の中で美味しい香りが拡がった。

三つ葉はいくらでも増えるから、欲しくなったらいつでもおいでと云われる。

しかも、この日は近くにタケノコも生えているから、今から掘ってあげるから、と云われたが、なんぼなんでもさすがにそれは遠慮させてもらった。

女性が教えてくれた神社への道。

ここから正面に行くならその細い道を左に。

もう一つはもっとわかりやすい。

少し歩いて右へ曲がって道なりに行けば階段がある。

その上に鎮座するのが宗像神社こと弁天社でしょうと云われて歩いて登った。

右折れしたところに2基の石灯籠が建つ。



右が大神宮の石塔で左は庚申塔。

その左に2体の石仏。

一つは庚申さんでもう一つは地蔵さんだ。

前述したが、大神宮さんの祭りごとは7月16日と9月16日である。

機会があれば、早いうちに再訪、取材してみたい地区である。



石塔よりさらに登っていけば石段が見える。

勾配のある石段を登ったら神社があった。



拝殿向こうにある社に参拝。

右にある小社前に大岩が建つ。

刻印は「正一位 小山幸吉大明神」。

お稲荷さんでもなさそうな感じであるが・・。

鬱蒼とする樹木に囲まれる社地。

辺りを見渡しても遠望は望めない。

登ってきた道を下っていた。

左手は竹林。

女性が所有する竹林であろうか。

綺麗に整備されていた。

そこを通りすぎようとした竹林の一角。

不思議な形態が気になって近寄った。

切った竹を竹林の竹に、である。

水平にした竹を縛って固定していた。



1本でなく2本もある。

3本なら三角形。

4本なら四角形になるのだが・・・。

これは何を目的にする構造物なのだろうか。

もしかとすれば三つ鳥居(※三柱鳥居も考えられるが・・)。

で、なければ単に干すための竹竿のように思えてきた。

そこからさらに下って近道を行く。

話してくれた女性の隣家。



奇麗な石楠花の花が咲いていたので塀越しに撮っていた。

よく見れば雨かと思える滴があるが、この日は降っていたのか記憶にない。

ところでこの日に貰った三つ葉は大きな葉に太めの軸。

スーパーで売っている三つ葉に香りないが、貰った三つ葉の香りは凄い。

なんせ帰り道の車内に三つ葉の香りが充満状態。

こんなに嬉しい帰路の車内。

初体験にほっこら。

こんなに香りがある三つ葉は初めてだというかーさん。

5日後に我が家の食卓に登場した料理は鶏肉に玉子とじ。



タマネギも入れて炊いたいわゆる玉子とじ料理。

美味しくいただいた。

(H30. 4.15 EOS7D撮影)
(H30. 4.20 SB932SH撮影)

民俗探訪・明日香村橘・橘寺百味の飯食会式は

2019年08月19日 10時02分28秒 | 楽しみにしておこうっと
来週あたりにされるのでは、と思って初めて訪ねる明日香村橘にある仏頭山上宮皇院菩提寺の橘寺

聖徳太子のお生まれになった寺としてあまりにも有名なお寺である。

一度は拝見してみたいと訪れた橘寺の山門受付。

聖徳太子のお会式に報恩法要を営まれる。

その際に献上される御供上げがある。

その数多く、百味飯食(おんじき)会式の名もある。

受けされていた女性にお聞きすれば、檀家の都合もあって聖徳太子命日である22日の直前になる日曜に移行したそうだ。

今年の春の会式は4月22日の日曜。

命日日が日曜日と重なって執り行われると伝えられたが、生憎のこと、その日は先約がある。

報恩法要は秋の10月にも行われていると教えてくださったので、その日を予定しておきたい。

今年の平成30年は10月21日の日曜日。

命日の前日になる。

受付女性の話しによれば、百味の飯食会式の御供上げは“お手繰(たぐ)り”と呼ばれる作法。

一人、一人が次の人へ、次の人へと手で運ぶ作法だという。

午後1時半に一番鐘を打つ。

しばらくすれば二番鐘を搗いて、それからお手繰りするようだ。

百味の飯食は肉や魚は避ける。

例えば山の恵みとか里の幸に、キャベツやサツマイモなどの野菜類。

季節のワラビにタケノコも・・。

海の幸は乾燥もののワカメになるそれぞれの幸のものは一対でひと盛り。

幸盛りの種類は50杯。

それぞれを一対にするから合計で百杯になるというお手繰りである。

お手繰りが終わってから僧侶の読経。

法要を終えたらモチマキをするという。

この日は僧侶もお忙しくてお会いできなかったが、後日改めて伺いたく、と云えば、受付女性はいつでも構いませんから、来ていただいたら説明をさせていただきますので、と云われた。

昭和62年3月、飛鳥民俗調査会が編集・発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』のⅤ章「年中行事―明日香村の年中行事―」に興味深いことが書いてあった。

「豊浦や川原では2月21日の橘寺のお大師さん会式へ参り、ゴクマキのゴク(※モチか)をもらってきた。下平田や八釣では、4月21日に村のお寺に出かけてお大師さんの祭りを営んでいた。八釣では作ったニギリメシを供えた。御供は下げて子どもたちが食べていた。雷(いかづち)では4月21日までに“センゲンマツ”と云って、集めた米で御供を作って各戸で祭っているお大師さんに供えた」という記事である。

橘寺のHPに年中行事を公開されているが、お大師さんの祭りは書かれていない。

気になる事項である。

(H30. 4.15 EOS40D撮影)

民俗探訪・尾曽の毘沙門会式

2019年08月18日 10時27分13秒 | 楽しみにしておこうっと
明日香村の大字尾曽に毘沙門会式があると教えてもらった上(かむら)の住民

会式が行われる寺院は真言宗豊山派威徳院。

ご本尊は毘沙門天であるが、同寺では秘仏につき入堂不可とされる。

この日に伺ったのは4月15日が毘沙門さんの縁日にあたるらしく会式に大般若経転読法要をされると知ってやってきた。

4月15日の毘沙門会式。

尾曽ではレンゾと呼んでいた会式。

そのことについて書かれていた史料は昭和62年3月、飛鳥民俗調査会によって編集・発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』である。

記事は短文。「4月15日に尾曽で毘沙門会式が執り行われる。大般若経の転読をし、ゴクマキをする。この日はレンゾでもあるという。」

呼び鈴を押してみるが反応はない。

何度もしてみたがないものはない。

そのまま帰るわけにもいかず、ここまで来たら村の人に教えを乞うのが一番だと思って向かいのお家に声をかけてみた。

話しを伺えば、本来は4月15日。

昨今はその日に近い日曜日辺りに会式をしている。

その案内も早くに聞いていたが、直前になって一週間も遅らせた翌週の日曜日に移ったという。

今年は15日が日曜日。

丁度、日が重なってよかったと思っていたが、日にちを変更された。その訳は・・。

西国三十三所霊場草創千三百年祭にあたる平成30年。

それを記念して長谷寺で法要を営まれる。

その法要の応援に出かけたということだった。

住職とはお会いできなかったが、来年に寄せていただきたく、檀家でもあるN夫妻によろしくお願いさせてもらった。

なお、Nさんの話しではお焚き上げをされて大般若転読法要、最後にゴクマキをされるということであった。

(H30. 4.15 EOS40D撮影)

安堵町・案山子アートが発展、巨大化

2019年08月17日 10時16分00秒 | 安堵町へ
帰路につく前に見ておきたい処がある。

安堵町といえば、数年前から案山子アートが評判になっている。

なんでもとてつもないでかい聖徳太子立像があるという・・。

詞を濁す町民の声につい見たくなってやてきた。

おっ、相変わらずカメラマンが居るな。

その姿に思わず「ガンバッてはりまんな」と声をかけた。

そう、カメラマンが狙っている先にある巨大な・・・。



それが聖徳太子立像であった。

クレーン車の力を借りて、現在製作中ということだった。

(H30. 4.13 SB932SH撮影)

安堵のいま・むかし~辻本忠夫氏スケッチ画より~in安堵町歴史民俗資料館

2019年08月16日 08時24分30秒 | 民俗を観る
民俗スケッチ画展示企画展を拝見したく立ち寄った安堵町歴史民俗資料館

奈良県生駒郡安堵町にある施設である。

これまで目と鼻の先まで近寄っているのに入館はしたことがない。

これまで何度か東安堵の六斎念仏講の取材をしたことがある。

随分前になるが、お盆のときに講中が檀家詣りするのについていって撮らしてもらっていた。

早朝の6時だったと思う。

段階参りの際に、安堵町歴史民俗資料館の前を通っていったことがある。

また、お盆の先祖さんを迎える習俗も取材させてもらった。

その日は田んぼに映るカンピョウ干しの状況も見ていた。



所要ついでに入館した安堵町歴史民俗資料館では3月28日から5月31日までの期間に企画展を開催していた。

企画展は「安堵のいま・むかし~辻本忠夫氏スケッチ画より~」。



安堵町出身の辻本忠夫氏が生前に描きつくした安堵町のさまざま風景・暮らし・生産・軽便鉄道などなど。

作品点数は相当な枚数のようだが、展示会場の広さ関係もあって70点の展示。

息子さんだと思われる人がテレビ報道に応えていた父親の偉業に興味を覚えたこともあってやってきた。

安堵町やその周辺などを描いたスケッチ画は大正時代から昭和30年代のかわりゆく季節や風景が多いそうだ。

展示作品の撮影は禁じているが、配布される列品リスト(写生・個人蔵)については特に注意書きもない。

ざっと展示章ごとにタイトルだけでも記録させていただく。

1章は同村の盟友でもある富本憲吉氏と関係事項だ。

学びの大阪市立実業高校のその作品や富本憲吉氏と関係する写生集など。

2章は昔の娯楽。

蓄音機、テンチャン遊び、ばいがち合ひ、べったの勝負である。

大阪生まれの大阪育ちの私ら子どものときに遊んでいたものと同じだが、我が故郷では“べった”でなく“べったん”と呼んでいた。

3章は安堵町の一大産地であった梨果実の生産である。

梨砧木の買出し、梨の薬剤散布、梨の花さかり、梨出荷帳簿(個人蔵)、梨の袋張り、梨そろへ、梨の市場、梨倒し、梨包紙図案と包紙。白い花の梨が広がる梨畑。

その絵を見て思い出すのが、安堵町より東にある大和郡山市の額田部町。

今では面影も見られないがここは桃色一面に拡がる桃の一大生産地。

両者が揃っていた時代は合致する。

もし、今でもあるならドローンを飛ばして眺めてみたいものだと思った。

4章は懐かしの風景。

大和川のようす、岡崎風景・埜神の森、名阪国道と岡崎、いせきの大工事、しんちゆの橋とドンドン、笠目の橋、馬場塚、土管ふせ、法隆寺自動車学校開校、西安堵風景、はしもと、名阪国道(西安堵側・架構橋工事)である。

5章の天理軽便鉄道。軽便鉄道の着く工事、天理軽便鉄道安堵駅、大和安堵駅南側周辺風景画、法隆寺駅前の運送店。

6章は行事と祭礼。

笠目の橋と明治大帝、奉祝、正月の大トンド、歳越の晩、野辺送り1、野辺送り2、盆踊り、競馬(くらべうま)<飽波神社の祭り>、父の還暦祝いのどれもこれも民俗そのもの。

じっくり眺めていたい今では見られない貴重な画である。

7章は戦争と暮らし。

応召、金属回収、食糧増産(富雄川堤防開墾)。

8章にお米ができるまで。村の川堀り、さなぶり、草取り、刈りぬけ、稲こき、籾干し、籾の乾燥、米つき。

これもまた生活のなかで見られる民俗。

“カリヌケ“の在り方は大和郡山市の田中町にお住まいの方の作法を取材したことがある。

また、桃畑の産地だった大和郡山市の額田部町在住の高齢者からも同名の在り方をしていたと聞いている。

さなぶりは、現在の平坦部ではもう話題にも上ることのない、節目の豊作を願う農家民俗。

逆に苗代作りにおける水口まつりを描いた作品はなかった、のかである。

刈りぬけにさなぶりが描かれているなら水口まつりはあっても良かろうと思うのだが・・・。

今では見ることのない当時の様相がわかるスケッチ画



キャプションがあるから画も生きている。

貴重な民俗資料であるが、無断転載はできない。

もう一度拝見したくともお目にかかれない。

できるのであれば、後世のためにも、この素晴らしいスケッチ画集を発刊していただければありがたい。

企画展だけではなく、さまざまな民具も展示されている。

ざっと挙げれば、農耕における収穫・脱穀・調整の道具に運搬、消防、竹と生活、漁撈と竹、生産に養蚕と竹の他、実にさまざまな食事用具がある。

軽便鉄道の縮尺モデルもあるし、安堵町は燈心生産が盛んだった地区だけに、今でも伝統を継承すべく講習会も開かれているようやに聞く。

盛りだくさんの民俗資料館は短時間の学習では追っつかない。



屋外にでれば東屋のある庭園で一服することもできる。

館の鑑賞を終えて外に出れば燈心作りに必要な材を育てている。

田主はその場にいる案山子ではないだろう。

(H30. 4.13 SB932SH撮影)

山陵町・山上八幡神社の節分

2019年08月15日 12時34分32秒 | 奈良市へ
佐紀東町乾垣内葛木神の節分祭を拝見した次はすぐ近くになる山陵町字山上の八幡神社に向かう。

同神社は幾たびか訪れていた。

初めて訪れたのは平成19年の10月7日であるが、祭りの祭典中であったから声もかけずに場を離れた。

それから数年後の平成26年の12月31日

2人の写真家に、神社で合流した知人とともに拝見した大晦日の様相に感動し、設えた板注連縄に用立てする稲刈り作業を撮らせてもらったことのある神社。

その後の平成28年12月15日

板注連縄を設えるころだろうと判断して出かけたが、既に終わっていた。

今の村神主は前年の平成29年12月に前村神主から引き継いだ、老人会会長も兼務するMさん。

当社の大祭は年に3回ある。

その都度に出仕してもらう神職とともに祭祀する。

自治会は47軒であるが、氏子数は34軒。

宮さん務めする人が少なくなり、Mさん自身も務める村神主は今回で3度目。

実質、六人衆の5人が順に一年交替で役を廻している。

節分に供える豆は六人衆めいめいが仕入れてきたもの。



開封、バラした豆を枡に入れたものと袋詰め二通りに整えて供えている。

時間ともなれば村神主が動き出す。



用意しておいた台燈明に火を点ける準備をする。

神主家で預かっている古い燈明箱。

歴史風情がある燈明箱は黒光りの照り。

代々の神主、六人衆が大切に継承してきた燈明箱に感動する。



丸い窓はお日さん、反対側の窓はお月さん。

灯籠にも見られる造りに蝋燭の火が美しい。



実は、燈明箱に移したオヒカリは風で消えないように神社に持ってきたという。

そのオヒカリで台燈明に火を移す。



今年は風にあたって消えてしまわないように工夫をしている。

風の通り道になる西風。

社殿より西側に設えた透明シートの風除けである。

この在り方は斑鳩町の龍田神社で拝見したことがある。

行事は風祈祷。

台風など大風で育ってきた稲が倒れないように祈る農事行事。

風に負けないように何本もの燈明を灯す。

行事日が微弱な風であれば燈明の火は消えることはないが、強い風の場合は何度灯してもすぐに消える。

その風を避けて通れないから透明シートを設える風除け。

平成23年の7月16日に拝見した。

さて、山上八幡神社の節分である。

先に準備していた福豆を供えてから台燈明に一本ずつ蝋燭に火を点ける村神主。

台燈明の形は仏具であれば燭台。

台燈明にも同じように溶けて流れる蝋を受ける部分にそれがある。



すべて灯したら、参拝者が頭を下げる。

次々に訪れる氏子たち。

割拝殿に設えた暖房機。



2月初めの空気は冷たい。

おまけに風もある夜の参拝に準備したストープが身体を温めてくれる。



下げたお神酒に割きスルメをいただく氏子たち。

仲のいい宮守経験者の話題はつきない。



しばらくしたら、ストープの上で焼く干しスルメも登場した。

焼けたスルメの匂いでお神酒をいただく。

もちろん焼けたスルメも手で割いていただく。

スルメの他に干し魚も焼いていた酒の肴にお神酒がすすむ。

そのころともなれば続々と参拝者がやってくる。



いつもなら、半紙に包んでオヒネリの形にしてお供えしていたが、今年は枡に入れてきたという若年層の男性。

家から持参した豆を供えて参拝する。

空になった枡に村神主が準備してくれた福豆をたばってきた。

枡いっぱいに盛った福豆たばりの様相を撮らせてもらった。



台燈明のローソク火が消えるまではこうして参拝者を待っている村神主に六人衆。

この日は節分。

割拝殿の柱に取り付けたヒイラギイワシを拝見していた。



柱だけでなく本社殿前にある柱にもあると云われたヒイラギイワシ。

藁縄を柱に結んで落ちないようにしている。



鰯の頭を刺したヒイラギの枝を藁に差し込む。

なるほどの仕掛け。

神社らしさがいい感じ、である。

六人衆が揃ったところで神社の決め事を伝えられる。

先だって決まった板注連縄の決定事項の通知である。

これまでずっと毎年してきた板注連縄を廃止して、一般的な形の注連縄に移行する、という件である。

一般的な形を手作りするのではなく、業者から購入することになった、という。

この日も架けていた板注連縄。

師走まではこのままの状態であるが、大晦日になれば、新しく購入する一般的な形の注連縄にするという決定事項である。

なお、Mさんが云うには、板注連縄は七、五、三編みでなく、すべて七本ずつの藁束単位で繋げていたもの。

ある年に数えた藁の本数は1680本だった、という。



この本数、村の記録に残したく付記しておく。

(H30. 2. 3 EOS40D撮影)

日本ハム食品レストラン仕様ボロネーゼ

2019年08月14日 17時10分17秒 | あれこれインスタント
日本ハム食品にレストラン仕様のレトルトカレーがある。

4袋入りの商品は、ほぼどこのスーパーでも売っている。

だいたいが税抜き398円売りのようだ。

稀にある特売日。

あるとき298円で売っていた。

そのときが“買い“である。

売っていたら買ってきて、と云われていたレストラン仕様のレトルトカレーは中辛。

我が家では定評のあるレトルトカレーであるが、私はいつも同じ、ではなく他の商品も食べてみたいと常に思っている。

最近は見慣れないメーカー商品も手を伸ばす。

それはともかく、日本ハム食品・レストラン仕様レトルトカレー中辛買いついでに手が出たレストラン仕様のボロネーゼ。

これはカレーではなくスパゲテイソース。

謳い文句は牛肉の旨味を溶け込んだボローニャ風のミートソース。

ボローニャ風って一体何。

「タマネギやセロリなどを刻んだ香味野菜と炒め合わせて風味をつけた挽肉。それにトマトを素材に作り上げたイタリア料理・フランス料理のソース」らしい。

要は挽肉にトマトと香味野菜を加えたソース。

試しにと思って買っておいた。

ところがかーさんはミートソースがお嫌い。

そうきたか。

で、あれば食卓に上ることはない。

嫌いなものは作らない。

たとえレトルト食品であっても作らない。

この商品に限らず袋もんでお手軽に作れる製品は、ものは試しとついつい買ってくる私。面白そう、旨そう、しかもお試し価格、と三つ並んでいたら思わず買い物カゴに入れてレジ支払い。

買ってきたら、これ何、と、直ちにお蔵入り。

すべてではないが、そんな製品がケッコーな量に増えていた。

このレストラン仕様ボロネーゼもそのうちの一つ。

食べたい、食べたいと伝えていたらやっと叶えてくれた。

この商品の賞味期限は今年の12月22日。

年内いっぱいに残り3袋を消化せねばならない。

本日は茹で加減に時間がかかるスパゲッテイ乾麺。

細さによって茹で時間が異なる。

冷凍生麺にはうどんやそば、或いは中華そばはあるが、スパゲッテイ麺はない。

スーパー売り場で探しているが見つからない。

ない、と思っていたが、ネットにあった

便利な時代になったが、ほぼ業務用。

食事を提供しているお店屋さんが利用する冷凍麺。

サイフに優しい品物もありそうだが・・。

さて、レストラン仕様のボロネーゼのお味である。



トロトロ具合が良いから麺に絡んでくれる。

ちょびっと試しに指に着いたソースをくちにした。

味は濃い。

もっと味を濃くしたい、と思ってたっぷり振りかけた粉チーズ。

旨さが強調されるので、最近はいつもそうしている。

そんなに振らんでも・・と横から云われるが、その量は徐々に増えつつある。

粉チーズも一緒に絡めて食べるボロネーゼ。

口の中いっぱいに広がった旨さ。

ミート味は肉臭くもない。

むしろわからないくらいだ。香味野菜もタマネギ、トマトの味はどこ、と思えるぐらいに、味覚を感じない。

感じないのに、この旨さはなんだろう。

尤も、私はトマト、トマトしている味は好まない。

まさに、大人の味がするボロネーゼは口に合っているが、スパゲッテイ麺はもっと柔らかいので味わってみたいと思った。

最近、きしめんを食することが多くなったのは、スパゲッテイ麺の固さ、いや、そのコワさが気に入らなくなってきたのである。

次回はきしめん食感で。是非そうしたいと思ったが、その場合は粉チーズはどうやろか。

(H30. 4.12 SB932SH撮影)

とびきりの酒肴は3種魚の子の含め煮

2019年08月13日 08時18分35秒 | だんらん
王寺町地域交流センターに明神山フォトコンテスト入賞作品展をしていると知って出かけた。

そのフロアーに達磨寺に関する遺跡、鬼瓦、涅槃絹本図などを解説しているコーナーに見入っていた。

その帰り道に車を進行した買物は500円のサービス利用のため。

みかん類で一番に旨いと思っている清美オレンジを選びたい。

そう思ってやってきたよってって大和小泉店。

買い物籠にそれを入れてから心変わり。

折角の清美オレンジを元の位置に戻して、あらためて買ったのはシラヌヒ(不知火)である。

姿、形はまるでデコポン。

実は清美オレンジとポンカンとの交配種。

これがまためちゃ甘くて美味しいのだ。

試供品を二口食べて気に入った。

ちなみにデコポンはシラヌヒ(不知火)とその近縁種で熊本県果樹農業組合連合会の登録商標。

個数、大きさほぼ同じで、価格も同額の300円だったこともあり、最後は味が決め手だ。

残りの200円を捨てるわけにはいかないから、他の売り場を探してみる。

毎度、あれば買ってしまう泉州水ナスの漬物。

250円で美味しくいただける。

500円オーバーしたのでこれで打ち切りと思ったところに目についた鮮魚店。

冷蔵ショーケースにあった3種類の魚の子。

いわゆる卵巣である。

先だって美味しくいただいたブリの子も売っていた。

とても大きいブリの子は280円。

また買ってきたんと云われるのがオチなので手は出さない。

その近くにあったのが表題の3種盛り魚の子である。

150円も魅力だが、3種一度に味わえる楽しみがある。

それぞれは少量。

一つはタイの子とわかったが、他は何魚。

魚の名前を教えてくださいと店員さんに伝えたら、ぱっと返事がこない。

なんかクレームをつけられたように思ったのか、怪訝な顔・・。

もう一度伝えてやっと教えてくれた魚は鯛にイサキにトビウオ。

鯛、イサキは卵黄だが、トビウオは白子。

これまで食べたことのない2種はどんな味がするのだろうか。

尤も甘く醤油で煮付けるから、そんなに大差はないと・・・。

帰宅するなり、今夜のおかずにとかーさんに伝えたら晩食に出てきた。



鯛の子はやはりタイの子の味。

食感も卵粒が大きいからよくわかる。

味は慣れていることもあって、変わりなく美味しい。

イサキの子は粒粒が細かい。

つるっとしている食感であるが、味は遜色ない。

さて、トビウオの白子である。

さすがにこれは手を出さないかーさん。

見た目も気持ち悪いのか、箸はださなかった。

白子も柔らか目。

味は濃くもなく薄くもない。

食感が楽しめる一品だった。

(H30. 4.10 SB932SH撮影)

室生ダム湖ふれあい公苑のコイノボリ景観つくりに感謝

2019年08月12日 09時37分04秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
1年ぶりに訪れた本日の山辺三・ふれあい広場。

下見と思って榛原帰りに立ち寄る山辺三。

尤も山辺三も榛原だが・・。

この地にたまたま来られた村の人曰く、桜が早くに咲いたので例年より早めて6日に立てたという。



前年同様に強い風が吹いていたので綺麗に泳いでいた。

半時間滞在にやってきた数グループの男女。

スマホでちょいと撮って立去った。

僅か数分のできごとである。



なお、南側の荒れ地。

草マメシだった地。

市からの願望もあった。

ネパールにステイできる家建てたと話す男性に巡り合った。

仕事を趣味にネパールへ行き来する71歳男性。

この日はドローンを飛ばし、桜に近鉄特急入れて撮っていた。

その画像は、FBをしている知人に送付してアップしてもらっている、という。

で、その荒れ地である。

何日か手間をかけて奇麗に整地し、駐車できるようにした。

話してくれた男性はもう一人いる。

男性は80歳。

山辺三が出里であるが、数年前に開発された高台に移転した、という。

今年のコイノボリは桜が早く咲いたから大慌て。



4月6日の金曜に立てた、という。

コイノボリは5月になったら下す。

最近はコイノボリ泥棒が暗躍しているから、そうするという。

なお、コイノボリの支柱に枯れた竹は使えないから、わざわざ青竹を伐って立てている。



苦労をかけた二人の男性のボランテイアのおかげで、私たち来訪者は、山辺三の素晴らしい景観を愉しませてもらっていたのだ。

まことに感謝申し上げる次第である。

(H30. 4. 8 EOS7D撮影)
(H30. 4. 8 SB932SH撮影)