荻野洋一 映画等覚書ブログ

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三隅研次の「意地」について

2008-11-21 01:29:00 | 映画
 「邦画バブル」などと言われ、好成績に沸く日本映画であるが、私に言わせれば、真に活躍すべき映画作家が縦横無尽に活躍し、大ヒットを飛ばし得ていない現状は、たしかにバブルとしか思えない。では、真に活躍すべき映画作家とは誰たちであるのか、それはいちいち名を列挙せずとも推して知るべしだろう。
 1960年代後半から日本のスタジオ・システムが崩壊し、死に瀕した歴史は、もはや再考・回顧に値しない事象なのであろうか。私はその答えを保留する。その代わり、少しずつそうした時代の作品を再び眺めてゆくことにしたのだ。私の視線は当分、劇場公開される新作の封切りと、そうした事象との間を往還することになるであろう。たとえば、ハリウッドのスタジオ・システムが崩壊した影響をもろに受けつつ、ニューシネマにも乗り切れなかった『冷血』『ロード・ジム』のリチャード・ブルックスのような存在に、視線は注がれてしまう。
 きのう私は、三隅(みすみ)研次監督、勝新太郎主演の2本、『御用牙』(1972)と『酔いどれ博士』(1966)を、あらかじめ録画しておいたHDDで再見した。三隅研次は現代の価値観で計るなら、「作家」と、ブログラム・ピクチュアの監督の中間ぐらいの存在となるだろうか。条件の悪化が如何ともし難く画面にべったりと暗い影を偲ばせているが、やはりここには「作家」にしか可能ではない意地の発露がある。この意地というものが現在の私には、同時代に篠田正浩がATGの『心中天網島』『卑弥呼』あたりで試みていた実験より、はるかに貴重なものであるように思える。
 滝田洋二郎の『おくりびと』(2008)のごときは、野坂昭如の原作を翻案した三隅研次の奇作『とむらい師たち』(1968)の前では、あっけなく吹っ飛ぶであろう。