荻野洋一 映画等覚書ブログ

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E・M・フォースター 著『アレクサンドリア』

2011-05-07 00:53:53 | 
 E・M・フォースターの歴史ガイドブック『アレクサンドリア』(1922)が、昨年末に文庫化された(ちくま学芸文庫)。『眺めのいい部屋』『ハワーズ・エンド』『モーリス』で知られるイギリスの文豪の著作を読むのは、私にとってこれが初めてのこと。本書の初版が出た1922年、同性愛者のフォースターは最愛の青年モハメッドを、まさにアレクサンドリアの地で結核のために亡くしている。そういう意味で、著者にとっても思い出深い因縁の書であると言える。
 私が本書に手を伸ばした理由は、単純かつ現金なものだ。アレハンドロ・アメナーバル監督、レイチェル・ワイズ主演の映画『アレクサンドリア』をつい最近見たとき、この古代の学芸都市についてこれほど無知のままでいるのは恰好がつかない、と思ったからだ。映画としてすぐれているとか、そんな評価を吐くつもりはない。ヘレニズムの掉尾を飾った女性哲学者・天文学者ヒュパティア(370?-415A.D.)が、まだ新興宗教だったキリスト教の頑是ない信者集団に虐殺されるまでを扱った、ごく標準的な歴史ロマンである。以前にも拙ブログ上で白状したが、私はこの手のスペクタクル史劇に対して、どうにも点が甘くなる傾向がある。
 当時、詩で謳われるほどその美貌で有名だったヒュパティアは、講義をおこなった帰り、キリスト教徒たちに教会へつれこまれ、生きたままカキの貝殻で肉を骨からそぎ落とされて殺害された。映画ではその蛮行を、フレームの外で起こったこととし、オフの物騒な音だけで示したにとどまるが、確かにそんなシーンを見たいとは、誰も思わないだろう。

 フォースターの冷徹な筆致は、1個の都市が王命で建設され、理想的に育まれ、多くを生み出し、あこがれをもって見つめられたのち、衰退の道を避けがたく辿っていくプロセスを、淡々と素描してみたにすぎない。戦渦に巻き込まれたり、不運な火災が起きたり、暴徒によって略奪されたりするうちに、アレクサンドリア図書館は跡形もなく消滅した。文明とは、そうやって複合的に息の根を止められるものなのだろう。福島原発をみれば、わかる。人災と天災が重なり、その後も長期にわたってまずい対応(と非対応)が続いたりして、文明の終焉が、うっとうしいほど万端に準備されてゆく。
 ある種のSF映画のように、宇宙人の襲撃や隕石の落下によって終わるなら、いっそさっぱりしている。だが現実的には、もっとグズグズとしてネバネバした煉獄のような崩壊のプロセスがあるにちがいない。