荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『孫文の義士団』 陳徳林

2011-05-22 10:27:22 | 映画
 陳徳林(テディ・チャン)の新作『孫文の義士団』の上映時間139分に途絶えることなくみなぎる図式の推進力が、これを見る私たちをこころよく撃ち続ける。日本亡命中の孫文が、香港に1時間だけ上陸し、革命の実行手順の極秘説明会を開くらしい。このわずか1時間、清の朝廷が送りこんだ暗殺団の注意をそらすための陽動作戦。
 この危険な時間かせぎを渋々ながら引き受け、優秀な囮のリクルートに奔走することになるのが、リーという大商家のあるじなのだが、このリー商人を演じた王学圻(ワン・シュエチー)がいい。穏健派の立場を保ちきれなくなった彼がついに意を決し、作戦実行の仲間を引き入れていくあたりは、なかなか魅せる。

 これは中国史でいうところの《食客》という概念だろう。亭主は、客の才能と将来性を初対面で評価し、部屋を与え、飯を食わせる。客は、援助を受けつつもへりくだることなく亭主の器量、度量を推し量る。これが、紀元前からつづく《食客》だ。リーは、かつての士大夫階級が、天下国家の将来をになう若く貧しい《食客》を厚遇したのと同じように、囮として役立つ決死部隊を結成していく。この作品においては、孫文はあくまで《賓客》にすぎず、決死部隊こそが《食客》という図式である。日本映画でこれに近い存在は《侠客》だろうか? 《侠客》もまた、「一宿一飯」の恩義にみずからを縛る存在のことだ。
 あつめた囮たちのために、手ずから中華鍋を握り、油と食材を放り込むリー。若者たちは、食事にありつく。調理を終えて汗びっしょりのリーが、食事中の彼らを放心状態で眺める。私は、こういう画面を見ながら震えを禁じ得ない類の観客だ。まるでプドフキン映画でヴェラ・バラノフスカヤ演じる母のような神々しさではないか。
 リーの可愛がる若い車夫(ニコラス・ツェー)が見そめた、写真館の美しい看板娘(チョウ・ユン)に対して、リーが親代わりとなって写真館のあるじに求婚し、婚約がまとまる。だいたい車夫ごときが写真館の娘と一緒になるなんて、身分違いも甚だしい不自然なストーリーだと訝りながら見ていたのだが(かつて写真館というものは、有産階級や貴人たちが余技として営んだ業種だった)、娘の立ち姿を初めて見ると、彼女の足は不自由なのだった。それでもしあわせそうな車夫の笑顔と、リーの曇った顔と。娘からすれば、車夫が毎日、自分に笑顔を向けてくれながら、人力車を引いて颯爽と駆け抜けていく姿を、写真館の窓からまぶしく見つめ続けてきたに相違ない。

 当初から分かっていたことだが、若い囮部隊は作戦中にほぼ全員死ぬ。そしてこの死は、作戦の成功なのである。彼らの誰かが死ぬたびに、ひとりひとり死体を写したカットがあてがわれ、本名/生没年/本貫(戸籍の所在地のこと)が字幕で顕彰される。
 香港アクションの上で実現した、プドフキンとホークスの幸福な結婚だ。「オデッサ階段」を滑り落ちる人力車は、ちょっと微妙だったけれど。


新宿ミラノ、MOVIX京都、なんばパークスシネマにて続映
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