主人公(原作者)役の小池徹平、その兄姉となった西野亮廣、池脇千鶴をはじめ、全体的に演者の実年齢が役よりもかなり高めである違和感は、製作陣に何がしか特別な意図があってのことだろう。とにかく登場人物のことごとくがやけに分別くさいというか、説教くさいというか。稚拙な精神と分別くささの混合、そして登場人物たちを見つめるカメラのクレーンやら横移動やらの過剰さが、〈映画〉そのものから遠いものにしているように私には思えた。遠いにもかかわらず、積極的な離反でもないのである。
しかし、破産と一家離散によって始まる、主人公のホームレス体験を、作者はひと夏の珍体験という位置づけのみに終始させてはいない。作品の後半あたりから、主人公がまだ幼い頃に病死した母に対する喪の作業が、主人公の内部で完遂されていないがゆえに、現在に至って過度の思慕が高じ、それが孤独癖の突出という描写へと橋渡しされていく。この橋渡しは、本作が如何ともしがたく宿らせた幼子の精神を、辛うじて救っている。
最近WOWOWで、同じく阪神地区を舞台にしつつ、ひとりの少女が「イエ」を喪失していく物語『浪華悲歌』(1936 溝口健二)を再見し、主人公がカメラ正面をするどく見据えつつ前進し、最終的にはレンズに触れんばかりとなるラストカットに、とめどない感動を覚えたばかりであったため、むやみに辛い目で見てしまったかもしれない。
ピカデリーSHINJUKUなど、全国で上映中
http://homeless-movie.jp/
しかし、破産と一家離散によって始まる、主人公のホームレス体験を、作者はひと夏の珍体験という位置づけのみに終始させてはいない。作品の後半あたりから、主人公がまだ幼い頃に病死した母に対する喪の作業が、主人公の内部で完遂されていないがゆえに、現在に至って過度の思慕が高じ、それが孤独癖の突出という描写へと橋渡しされていく。この橋渡しは、本作が如何ともしがたく宿らせた幼子の精神を、辛うじて救っている。
最近WOWOWで、同じく阪神地区を舞台にしつつ、ひとりの少女が「イエ」を喪失していく物語『浪華悲歌』(1936 溝口健二)を再見し、主人公がカメラ正面をするどく見据えつつ前進し、最終的にはレンズに触れんばかりとなるラストカットに、とめどない感動を覚えたばかりであったため、むやみに辛い目で見てしまったかもしれない。
ピカデリーSHINJUKUなど、全国で上映中
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