荻野洋一 映画等覚書ブログ

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〈南蛮のみち〉での拾いもの

2011-05-19 00:00:00 | 
 最近たまたま仕事上の必要があって、司馬遼太郎の『街道をゆく22 南蛮のみち』(1984 朝日新聞社刊)を読んでいたら、冒頭いきなり「こんなホテル」と吐き捨てる女性が登場して、その名前に、すこしばかりハッとなった。
 司馬や担当編集者らがパリ市内で泊まっている、団体客ご用達のアメリカ式巨大ホテルを「いやだねえ、そばまできて、帰ろうかとおもった」などと流ちょうな日本語で腐すこのフランス人女性は、名をカトリーヌ・カドゥという。今回の取材コーディネーションをつとめてくれた彼女を、司馬は親しみをこめて(?)「カトリーヌ嬢」と呼んでいる。黒澤明の通訳をつとめたり、永井荷風の仏訳を出したり(『おかめ笹』『腕くらべ』)と、語学力をいかした仕事が多い。

 このカトリーヌ・カドゥの監督した新作ドキュメンタリー映画が、現在開催中のカンヌ国際映画祭の〈カンヌ・クラシック〉部門で上映されたらしい(『Kurosawa, la voie』)。ベルトルッチ、呉宇森、アンゲロプロス、キアロスタミ、宮崎駿、スコセッシら、世界各国11人の映画作家が、黒澤明の映画について語るというもの。クリント・イーストウッドが、「この日本人映画監督が第7芸術にどのような影響を与えたのか説明」しているのだそうだ。その部分だけでも、見てみたい。 

 司馬遼太郎は、この『南蛮のみち』を──つまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を──書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点としている。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白い。中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう。
 途上、フランス・バスクの中心都市であり、ロラン・バルトの育ったところとして知られるバイヨンヌで、聖なる固有名詞だと思っていた「ザビエル(Xabier)」という単語が、この地方ではごくありふれた男子の名前であることを知って、司馬は愕然としてしまう。しかし現代日本では、これは子どもでも知っている事柄だ。シャビ(シャビエル)・アロンソや、シャビエル・プリエトといった有名フットボーラーがバスク人であることなど、少年たちにとっては、ごくごく常識の範疇となっているからだ。

狂える魂を鎮めながら、生きる

2011-05-16 00:00:00 | 
 前向きに生きていないことにかけては、そこそこ及第点だと自分なりに思っていたのだが、他人に聞くと「そうでもない」という。「かなり正常な人生でしょ。」
 まぁ、それならそれでいいけれど、南條竹則の新刊『人生はうしろ向きに』(集英社新書)などというタイトルの本に手を出すという行為は、そういう事情ゆえ、どうにも我ながら物欲しげで、嫌なものである。それでも読んでしまうのは、私が単に南條竹則の本が好きだという理由にすぎない。そして、この人の懐古主義、未来否認はそもそもの十八番なので、その点では生理的な共感以外に感想はとくにないわけだけれども、この人のいい点は、他人の褒め方がうまいという点である。オマージュ上手なのである。

 本書はおよそ40頁を割いて、イギリスのエッセイスト、チャールズ・ラム(1775-1834)にオマージュを捧げている。そして私は、いっぺんでこのラムのファンになってしまった(まだ本人の著作を一冊も読んでいないにもかかわらず)のである!
 ラムの姉メアリーが自宅で内職中に突然発狂し、目の前にいた母を殺してしまったが、判決は無罪となった。南條は努めて冷静に書く。「自分が責任を持って姉を監視し、面倒をみることを条件に、姉を家に引き取る許しを得た。この時ラムは二十一歳だったが、彼の青春は終わったのである。」
 残りの長い人生をメアリーの介護にあて、結婚できない姉を思いやってか、ラムも生涯独身だった。姉の発作はだんだん頻繁になっていったが、2人の同居生活は決して暗いばかりではない。演劇好きの2人は劇場通いをしたり、中国の陶磁器をあつめたりして暮らした。弟は、随筆や劇評をすこしばかり雑誌に書き、パブで酒とトランプを楽しんだ。ロンドンの享楽家のよくある生である。メアリーも、家計を助けようと筆をとり、シェイクスピアの児童向けダイジェスト本などを出版したりしている。

 弟の死後、姉は弟の残した遺産と、東インド会社の年金によって不自由なく介護を受け、13年後に弟と同じ墓に葬られた。私は、このような生から出てくる言葉というものを、好きにならずにはいられない性分なのである。
 話のレベルがまったく違うが、原発事故によって日本という国土の青春も完全に終わったという実感が、わが読解をいささか歪ませただろうか。

auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2011-05-14 06:37:49 | 記録・連絡・消息
 恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2008年12月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、中西健二、ロナウジーニョ、山崎剛太郎、ベルント・シュスター、プレドラグ・ミヤトヴィッチ、フアンデ・ラモス、ウディ・アレン、チャビエル・クガ(ザビア・クガート)…といった人々です。この月は、クラシコのロケでスペインに行っていましたね。たしか、メッシのハットトリックをカム・ノウのピッチ上で目撃してしまったのでした(3-3ドロー)。

『八日目の蝉』 成島出

2011-05-13 04:23:05 | 映画
 『キッズ・オールライト』のリサ・チョロデンコが、レズビアン家庭という作者の分身的な環境を作品内に持ちこみ、さらにそれをホーム・コメディの鋳型に入れることによって、母系社会のティピカルな未来像を提示しようとしたとするなら、成島出は前作『孤高のメス』(2010)に引き続き、母子家庭の濃密な関係性に寄り添うことにこだわりつつ、単性生殖的なミクロコスモスを流離譚のなかに発見している。
 誘拐された女児(井上真央)、誘拐犯(永作博美)、誘拐された女児の母親(森口瑤子)の3者のあいだに、単性生殖の正統性をめぐる峻烈なサスペンスが生じている。そしてその周縁に、誘拐犯を守護する女たち(市川実和子、余貴美子、風吹ジュン)が順ぐりに出現して、単性生殖の系譜をささえる。そして、大人になった井上真央の守護者(小池栄子)。この女は最初、誘拐事件の後日談を書こうとするジャーナリストとして登場するのだけれど、だんだんその立場はあいまいなものとなって、井上真央を守護すること自体が目的化していくのは、たいへん不気味な状態というか、呪術的な様相さえ呈しているように思える。

 男たちの存在がますます稀薄となり、『キッズ・オールライト』と同様、単なる精子ドナーと化していくかのようだ。この、新興宗教にも似かよった単性生殖的な映画にあって、存在が許されている男性が、写真館の主人(田中泯)ただひとりであるというのは、なにかの符牒なのだろうか? 「おいで…」と田中泯がくぐもった声でつぶやいて、現像室に入っていく。井上真央は一瞬ためらったのち、後を追う。幼少期の自分と自分を誘拐した犯人の記念写真が、トレーの液体の中でゆらめきながら像を結んだとき、小さな悲鳴を上げつつ写真館を飛び出す。
 井上真央がしめした過剰なリアクションは、埋もれていたすべての記憶(皮肉にも、彼女が最も幸福に育った日々の記憶)が、ついに白日のもとにさらされたことへの衝撃のためではもちろんあるだろう。しかし、それだけではなく、今、ゆらめきながら像を結ぼうとする1枚の記念写真のなかに、彼女が「何か」を見てしまったからではないのか? 禁忌に近い「何か」を。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町)ほか、全国で上映中
http://www.youkame.com/

『SOMEWHERE』 ソフィア・コッポラ

2011-05-10 00:19:22 | 映画
 セレブの爛れきった虚無を描かせたら、ソフィア・コッポラの右に出る者はいない。なぜなら、セレブの虚無などというものは、オーソン・ウェルズも、そしてヴィンセント・ミネリもジョゼフ・L・マンキーウィッツもいない現在、もはや誰も描こうと思わないからなのだが、ちょうど日本のサラリーマンが「サラリーマンは愉しいな」などと調子よくつぶやいた時と同じような節回しが、彼女の作品にはたしかにあって、私は意外と彼女の映画のそういう爛れは嫌いではない。
 L.A.市内のブールヴァードや郊外のフリーウェイを疾駆するフェッラーリ・ネグロは、勇猛なイグゾースト・ノートを奏でてくれているし、マスコミの愚問に耐えさえすれば、各所への遠征、たとえばイタリアへの旅行も、感動にうとくなった主人公(スティーヴン・ドーフ)の心を、すこしは浮き立たせもする。
 主人公と前妻とのあいだにできた娘(エル・ファニング)は11才となり、あざやかなブロンドの髪と濁りのない笑顔をもつ美少女に育った。あと10年もしないうちに、彼女もまたハリウッドのセレブの仲間入りを果たすことだろう。ちょうど実人生におけるフランシスとソフィアの父娘のように。そして、それをまた当然の未来と思うのも、彼らの栄光の悲惨だ。成功の余韻も予感も、あくびしかもたらさない。
 父娘が並んで、プールサイドでひなたぼっこをするシーンがある。カメラはただズームバックしながら、そのスタティックな光景を、あっけらかんととらえることしかできない。そこには、映画を停止させようとする意地悪な作者の目がある。映画に当たり散らす、ヒステリックな深層と表裏一体の寡黙さがある。どこまで爛れられるか、我慢くらべをやろうじゃないか。


ヒューマントラストシネマ有楽町(有楽町イトシア内)ほか、全国で順次M.O.
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