★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

弁証法と鳩のうんこ

2024-05-06 23:05:10 | 文学


悟空急に雲にまたがり、寶閣瑤池に行きて見るに、さまざまの珍味いろいろの嘉肴、うづ高く積みならべ、右の長廊に酒甕多くかさね、数十人の官人傍に並居て、この酒肴を護り居たり。悟空このありさまをとくと窺ひ見、身の毛二三十根を抜て口中に入れ、嚼砕きて噴出すに、忽多くの睡蟲と変じ、守護の官人に向うてとびかかれば、不思議なる哉、一人も残らず倒れてねむり入り、さらに前後を知るものなし、悟空則走りよつて、かの酒肴を引きちらし、意にまかせて飲瞰ひ、酔に乗じて走り出で、斉天府へといそぎしが、いかがして道を踏みたがへけん、兜卒天に至りける。此所は太上老君の給ふ所なるが、折節老君法を説き給ふに、仙童等聽聞に出て、一人も門を守るものなし。悟空折よしと窺ひより、仙家の寶とする九轉の金丹を葫蘆の中に納れ、五つまで貯へたり、悟空此金丹を傾け、ことごとく吃ひ盡し、今は我身の罪科重なる上は、玉帝よりゆるし給ふまじ、と心を思惟し、忽隠身の法をつかひ、西天門より走り出て、一参に華果山へこそ帰りける。

なんで間違って兜卒天に行ってしまうのかわからないが、やはり罪を重ねるとそいつの意志などどうでも良くなることを昔の人も知っていた。思うに、ヘーゲルもマルクスもキリスト教への反感から罪の効果について声が小さくなっているような気がするのであるが、やはり問題は罪なのである。

最近、うちの庭にうんちをひり散らかしている鳩ども、まことに汝等に告げます。お前達に人権はないが、罪はあり。

洗濯は出来ても鳩のうんこを片付けられないのが現代人の弱さであるが、よくみると、鳩のうんこから植物が芽を出している。鳩は罰が下って遅からず死んでしまうのであるが、ウンコから生が再生する。ヘーゲルもマルクスも当事者がかわいそうだから強調しないが、生が生じるのは、罪のあるここではなく、ウンコのあるあそこなのである。フランスの革命が、ソ連の革命がうまくいかないわけである。

細と一緒に街中を少し歩いてみたが、コロナの前にあったお店などが結構なくなってる気がした。そういえば、郊外にあった老夫婦がやってたおいしいとんかつ屋さんもいつのまにかなくなっていた。わたくしはとんかつでここまで美味い店をしらなかった。無理してたのか安すぎたのだ。おいしい店がなくなってもどこかで美味いモノは再生するのであろうか。たぶん、そこには多く滅びるものがある。鳩の例のようにはいかない。人為的なものはそういうものであって、多くの弁証法論者は、罪と罰について考えてもいなければ、我々が鳩でも植物でもないことを無視している。

郡司ペギオ幸夫氏が、どこかで、アートも生命だみたいなこと言っていたが、それは目の前にアートがあったときに起こることで、見えないものが生命ではないのではないかという疑念が私にはぬぐえない。