★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

植物対ゴジラ――メイヤスーを前置きに

2024-05-03 23:43:36 | 文学


したがって、「思考の脱-絶対化」と見なされる形而上学の終焉は、絶対者への任意の宗教的(あるいは「詩的-宗教的」)信念を理性によって正当化することに存する。なぜなら宗教的理念はそれみずからに立脚するしかないのだから。言い換えるなら、こうなる――形而上学の終焉は、絶対者への権利要求の合理性を放棄した結果として、宗教的なものの激しい回帰という形を採ることになった。


――カンタン・メイヤスー『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳


知らなかったんだけど、思弁的実在論のカンタン・メイヤスーって、親父が解放の人類学のクロードメイヤスーなのだ。なんとなくいろいろ腑に落ちたこともあった。親父メイヤスーがどこかで言っていたような気がしないでもないが、奴隷制が親族性からの追放で子孫を持たないみたいなものだとすると、われわれの傾向はまさにそれであった。自由のつもりの奴隷である。田舎におさまってりゃ人間であるはずが、都会に追放され奴隷になったのである。

しかし親族性というのは何なのであろう。地下茎みたいなものなのであろうか、と思ってもみたが、植物世界とは我々とはかなりちがうのである。――うちの庭では定期的に「わたくしは主人に植えられた由緒正しい木でございます。生長も早いです」という態度で主人が植えた植物の養分を奪い尽くしているただの雑草が巨大化しているので、秋頃主人によって虐殺されている。植物の世界を人間社会に容易に適用すべきでないゆえんである。

やはり、それにくらべると、ゴジラのほうが我々に近い。しかし、最近のゴジラは目的意識に欠けているようにみえるので、まずはYOUはなにしにニッポンに、と聞くべきだ。人間じゃないから目的意識があるとは限らないと思う人もいるだろうが、逆である。目的意識からはずれて暴れたりするのは我々のほうで、――キングギドラと戦っていたころのゴジラが正義の小学生ならむやみに暴れる中1男子に進化したのが最近のやつであろう。後もう少しすれば親が悪いとか言い出すにちがいない。

で、ゴジラは口からなにか出すのがいつものあれであるが、やつが中1男子であるとするとたぶん飲酒か深刻な病気である。ただちになんらかの収容が必要である。眼とかひじから何かが出てるウ☆ト■マンとかになるともはや死にかけといって良い。

だいたいゴジラ映画は兵器で怪獣を倒そうとする時点で軍靴的理系的であって、文系の我々としては、まずはゴジラに和歌を送り、返歌が下手だったら無視したり、ミニラを垣間見したりして妻に育てたりすればよいと思うのである。

――てなかんじで、いい歳こいてゴジラを見ているわたくしは、庭の雑草よりもだめなのである。「ゴジラ対コング」みにいかなくては、と言っていたら、誰が見に行くのかと思っていたらここにいたかと細に言われました。結婚するとこういうある種の正気返りがあるのですが、子どもがいると逆に狂気が加速する可能性があるのはいうまでもありません。

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