★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

如意棒と動物

2024-05-04 23:58:38 | 文学


あまたの鬼ども驚きおそれ、森羅殿に逃上り、さわぎへる事大かたならず。十代冥王之を聞き、急ぎ出迎へ、悟空を見て其姓名を間ふ。悟空此時大きに呼はつて曰く、「你我が名を知らずして、何ゆゑに人を遣して此所へよびよせたるや。我は是華果山水簾洞天生聖人孫悟空なり。元來仙道を修行し、天と壽をおなじうし、三界を出で輪囘を去れり。然るをなんぢら、いかなれば我が命数の盡きたるといふや」冥王の曰く、「上仙まづ怒りをとゞどめ給へ。天下の裡に名の同じきものもあまた有るべし。かならず人錯にてこそ候はん」悟空が曰く、「我曾て聞くことあり。你等が冥官の記し置く生死の簿子ありと聞けり。持来つて我に看せよ」冥王乃掌案判官を召して、生死の子をとり出す。悟空手にとりて、くりかへし是を見るに、猴の類の中に、「孫悟空天産の石猴、壽三百四十二歳、善終すべし」とかき記せり。悟空筆をとりて眞黒にこれをぬり滅し、其餘猴の名あるものをことごとく滅し終り、かの如意棒をふりまはし、冥王に物をもいはず、幽冥界を出るとおもへば、忽夢は覚めたりける。

思い上がった猴に、棒を持たしたらいかん。人間だって、また両手を振り回しているうちはいいが、棒をもたしたら最悪である。性的な比喩であるかはどうでもよく、とにかく何かを振り回すようにできているのだ。この小説でも何かを振り回すタイプがおり、わたくしは苦手だ。むかし、乱暴者の猴どもから頭を叩かれた経験からであろう。上のように、棒を振り回す奴は、何かを消したりすることも得意である。

とはいえ、まだこういうバカザルは分かりやすいからよい。問題は、このような猴状態のくせに口舌の徒のふりをしている輩である。かかる口先野郎が多すぎたせいで言行一致みたいなものが妙に理念化し、そのために、口は悪いが日常の行為は常軌を逸して一生懸命で優しいみたいな人間がいなくなり、言い方も普通なら行うことも普通でみたいな人間が増えただけでなく、口が悪いことがそのひとの行為の表現みたいに考える輩が増えてしまったのである。我々は、言行一致せよ同時に言行一致は不可能だとあたりまえのことを、当為として主張しなければいけない体たらくだ。思うに、こういうことがわからなくなったのは、我々の暗記能力の衰えのせいである。悟空は天才過ぎて勉強する必要がなかったのが最悪であった。

受験勉強でずいぶんおかしなかんじになってしまったが、われわれは暗記が好きほうだと思う。つまり和歌を覚えるみたいに暗記が好きなのだ。それがないと、心の中でイメージの変形というか思考がはじまらないのだ。で、暗記をやめると何も変形しないから何かを動かそうと思って暴力的になるのである。悟空は、心の中での変化がないから、実際の変化にとり憑かれたのである。

悟空の暴力は贈与のように――いまでいうとテロ的である。ふつう、贈与は、相手の喜びがもう移っている気持になっているので贈与でなく自分へのお駄賃と化している場合があるが、多くの場合贈与が食べ物であることでなんとかその危機をのりきるのである。イエスの贈与もけっこう食べ物だったことはよく知られていよう。悟空は、食料調達を部下の猿たちにやらせていたのではなかったか。

「ドラゴンボール」は、悟空の頭を地球に衝突させて、暴力を優しい心でコントロールできるようにしてしまったが、――いかにも戦後の「暴力」考的な処置である。暴力をおこなう可能性がある場合、あるいは行っている場合、ただではすまないのが世界の常識だ。だからあえて、加害者の当事者性というものにたいし被害者と同じようにケアみたいな概念をつかうこともあるわけだが、さすがにそれに抵抗感をもつ人は多い。ケアで済まないものが残ることをあまり言語にせずに無視しているとまた我々は暴力でそれを示すことになるだろう。

我々は、宗教意識の希薄さから、善悪に対する意識まで希薄になっており、善悪の問題までケアで済まそうとする。それに抵抗感を覚える宮台真司氏は、かつてエンツェンスベルガーか何かを引いて日本の敗戦は「悪かったから」ではなく「だめだったから」とみなすべきと言っていた。しかし、数ある「だめライフ」運動の様子を瞥見するに、むしろいまや、このだめを悪と置き換えられるのかと思うことはある。だめがケア的な概念にすり替わっていると、善悪の問題がどうしても後回しになる。

例えば、ジャニーズのボスの犯罪、あれはボスのハラスメントなんだろうけれども、自主運営の部活のあり方で苦労したつもりのわたくしなんぞは、どちらかといえば、宝塚のいじめ問題みたいなもののほうをリアルな問題と無理やりすべきのようなきがしないでもない。だいたいこっちのほうがホントはリアルな感じがしてるからみんな黙ってる気がする。いじめ問題に善悪の問題を持ち込めない我々の病である。

――それはともかく、悟空が棒を振り回している割には雌猿に関心がなさそうな御仁であるのは面白い現象である。今日はパン屋兼牧場にいって兎とか山羊とかにあってきたが、兎の子だくさんぶりはすごかった。正直わしも子どもを産みたくなったわけである。よく言われていることかもしれないが、まわりで動物が増えていくと人間も勢力争いに負けるかということで生みたくなるんじゃないか。少子化の原因はいろいろあるんだろうが、動物への対抗が失われたことが大きいかも知れない。あとは、男は出産しないけど、わたくしみたく、生みたくなるものであって、生殖行動の前にまず兎や山羊のように産みたいというイメージが重要なのではなかろうか。「人情とはいかなるものを言うや百八煩悩これなり」、とか言っているとしまいにゃポルノビデオを生み出すだけになるんじゃないか。性慾じゃなくて兎や山羊との戦争であり模倣であることが重要ではなかろうか。例えば、救い主はダビデの子孫から生まれることになっていたわけだから、出来たらヨセフがイエスをうみたいところであったが、救い主はマリアから産まれた。これがあれなところだ。――とりあえず男系何とかとか言っている人は男性出産論者と言ってよろしいのではなかろうか。

わたしはまだ、藁葺き屋根の農家が山羊や鶏を飼っている農村の匂いを覚えている世代に属する。母の世代ほどではないが、思い出すだけで元気になる。いまはやりの両手で♥マークつくるやつ、なぜか嫌だったのだが、それはわたくしが蟹が嫌いだということと関係あるに違いない。わたくしは常に人間と動物たちが二重写しになりがちである。その写しがぼやけてくると鬱になる。

さんざ言われていることであるが、特殊撮影をがんばったと言われている「ゴジラマイナスワン」とかみたあとに、六十年代の「南海の大決闘」とかみると、なんだこのCG滅茶苦茶生々しいな、あ実写だったと思うわけである。それは単に実写だったというわけではない。我が国は、あまりに人工的・作為的な「戦争」のあと、自然を回復する必要があり、都市化の急激の進行と反比例させて、怪獣や動物たちが跋扈する虚構でこころを落ち着かせた。しかし、最近は彼らも人工的な作為に飲み込まれてしまった。最近のゴジラは言葉もしゃべれないし頭が悪いというのは、人間にも当てはまる。疲れて感情を失っているやつらばかり。悪意すらない。「モスラ」以降のコロニアルな差別的?観点が抑圧された結果、ほんと初期の「ゴジラ」の占領下的閉じ方に回帰している。確かに、インファント島への注目には、大東亜共栄圏的な欲望や日本版オリエンタリズムがあったはずだが、我々はそこにまた自然への頼みの綱を見ていたに違いない。


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