教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

被災地で朝の祈り=犠牲者に花手向け―東日本大震災7年

2018年03月11日 11時36分38秒 | 東日本大震災

被災地で朝の祈り=東日本大震災7年

東日本大震災から7年となった11日、被災地の沿岸部では、早朝から犠牲者をしのぶ人々の姿が見られた。写真は防災対策庁舎(奥)近くで献花する女性=宮城県南三陸町【時事通信社】

(時事通信)

 東日本大震災から7年となった11日、被災地の沿岸部では、早朝から犠牲者をしのぶ人々の姿が見られた。

 宮城県岩沼市の相野釜地 区では、菅井勝子さん(76)が、消防団員として避難誘導中に津波に襲われ死亡した長男の豊さん=当時(42)=の墓に何度も手を合わせた。夫の公男さん (78)は「津波が来ると息子が言ったから避難した。先に逝ってしまうなんて」と声を落とした。7年たっても気持ちは変わらないといい、「ひょっこり帰っ て来るような気がする」と話した。

 町職員ら43人が犠牲になった同県南三陸町の防災対策庁舎前では、自宅と工場を津波で失った会社経営佐 藤秋夫さん(67)が、東京の取引先から毎年贈られるという花を手向けた。「もう7年、まだ7年と感じている。会社は再建できたが、今も借金ばかりだ」と ため息をつき、「気持ちの疲れを感じるが、もう一踏ん張りしないと」と語った。

 東京電力福島第1原発から北に約6キロの福島県浪江町請戸 地区。同町で被災し、今は埼玉県和光市に住む安斉栄さん(45)は、震災後に生まれた娘(3)ら家族と共に、津波で亡くなった母正子さん=(65)=の墓 前に花を供えた。「7年は早い。娘を母親に見せたかったな」と言葉少なに話した。 』

 

東日本大震災が、起こって今日で7年目を迎えましたが被災者の皆さんに取って一生忘れられない悲惨な自然災害です。

肉親を亡くされた家族方々の心の中に今も生きています。

東日本大震災を経験した被災者皆様方分らない心の痛みです。

 

 

 

 

む個頃の中に

 

 

 

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【東日本大震災7年】原発被害の「低認知」に注意 宇都宮大・清水准教授「風化に危機感」 

2018年03月11日 09時31分31秒 | 東日本大震災

 

【東日本大震災7年】原発被害の「低認知」に注意 宇都宮大・清水准教授「風化に危機感」 

福島第1原発事故の「低認知被害」の問題を訴える清水奈名子准教授=宇都宮市峰町の宇都宮大峰キャンパス

(産経新聞)

 東日本大震災に伴う福島第1原発事故で栃木県内も放射性物質が拡散した。福島県の被害が大きく注目された一方、栃木県内の実態が広く議論されるこ とはなかった。県内などの「低認知被害」や風化が進む原発被害の問題を指摘する宇都宮大国際学部の清水奈名子准教授(42)に、現状や課題について聞い た。

 −−震災から7年。栃木県内の課題は

 「県境で止まるわけもない放射能汚染の問題が、福島県だけの問題とくくられて議 論されてきた感じがある。栃木だけでなく周辺の県でも低認知被害の問題があるが、住んでいる人も知らないことが多い。放射能の影響は長期にわたる。7年 たったから終わるという問題ではなく、これからも取り組む必要がある」

 −−放射性物質の拡散の問題は被害が見えにくく、沈静化している。現状をどう見るべきか

  「自分が暮らす地域に影響が続いているかどうか、文部科学省が出した汚染マップで確認するか、または自分で測るしかない。(核燃料としてウランから生成さ れる)セシウム137は半減期30年。徐々に減っていくが、7年たっても土壌に残っているかは計測可能。自分の住む地域の汚染が深刻と思ったら、事故当時 の初期被曝(ひばく)が最も深刻なので、当時の行動を振り返る必要がある。外にいることが多かった、汚染の可能性のある食品を食べたなどの経験があれば、 リスクを負っている可能性があるので、甲状腺検査を受けるなど健康状態を確認することを考えてよいのでは」

 −−健康状態は現在、変調がないとして検査の費用負担を考える人が多い。行政ができることは

  「原発事故で拡散した放射性ヨウ素131は半減期8日と短く、初期被曝の状況はシミュレーションで推測するしかない。ヨウ素は甲状腺にたまりやすく、細胞 分裂が活発な若い世代は特に影響を受けやすい。甲状腺がんの発症は確率的には一部の人ではあるが、不安を持つ人は多く、福島県では国の予算で甲状腺検査を 実施している。県内も放射性物質が拡散したのだから、検査は国の責任で行われるべきだと思う」

 −−甲状腺検査はやはり必要か

  「県内では日光市と塩谷町で希望者を対象に実施している。既存の検査機器で検査可能だ。子供を持つ世代にとって、7年前の影響がどう残っているのか不安で も検査を受けられれば、被害の有無を早期に確認できる。放射能汚染の心配はあるが、必要な対策があれば、子育てをしていこうという気になるかもしれない。 被害に向き合い、住民の不安に応えることが子育て支援、地域活性化にもつながるのでは」

 −−震災後、県内では早期に風評被害を払拭すべきだという論調に傾いてきた

  「風評被害を助長するとして、議論自体をタブー視する動きがある。実際に放射能汚染がありながら、なかったことにするのが良い対策とは思わない。議論を封 じ込めるのは、不安を持つ住民や他県の人々がますます疑心暗鬼になる。向き合いたくない“不都合な真実”としてはいけない」

放射線は、目に見えません。国の定めた放射線基準値以下の放射線量でも10年経過したら健康への影響はあるとの指摘した小出裕章氏の言葉を思い出しました。

 

 

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復興住宅「孤立死」急増、プレハブ仮設を上回る

2018年03月05日 05時56分36秒 | 東日本大震災

2018年03月04日 15時30分

 大震災 

 

 

 『東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の3県の災害公営住宅(復興住宅)で昨年1年間に「孤立死」した人が前年の2・5倍に当たる55人に急増し、プレハブ型仮設住宅での同様の死亡数を初めて上回ったことが各県警や関係自治体への取材でわかった。

 

 復興住宅の整備が進む中、住人の生活実態に合わせた見守りが求められそうだ。

 

 「孤立死」の法的な定義はなく、読売新聞は先月、被災3県の県警や各自治体に「一人暮らしで、プレハブ仮設住宅や災害公営住宅内で、誰にもみとられず死亡状態で発見された人の数」を問い合わせ、回答を得た。

  それによると、復興住宅での該当死者は、2013年9月に岩手県で1人確認されてから年々増加。昨年は16年の22人から55人に増え、仮設住宅での死者を初めて上回った。3県での今年1月末までの死者は計98人(男68人、女30人)で、このうち、60歳代以上が84人と全体の8割以上を占めた。県別では宮城が70人と最多で、岩手17人、福島11人と続いた。』

人と人とが、話し合う大切さ、対話のある生活からは、認知症にも成りにくいと思います。厚生労働省も各県と協力して心のケアに取り組むべきです。

 

 

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<福島知事>安倍首相式辞に違和感 「原発事故」文言使わず

2017年03月13日 18時32分07秒 | 東日本大震災

 

毎日新聞 3/13(月) 11:19配信

内堀雅雄・福島県知事=県庁で2016年11月、土江洋範撮影

 東京都内で11日にあった東日本大震災の政府主催の追悼式で安倍晋三首相が「原発事故」の文言を式辞で使わなかったことについて、福島県の内堀雅雄知事は13日の定例記者会見で、「県民感覚として違和感を覚える。原発事故、原子力災害という重い言葉、大事な言葉は欠かすことができない」と批判した。【3・11ドキュメント】全国各地で鎮魂を祈る 追悼式は震災翌年の2012年から毎年開かれ、昨年まで首相は式辞の中で原発事故について触れていた。 会見で内堀知事は「世界でも例のない過酷な原発事故で甚大な被害を受けた。過去形ではなく現在進行形の災害だ」と指摘した。県によると、震災と東京電力福島第1原発事故で県内外へ避難している人は、現在も約8万人に上っている。【曽根田和久】

東日本大震災による東京福島原子力発電所の事故で被害を受けた福島県民を代表する福島県知事としての本心から批判の気持ちと思います。過去の出来事には、決して出来ない原発事故の被害です。

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震災6年、鎮魂の朝=「家族見守って」―被災各地で遺族ら祈り・東日本大震災

2017年03月11日 14時09分25秒 | 東日本大震災

12:39

 

東日本大震災から6年目となった11日、被災地は祈りの朝を迎えた。写真は防災対策庁舎の前で献花し手を合わせる遺族の男性=宮城県南三陸町【時事通信社】

東日本大震災から6年となった11日、被災地は祈りの朝を迎えた。「残された家族を見守って」。岩手、宮城、福島各県などの海岸では、遺族らが思い思いに亡き人をしのび、手を合わせた。津波に襲われ町職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎には、次々と人が訪れた。町課長だったいとこの三浦満夫さん=当時(60)=が今も行方不明という河原竜二さん(65)は「兄弟同然に育った。もうすぐ定年だったのに」と涙ぐみ、「七回忌だが遺骨も見つからず、悲しい気持ちは変わらない」と声を落とした。骨組みだけが残る庁舎は、2031年までの保存に向け、塗り直しなどの補修を終えたばかりだ。3年前から被災地の復旧工事現場で働いているという横畑友信さん(42)も献花し、「復興に携わる者として、亡くなった方に思いをはせたい」と話した。集落が丸ごと津波にのまれた同県名取市の閖上地区。母豊子さん=同(85)=を亡くした川嶋寛さん(66)は、家々があった方向に何度も手を合わせた。「新しい家が建ち始めたが、失ったものが多過ぎて復興の実感はない」。避難誘導中に命を落とした消防団員赤間一雄さん=同(55)=の姉(67)は「震災直後の混乱していた時よりかえってつらい。自分のためより人のため。弟らしい行動だったと思う」と目を潤ませた。身元不明者の遺骨70柱が眠る岩手県大槌町の町営納骨堂を妻(63)と一緒に訪れた山崎悟さん(68)は、兄の勝広さん=同(69)=が行方不明のままだ。孫たちを先に逃がし、家と共に津波に流されたとみられる。震災後に生まれた勝広さんの孫は昨年、幼稚園に入った。「会いたい思いが消えることはない。新しく生まれた孫にも会わせたい」。山崎さんはそっと手を合わせた。今月末に東京電力福島第1原発事故の避難指示が一部で解除される福島県浪江町。午前11時から犠牲者182人の氏名が刻まれた慰霊碑の除幕式があり、100人を超す遺族らが出席した。両親を津波で亡くした団体職員網谷信行さん(42)は「もっと長生きしてもらいたかった。これから町が復興する。見守っていてくれ」と祈りをささげた。 』

東日本大震災が、お起こってから今日で6年目、七回忌です。

亡くなられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げます。

天国から残された家族皆さんを守護霊になり見守っておられますよ。

2011年6月4日に「宮城県南三陸町で84日ぶり蛇口から水復旧の廃止されたOCNの私のブログ人に、 小野寺浩さんが携帯電話のメールで2011年6月04日午前 8:29分に送られて来ました下記のメールの内容を本日思い出しました。

『水が出てよかったです。が、それはほんのわずかな戸数。95%以上の住民はまだ困っている状態です。震災後3ヶ月も過ぎようかというこの頃は、住民の疲労・ストレスもピークに達しております。今すぐどうにかして欲しいと、この数週間、最後の力を振り絞ってお願いしてきました。あと、1~2ヶ月かかるというのでは、復興への道が極めて遠くなってしまった。すでに衛生面の問題が心配されています。町民がいなくなります。会社やお店が再開できません。先行きが全くわからない。できれば、誰かの強いお力を貸していただけたら、すぐにでもお年寄りや小さな子供たちが本当の笑顔を取り戻せる事ができるのですが。』

☆小野寺浩さんが、今もお元気どうか本当に心配です。

 

 

 

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希望のランドセル 3・11生まれ星山琉菜ちゃん春から小学生

2017年03月11日 14時06分49秒 | 東日本大震災

希望のランドセル 3・11生まれ星山琉菜ちゃん春から小学生

07:00

 

 

自分で選んだお気に入りのランドセルを背負う星山琉菜ちゃんと母・真弓さん

(スポニチアネックス)

 死者・行方不明者が1万8000人を超えた東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。12万人以上が避難生活を送るなど、今もなお多くの被災者が生活に不安を募らせたまま。一方で、甚大な被害が出たあの日、混乱した病院で生まれた子供は4月に小学1年生になる。東京電力福島第1原発事故の影響で、誕生した翌日から避難を余儀なくされた女の子は入学を心待ちにしている。 福島県南相馬市の星山琉菜(るな)ちゃんは11日に6歳の誕生日を迎えた。自宅では自分で選んだピンク色の真新しいランドセルがピカピカに光っている。小学生になったら「いっぱい勉強したい!足し算を頑張る」と声を弾ませた。6年前の3月11日、母真弓さん(36)は東京電力福島第1原発から約4キロの福島県双葉町の病院の手術台にいた。帝王切開手術のため麻酔を受ける直前に激しい揺れが襲った。落下物からおなかを守るため、医師らが覆いかぶさってくれた。余震が続く中、約4時間後の午後6時49分、元気な産声が室内に響き渡った。 翌朝、第1原発の状況悪化の一報を受け、夫晃一さん(39)と3人で行き先も分からずバスで避難。まだ授乳はままならずミルクも持ち出せなかったため、琉菜ちゃんはおなかをすかせて泣き続けた。たどりついた福島市の病院で、目に入ったのは原発事故の映像。かつて第1原発で働いていた夫婦は目を疑った。 琉菜ちゃんの名前の由来はラテン語の「ルナ(月)」から。避難先の病院の窓から見上げた月を見て「暗くなった世の中を月明かりのように優しく照らす一筋の光に」との願いを込めた。 母子は退院後、郡山市、いわき市と避難先を転々。仕事の都合で南相馬市から離れられなかった晃一さんと一緒に暮らせるようになったのは、2年半後だった。「この暗い状況が晴れるといいな」という思いから「晴(せい)」と名付けた長男は3歳になった。 真弓さんの実家がある富岡町は4月から大部分の避難指示が解除される。だが、第1原発から5キロの実家は放射線量が高い帰還困難区域内。一度も子供たちを故郷に連れて行ったことはない。真弓さんの胸中は複雑だ。 「除染が進んで子供が入ってもいい区域があるのであれば連れて行ってあげたいが、私が育ったところを見せてあげられない状況は続く」。もう少し大きくなったら、震災や原発事故の悲惨さをありのまま伝えるつもりだ。 琉菜ちゃんは、生まれた日に「おうちが壊れるぐらい大きな地震があった」ことは幼稚園などで教わり、知っている。「琉菜琉菜ちゃんのことをみんなが守ってくれたんだよ」。いつも真弓さんが伝えている言葉には感謝の心を忘れず育ってほしいという思いがこもっている。』

 

 

星山家の名前にピッタリの琉菜、ルナちゃん、福島県の皆さんを明るく照らすお月様になってください。

東日本大震災の復興の困難さや雪にも、雨にも、風邪にも負けず四月から健康に注意して頑張ってください。

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被災地慰問引退 癒やしのポニー後継を

2016年04月18日 15時10分24秒 | 東日本大震災
河北新報2016年04月18日10時37分

被災地慰問引退 癒やしのポニー後継を
 2012年から東日本大震災の被災者を元気づけてきた「馬っこパーク・いわて」(岩手県滝沢市)の雌のポニー「アンディ」が高齢となり、被災地訪問から退くことになった。24歳で人の年齢にすると90歳を超える。同園は後継馬購入のためインターネットで小口資金を募るクラウドファンディングを始めた。「アンディに余生をゆっくり過ごさせたい」と協力を呼び掛ける。
 運営するNPO法人「乗馬とアニマルセラピーを考える会」(盛岡市)によると、アンディは1992年に同園で生まれた。賢く穏やかな性格で、毎週開催する障害のある子どもを癒やす「ホースセラピー」などで活躍してきた。
 同園は2012年、被災地を励まそうと沿岸の幼稚園や老人ホームへの訪問を始めた。乗馬や餌やりを通して触れ合いを楽しんでもらう取り組みで、訪問は既に100回を超えた。
 アンディは主役として毎回の訪問に参加。体高が約1.2メートルで同園のポニー7頭の中で唯一、馬車を引くことができる。多くの子どもたちが歓声を上げた。
 沿岸被災地へは輸送車で運ぶが、滝沢市から片道3時間かかる場合もあり、アンディにとって負担が大きくなった。今年からは近くの幼稚園などで触れ合いを続ける。菊地誠園長(66)は「長い間、活躍してくれた。今後は体調に細心の注意を払い、無理なく活動させたい」と話す。
 同園はアンディの後継ぎを購入しようと、3月にクラウドファンディングを始めた。出資額は1口3000~15万円。金額に応じ、オリジナルグッズや乗馬体験券を贈る。
 17日までに約90万円が集まり、目標120万円の4分の3に達した。菊地園長は「喜んでくれる子どもたちの期待に応えたい」と語る。募集は5月16日まで。連絡先は同園019(688)5290。
被災地の幼稚園児や高齢者の心を癒やして来た雌のポニー『アンデイ』は、本当に優しい顔をしていますね。長い間お疲れさまでした。
後継者の気だてのよい白馬の新しいポニー迎え入れられるといいですね。
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あの世とこの世をつなぐ 被災地で“幽霊タクシー”が話題

2016年03月16日 16時19分33秒 | 東日本大震災
あの世とこの世をつなぐ 被災地で“幽霊タクシー”が話題
週刊女性PRIME 3月11日(金)16時0分配信

『あの世とこの世をつなぐ 被災地で“幽霊タクシー”が話題
 被災地のタブーにまじめに挑んだ東北学院大・工藤優花さんの卒論が大反響。宮城・石巻のタクシー運転手に聞いてみると……。
タクシーの運転手が後部座席を振り返ると、乗せたはずのお客さんが消えていた。よくある怪談話のパターンだが、被災地のそれは結末がだいぶ違う。
《震災から3か月くらいかな? 記録を見ればはっきりするけど、初夏だったよ。深夜に石巻駅で待機していたら真冬のふっかふかのコートを着た女の人が乗ってきてね…》
 東北学院大学4年の工藤優花さん(22)が卒業論文のテーマに選んだのは、『被災地のタクシードライバーの幽霊現象』だった。冒頭の証言は、工藤さんが約1年かけて運転手から聞き取った体験談のひとつ。タクシーに乗り込んだ30代くらいの女の人は、運転手に「南浜まで」と告げた。
「あそこはもうほとんど更地ですけど、かまいませんか? どうして南浜まで? コートは暑くないですか」
そう尋ねる運転手に対し、震える声でこう返したという。
「私は死んだのですか」
驚いた運転手が「え?」とミラー越しに後部座席を見ると、女の人は消えていた……。
別の運転手は、真夏の深夜にコートやマフラーをした小学生くらいの女の子を乗せた。自宅に着くと「おじちゃんありがとう」と言ってスーッと消えた。降りるとき、確かに手に触れたという。
なぜか若い乗客ばかり。ほかにも幽霊とは思わず実車のメーターを回し、自腹を切った運転手もいる。
宮城県石巻市によると、太平洋沿岸部に広がる同市では、東日本大震災による直接死・間接死と行方不明者を合わせると3975人を数える。
 工藤さんはその中心部のJR石巻駅に毎週通い、客待ちするタクシー運転手100人以上に幽霊の話を聞いて回った。被害の大きかった地域であり、当然、震災で身内を亡くした運転手もいる。
 工藤さんに霊感はない。被災地・宮城県にある東北学院大学の金菱清教授(地域構想学科)のゼミで学び、被災地の死生観についてまじめに突きつめたかった。 しかし、現実には女子大生が「幽霊を……」と話しかけてもなかなか相手にされず、「面白おかしくネタにするな」などと怒鳴られた。目の前で泣かれたこともあった。それでも7人が不思議な体験を話してくれた。
「彼女は調査中、4、5回は“やめる”と言いました。就職活動をしなくちゃいけないとか言って。そのたびに“絶対にいい研究になるから”って励ましました」(金菱教授)
 ゼミ仲間も『慰霊碑』『震災遺構』『墓』『葬儀業者』『消防団の死生観』『原発避難区域の猟友会』と腰が引けそうな難しいテーマに挑んでいる。
 金菱教授が編者としてまとめたゼミ生の論考集『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)が1月下旬に刊行されると国内外で話題になり、2月下旬に同大学で緊急シンポジウムが開催された。緊急シンポで工藤さんは、こう明かした。「幽霊を乗せたタクシー運転手は、霊に畏敬を感じている」
 つまり、敬意を抱いているということ。恐怖におののくだけの怪談話とは結末が異なり、どこか温かみがある。
 実は記者も、石巻周辺で幽霊の目撃談を耳にしたことがある。震災の遺族から直接聞き、リアクションに困った。あらためて石巻駅でタクシー運転手に聞いた。「南浜町の工事現場に男の幽霊が立っているらしい。霊感の強い人は昼間でも見えるって」(60代の男性運転手)
「自分で死んだことに気づいていない幽霊が沼の縁に現れる」(50代の男性運転手)
 40代の男性運転手の案内で南浜町に向かった。
「震災翌日、火の粉と煙で空爆されたみたいだった。身内をここで亡くしたので、どうしても来たくなる。でも来ると具合が悪くなる」(運転手)
 旧北上川にかかる日和大橋に向かった。大きなアーチがかかった高さのある橋だ。
「震災時は大渋滞して、津波がきたとき橋の上に止まっていた車だけ助かったという。高い橋なので津波をかぶらなかった。それで橋に登ろうとする霊さん(幽霊)が出るようになって、一時、夜間通行止めになりました」
 別の橋では乗客から「この橋は幽霊が集団で登って来るから渡らないでくれ」と頼まれたこともあるという。 幽霊を乗せたタクシー運転手から話を聞くことはできなかった。しかし、幽霊を「霊さん」と呼んだり、「さまようのもわかる」などと理解を示す運転手が多かった。
工藤さんが聞き取りした運転手は「幽霊が出たら、また乗せるし、普通のお客さんと同じ扱いをする」と話した。なぜ、石巻のタクシー運転手は幽霊に畏敬を感じるのか。工藤さんは考察する。
「ドア・トゥ・ドアの役割を担い、震災を理解し、同郷の地域愛があるから」
 タクシーは客を選ばず、個室空間でどこへでも連れて行ってくれる。
 大切な人にもう1度会いたい。夢でも幽霊でもいい。この世では、2度と会えない人とそうやって会おうとする。大切な人と会う夢を見ることができた朝は、夢から覚めても満足感が残ったりする。
 あの世でも、それはきっと同じだろう。』
東北学院大学女子大生が、「人間の霊魂」の問題に取り組むのは、キリスト教であろうと仏教であろうと違いは有っても皆目指すところは、皆同じと思います。神仏を恐れない人間が、男女を問わず最近増えました、
東日本大震災で、被災地の皆方はこの世の地獄を目の当たりに見られたです。
「人間愛」を貫くのが、キリスト教精神の教えでは有りませんか。
明日から春のお彼岸の入りです。
あの世の世界とこの世の中世界は、つながっていると思います。、
三次元世界と四次元世界も繋がっていると研究で証明されています。
火の玉は、死んだ人の骨から出る燐と言われています。よく墓地などでも出ているそうです。
「人間の魂の尊厳」を忘れてはならないと言うあの世からの現世の私たちへのお知らせと思います。
亡くなった方々は、心霊の世界で、この世の人たちの行動を見ておられると言うことです。
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「奇跡は、『偶然』ではおきない」園児全員を津波から救った保育所長が伝えたこと

2016年03月14日 12時07分14秒 | 東日本大震災
BuzzFeed Japan 3月13日(日)7時0分配信
奇跡は、『偶然』ではおきない」園児全員を津波から救った保育所長が伝えたこと

佐竹悦子さん
それは「奇跡」だったのか?
宮城県沿岸部にある名取市閖上地区。東日本大震災の津波により、住宅地が流出し、当時の住民約6000人のうち、753人が亡くなった。その閖上地区で園児54人全員を避難させ、一人の犠牲者も出さなかった保育所がある。名取市立閖上保育所だ。のちに「閖上の奇跡」と呼ばれるようになったが、当時の所長、佐竹悦子さんは「奇跡は偶然では起きない」と話す。なぜ、閖上保育所は助かったのか。【石戸諭】
佐竹さんは2016年3月11日、東京にいた。杉並区の防災イベントの講演に招かれたためだ。震災から5年を迎えた日に、佐竹さんは教訓を静かに語り始めた。
2011年3月11日。閖上保育所には、この日、1歳~6歳まで54人の園児がいた。
海岸から800メートル、漁港まではわずか260メートル、海抜0メートル。船は身近なもので、海は園児たちの遊び場だった。
午後2時46分、園児たちのお昼寝の時間だった。近くの公民館に外出していた佐竹さんは突然の大きな揺れに「大変だ」と車に乗り込んだが、地面が波打ち、アクセルを踏んでも車が動かなかった。
佐竹さんにとって、この保育所は「新卒」として初めて働いた保育所であり、名取市職員として園長を務めた最後の保育所だった。
「名取市出身なんですけど、浜のほうの言葉はわからなくて、はじめは泣いてばかりいました。それを子供に慰めてもらい、励ましてもらう。そんな保育士でした」
揺れが収まるとともに、急いで保育所に急いだ。もしかしたら、この地震で園が壊れて、子供たちに死者がでたかもしれない。
「津波が来るかもしれないのに、内陸から沿岸部に向かうことはありえないことです。でも、私の職責は所長です。子供と職員を守って、いくらのもの」
園に戻ると、園庭にブルーシートを敷き、パジャマ1枚で子供たちが固まっていた。職員10人も外にいた。
園児と職員の目線は、戻った佐竹さんに一斉に注がれた。「園長先生、どうする?」と言われているように感じた。
午後2時55分、佐竹さんは決断を下し、3つの言葉で指示をした。
1・逃げます
2・車を持ってきてください
3・小学校で会いましょう
避難先は園児も良く行っていた2キロ先の閖上小学校。発達障害がある園児もいる。混乱しないよう、マニュアルで馴染みの場所に避難することを決めていた。職員の車に園児を分散させ、各車に乗れるだけ乗せて、逃げた。
「なにもなかったら、笑って戻ればいい。漁港近くに職員の駐車場があったので、もし戻ってこなかったら……。その時は、私たちは全員ダメ」
待つ間、園児たちと歌を歌いながら待った。
午後3時20分、閖上小東昇降口に全員がたどり着き、3階建て校舎の屋上へ駆け上がった。津波が到達したのは、その32分後、午後3時52分のことだった。
「もはやここまでか」。死を意識した。津波は閖上小にも到達した。車が流れ、人が流れていた。「助けて」という声が聞こえたが、手を伸ばしても届かない。
その日、名取市は雪が降っていた。3月の雪は珍しい。屋上にパジャマ1枚の子供たち。ここで風邪から肺炎になったりしたら…。
津波の流れをみていると、3階までは届かなそうだ。屋上にとどまるか、3階に戻るか。命を預かる決断を何度も迫られた。
寒さに凍える園児の姿をみて、佐竹さんは3階に戻した。
佐竹さんが懸念した事態は起きなかったが、別の危機が迫っていた。
午後4時10分ごろ、プロパンガスの爆発でそこらじゅうで火災が起きた。火の手が四方から迫る。
死を覚悟したのは、この日4度目。わずか1時間20分のあいだに4度だ。
それでも園児たちに不安を与えてはいけない。
危機の中、職員たちは視聴覚室で園児を円にし、平常時と同じように一緒に歌を歌い、お絵描きをした。
「思い返したときに、辛い思い出だけが残らないように心がけたのです」
午後6時、あたりは闇につつまれ、自衛隊、報道のヘリコプターの音だけが響いていた。その頃、子供の口から「もっとも聞いてほしくない質問」が増えてきた。
「ママは?」
「必ず来るよ」
と声をかけた。閖上小学校にたどり着き、保護者に受け渡すことができた子供たちもいたが、残る子供も当然ながらいた。
午後8時にはカーテンを外して、床に敷き子供たちを寝かした。「もう遅いから寝ようか」
寒く、辛い一晩だった。この夜、子供たちは誰一人、泣くことはなかった。
朝は普通にやってくる。朝日はきれいに上がった。やっと到着した避難用のバスに乗り込み、7キロ内陸の小学校の体育館へ移動した。途中、ショッピングモールの近くに津波で流された船があった。
「所長先生、お船も遊びにきたの」
「そうだね、お船もスーパーを見てみたかったのかもね」
見せたくない光景だと思いながら、そんな会話も交わした。
4日後、やっと最後の一人を引き渡すことができた。
佐竹さんは誰一人、子供の死者を出さずに「所長先生」の業務を完遂した。津波で、保育所は流出していた。がれきの中、子供が大好きだったプールだけは確認できた。
3月27日には、避難所で退所式を開いた。子供たちに「津波のせいでできなかった」と思ってほしくなかった。津波はきても、これからの人生にできないことはない。小さいけれど、そんな思いを込めた式だった。
迅速な避難で、一人の死者も出さなかった保育所。この出来事は「名取市の奇跡」と呼ばれることになる。」

危険で困難な状況の中で、的確で迅速な判断が子供たちの命を救ったと言うことです。


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震災5年 ばあちゃんみたいに強くなる 宮城県七ケ浜町 鈴木杏奈さん(23)

2016年03月12日 17時41分39秒 | 東日本大震災
産経新聞3月12日(土)7時55分配信
宮城県(写真:産経新聞)

【東日本大震災5年】
「ばあちゃんみたいに強く生きる」…後悔の日々に区切り 宮城県七ケ浜町・鈴木杏奈さん(23)


祖母の墓参りをする鈴木杏奈さん=11日、宮城県七ケ浜町(植村光貴撮影)
 「なぜあの時、ばあちゃんの手を離してしまったんだろう」。悔やみ、自分を責めてきた。東日本大震災でともに津波にのまれた祖母を失った鈴木杏奈さん(23)=宮城県多賀城市=にとって、この5年は自問の日々だった。11日に同県七ケ浜町の追悼式で祖母に語りかけたのは区切りをつけたかったから。「ごめんね。寒かったよね」。救われた命。これからは後悔ではなく、感謝の思いで生きる。
 振り返ると濁流が目の高さに迫ってきた。「あっ!」。高校の卒業式を終えたばかりの平成23年3月11日。祖母のたけよさん=当時(82)=の手を引き高台へ逃げようとしていた鈴木さんは、とっさにつないでいた左手を離してしまった。ただただ恐怖だった。直後、正面からの衝撃で押し流された。「もう無理」「死にたくない」。気付くと木が足の間にはさまり奇跡的に助かっていた。
 「ばあちゃーん!」。いくら呼んでも返事がない。両親と2人の妹、祖母と暮らしていた家も流された。13日に父の雅浩さん(55)が同県利府町の安置所で祖母の遺体を確認。祖母の顔はこたつで昼寝をしているときと変わらなかった。
 罪悪感も押し寄せた。「私のせいだ」。とことん自分を責めた。「あの時に戻れたら、流されても最後まで手を離さなかったのに」。祖母は戻らないと分かっていても、何度も同じことを考えた。「なぜあの時、ばあちゃんの手を離してしまったんだろう」。悔やみ、自分を責めてきた。東日本大震災でともに津波にのまれた祖母を失った鈴木杏奈さん(23)=宮城県多賀城市=にとって、この5年は自問の日々だった。11日に同県七ケ浜町の追悼式で祖母に語りかけたのは区切りをつけたかったから。「ごめんね。寒かったよね」。救われた命。これからは後悔ではなく感謝の思いで生きる。 
平成23年3月11日。祖母のたけよさん=当時(82)=の手を引き高台へ逃げようとしていた鈴木さんは、とっさにつないでいた左手を離してしまった。ただただ恐怖だった。直後、正面からの衝撃で押し流された。「もう無理」「死にたくない」。気付くと木が足の間にはさまり奇跡的に助かっていた。(滝口亜希)

祖母のたけよさんの手を引き高台へ逃げようとしていた鈴木杏奈さんは、とっさにつないでいた左手を離してしまったのは、足で纏となると思い祖母のたけさんが、鈴木杏奈さんの手を握りなおさなかったのでは有りませんか。
災害は、忘れた頃にやって来る理学者寺田寅彦氏の名言です。自然災害には人間の人智では、今の時代もとても血太刀打ちできません。これからは大事な人の手、子供を持たれたら手は離さないこと昭和一桁の亡き母の教えをお伝えします。おばあちゃんの分までこれから有意義に生き抜いてください。
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震災5年、避難なお17万人超 災害公営住宅、建設遅れ

2016年03月11日 12時50分13秒 | 東日本大震災
03月10日 20:59朝日新聞
『東日本大震災の発生から11日で5年を迎える。避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は被災3県でまだ半分にとどまる。政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、被災地が日常を取り戻すのは遠い。
 警察庁は10日、震災の死者が全国で1万5894人、行方不明者は2561人と発表した。震災後の体調悪化や自殺による震災関連死は3407人(復興庁まとめ、昨年9月末時点)。岩手、宮城、福島3県のプレハブ仮設住宅に独り暮らしで、誰にもみとられず亡くなった「孤独死」は202人(警察庁まとめ、昨年末時点)に上った。
 避難者は震災発生直後の47万人から減ったものの、いまも17万4千人に上る。岩手、宮城、福島の3県で7割を占める。仮設住宅の入居戸数は3県で約5万4千戸。災害公営住宅は3県で2万9573戸の計画に対し、完成は1万4042戸と47・5%にとどまる。人手不足などで建設が遅れている。
 道路や河川堤防の復旧率が9割を超えるなどインフラ整備は進む。津波で被災した農地の74%が復旧し、主要漁港の水揚げ高は震災前の9割まで回復した。だが、主産業の水産加工業で売り上げが震災前に戻った業者は24%に過ぎない。
 東京電力福島第一原発事故による避難指示区域からの避難者は、約7万人に及ぶ。田村市と川内村の一部、楢葉町で避難指示が解除されたが、対象だった地区に帰還したのは田村市で69%、川内村で20%、楢葉町で6%にとどまる。
 被災地は人口流出も続く。被害が大きかった3県の太平洋岸と避難指示区域の計42市町村では、人口が震災前の2010年より約10万6千人減った(国勢調査速報値)。減少率は4・1%と、全国0・7%を大きく上回った。(石川智也)」
3月11日で5年を経過した東日本大震災の被災者の皆さんの大切な衣・食・住の住宅問題の災害公営住宅住宅の建設が、未だ進んでいないで復興の道なかばと言う現実です。震災後の体調悪化や自殺による震災関連死は3407人(復興庁まとめ、昨年9月末時点)。岩手、宮城、福島3県のプレハブ仮設住宅に独り暮らしで、阪神大震災と同様誰にもみとられず亡くなった「孤独死」は202人(警察庁まとめ、昨年末時点)に上っているので、被災者の皆さん方へのる国と県の実効性の有る支援が、一層今後も必要です。
東北3県の被災地の皆様方に暖かい春が、早く訪れますようにご祈念申し上げます。
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5年前のスーパーひたち、駅に止まったまま

2016年03月05日 21時18分48秒 | 東日本大震災
朝日新聞デジタル
12:20

JR原ノ町駅の構内に留め置かれた特急「スーパーひたち」の車両=2日、福島県南相馬市、林敏行撮影
(朝日新聞)
 福島県南相馬市のJR常磐線・原ノ町駅。5年前の3月11日、午後3時9分発の上野行き特急「スーパーひたち50号」が、今も止まっている。雨だれの跡や大きなさびで、4両編成の白い車体はくすんで見える。
取り残されたのは、常磐線の一部が、東日本大震災による津波や原発事故で、再開できないためだ。原ノ町駅から南46キロの竜田駅までの一部は、帰還困難区域に指定され復旧が進まない。北側も、約20キロ先の相馬駅までは運転を再開したが、その先の一部が津波で不通になっている。
 今月中旬から、JR東日本はこの車両の撤去を始める。同社によると、同型車両の多くが運用を外れ、再び走るのは難しいという。(写真・文 林敏行)

福島県南相馬市のJR常磐線・原ノ町駅に停車中の5年前の3月11日、午後3時9分発の上野行き特急「スーパーひたち50号」は、東日本大震災の証人です。もったいないように思いますが、解体処理されるしか道はないのでしょうか。

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北海道北部唯一の百貨店、西武旭川が撤退検討 近く最終判断

2016年03月02日 15時37分32秒 | 東日本大震災
北海道新聞 3月2日(水)10時40分配信
閉店が検討されている西武旭川店=1日、旭川市
イオンモール出店でJR旭川駅前の競争激化
 【旭川】流通大手のセブン&アイ・ホールディングス(HD、東京)が、傘下のそごう・西武(東京)の運営する西武旭川店(旭川)の閉店を検討していることが1日、分かった。今月上旬にも最終判断する見通しだ。業績不振が続く中、昨年3月にはJR旭川駅前に大型商業施設イオンモール旭川駅前が開店し、競争環境は厳しさを増している。閉店すれば、北海道北部に唯一残る百貨店が消えることになる。
HDは2009年に札幌西武(札幌)を閉店。西武旭川店を閉めると、北海道での百貨店事業から完全撤退することになる。社内には存続論もあるとされ、時期などを含めてなお慎重に判断するとみられる。
 同店の売上高はここ数年、前年割れが続いている。10年には130億2400万円あったが、15年は107億4500万円にまで落ち込んだ。北海道新聞

北海道経済も都市圏との地域格差が拡大し、かなり疲弊している状況ではありませんか。北海道新幹線を全北海道地域に延長開業を目指し、北海道経済の活性化と発展を計るべきです

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東日本大震災倒産 5年で1898件 9割が間接影響 復旧農地は74%

2016年03月02日 14時28分40秒 | 東日本大震災
SankeiBiz 3月2日(水)8時15分配信
「3・11」関連倒産は5年間で1898件-。帝国データバンクが1日発表した東日本大震災の影響で倒産した企業(負債額1000万円以上)の累計は阪神大震災で倒産した企業の約5倍に達した。同社は「風評被害も含め、関連倒産は今も週2、3件のペースで発生している」と分析した。
倒産の9割は「消費マインドの低下」など間接影響が原因。このため業種別の最多は「サービス業」の417件で、中でも「ホテル・旅館」は116件を占めた。全体のうち、東京電力福島第1原発事故の影響とみられるのは210件。
一方、農林水産省は同日、被災地の農林水産業の復旧状況をまとめた。復旧できた農地は1月時点で74%と前年(70%)からの伸びは小さかった。
とくに、農地の多くが原発事故の避難区域に含まれる福島県は33%。宮城県(88%)など周辺県に比べ、復旧が遅れている実態も改めて浮き彫りになった。
福島は被災農地のうち、南相馬や双葉など6市町の避難指示区域内の農地復旧が前年から進んでいない。今後の避難解除を機に農地の大区画化や先端技術の導入で農地復旧を急ぐが、「農地の除染が終わってもすぐに営農再開はできないため、復旧に時間がかかる」(農水省)見通しだ。
水産業では被害のあった7道県の計319漁港のうち、73%に当たる233漁港の水揚げ機能が完全に回復。部分的な復旧も含めると97%(311漁港)が水揚げ可能となった。農水省は今月末までに全漁港の全面復旧を目指す。
森山裕農水相は、同日の閣議後会見で「福島県の農産品は風評被害や輸入規制の問題に対し、重点的に取り組んでいくことが大事だ」と述べた。』

東日本大震災による 「3・11」関連倒産は、5年間で1898件-。帝国データバンクが1日発表した東日本大震災の影響で倒産した企業(負債額1000万円以上)の累計は阪神大震災で倒産した企業の約5倍に達した調査データによりますと復興への道は、まだまだ道通しと言う厳しい状況を物語っています。
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