井坂基也は昨日に続き、今日も口を大きく開け、医療用加湿器の湯気を喉(のど)へ当てていた。というのも、風邪をひいたからである。こんなことは基也にすれば珍しいことで、例年なら風邪などひく基也ではなかったのだ。原因を探れば、どうも一昨日(おととい)、冷気が籠るまま勉強を続けてしまった・・という凡ミスが考えられた。通常、クーラーか小型の電気ストーブで暖を取りながらやるのだが、その日に限って妙な難問に引っ掛かり、よせばいいのに意固地になってやり続けたのが原因だった。当然、脇目も振らず状態で、暖房を入れることすら忘れたのである。結果として、部屋の温度は下がり冷気が基也の周囲を包んでいった。いつもは暖かいので、薄着で勉強を続けているから、服装も当然、薄着だった。そこへ冷気が、じんわりと基也を包囲したのである。
加湿器の湯気を喉に浴びながら基也は思った。冬場は湯気にかぎる…冷気は敵だな。湯気は味方だ…と。加湿器の湯気は思った。こんなことで、仕事をする羽目になったか、ああ嫌だな…と。湯気を取り囲む冷気は基也に風邪をひかせたから、したり顔である。隙(すき)があれば基也をもっと冷やして寝込ませてやろう…と密かに画策していた。
『基也君、危ないですよ! 冷気が狙っています!』
基也は俄(にわ)かに聞こえた声に辺りを見回した。人の気配などあろうはずがない。両親はすでに深い眠りの中に違いない真夜中である。
『私は加湿器の湯気です』
「えっ!」
基也は驚き、加湿器から口を離した。加湿器が話した。そんな馬鹿なことはないと基也はすぐ全否定した。基也は片手を額(ひたい)へ宛(あて)がった。しかし、そう熱があるようにも思えなかった。
『ははは…湯気は見えるでしょ。それが私です。私はこうして語りますが、冷気は口が裂けても語りませんからご注意を! 奴(やつ)は密かに忍び寄って、あなたを寝込まそうと画策してるのですから』
「それは困るよ。二日後は大学入試センター試験だから…」
『そうでしょうとも。私はあなたの味方ですから、そんなことは奴にさせません!』
湯気は断言した。
「有難う…、心強いよ」
常識では存在し得ない相手と基也は話していた。次の瞬間、基也は急に眠気を覚えた。そして、気づいたとき、加湿器は止まっており、白々(しらじら)とした夜明けの空が窓ガラスに映っていた。基也は夢を見たか…と思った。不思議なことに、風邪による喉の痛みも体のだるさも消えていた。
その夜と次の日、基也は室温に注意して最後の勉強の締めくくりをした。そしてセンター試験の前夜、試験の持物を確認し、基也は眠ろうとした。そのとき、ふと加湿器が眼に入った。ははは…そんな馬鹿なことはないよな、と否定しながらも、基也はもう一度、医療用加湿器のスイッチを入れていた。しばらくすると、蒸気がシュ~~! と勢いよく噴き出し始めた。
『私はいますよ、基也君。明日の成功を祈ります。では…』
基也はギクッ! としてスイッチをすぐ切った。
大学入試センター試験の出来は上々で、その年の春、基也は希望の大学へ合格し、正門をくぐっていた。
完