日々、仕事に追われる野上は弱音を吐かない性格からか、窶(やつ)れながらも頑張っていた。帰宅するのがやっとで、いつも玄関で靴を脱がず、崩れるように爆睡しているのだった。気づけばいつも深夜帯の十時を回るのが常であった。空腹対策はそうなることを見越して、駅近くにある常連の食堂で済ませ、改札を潜(くぐ)った。そんな毎日が続いていたが、この日もいつものように残業を済ますと野上は常連の食堂で食事を済ませ、箸を置いた。すでに野上の意識は時折り朦朧(もうろう)とし、睡魔が忍び寄っていた。
『あっ! お客さん。揃(そろ)えて下さい!』
野上は、辺りを見回した。客はもう一人いたが、その男は少し離れたカウンターで静かにラーメンを啜(すす)っていた。声はこの男ではない…とすれば誰だ。野上は店主を見た。店主は調理に集中していた。どうも店主でもなさそうだ…と思った。残るのは若い店員だけだった。調理待ちで、金属トレイを片手に隅に立っている。
「今、なにか言った、君?!」
「…?」
野上に声をかけられ、店員は怪訝(けげん)な顔をして自分を指さした。
「そう!」
「えっ? なにも言ってませんが…」
「揃えて下さい、ってさ」
「はあ?」
「まあ、いい…。親父さん、勘定、ここへ置くよ!」
「へい、まいどっ!!」
店主は野上を見ず、声だけ投げた。信用というほどのことではないが、注文や支払いの額が同じという、いわば常連客という馴染みの愛想だ。野上は空耳の内容が気になったのか、乱雑に置いた器を整えて立った。野上が後ろ向きになったとき、また声がした。
『そうそう…』
「えっ?!」
野上は振り返った。
「お客さん、どうかされました?」
店主が訝(いぶか)しげに野上を見た。
「いや、どうも…」
野上は眠気のせいだ…と思った。駅→車内→駅と、どうにか耐えたが、家へ戻った途端、やはり野上は睡魔に襲われた。気づけば、いつものように靴を履(は)いたまま眠り、玄関に横たわっていた。気づいた野上はフラフラと立ち、靴を脱いで奥の間へ行こうと後ろを向いた。そのときである。
『あっ! 旦那さん。揃(そろ)えて下さい!』
「んっ? …」
野上は突然、声を背に受け、振り返った。だがそこには、静まり返った玄関があるだけである。やはり、睡眠不足のせいだ…と野上は思った。野上は、ふたたび後ろを向いて歩き始めた。
『だめだめ! 揃えて下さい!』
野上は確かに声を聞いたぞ、と再々度、振り返った。しかし、状況は同じで、静まり返った玄関があるだけである。野上はひと通り辺りを見回し、最後に玄関下へ視線を落とした。すると、乱雑に脱ぎ捨てた革靴が散らばっていた。野上はきちんと揃え、下駄箱の上へ置いた。
『そうそう…』
「えっ!?」
『それでいいですよ、もう…』
「ええっ?!!」
野上は置いた靴をじっと、見つめた。
『だから、もういいんですよ。今後もきちんと、揃えて下さい』
野上は自分の耳を疑ったが、声は厳然と聞こえていた。
『そうすれば、仕事も捗(はかど)り、片づきますよ』
「はい…」
野上は靴に返事をしていた。
それ以降、野上は物をきちんと置くことにした。すると、不思議なことに野上は仕事に追われなくなり、野上から疲れや眠気は消え失せていった。
完