このスピード時代に、のんびり歩いていれば、世の中にものすごく取り残されたような錯覚(さっかく)に陥(おちい)る。それだけ世の中の動きが加速しているからだが、実はそうでもないのだ。━ 急がば回れ ━ とは、よく言ったもので、その格言は理に適(かな)っているのである。
とある学会の会場控え室である。来賓(らいひん)に予定されている皺川(しわかわ)教授の姿が見えず、関係者は表へ出たり中へ入ったりと、教授の到着にヤキモキしていた。講演予定まで残された時間は、おおよそ1時間だった。事態は緊迫(きんぱく)の度を増していた。
「皺川さんは、まだお着きになられませんか?」
黒鼻(くろばな)教授が焦(あせ)りの声を上げた。
「はい。先ほどの携帯のメールでは、どうも道路が渋滞(じゅうたい)しているそうです」
皺川教授の後輩である顎田(あごた)準教授が返した。
「弱りましたなぁ~。それにしても、皺川先生ともあろうものが渋滞を事前に予測できなかったんですかねぇ~!」
「はあ…。助手の腹下(はらした)さんは早かったですよね」
顎田準教授は、会場に早くから到着し、のんびりと焼き芋を食べながら茶を啜(すす)る腹下助手に話を振った。
「ああ、僕は3時起きで歩いてきましたから…」
「あ、歩いてっ!!」
「ええ、歩いて1歩ずつです。僕は重要な会合の場合は、いつも間に合うよう、そうしてるんです…」
腹下助手は、さも当然のように言うと、熱い茶をまたフゥ~フゥ~しながら啜った。すでに焼き芋は3個、完食している。
「急がば回れ・・ですか?」
「ははは…そんな訳でもないんですがね。ただ、きっちり! したい性分(しょうぶん)でして…」
「いや、いい心がけです。ははは…」
ヤキモキした顔の黒鼻教授は仕方なく笑った。
「黒鼻先生! 今、皺川教授からメールがっ! 間に合いそうにないから、腹下さんに代わりを頼んでくれとっ!」
腹下は晴れて初めての講演の舞台へ立てることになったのである。
1歩ずつは遅(おそ)いようだが、逆転してコトを成就(じょうじゅ)させるのだ。
完